世田谷パブリックシアターにて、「キサラギ」を観劇してまいりました。
映画版についての感想はこちら。
http://80646.diarynote.jp/200708152235160000/
B級アイドル・如月ミキが火事で亡くなって、ちょうど一年。
ミキのファンサイトの、最初(で多分最後)のオフ会が開かれるところから、物語は始まります。
オフ会の会場は、ミキの、生前の唯一のコンサート(イベント?)の会場だった、取り壊し寸前の市民ホール(?)。
……。
いやーーーー、良かったです。
ストーリーは全部わかっているのに、まんまと泣いてしまいました(- -;ゞ。落ちが完全に見えているんだから、今回は絶対泣かないと思っていたのになー。
映画の4人も嵌っていたけど、舞台の4人も実に嵌り役でした。映画とほとんど同じ台詞を同じように喋っているのに、宛書としか思えないほどに。
これだけ脚本に力があると、いろんな役者で観てみたくなります。うん。いろいろ妄想配役してしまいました(汗)。
とりあえず。
…ネタバレしていいものなのかどうかわからないので、とりあえず、キャストについて書きます。と言いながら、実は若干のネタバレになるようなことも書いちゃってますが……ご容赦くださいませ。
オダ・ユージ(今村ねずみ)
映画ではユースケサンタマリアが演じた、物語の鍵を握る人物。
5人のキャストの中で一番の年配で、あきらかに“人種が違う”感が漂っていて、常に舞台の「真中心」に立っている……いや、彼の居るところが舞台の中心になっている、そんな印象。
いやあ、映画を観たときは、もうこの役はユースケサンタマリアしか考えられない!舞台版の上演があっても、このキャストだけは譲れない!と思っていたんですが。「今村ねずみ」というキャスティングを聞いて拍手、実際に舞台を観て、深くうなずいてあらためて拍手喝采!!という感じでした。
ええ。もう、素晴らしかった。
まず、あのスタイルがいかにも“それっぽい”んですよねぇ(感心)。もともと、ムチのようにしなやかなスタイルの人ですが、すこーしごつごつした感じに調えていたのと、ちょっと顔色を悪めにメークして、“ストレスで激痩せした”っぽい雰囲気を自然に出していたのはさすがでした。
最初の登場からの、さっそくの嫌味な口調。さりげなく逃げ場を奪って追い込んでいくやり方。怪しい人物を追及するときの口調の激しさ、行動の極端さ。そして、罪を自覚したときの感情の振り幅。どれも、脚本にきちんと描かれた人物像を過不足なく的確に表現していて。
最近、CONVOY SHOW以外でお眼にかかることが少なかったのですが、かっこよかったです。久しぶりにねずみさんの格好良さにふれて、とても幸せでした。
家元(松岡充)
映画では小栗旬が演じた役。今回は前日に観たばかりの「ムサシ」での小栗くんの残像が残っていて(汗)、松岡さんで嵌れるかなあ?とか余計な心配をしていたのですが。
…全然問題なかったです♪(当然?)
「タイタニック」のアンドリュースも良かったけど、歌を封じた家元も、とっても素晴らしかった!(*^ ^*)。彼は、公務員として働くかたわら、アイドルのファンサイトを作って運営管理し、しかも(映画には無かった設定ですが)歌まで奉げてしまう、という、ちょっとキャラクターとして無理がある人物像なんですけど(汗)、、、松岡さんは『公務員としてありえねー』茶髪に、大きな眼をくりくりさせて、じつに生真面目に可愛らしく(?)演じていらっしゃいました。……いやー、童顔ですよねぇ、彼。実年齢は小栗くんとは随分違うと思うのですが……
「家元」という役は、設定としては何歳なんでしょうね。途中で関係部門にいきなり電話で問い合わせをする場面があったりするので、そんなに若いわけではなく、それなりに人脈も築いた30代前半くらい……、でいいのかな?
映画の小栗くんは20代前半くらいに見えて、いろいろ問い合わせたりする様子を見ながら「若造がちょろっと電話したくらいで調べてくれるのか?」とか思わないでもなかったのですが(汗)、松岡さんは、『若く見えるけど実は結構ベテランかも?』というギャップがあるのがちょうど良い感じでした。
まぁ、映画にも「家元=警視総監の息子」という設定はあった…ような気がするので、そういう七光りで調べさせるんだろうな、と納得した……ような気もしますけどね。
スネーク(今井ゆうぞう)
映画では小出恵介が演じた人物。誰か(主にオダ・ユージ)が何かしら意見を言うと、なんでもかんでも「そうだよなっ!!」と賛同してしまうタイプの青年。
設定的に如月ミキ(『遅れてきた清純派』アイドル)と同世代でないとおかしいのですが、今井さんって何歳くらいなんでしょうか。笑顔が明るくて可愛くて、ちょっと小柄なのもあって、若く見えました。うん。映画みたいに、如月ミキちゃんと並んだ映像を観てみたかったかも。
プログラムを読むと、全然まったく性格が違うみたいですが、、、実によく嵌ってました。映画の小出さんは本当にウザくて素晴らしかったんですが、今井さんはもっとアクが弱くて、ふわっとした感じ。物語世界の中で、違和感なく「そうだよなっ!!」をやっているのがとても可愛かったです(はぁと)。
安男(佐藤智仁)
プログラムで本人が書いてますが、心の底から「えっ?この人が安男?」と思いました。
映画では塚地武雅が演じた役。いやー、やっていることは同じなのに、随分印象が違いました。でも、やっぱりやっていることは同じなんだなーとも思いましたけど。
声が珍しい感じにかすれていて、上擦ったようにも緊張して奮えているようにも聞こえるのが、朴訥な感じで役に合っていたような気がします。訛がちょっと違っていたのは気になりましたが、まぁ一般的にはわからないだろうし。
後半の、正体がバレて二枚目っぽくなってからの芝居が、映画の塚地さんとはだいぶ違っていて面白かったです。優しいんだけど押し付けがましい感じがでていて、恋人が本当の気持ちを言えずに「だってあの人が勝手に…」みたいに言い訳してしまったのも納得できる!と思いました。
そこの心理が、映画をみた時にちょっと謎として残っていたので、解決してもらって嬉しかったです。
うん。やっぱり、映像的にいろんな工夫ができる映画と違い、その人物が等身大で他のメンバーと並んでいるのが丸見え名舞台では、安男という役にはどうしても「実はカッコイイんだ!」という衝撃というかギャップが必要なので、今回の配役は大正解だったんじゃないかと思います。
……ところで。
今気づいたんですけど、この公演、福島に行くんですね。……会津じゃなくて福島だから良いのか……? 浜通り出身の私でさえ、ちょっとひっかかったんだけど……。
イチゴ娘(中山祐一朗)
映画では香川照之が演じた役。謎解きを考えれば、そのくらいの年齢の人がやるべき役だと思うのですが。でも、あまり違和感はなかったです。うん。男としての弱さ、力が足りなかったことに対する悔いがよく見えて、実は結構、彼に泣かされた面がありました(T T)。
映画との一番の違いは、「謎解き」を映像で見せられないこと。
5人がそれぞれに、「その日」について知っていることを語り合うことで話が進んでいくわけですが、映画では「語られている情景」が流れている時間に、舞台では「語っている人」と「聞いている人々」を観ることになる。
スキップなしのワンシチュエーションドラマでは、他に観るものが無いので当たり前なのですが、映画を観ていなくて舞台だけを観る方は、かなり集中して一つ一つの台詞を聞き取り、正確に脳内でイメージを再現しないと、話がよくわからないんじゃないかと思うんですよね。
ちょっと気が緩んだだけで、あるいは、ちょっと隅っこで拗ねている家元に見惚れただけでも、話が見えなくなってしまう危険がある。
この作品は、元々は舞台脚本(古沢良太)のはずなんですけど、今回の上演台本はどうやら映画版からさらにリメイクした(三枝玄樹)らしく、観た感じ映画版と台詞の情報量があまり違わない気がするんですよね。ってコトは、映像がない分、説明理解のハードルは高いわけで。
私は、一回映画を観ていて謎解きの大筋は頭に入っているので、その点については楽でしたが、舞台を先にご覧になった方はどうだったのかなー?と思いました。「家中に油が撒かれていた」ことを理由づけるスネークの説明とか、ミキの家の構造(最後の謎の意味)とか、大事なところなんですけど、言葉だけだとかなりわかりにくいんじゃないのかなあ……。
でも、そうやって解りにくい部分もあるかわりに、映像に誤魔化されないぶん、謎解きに気をとられずに一つ一つの台詞や仕草に集中できたのが面白いところなわけで。
やっぱり、映画版のリメイクじゃなくて、本来の舞台用の脚本で上演してほしいなあ、と思うんですけどねぇ……。相当違うんでしょうかねぇ。
もちろん、映像が無いことによって、「アイドル・如月ミキ」も出てこないんですが、これは、あくまでも「心のアイドル」としてイメージを固定させない効果はあったと思います。
ただ、そういう狙いなら、後姿とはいえプログラムに写真を載せるのはやめておいてほしかったような。載せるんだったら、モデルも明記してほしかったです。あれはいったい、誰なんでしょうか……(謎)。
途中で流れる歌も、誰かが歌っているはずですよね?まさか松岡さんや今井さんがソプラノで歌ってる筈ないだろうし、「音楽」スタッフの押谷沙樹さんがやってるとかも考えにくい…。
誰なんでしょうねぇ、あれは。
あ。そうだ。舞台版での変更点で気になったのは、ミキちゃんにファンが全部で何人いたか、の議論でした。あれはいらないと思うんですけどねぇ…。
生きて元気に活動していた時代は“それなりの人数”のファンが居た、ってことでいいじゃないですか。サイン会だかなんだかで、やり過ぎたらマネージャーに突き飛ばされるくらいの人数は居たわけでしょう?音痴だろうがなんだろうが、好きな人のCDなら皆ちゃんと買いますから。
……いくらなんでも、ファンが一人とかあり得ないからやめてください(T T)。
日曜日でSPT公演は千秋楽。次の公演は、22日の福岡市民会館なんですね。遠いっ!そこからは鹿児島→岡山→新潟→仙台→福島→札幌→金沢→名古屋→大阪(ドラマシティ)と全国を回って、最後に東京(5/16)で大楽。ううう、大楽観たいなあ。16日、微妙に用事があるんだけど……(T T)。
とりあえずは、また近いうちに同じキャストで、いいえ、キャストは違っても面白そうなので、とにかく再演されることを祈りつつ。
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映画版についての感想はこちら。
http://80646.diarynote.jp/200708152235160000/
B級アイドル・如月ミキが火事で亡くなって、ちょうど一年。
ミキのファンサイトの、最初(で多分最後)のオフ会が開かれるところから、物語は始まります。
オフ会の会場は、ミキの、生前の唯一のコンサート(イベント?)の会場だった、取り壊し寸前の市民ホール(?)。
……。
いやーーーー、良かったです。
ストーリーは全部わかっているのに、まんまと泣いてしまいました(- -;ゞ。落ちが完全に見えているんだから、今回は絶対泣かないと思っていたのになー。
映画の4人も嵌っていたけど、舞台の4人も実に嵌り役でした。映画とほとんど同じ台詞を同じように喋っているのに、宛書としか思えないほどに。
これだけ脚本に力があると、いろんな役者で観てみたくなります。うん。いろいろ妄想配役してしまいました(汗)。
とりあえず。
…ネタバレしていいものなのかどうかわからないので、とりあえず、キャストについて書きます。と言いながら、実は若干のネタバレになるようなことも書いちゃってますが……ご容赦くださいませ。
オダ・ユージ(今村ねずみ)
映画ではユースケサンタマリアが演じた、物語の鍵を握る人物。
5人のキャストの中で一番の年配で、あきらかに“人種が違う”感が漂っていて、常に舞台の「真中心」に立っている……いや、彼の居るところが舞台の中心になっている、そんな印象。
いやあ、映画を観たときは、もうこの役はユースケサンタマリアしか考えられない!舞台版の上演があっても、このキャストだけは譲れない!と思っていたんですが。「今村ねずみ」というキャスティングを聞いて拍手、実際に舞台を観て、深くうなずいてあらためて拍手喝采!!という感じでした。
ええ。もう、素晴らしかった。
まず、あのスタイルがいかにも“それっぽい”んですよねぇ(感心)。もともと、ムチのようにしなやかなスタイルの人ですが、すこーしごつごつした感じに調えていたのと、ちょっと顔色を悪めにメークして、“ストレスで激痩せした”っぽい雰囲気を自然に出していたのはさすがでした。
最初の登場からの、さっそくの嫌味な口調。さりげなく逃げ場を奪って追い込んでいくやり方。怪しい人物を追及するときの口調の激しさ、行動の極端さ。そして、罪を自覚したときの感情の振り幅。どれも、脚本にきちんと描かれた人物像を過不足なく的確に表現していて。
最近、CONVOY SHOW以外でお眼にかかることが少なかったのですが、かっこよかったです。久しぶりにねずみさんの格好良さにふれて、とても幸せでした。
家元(松岡充)
映画では小栗旬が演じた役。今回は前日に観たばかりの「ムサシ」での小栗くんの残像が残っていて(汗)、松岡さんで嵌れるかなあ?とか余計な心配をしていたのですが。
…全然問題なかったです♪(当然?)
「タイタニック」のアンドリュースも良かったけど、歌を封じた家元も、とっても素晴らしかった!(*^ ^*)。彼は、公務員として働くかたわら、アイドルのファンサイトを作って運営管理し、しかも(映画には無かった設定ですが)歌まで奉げてしまう、という、ちょっとキャラクターとして無理がある人物像なんですけど(汗)、、、松岡さんは『公務員としてありえねー』茶髪に、大きな眼をくりくりさせて、じつに生真面目に可愛らしく(?)演じていらっしゃいました。……いやー、童顔ですよねぇ、彼。実年齢は小栗くんとは随分違うと思うのですが……
「家元」という役は、設定としては何歳なんでしょうね。途中で関係部門にいきなり電話で問い合わせをする場面があったりするので、そんなに若いわけではなく、それなりに人脈も築いた30代前半くらい……、でいいのかな?
映画の小栗くんは20代前半くらいに見えて、いろいろ問い合わせたりする様子を見ながら「若造がちょろっと電話したくらいで調べてくれるのか?」とか思わないでもなかったのですが(汗)、松岡さんは、『若く見えるけど実は結構ベテランかも?』というギャップがあるのがちょうど良い感じでした。
まぁ、映画にも「家元=警視総監の息子」という設定はあった…ような気がするので、そういう七光りで調べさせるんだろうな、と納得した……ような気もしますけどね。
スネーク(今井ゆうぞう)
映画では小出恵介が演じた人物。誰か(主にオダ・ユージ)が何かしら意見を言うと、なんでもかんでも「そうだよなっ!!」と賛同してしまうタイプの青年。
設定的に如月ミキ(『遅れてきた清純派』アイドル)と同世代でないとおかしいのですが、今井さんって何歳くらいなんでしょうか。笑顔が明るくて可愛くて、ちょっと小柄なのもあって、若く見えました。うん。映画みたいに、如月ミキちゃんと並んだ映像を観てみたかったかも。
プログラムを読むと、全然まったく性格が違うみたいですが、、、実によく嵌ってました。映画の小出さんは本当にウザくて素晴らしかったんですが、今井さんはもっとアクが弱くて、ふわっとした感じ。物語世界の中で、違和感なく「そうだよなっ!!」をやっているのがとても可愛かったです(はぁと)。
安男(佐藤智仁)
プログラムで本人が書いてますが、心の底から「えっ?この人が安男?」と思いました。
映画では塚地武雅が演じた役。いやー、やっていることは同じなのに、随分印象が違いました。でも、やっぱりやっていることは同じなんだなーとも思いましたけど。
声が珍しい感じにかすれていて、上擦ったようにも緊張して奮えているようにも聞こえるのが、朴訥な感じで役に合っていたような気がします。訛がちょっと違っていたのは気になりましたが、まぁ一般的にはわからないだろうし。
後半の、正体がバレて二枚目っぽくなってからの芝居が、映画の塚地さんとはだいぶ違っていて面白かったです。優しいんだけど押し付けがましい感じがでていて、恋人が本当の気持ちを言えずに「だってあの人が勝手に…」みたいに言い訳してしまったのも納得できる!と思いました。
そこの心理が、映画をみた時にちょっと謎として残っていたので、解決してもらって嬉しかったです。
うん。やっぱり、映像的にいろんな工夫ができる映画と違い、その人物が等身大で他のメンバーと並んでいるのが丸見え名舞台では、安男という役にはどうしても「実はカッコイイんだ!」という衝撃というかギャップが必要なので、今回の配役は大正解だったんじゃないかと思います。
……ところで。
今気づいたんですけど、この公演、福島に行くんですね。……会津じゃなくて福島だから良いのか……? 浜通り出身の私でさえ、ちょっとひっかかったんだけど……。
イチゴ娘(中山祐一朗)
映画では香川照之が演じた役。謎解きを考えれば、そのくらいの年齢の人がやるべき役だと思うのですが。でも、あまり違和感はなかったです。うん。男としての弱さ、力が足りなかったことに対する悔いがよく見えて、実は結構、彼に泣かされた面がありました(T T)。
映画との一番の違いは、「謎解き」を映像で見せられないこと。
5人がそれぞれに、「その日」について知っていることを語り合うことで話が進んでいくわけですが、映画では「語られている情景」が流れている時間に、舞台では「語っている人」と「聞いている人々」を観ることになる。
スキップなしのワンシチュエーションドラマでは、他に観るものが無いので当たり前なのですが、映画を観ていなくて舞台だけを観る方は、かなり集中して一つ一つの台詞を聞き取り、正確に脳内でイメージを再現しないと、話がよくわからないんじゃないかと思うんですよね。
ちょっと気が緩んだだけで、あるいは、ちょっと隅っこで拗ねている家元に見惚れただけでも、話が見えなくなってしまう危険がある。
この作品は、元々は舞台脚本(古沢良太)のはずなんですけど、今回の上演台本はどうやら映画版からさらにリメイクした(三枝玄樹)らしく、観た感じ映画版と台詞の情報量があまり違わない気がするんですよね。ってコトは、映像がない分、説明理解のハードルは高いわけで。
私は、一回映画を観ていて謎解きの大筋は頭に入っているので、その点については楽でしたが、舞台を先にご覧になった方はどうだったのかなー?と思いました。「家中に油が撒かれていた」ことを理由づけるスネークの説明とか、ミキの家の構造(最後の謎の意味)とか、大事なところなんですけど、言葉だけだとかなりわかりにくいんじゃないのかなあ……。
でも、そうやって解りにくい部分もあるかわりに、映像に誤魔化されないぶん、謎解きに気をとられずに一つ一つの台詞や仕草に集中できたのが面白いところなわけで。
やっぱり、映画版のリメイクじゃなくて、本来の舞台用の脚本で上演してほしいなあ、と思うんですけどねぇ……。相当違うんでしょうかねぇ。
もちろん、映像が無いことによって、「アイドル・如月ミキ」も出てこないんですが、これは、あくまでも「心のアイドル」としてイメージを固定させない効果はあったと思います。
ただ、そういう狙いなら、後姿とはいえプログラムに写真を載せるのはやめておいてほしかったような。載せるんだったら、モデルも明記してほしかったです。あれはいったい、誰なんでしょうか……(謎)。
途中で流れる歌も、誰かが歌っているはずですよね?まさか松岡さんや今井さんがソプラノで歌ってる筈ないだろうし、「音楽」スタッフの押谷沙樹さんがやってるとかも考えにくい…。
誰なんでしょうねぇ、あれは。
あ。そうだ。舞台版での変更点で気になったのは、ミキちゃんにファンが全部で何人いたか、の議論でした。あれはいらないと思うんですけどねぇ…。
生きて元気に活動していた時代は“それなりの人数”のファンが居た、ってことでいいじゃないですか。サイン会だかなんだかで、やり過ぎたらマネージャーに突き飛ばされるくらいの人数は居たわけでしょう?音痴だろうがなんだろうが、好きな人のCDなら皆ちゃんと買いますから。
……いくらなんでも、ファンが一人とかあり得ないからやめてください(T T)。
日曜日でSPT公演は千秋楽。次の公演は、22日の福岡市民会館なんですね。遠いっ!そこからは鹿児島→岡山→新潟→仙台→福島→札幌→金沢→名古屋→大阪(ドラマシティ)と全国を回って、最後に東京(5/16)で大楽。ううう、大楽観たいなあ。16日、微妙に用事があるんだけど……(T T)。
とりあえずは、また近いうちに同じキャストで、いいえ、キャストは違っても面白そうなので、とにかく再演されることを祈りつつ。
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彩の国 さいたま芸術劇場にて、「ムサシ」を観てまいりました。
藤原竜也の宮本武蔵、小栗旬の佐々木小次郎。
キャストが出たときから、こりゃー観なきゃ!!と思った作品。
脚本は井上ひさし、演出蜷川幸雄。
プログラムを読んで驚愕したのですが。井上ひさしとホリプロが組んで「宮本武蔵」を、というのは、20数年前にブロードウェイでの上演を目指して企画されたものだったのだそうですね。
1985年ごろ。昭和60年代。まだソビエト連邦があった、あのころ。バブルが最初のピークを迎えたこの時代に「ブロードウェイ」を目指したホリプロって、凄かったんだなあ。しかも、武蔵を題材にして!凄いなあ……。
冷静な戦略家でありながら本質は荒々しく野生的で、そして、野生的であるが故に、誰よりも仏の道に近かった、宮本武蔵。
子供の頃から剣の天才としてもてはやされ、20代の若さで大藩細川家の剣術指南に採用された、佐々木小次郎。
吉川英治の「宮本武蔵」のラストシーンを冒頭にもってきて始まったこの物語。「厳流以後の二人」を描いた後日譚でありながら、吉川が描いた武蔵や小次郎とはちょっと違うキャラクターに仕上がってはいましたが、竜也と小栗くんのキャラクターにぴったり合っていて、違和感なく二人の剣豪を演じていました。
二人の芝居力もすごいし、それ以上に井上さんの「役者を見抜く目」もすごいんだなあ。
6歳違い(小次郎が歳下)という設定も、なるほどなーと思いました。設定では小栗くんが本編で29歳=実年齢より微妙に上(?)で、竜也が35歳だったようですが、実際には二人とももう少し若く見えました。竜也が30前後、小栗くんが20代前半って感じ。
ってことは、舟島の決闘のとき、小次郎はまだ20歳前だったってこと……?ぅ、うぅーむ。
この二人ってホントは同い年なんだけど、姿の違いと声の違いでうまく年齢差を出していたと想います。
ああ、それにしても、竜也がもう20代後半だなんて……時がたつのは早いなあ(; ;)。「身毒丸はまだ16歳~♪」と歌われた当時、まだ15歳だった竜也なのに……。(溜息)
…しかーし。
当初の構想は、おそらく、正面から「武蔵」という剣豪を描こうとしていたんだろうと思うんですよね。プログラムでの、堀社長と井上さんの対談を読んでいても、そんな感じだし。
でも。
できあがった作品は、実際には「ムサシ」でもなければ、もちろん「コジロウ」でもなかった……。
いや、この二人はどちらかといえばW主演的な扱いだったんですけど、むしろ、物語の主筋は辻萬長の沢庵禅師か、吉田綱太郎の柳生宗矩あたりが語っていたような(^ ^;
そんなところ、ヅカファン的には、ちょっと大野作品を思い出しました(^ ^;ゞ。年上の“デキるひとたち”がぜーんぶ持っていってしまうあたりが。…いや、今回の場合、竜也や小栗くんが実力として見劣りするってことは無かったんですけどね。それなのに、なぜか世界の真ん中にいるのは明らかに辻さんで、若い二人はその掌の上を一生懸命走っている孫悟空たち、ってかんじ。
いや、本当に二人ともよかったんだけどなあ(^ ^;。
そしてもう一つ。
とても面白かったんですけど、私の心の中で“いわゆる『剣豪物語』”を期待していた部分は、かなりな肩透かしをくらって、一本背負いで投げられちゃった感じでした。
武蔵と小次郎だけじゃなく、柳生宗矩(しかも吉田さん!)まで出てきちゃうなんて、どんだけ『剣の道とは』みたいな話になるんだよ!?と、ワクワクしていたわけなんですけど、そういう部分がまるっと「……あれっ?」みたいな。
わけがわかんないうちに背中が畳についてました、まいった!みたいな。そんな印象。
とりあえず、吉川英治の「宮本武蔵」を読んで、「あれっ?小次郎を生き永らえさせて、この後どうするんだ?続編でも書くつもりだったのか…?」と思った私にとっては、イイかんじで後日譚を知ることができてよかった良かった、みたいな感じでした。
舟島の一騎打ちから6年後。
鎌倉の片隅にあった廃寺を再建した平心和尚の口上で始まる本筋は、再建なった宝蓮寺の寺開きの参籠禅が執り行われる。
京の都は大徳寺の長老・沢庵禅師を導師に迎え、沢庵禅師と親しい柳生宗矩や、寺の大檀那である木屋まい(白石加代子)、筆屋乙女(鈴木杏)らが参加。そして、寺の作事(設計&工事取締り、ってところかな?)を勤めたのは、沢庵禅師に師事する宮本武蔵。
そこに、一騎打ちの怪我が快復して以来、武蔵を探し続けていた小次郎が現れる。
「今は参籠禅の最中ぞ」という沢庵禅師の言葉に納得し、「ならば、それが明ける三日後の朝に」と再度の決闘を約した小次郎は、そのまま武蔵野行動を見張るために三日間の参籠禅に参加することになる。
じっさい、宮本武蔵は舟島(厳流島)の後も天下の剣豪として幕府に任官したとかそういうこともなく、晩年(?)にいくつかの書画の傑作を残して表舞台からは姿を消すわけで、もしかしたら鎌倉の片隅で寺を作って座禅にいそしんでいたりとか、そういう人生を送っていたりしたのかもしれないなー、とか、結構納得してみてました。
竜也の芝居も、なにか悟りを求めてあがいている感じがでていたし、小次郎のある意味での“迷いの無さ”との対比が、勝った者(=目標を見失った者)と負けた者(=超えるべき目標がある者)を彷彿とさせて、興味深いな、と。
そんな二人に対する、沢庵師の「勝とうが負けようが、剣で闘うなぞ、愚かで莫迦で阿呆の証拠じゃ」みたいな罵倒がとても気持ちよく嵌っていて、そのへんの展開はさすがだなあ、と思いました。
しかーし、しかーし……
井上ひさしが、一筋縄で終わる脚本を書くはずもなく。
関東公演は明日で終わりですが、まだ大阪公演があるようなので、ネタバレのないように気をつけ……ると、何も書けないので、ばらしちゃいます(汗)。
ですので、井上ひさし作品をいくつも観ていて、慣れていると自信のある方以外で、これからこの作品をご覧になろうと思っていらっしゃる方は、この先は絶対にお読みにならないでくださいm(_ _)m。
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ここからネタバレ
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興味深くて面白い作品だったんですけどね。
沢庵の重みも、柳生の軽みも、若い二人の必死さも。
でも。
井上さんお得意の幽霊落ちだったのだよ…………(T T)。
結構早い段階から伏線はってあったので、“も、もしかして…?”とは思っていたのですが。
……やっぱりか。
おかげで、せっかくそれまで積み上げてきた『太平の世で、生き残ってしまった剣豪はどう生きるべきか』というテーマが、すっかりぼやけてしまいました(涙)。
せっかく「活人剣」だのなんだの、と、太平の世を生き抜いた剣豪・柳生を出してきていろいろ語らせたのが、なんとなーく“無駄になった”気分よ(T T)。
鎌倉周辺で、いろんな理由で自ら命を棄てた者たちが、徒らに命をやりとりすることで“何か”を得ようとする剣客二人の決闘を留めようとする。
それはそれは、あらゆる手を尽くして。
情に訴え、理屈に訴え、柳生の理念で訴え、禅師の説法で訴え、……そして、最後にはもう一度、親子の情に訴えて。
それでも、冷静な武蔵は彼らのいろんな“手”を一つ一つ見破って潰していくのですが。
最終的には、丑三つ時に無理矢理決闘を始めようとする二人を、幽霊たちが白装束で囲み、口々に訴える。
「争いごとなどやめて、命を大事にしてくださいまし」
「我らは命を粗末にした罰で、仏に成ることもできませぬ」
「でも、他の誰かが命を粗末にすることを留められれば、成仏できまする」
「どうぞ我らを助けると思って、果し合いはおやめください」
「「「「どうぞ我らを、哀れと思って……」」」」
あの手この手と企むよりも、まっすぐに全てを明かして訴えたほうが、翻意しやすいんですよね、人間って。
「武士に二言はない」を座右の銘にしていそうな二人も、魂たちの訴えにはうなずいた。
何かを断ち切るように、刀を鞘に納める二人。
満月の夜、冴え冴えとした月の光が映ったような、凍りついたような瞳で。
自らを否定する行動に、震えが止まらない手で。指で。
翌朝の、ただ黙って目を見交わし、上衣を羽織り、脚絆を巻いて旅支度を整える二人の静かな空気が、切なかった。
彼らは自分自身で、『剣豪』であった己を否定してしまった。
斬り捨てたのだ。あの剣を、鞘におさめるときに。
自分自身の心が納得しての行動ではなかっただけに、苦しい夜明けだった。
まだ整理はついていない。
でも、もう剣で身をたてることはできないだろう。
人の情に流されて、棄ててしまった剣の道なのだから。
たぶん、この物語のラストが私の中にすとんと落ちてこなかったのは、「彼ら二人が、心の底から納得して棄てた剣ではない」ところだと思うのです。
行動としては、わかんです。納得できる。
二人があそこで、幽霊たちの頼みをきいてあげるのは。
その結果として、今までのように剣の道に突き進めなくなるのも。
だから、特に矛盾は感じません。ああなるしかなかった、それは納得しています。
でも、もっとすんなりと説得されたかった。
二人が、涙を呑む形で剣を棄てるのではなく、「活人剣」の摂理に納得して棄てるところまでの説得力を持たせてあげてほしかった。
自分が剣の道をひたすらに突き進んできた目的が、いかに邪なものであるかに気づいて棄てる、そんな説得力を。
あれじゃあ二人が可哀想すぎるじゃないですか。今まで、ただ一心に剣の道を貫いてきた二人なのに。
どんなに動機が不純であっても、それでも、その一心ぶりは、十分仏の道にもつながっていただろうに。
そして、思ったんですよね。
この強引な展開、もしも、たとえば宝塚で、たとえば植田(紳)さんや谷さんがやらかしたら、観客の非難轟々ですごいことになっただろうなあ、と。
やっぱり「井上ひさし」の名前には、こういう無茶な展開にも説得力を持たせるだけの力がある…ってことなんじゃないでしょうか。
もちろん、名前の力だけじゃありません。登場人物の心理の動きに矛盾が無いから、たしかな説得力があるんです。
そういう説得力は、植田(紳)さんや谷さんや児玉さんには無いもの。
ラスト、旅立つ二人が本物の沢庵たちとすれ違う場面の静かな感慨は、決してネームバリューで手に入るものじゃない。
でも、おそらく、この物語をそのまま植田さんの演出でやったとしても、観客の緊張が最後まで持たないとおもうんですよね。観客(私)が最後まで緊張感を喪わず、どんな展開になるかを読みながら作品に取り組んだ、まさにそれが、作家のネームバリューの力なのではないだろうか、と、
……ある意味、寂しい結論だなあ……。
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ココまでネタバレ
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藤原竜也の宮本武蔵、小栗旬の佐々木小次郎。
キャストが出たときから、こりゃー観なきゃ!!と思った作品。
脚本は井上ひさし、演出蜷川幸雄。
プログラムを読んで驚愕したのですが。井上ひさしとホリプロが組んで「宮本武蔵」を、というのは、20数年前にブロードウェイでの上演を目指して企画されたものだったのだそうですね。
1985年ごろ。昭和60年代。まだソビエト連邦があった、あのころ。バブルが最初のピークを迎えたこの時代に「ブロードウェイ」を目指したホリプロって、凄かったんだなあ。しかも、武蔵を題材にして!凄いなあ……。
冷静な戦略家でありながら本質は荒々しく野生的で、そして、野生的であるが故に、誰よりも仏の道に近かった、宮本武蔵。
子供の頃から剣の天才としてもてはやされ、20代の若さで大藩細川家の剣術指南に採用された、佐々木小次郎。
吉川英治の「宮本武蔵」のラストシーンを冒頭にもってきて始まったこの物語。「厳流以後の二人」を描いた後日譚でありながら、吉川が描いた武蔵や小次郎とはちょっと違うキャラクターに仕上がってはいましたが、竜也と小栗くんのキャラクターにぴったり合っていて、違和感なく二人の剣豪を演じていました。
二人の芝居力もすごいし、それ以上に井上さんの「役者を見抜く目」もすごいんだなあ。
6歳違い(小次郎が歳下)という設定も、なるほどなーと思いました。設定では小栗くんが本編で29歳=実年齢より微妙に上(?)で、竜也が35歳だったようですが、実際には二人とももう少し若く見えました。竜也が30前後、小栗くんが20代前半って感じ。
ってことは、舟島の決闘のとき、小次郎はまだ20歳前だったってこと……?ぅ、うぅーむ。
この二人ってホントは同い年なんだけど、姿の違いと声の違いでうまく年齢差を出していたと想います。
ああ、それにしても、竜也がもう20代後半だなんて……時がたつのは早いなあ(; ;)。「身毒丸はまだ16歳~♪」と歌われた当時、まだ15歳だった竜也なのに……。(溜息)
…しかーし。
当初の構想は、おそらく、正面から「武蔵」という剣豪を描こうとしていたんだろうと思うんですよね。プログラムでの、堀社長と井上さんの対談を読んでいても、そんな感じだし。
でも。
できあがった作品は、実際には「ムサシ」でもなければ、もちろん「コジロウ」でもなかった……。
いや、この二人はどちらかといえばW主演的な扱いだったんですけど、むしろ、物語の主筋は辻萬長の沢庵禅師か、吉田綱太郎の柳生宗矩あたりが語っていたような(^ ^;
そんなところ、ヅカファン的には、ちょっと大野作品を思い出しました(^ ^;ゞ。年上の“デキるひとたち”がぜーんぶ持っていってしまうあたりが。…いや、今回の場合、竜也や小栗くんが実力として見劣りするってことは無かったんですけどね。それなのに、なぜか世界の真ん中にいるのは明らかに辻さんで、若い二人はその掌の上を一生懸命走っている孫悟空たち、ってかんじ。
いや、本当に二人ともよかったんだけどなあ(^ ^;。
そしてもう一つ。
とても面白かったんですけど、私の心の中で“いわゆる『剣豪物語』”を期待していた部分は、かなりな肩透かしをくらって、一本背負いで投げられちゃった感じでした。
武蔵と小次郎だけじゃなく、柳生宗矩(しかも吉田さん!)まで出てきちゃうなんて、どんだけ『剣の道とは』みたいな話になるんだよ!?と、ワクワクしていたわけなんですけど、そういう部分がまるっと「……あれっ?」みたいな。
わけがわかんないうちに背中が畳についてました、まいった!みたいな。そんな印象。
とりあえず、吉川英治の「宮本武蔵」を読んで、「あれっ?小次郎を生き永らえさせて、この後どうするんだ?続編でも書くつもりだったのか…?」と思った私にとっては、イイかんじで後日譚を知ることができてよかった良かった、みたいな感じでした。
舟島の一騎打ちから6年後。
鎌倉の片隅にあった廃寺を再建した平心和尚の口上で始まる本筋は、再建なった宝蓮寺の寺開きの参籠禅が執り行われる。
京の都は大徳寺の長老・沢庵禅師を導師に迎え、沢庵禅師と親しい柳生宗矩や、寺の大檀那である木屋まい(白石加代子)、筆屋乙女(鈴木杏)らが参加。そして、寺の作事(設計&工事取締り、ってところかな?)を勤めたのは、沢庵禅師に師事する宮本武蔵。
そこに、一騎打ちの怪我が快復して以来、武蔵を探し続けていた小次郎が現れる。
「今は参籠禅の最中ぞ」という沢庵禅師の言葉に納得し、「ならば、それが明ける三日後の朝に」と再度の決闘を約した小次郎は、そのまま武蔵野行動を見張るために三日間の参籠禅に参加することになる。
じっさい、宮本武蔵は舟島(厳流島)の後も天下の剣豪として幕府に任官したとかそういうこともなく、晩年(?)にいくつかの書画の傑作を残して表舞台からは姿を消すわけで、もしかしたら鎌倉の片隅で寺を作って座禅にいそしんでいたりとか、そういう人生を送っていたりしたのかもしれないなー、とか、結構納得してみてました。
竜也の芝居も、なにか悟りを求めてあがいている感じがでていたし、小次郎のある意味での“迷いの無さ”との対比が、勝った者(=目標を見失った者)と負けた者(=超えるべき目標がある者)を彷彿とさせて、興味深いな、と。
そんな二人に対する、沢庵師の「勝とうが負けようが、剣で闘うなぞ、愚かで莫迦で阿呆の証拠じゃ」みたいな罵倒がとても気持ちよく嵌っていて、そのへんの展開はさすがだなあ、と思いました。
しかーし、しかーし……
井上ひさしが、一筋縄で終わる脚本を書くはずもなく。
関東公演は明日で終わりですが、まだ大阪公演があるようなので、ネタバレのないように気をつけ……ると、何も書けないので、ばらしちゃいます(汗)。
ですので、井上ひさし作品をいくつも観ていて、慣れていると自信のある方以外で、これからこの作品をご覧になろうと思っていらっしゃる方は、この先は絶対にお読みにならないでくださいm(_ _)m。
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ここからネタバレ
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興味深くて面白い作品だったんですけどね。
沢庵の重みも、柳生の軽みも、若い二人の必死さも。
でも。
井上さんお得意の幽霊落ちだったのだよ…………(T T)。
結構早い段階から伏線はってあったので、“も、もしかして…?”とは思っていたのですが。
……やっぱりか。
おかげで、せっかくそれまで積み上げてきた『太平の世で、生き残ってしまった剣豪はどう生きるべきか』というテーマが、すっかりぼやけてしまいました(涙)。
せっかく「活人剣」だのなんだの、と、太平の世を生き抜いた剣豪・柳生を出してきていろいろ語らせたのが、なんとなーく“無駄になった”気分よ(T T)。
鎌倉周辺で、いろんな理由で自ら命を棄てた者たちが、徒らに命をやりとりすることで“何か”を得ようとする剣客二人の決闘を留めようとする。
それはそれは、あらゆる手を尽くして。
情に訴え、理屈に訴え、柳生の理念で訴え、禅師の説法で訴え、……そして、最後にはもう一度、親子の情に訴えて。
それでも、冷静な武蔵は彼らのいろんな“手”を一つ一つ見破って潰していくのですが。
最終的には、丑三つ時に無理矢理決闘を始めようとする二人を、幽霊たちが白装束で囲み、口々に訴える。
「争いごとなどやめて、命を大事にしてくださいまし」
「我らは命を粗末にした罰で、仏に成ることもできませぬ」
「でも、他の誰かが命を粗末にすることを留められれば、成仏できまする」
「どうぞ我らを助けると思って、果し合いはおやめください」
「「「「どうぞ我らを、哀れと思って……」」」」
あの手この手と企むよりも、まっすぐに全てを明かして訴えたほうが、翻意しやすいんですよね、人間って。
「武士に二言はない」を座右の銘にしていそうな二人も、魂たちの訴えにはうなずいた。
何かを断ち切るように、刀を鞘に納める二人。
満月の夜、冴え冴えとした月の光が映ったような、凍りついたような瞳で。
自らを否定する行動に、震えが止まらない手で。指で。
翌朝の、ただ黙って目を見交わし、上衣を羽織り、脚絆を巻いて旅支度を整える二人の静かな空気が、切なかった。
彼らは自分自身で、『剣豪』であった己を否定してしまった。
斬り捨てたのだ。あの剣を、鞘におさめるときに。
自分自身の心が納得しての行動ではなかっただけに、苦しい夜明けだった。
まだ整理はついていない。
でも、もう剣で身をたてることはできないだろう。
人の情に流されて、棄ててしまった剣の道なのだから。
たぶん、この物語のラストが私の中にすとんと落ちてこなかったのは、「彼ら二人が、心の底から納得して棄てた剣ではない」ところだと思うのです。
行動としては、わかんです。納得できる。
二人があそこで、幽霊たちの頼みをきいてあげるのは。
その結果として、今までのように剣の道に突き進めなくなるのも。
だから、特に矛盾は感じません。ああなるしかなかった、それは納得しています。
でも、もっとすんなりと説得されたかった。
二人が、涙を呑む形で剣を棄てるのではなく、「活人剣」の摂理に納得して棄てるところまでの説得力を持たせてあげてほしかった。
自分が剣の道をひたすらに突き進んできた目的が、いかに邪なものであるかに気づいて棄てる、そんな説得力を。
あれじゃあ二人が可哀想すぎるじゃないですか。今まで、ただ一心に剣の道を貫いてきた二人なのに。
どんなに動機が不純であっても、それでも、その一心ぶりは、十分仏の道にもつながっていただろうに。
そして、思ったんですよね。
この強引な展開、もしも、たとえば宝塚で、たとえば植田(紳)さんや谷さんがやらかしたら、観客の非難轟々ですごいことになっただろうなあ、と。
やっぱり「井上ひさし」の名前には、こういう無茶な展開にも説得力を持たせるだけの力がある…ってことなんじゃないでしょうか。
もちろん、名前の力だけじゃありません。登場人物の心理の動きに矛盾が無いから、たしかな説得力があるんです。
そういう説得力は、植田(紳)さんや谷さんや児玉さんには無いもの。
ラスト、旅立つ二人が本物の沢庵たちとすれ違う場面の静かな感慨は、決してネームバリューで手に入るものじゃない。
でも、おそらく、この物語をそのまま植田さんの演出でやったとしても、観客の緊張が最後まで持たないとおもうんですよね。観客(私)が最後まで緊張感を喪わず、どんな展開になるかを読みながら作品に取り組んだ、まさにそれが、作家のネームバリューの力なのではないだろうか、と、
……ある意味、寂しい結論だなあ……。
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ココまでネタバレ
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シアターサンモールにて、ブルーシャトルプロデュース アクサル公演「11人いる!」を観てまいりました。
言わずとしれた萩尾望都の名作SF漫画「11人いる!」を、かなり原作に忠実に舞台化した作品でした。
演出がすごく面白かった。原作読んでいるときは思わなかったんですが、舞台にするといわゆる“ワンシチュエーションもの”になるんですね!!「宇宙船の中」という、完全に閉ざされた空間での物語ですから。
舞台上にセットがわりに置かれた白い布の遣い方が巧くて、現実の風景とタダの幻想(記憶のフラッシュバック)の切り替えが見事でした。記憶のヴェールに隠された真実を、一枚一枚剥がしていくようなイメージがあって、クライマックスの電導ヅタの真実の姿と、それにつながるパニックへの演出が、凄い迫力。
結構歌も多くて、ちょっとミュージカルっぽいつくりだったのにちょっとびっくりしました(^ ^)。
そして、なにより驚いたのが、原作の色をしっかりと残しながら、そこかしこにお笑い要素をいれていたところ(^ ^;ゞ。脚本・演出の吉谷光太郎さんをはじめ、みなさん大阪出身っぽかったですね。真面目さとお笑いの行ったり来たり感が、いかにも大阪チックで斬新でした。吉谷さん(教官役で出演)なんて、登場から大笑いだったもんなあ……。
……まぁ、お笑い系のゲストを出すのは作品のイメージを考えるとちょっとヤリスギかな、とも思いましたが(←私が観たときは、長州小力さんがゲスト。「キレてないっすよ」ネタですっげー盛り上がりました/笑)、力技でしたけれども意外とうまく流れてた、かなー?
あと、原作よりもアマゾンが大きな役になっていて、彼と王様の対立と和解がテーマの一つになっていたのが印象的でした。ちょうど、花組&月組の「王様」たちのことを考えているときだったので、マヤ王バセスカの逡巡と挑戦への気概、そしてアマゾンの「プロレタリアート」の自信と他人への信頼が気持ちよかったです。
「アクサル」という劇団(?)、私は全然知らなかったのですが、劇団ひまわり系列のユニットだそうですね。二枚目の男優ばかりの集団というので、同じく萩尾作品をいくつも舞台化しているスタジオライフと同じようなイメージで観にいったのですが、それよりはずっと堅実な作品作りをする集団、という感じでした。
まぁ、美形度はライフの方が上かな?とは思いましたが(^ ^;ゞ。
それでは、キャストについて一言づつ。
タダトス・レーン(加藤巨樹)=タダ
良くも悪くも「普通の人」という印象でした。タダって「普通の人」だったんだなあ……。クソ面白くない真面目な優等生、って感じ。
多分それを狙って演じていたのだと思うので、もっと弾けた役での彼を観てみたいです。
フロルベリチェリ・フロル(大河元気)=フロル
“美少年”でしたねぇ~!原作ファン的には、やっぱりフロルには巻き毛でいてほしいのですが(笑)、黒髪ストレートも悪くなかった(はぁと)。汚い言葉遣いがちょっと慣れてない感じでしたが、いっそのこと関西弁でやったほうがよかったかもね(笑)。
色気の無さが、逆に萩尾作品のヒロイン(?)っぽくて似合ってました。船内温度があがって服を脱いじゃう場面は、素肌に白い布を巻いた形で肩をむき出しにして登場したんですけど、思わず皆が欲情してしまうのもわかる気が(^ ^)。
姿勢がもう少し良くなると、もっとビジュアル度が増すと思います★がんばれ★
アマゾン・カーナイス(柄谷吾史)=アマゾン
とにかくカッコよかったです。美形だしスタイルいいし、声も素敵♪原作でもおいしい役ですけど、さらに輪をかけてカッコよく描かれてました。王様との対立の場面も凄く良かったし、フロルの裸にドキドキしてるときは可愛かった♪
マヤ王バセスカ(林修司)=王様
複雑なキャラクターで、芝居としては一番難しいところを担当していましたが、さすがに巧かったあ~!ルドビコ★そのものは何回かしか観てないんですが、彼は結構よく外部出演していますよね。さすがな感じです。
しかしカッコよかった。自分自身への迷いとタダへの嫉妬まじりの猜疑心、アマゾンの指摘への反発…いろんな要素をきちんと一人のキャラクターとしてまとめてみせたのがさすが。続編の「東の地平、西の永遠」を彼の王様で観てみたいです♪♪
グレン・グロフ(田中照人)=石頭
まず衣装というか髪型をがんばって「石頭」にしていたことに感動(笑)。かなりお笑い系の芝居でしたが、今までどんな役をやってきた人なのかしら?ラストに、教官に声をかけらたれたときの芝居が面白かったです!!
ソルダム四世ドリカス(古川貴生)=フォース
原作では、育ちが良くて屈託のない、明るい二枚目という感じのキャラクターですが、舞台では王様のキャラに近い、猜疑心の強い根暗な雰囲気になってました。それはそれでありだけど、「東の地平・西の永遠」にはつながらない感じになってしまって残念かも。
コロスとしてタダの周りで踊るときなど、動きがキレイで目につきました。かなり踊れる人なのかな?
ヴィドメニール・ヌーム(松木賢三)=ヌー
鱗をどうするのかなーと思っていましたが、特に何事もせず、髪を僧侶っぽい雰囲気にしただけで演じていましたが、台詞の声に深みがあって良かったです。「すべては宿命」という口癖が自然でした。
……原作ファン的には、酔っ払ってるヌーが最高だったかも(^ ^)
ガニガス・ガグトス(山本建史)=ガンガ
カッコよかったし芝居もさすがでしたけど、なんというか……下腹が出てるガンガって許せない(←言っちゃった…ごめんなさい!)
ううう。ガンガはサイボーグで身体鍛えてる健康体なんだから、マッチョならわかるんだけどなあ…(T T)。
原作以上においしい、良い役でした。でもでも、優しいお父ちゃんみたいなんだよなぁ……(悲)
ドルフ・タスタ(田倉伸紘)=赤鼻
「赤いボタン(スクランブル発生=試験終了)のボタンを押したくなったら、この鼻を押してよ」っていう台詞って原作にありましたっけ…。その台詞にあわせてみんなでバシバシと鼻を叩く場面がメチャメチャ面白かったです。シリアスなのにね。
パンフの写真で観るとかなりの美形なのに、舞台では……(^ ^;ゞ。役者ですねぇ(感心)。
トト・ニ(田渕法明)=トト
トトがすっげー美少年なんでびっくりしました(汗)。植物への愛を歌いあげるナンバーがあったりして、大活躍。原作とは一番かけ離れたキャラで、面白かったです!
チャコ・カカ(八百谷匡洋)=チャコ
原作でもあんまり活躍の場のないキャラですが、舞台でも…って感じ。ただ、お笑い場面では常にリードしていたような?(^ ^;
公演パンフレットは、なんというか、昔の「タナボタ企画」のパンフみたいでした……(お笑い系の企画ものがあるあたりが)
うーん、確かにコアなファンが圧倒的に多そうな感じの客席でしたけど、もう少しどんな活動をしてきた劇団なのか、とか、キャストのプロフィールとかをもう少し書いといてほしかったなあ…。
知らない私がいけないのかもしれないけど。
だって原作の名前だけでふらっと観にいったんだもん、パンフレットに解説があるかなーと思うじゃないですか(汗)。
ま、大きく宣伝している様子もないのにサンモールが1週間埋まるんだから(私が観たときはほぼ満席でした)、ファンがついているってことなんでしょうね。
確かに面白かったし、原作の雰囲気を忠実に守っているわけでもないのにちゃんと世界を創っていたのは凄いなーと思いました。SFなのに、特殊メイクをするでなく自然な感じで。原作の構成の妙があってこそですけれども、舞台化するにあたってはいろんなハードルがあったはずなのに、そういう苦労を感じさせず、さらっとやっていたのが凄いなーと思いました!
次は、春に吉田秋生の「BANANA FISH」を上演するそうです☆ど、ど、どういう感じになるんだろうか……ちょっと興味アリです☆
.
言わずとしれた萩尾望都の名作SF漫画「11人いる!」を、かなり原作に忠実に舞台化した作品でした。
演出がすごく面白かった。原作読んでいるときは思わなかったんですが、舞台にするといわゆる“ワンシチュエーションもの”になるんですね!!「宇宙船の中」という、完全に閉ざされた空間での物語ですから。
舞台上にセットがわりに置かれた白い布の遣い方が巧くて、現実の風景とタダの幻想(記憶のフラッシュバック)の切り替えが見事でした。記憶のヴェールに隠された真実を、一枚一枚剥がしていくようなイメージがあって、クライマックスの電導ヅタの真実の姿と、それにつながるパニックへの演出が、凄い迫力。
結構歌も多くて、ちょっとミュージカルっぽいつくりだったのにちょっとびっくりしました(^ ^)。
そして、なにより驚いたのが、原作の色をしっかりと残しながら、そこかしこにお笑い要素をいれていたところ(^ ^;ゞ。脚本・演出の吉谷光太郎さんをはじめ、みなさん大阪出身っぽかったですね。真面目さとお笑いの行ったり来たり感が、いかにも大阪チックで斬新でした。吉谷さん(教官役で出演)なんて、登場から大笑いだったもんなあ……。
……まぁ、お笑い系のゲストを出すのは作品のイメージを考えるとちょっとヤリスギかな、とも思いましたが(←私が観たときは、長州小力さんがゲスト。「キレてないっすよ」ネタですっげー盛り上がりました/笑)、力技でしたけれども意外とうまく流れてた、かなー?
あと、原作よりもアマゾンが大きな役になっていて、彼と王様の対立と和解がテーマの一つになっていたのが印象的でした。ちょうど、花組&月組の「王様」たちのことを考えているときだったので、マヤ王バセスカの逡巡と挑戦への気概、そしてアマゾンの「プロレタリアート」の自信と他人への信頼が気持ちよかったです。
「アクサル」という劇団(?)、私は全然知らなかったのですが、劇団ひまわり系列のユニットだそうですね。二枚目の男優ばかりの集団というので、同じく萩尾作品をいくつも舞台化しているスタジオライフと同じようなイメージで観にいったのですが、それよりはずっと堅実な作品作りをする集団、という感じでした。
まぁ、美形度はライフの方が上かな?とは思いましたが(^ ^;ゞ。
それでは、キャストについて一言づつ。
タダトス・レーン(加藤巨樹)=タダ
良くも悪くも「普通の人」という印象でした。タダって「普通の人」だったんだなあ……。クソ面白くない真面目な優等生、って感じ。
多分それを狙って演じていたのだと思うので、もっと弾けた役での彼を観てみたいです。
フロルベリチェリ・フロル(大河元気)=フロル
“美少年”でしたねぇ~!原作ファン的には、やっぱりフロルには巻き毛でいてほしいのですが(笑)、黒髪ストレートも悪くなかった(はぁと)。汚い言葉遣いがちょっと慣れてない感じでしたが、いっそのこと関西弁でやったほうがよかったかもね(笑)。
色気の無さが、逆に萩尾作品のヒロイン(?)っぽくて似合ってました。船内温度があがって服を脱いじゃう場面は、素肌に白い布を巻いた形で肩をむき出しにして登場したんですけど、思わず皆が欲情してしまうのもわかる気が(^ ^)。
姿勢がもう少し良くなると、もっとビジュアル度が増すと思います★がんばれ★
アマゾン・カーナイス(柄谷吾史)=アマゾン
とにかくカッコよかったです。美形だしスタイルいいし、声も素敵♪原作でもおいしい役ですけど、さらに輪をかけてカッコよく描かれてました。王様との対立の場面も凄く良かったし、フロルの裸にドキドキしてるときは可愛かった♪
マヤ王バセスカ(林修司)=王様
複雑なキャラクターで、芝居としては一番難しいところを担当していましたが、さすがに巧かったあ~!ルドビコ★そのものは何回かしか観てないんですが、彼は結構よく外部出演していますよね。さすがな感じです。
しかしカッコよかった。自分自身への迷いとタダへの嫉妬まじりの猜疑心、アマゾンの指摘への反発…いろんな要素をきちんと一人のキャラクターとしてまとめてみせたのがさすが。続編の「東の地平、西の永遠」を彼の王様で観てみたいです♪♪
グレン・グロフ(田中照人)=石頭
まず衣装というか髪型をがんばって「石頭」にしていたことに感動(笑)。かなりお笑い系の芝居でしたが、今までどんな役をやってきた人なのかしら?ラストに、教官に声をかけらたれたときの芝居が面白かったです!!
ソルダム四世ドリカス(古川貴生)=フォース
原作では、育ちが良くて屈託のない、明るい二枚目という感じのキャラクターですが、舞台では王様のキャラに近い、猜疑心の強い根暗な雰囲気になってました。それはそれでありだけど、「東の地平・西の永遠」にはつながらない感じになってしまって残念かも。
コロスとしてタダの周りで踊るときなど、動きがキレイで目につきました。かなり踊れる人なのかな?
ヴィドメニール・ヌーム(松木賢三)=ヌー
鱗をどうするのかなーと思っていましたが、特に何事もせず、髪を僧侶っぽい雰囲気にしただけで演じていましたが、台詞の声に深みがあって良かったです。「すべては宿命」という口癖が自然でした。
……原作ファン的には、酔っ払ってるヌーが最高だったかも(^ ^)
ガニガス・ガグトス(山本建史)=ガンガ
カッコよかったし芝居もさすがでしたけど、なんというか……下腹が出てるガンガって許せない(←言っちゃった…ごめんなさい!)
ううう。ガンガはサイボーグで身体鍛えてる健康体なんだから、マッチョならわかるんだけどなあ…(T T)。
原作以上においしい、良い役でした。でもでも、優しいお父ちゃんみたいなんだよなぁ……(悲)
ドルフ・タスタ(田倉伸紘)=赤鼻
「赤いボタン(スクランブル発生=試験終了)のボタンを押したくなったら、この鼻を押してよ」っていう台詞って原作にありましたっけ…。その台詞にあわせてみんなでバシバシと鼻を叩く場面がメチャメチャ面白かったです。シリアスなのにね。
パンフの写真で観るとかなりの美形なのに、舞台では……(^ ^;ゞ。役者ですねぇ(感心)。
トト・ニ(田渕法明)=トト
トトがすっげー美少年なんでびっくりしました(汗)。植物への愛を歌いあげるナンバーがあったりして、大活躍。原作とは一番かけ離れたキャラで、面白かったです!
チャコ・カカ(八百谷匡洋)=チャコ
原作でもあんまり活躍の場のないキャラですが、舞台でも…って感じ。ただ、お笑い場面では常にリードしていたような?(^ ^;
公演パンフレットは、なんというか、昔の「タナボタ企画」のパンフみたいでした……(お笑い系の企画ものがあるあたりが)
うーん、確かにコアなファンが圧倒的に多そうな感じの客席でしたけど、もう少しどんな活動をしてきた劇団なのか、とか、キャストのプロフィールとかをもう少し書いといてほしかったなあ…。
知らない私がいけないのかもしれないけど。
だって原作の名前だけでふらっと観にいったんだもん、パンフレットに解説があるかなーと思うじゃないですか(汗)。
ま、大きく宣伝している様子もないのにサンモールが1週間埋まるんだから(私が観たときはほぼ満席でした)、ファンがついているってことなんでしょうね。
確かに面白かったし、原作の雰囲気を忠実に守っているわけでもないのにちゃんと世界を創っていたのは凄いなーと思いました。SFなのに、特殊メイクをするでなく自然な感じで。原作の構成の妙があってこそですけれども、舞台化するにあたってはいろんなハードルがあったはずなのに、そういう苦労を感じさせず、さらっとやっていたのが凄いなーと思いました!
次は、春に吉田秋生の「BANANA FISH」を上演するそうです☆ど、ど、どういう感じになるんだろうか……ちょっと興味アリです☆
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天王洲アイルの銀河劇場にて、Studio Life公演「死の泉」を観てまいりました。
今週来週と涙が出るほど仕事が忙しく、毎日日付が変わるまで会社にいる状態なので、あまり更新ができないと思いますが、どうぞお許しくださいませ。
…って、言い訳してみたりしつつ。
前回観たStudio Life作品は「マージナル」。そのときの感想はこちら。
http://80646.diarynote.jp/200809200406033884/
なぜわざわざリンクするかというと、前半の倉田演出に対する感想をはじめ、いろんな点で前回と全く同じ感想を抱いたからです。
中でも、「なんかよくわかんないエピソードがいろいろあるけど、これは後で都市編を見たら解決するんだわきっと!」というあたりが真面目に笑える。
これは、「マージナル」の時は「都市編」と「砂漠編」の2バージョン同時上演だったので、「砂漠編」を観て「?」と思ったところが「都市編」で解決するという構成(片方しか観なかった方は、二幕ものの芝居を一幕だけ観て小休憩に帰っちゃうようなもの)になっており、結果的に、両方観た観客にとっては奥深くて面白い趣向になっていたのですが……。
「死の泉」には別バージョンはないので。
同時上演の「パサジェルカ」を観ても、多分何も解決しないんだろうなあ…。
まぁ、「死の泉」は、「マージナル」に比べればずーっと良く整理された出来の良い脚本だったとは思うのですが。でも、それでも結構謎が残った人が多いんじゃないかなあ?原作はかなり長大なので、ごく一部しか劇化されていないのですが、切り捨てたはずの原作の“残り火”みたいなのも結構あったし。
原作は知らないにしても、ある程度戦争末期~60年代にいたるドイツの現代史をさわりだけでも知っていれば、そんなに難しい話ではないのですが。
あ、そうだ。
大事なことを一つ。入り口で配られるチラシの束の中に、今回の公演に関する用語集が入っているので、観る前に一読しておかれることをお勧めします。
だって。
とりあえず、日本人であのシチュエーションで「白ばら」と言われてぴんと来る人は少数派なんじゃないかなーと思うんですよね。まぁ、映画にもなったことがあるので、私が知らなかっただけかもしれませんが。
#この場合の「白ばら」は、ナチス政権化のドイツでミュンヘンを中心に起こった学生たちの反ナチ運動のこと。ベルサイユとは何の関係もありません(^ ^;
マルガレーテの曾祖母が属する「ツィゴイナー」(ツィゴイネル/異民族。いわゆる“ロマ”の一派といわれるが別説もある)や、ゲルトが関わる「ネオナチ」も、意外と知らない人が多いのでは?
本作とは全く何の関係もありませんが、私はとうに終わってしまった“TEAM D.O.C”のコミック「花と狼の帝国」が大好きでした。あれで「白ばら」を初めて知ったんですよね…。いつか再開する日を待っていたのに~~(T T)
レーベンスボルン(“生命の泉”ドイツ南部の都市で、マルガレーテの生地)に生きる一人の女が作り出す、“死の泉”。レーベンスボルンは、マルガレーテの出身地の地名であり、ナチス国家のための子供(兵士)をつくる組織の名前でもあります。
舞台化するにあたって、テーマを擬似家族に絞ったのはいいと思うのですが、だったら細かい謎を残さないで欲しかったなぁ、と思ったりはします。ギュンターの城のエピソードとか、たぶん意味わからないと思うし。
タイトルにまつわる謎も、潤色されたときにまるっと抜け落ちてしまっていると言っても過言ではなく、原作とは全く別の作品だと言ってもいいかと思うのですが、だったら不用意な謎の尻尾(拾いきれない伏線)はきちんと切っておいてほしかった。
とか、なんとか書いていますけれども。
倉田さん、宝塚の座付き作家の一部と比べてそんなにレベルが低いとは思わないのに、ついつい色々書いてしまうのは、私が基本的にクリエイターとしての彼女をかっていて、期待をしているからなんだろうなー、と、
…今、思ってみました……。倉田さんの作風が好きな方、ごめんなさい。
まぁ、作品については観ていただくとして。
キャストについて一言ずつ。
#今回私はWキャストの片方しか観ておりません(Rheingold)。ご了承くださいませ。
■マルガレーテ 三上 俊
美しい。宝塚を見慣れた目には前髪の処理が気になりましたけれども(^ ^)、十分に“美しい女性”でした。
「マージナル」では清純で心優しい少年ミカル。心の美しさがそのまま表に表れたかのような姿には見惚れてしまいましたが、今回はうってかわって、内向的で芯の強い、クリスタルのように硬い“女”、そして、自身を見失うほど息子を愛した、脆い“母親”の役。
純粋無垢なミカルがあんなに似合ってしまった三上くんには、まだちょっと難しい役なんじゃないのかなー?と思っていたのですが。
…ある意味、これ以上のマルガレーテは居ないというくらい説得力のあるマルガレーテでした(*^ ^*)。声のトーンが落ち着いていて優しいので、穏やかで優しい見た目とよく釣合っていましたね。しかも、ほっそりとして立ち姿が美しく、マタニティもシンプルなワンピースもよく似合ってた。あんなに頻繁に出たり入ったりしないで、もっと舞台上にじっとしている時間が長くしてあげた方がキャラクターが出るタイプなのに勿体ないなぁ、と思ったりしました。(倉田さんの演出は、とにかく場が細かすぎるのと、暗転時にいちいち舞台からハケさせるのがうるさい)
それにしても。
…痛々しいほどに「外」を拒否しきった、精神的な“引きこもり”っぷりが見事でしたねぇ。
「世界」を拒絶し、人間関係を無視して、ただ自分の求めるものを探しているだけの、女。
そんな彼女をひたすらに慕う幼い兄弟が、ただただ憐れで、
そんな彼女に嫉妬し、なんとかして傷をつけようと必死であがくけれども果たせないモニカが、ひたすら哀れで。
「看護婦さんたちの中で、マルガレーテが一番やさしい」と信じた子供たちの気持ちもわかるけれども、「やさしさ」と「無関心」は、反対語ではないのだ、と、そんなことを考えずにはいられない、そんなマルガレーテでした。
「ナチス」という名の“過酷な運命”が支配の網を拡げ行く中で、その冷たい風を柳に風と受け流す強靭さ。それが、彼女の場合は「不本意な世界」を拒否するという形で表に出たんですね。
ツィゴイナーとして、与えられた運命の中で精一杯生きることを選んだ彼女の曾祖母の幻影。
ゲルマンの男を愛し、ゲルマンの男に愛されたツィゴイナーの、多少の傷にはめげない生命力の輝き。
その強さが、3世代を経て“脆さ”のある“硬さ”になる。
そして、マルガレーテの心を囲む、高く冷たい「壁」を作りあげる…。
その壁を壊すことができるのは誰か?
誰もに愛されたマルガレーテが、愛していたのは誰なのか……?
■クラウス・ヴェッセルマン 山崎康一
ナチス政権化で怪しげな研究に勤しむマッドサイエンティスト。
……の役のはずなんですが、あまりにもあまりにも真剣かつ純粋にマルガレーテに恋をし、その歓心をかうためにあらゆる手を尽くす彼が、あまりにも可愛くてステキだったのは……
成功なんでしょうかねぇ。山崎さん、物凄い嵌り役だと思うんですけど。
それにしても、マルガレーテがあまりにも冷たくて、肩も抱けないクラウスが哀れでなりませんでした…。
ギュンターに対しては、もっともっと嫉妬を表に出していいと思うなあ。…うん。
文句無くステキでした。山崎さん大好きだ!
■子供たち(フランツ 奥田努、エーリヒ 深山洋貴)
奥田さんは、ちょっと柄が大きすぎて半ズボンも少年らしい可愛い仕草もちょっと無理が……。
「マージナル」ではネズやってた人ですもんね、そりゃー……。おにいちゃんらしさはあったけど、子供が“擬似母”に対して懐くのではなくて、最初から“大人の女への恋心”に見えてしまったのはどうなのでしょうか?
最終的には、それもアリなんですけどね、確かに。
まぁ、ポーランド系として蔑まれる中でエーリヒを守るためには、一足早く大人にならなくてはいけなかったはずだから、あのくらい大人っぽい子供でもいいのかな。
“大人”になってしまったフランツが、時々子供に戻るのが可愛い、といわれれば、「確かにそれはそうかも」と思わないでもないです。はい。
それでも、二幕の回想シーンは一幕より大人びているせいか、違和感無かったですけどね。あちらをターゲットに配役したのかもしれませんね。
エーリヒの深山さんは……えーっと、おいくつでしたっけ?(汗)。
なんであんなに半ズボンが似合うんだろう。なんであんなに頭悪そうに子供っぽく喋ってるのにステキなんだろう。謎がいっぱいです…。
■ミヒャエル(舟見和利)
細表で腺病質で、いかにもマルガレーテの息子っぽい雰囲気の造形が見事でした。
落ち着いた役作りで、さすがでしたね♪
■楽師兄弟(フランツ 曽世海司、エーリヒ 小野健太郎)
フランツ&エーリヒの成人版。
さりげないロマっぽい衣装が良く似合って、二人ともとても格好良かったです。フランツの、奥底に激情を秘めた穏やかさと、瞬間湯沸し機みたいなエーリヒの対比が見事で。
二幕からしか出ないし、難しい役だと思うんですけど、お二人ともさすがでした。
…曽世さんがお元気だとライフを観たなあ、という気がします。ご活躍が嬉しいです!
■モニカ 青木隆敏
「マージナル」のメイヤードさんですよね?一声声を聞いただけで、顔がみえなくてもすぐ判りました。正直なところ、本当に申し訳ないと思うのですが、私は彼の声(と喋り方)がどうしても好きになれないんです(T T)。モニカさんが登場して1分後には「もう黙れ」と思ってしまった。
なのに!
メイヤードのときも、彼が登場して5分後くらいに「もう絶対ダメ。無理」と思ったのに、一幕観終わったら、もう受け入れていたんですよね(汗)。都市編の方はぜんぜん違和感なかったですし。私が素直なのか、倉田さんが「とっつきで“最悪!”と思わせて、後で納得させる」という演出を狙ってしていらっしゃるのか、そのあたりは良くわかりませんが(^ ^)。
とにかく。
何をどんなに罵っても、馬の耳に念仏というかまったく聞いてない、効いてないマルガレーテの強靭さが凄いなあ~!と思わせる、そのためのモニカという役に見えてしまって、憐れでなりませんでした。めっちゃ同情しました。
あの役に共感を集めるって、青木さん凄いんじゃないだろうか……
■ゲルト 荒木健太朗
今まで彼のことは割と女っぽい美少年役で観ることが多かったのですが、こういう野生的な少年役の方が圧倒的に似合いますね(*^ ^*)。
キラのときにも書きましたが、美形だけどゴツゴツしたこういう顔の人は、女役似合わないと思うんですよ。よほど技術があれば別だけど、いくら小柄で細くても、“たおやか”に見せることが難しいタイプ。
原作ではかなり重要な役ですが、舞台ではテーマが違うこともあってだいぶ意味不明の役になっていたのが残念。ヘルムートさんとのラヴシーン(ラヴ言うな)は確信犯ですか?>倉田さん
■ヘルムート 前田一世
この人も謎な人になっていたなあ…。というか、二幕は全体的に破綻しきっていて意味不明なシーンが多かったので、練り直して欲しかったです。もうちょっとどうにかなったと思うんだけどな。
前田さん自身は色気もあっていい男っぷりだったので、作中での位置づけが滅茶苦茶だったのがとても残念でした。もう少し落ち着いた役でもう一度観てみたい人です。
■ブリギッテ(吉田隆太)
ステキでした。はい。
あのエネルギーと上昇志向は凄い!と思わせる。モニカの陰にこもったネツい口調ではなく、カラッとパワフルに嫌味を叩きつける、その可愛らしさがステキでした。
友達にはしたくないけど、たしかにああいう人は時代に拠らずどこにでも一人はいるんだろうな、と、そんなことを納得してしまったブリギッテでした。
マタニティはもっと思い切って詰め込んでもよかったかも(笑)。
ロシア民謡の「黒い瞳」が繰り返し流れる舞台空間。
なんでロシア民謡?と思ったのですが(←無知)、そもそもこの曲はロシア系ドイツ人が作曲した曲なんだそうですね。散々練習した歌なのに知らなかった…(恥)。詩(こちらはウクライナ人)は異民族の娘の黒い瞳を歌った歌だから、もしかししたらツィゴイナーなのかもしれませんね。(私はずっと、草原の娘だと解釈していたのですが)
いろいろな意味で面白い公演でした。
Wキャストのもう片方も、観てみたかったなー。(←すでに過去形)
.
今週来週と涙が出るほど仕事が忙しく、毎日日付が変わるまで会社にいる状態なので、あまり更新ができないと思いますが、どうぞお許しくださいませ。
…って、言い訳してみたりしつつ。
前回観たStudio Life作品は「マージナル」。そのときの感想はこちら。
http://80646.diarynote.jp/200809200406033884/
なぜわざわざリンクするかというと、前半の倉田演出に対する感想をはじめ、いろんな点で前回と全く同じ感想を抱いたからです。
中でも、「なんかよくわかんないエピソードがいろいろあるけど、これは後で都市編を見たら解決するんだわきっと!」というあたりが真面目に笑える。
これは、「マージナル」の時は「都市編」と「砂漠編」の2バージョン同時上演だったので、「砂漠編」を観て「?」と思ったところが「都市編」で解決するという構成(片方しか観なかった方は、二幕ものの芝居を一幕だけ観て小休憩に帰っちゃうようなもの)になっており、結果的に、両方観た観客にとっては奥深くて面白い趣向になっていたのですが……。
「死の泉」には別バージョンはないので。
同時上演の「パサジェルカ」を観ても、多分何も解決しないんだろうなあ…。
まぁ、「死の泉」は、「マージナル」に比べればずーっと良く整理された出来の良い脚本だったとは思うのですが。でも、それでも結構謎が残った人が多いんじゃないかなあ?原作はかなり長大なので、ごく一部しか劇化されていないのですが、切り捨てたはずの原作の“残り火”みたいなのも結構あったし。
原作は知らないにしても、ある程度戦争末期~60年代にいたるドイツの現代史をさわりだけでも知っていれば、そんなに難しい話ではないのですが。
あ、そうだ。
大事なことを一つ。入り口で配られるチラシの束の中に、今回の公演に関する用語集が入っているので、観る前に一読しておかれることをお勧めします。
だって。
とりあえず、日本人であのシチュエーションで「白ばら」と言われてぴんと来る人は少数派なんじゃないかなーと思うんですよね。まぁ、映画にもなったことがあるので、私が知らなかっただけかもしれませんが。
#この場合の「白ばら」は、ナチス政権化のドイツでミュンヘンを中心に起こった学生たちの反ナチ運動のこと。ベルサイユとは何の関係もありません(^ ^;
マルガレーテの曾祖母が属する「ツィゴイナー」(ツィゴイネル/異民族。いわゆる“ロマ”の一派といわれるが別説もある)や、ゲルトが関わる「ネオナチ」も、意外と知らない人が多いのでは?
本作とは全く何の関係もありませんが、私はとうに終わってしまった“TEAM D.O.C”のコミック「花と狼の帝国」が大好きでした。あれで「白ばら」を初めて知ったんですよね…。いつか再開する日を待っていたのに~~(T T)
レーベンスボルン(“生命の泉”ドイツ南部の都市で、マルガレーテの生地)に生きる一人の女が作り出す、“死の泉”。レーベンスボルンは、マルガレーテの出身地の地名であり、ナチス国家のための子供(兵士)をつくる組織の名前でもあります。
舞台化するにあたって、テーマを擬似家族に絞ったのはいいと思うのですが、だったら細かい謎を残さないで欲しかったなぁ、と思ったりはします。ギュンターの城のエピソードとか、たぶん意味わからないと思うし。
タイトルにまつわる謎も、潤色されたときにまるっと抜け落ちてしまっていると言っても過言ではなく、原作とは全く別の作品だと言ってもいいかと思うのですが、だったら不用意な謎の尻尾(拾いきれない伏線)はきちんと切っておいてほしかった。
とか、なんとか書いていますけれども。
倉田さん、宝塚の座付き作家の一部と比べてそんなにレベルが低いとは思わないのに、ついつい色々書いてしまうのは、私が基本的にクリエイターとしての彼女をかっていて、期待をしているからなんだろうなー、と、
…今、思ってみました……。倉田さんの作風が好きな方、ごめんなさい。
まぁ、作品については観ていただくとして。
キャストについて一言ずつ。
#今回私はWキャストの片方しか観ておりません(Rheingold)。ご了承くださいませ。
■マルガレーテ 三上 俊
美しい。宝塚を見慣れた目には前髪の処理が気になりましたけれども(^ ^)、十分に“美しい女性”でした。
「マージナル」では清純で心優しい少年ミカル。心の美しさがそのまま表に表れたかのような姿には見惚れてしまいましたが、今回はうってかわって、内向的で芯の強い、クリスタルのように硬い“女”、そして、自身を見失うほど息子を愛した、脆い“母親”の役。
純粋無垢なミカルがあんなに似合ってしまった三上くんには、まだちょっと難しい役なんじゃないのかなー?と思っていたのですが。
…ある意味、これ以上のマルガレーテは居ないというくらい説得力のあるマルガレーテでした(*^ ^*)。声のトーンが落ち着いていて優しいので、穏やかで優しい見た目とよく釣合っていましたね。しかも、ほっそりとして立ち姿が美しく、マタニティもシンプルなワンピースもよく似合ってた。あんなに頻繁に出たり入ったりしないで、もっと舞台上にじっとしている時間が長くしてあげた方がキャラクターが出るタイプなのに勿体ないなぁ、と思ったりしました。(倉田さんの演出は、とにかく場が細かすぎるのと、暗転時にいちいち舞台からハケさせるのがうるさい)
それにしても。
…痛々しいほどに「外」を拒否しきった、精神的な“引きこもり”っぷりが見事でしたねぇ。
「世界」を拒絶し、人間関係を無視して、ただ自分の求めるものを探しているだけの、女。
そんな彼女をひたすらに慕う幼い兄弟が、ただただ憐れで、
そんな彼女に嫉妬し、なんとかして傷をつけようと必死であがくけれども果たせないモニカが、ひたすら哀れで。
「看護婦さんたちの中で、マルガレーテが一番やさしい」と信じた子供たちの気持ちもわかるけれども、「やさしさ」と「無関心」は、反対語ではないのだ、と、そんなことを考えずにはいられない、そんなマルガレーテでした。
「ナチス」という名の“過酷な運命”が支配の網を拡げ行く中で、その冷たい風を柳に風と受け流す強靭さ。それが、彼女の場合は「不本意な世界」を拒否するという形で表に出たんですね。
ツィゴイナーとして、与えられた運命の中で精一杯生きることを選んだ彼女の曾祖母の幻影。
ゲルマンの男を愛し、ゲルマンの男に愛されたツィゴイナーの、多少の傷にはめげない生命力の輝き。
その強さが、3世代を経て“脆さ”のある“硬さ”になる。
そして、マルガレーテの心を囲む、高く冷たい「壁」を作りあげる…。
その壁を壊すことができるのは誰か?
誰もに愛されたマルガレーテが、愛していたのは誰なのか……?
■クラウス・ヴェッセルマン 山崎康一
ナチス政権化で怪しげな研究に勤しむマッドサイエンティスト。
……の役のはずなんですが、あまりにもあまりにも真剣かつ純粋にマルガレーテに恋をし、その歓心をかうためにあらゆる手を尽くす彼が、あまりにも可愛くてステキだったのは……
成功なんでしょうかねぇ。山崎さん、物凄い嵌り役だと思うんですけど。
それにしても、マルガレーテがあまりにも冷たくて、肩も抱けないクラウスが哀れでなりませんでした…。
ギュンターに対しては、もっともっと嫉妬を表に出していいと思うなあ。…うん。
文句無くステキでした。山崎さん大好きだ!
■子供たち(フランツ 奥田努、エーリヒ 深山洋貴)
奥田さんは、ちょっと柄が大きすぎて半ズボンも少年らしい可愛い仕草もちょっと無理が……。
「マージナル」ではネズやってた人ですもんね、そりゃー……。おにいちゃんらしさはあったけど、子供が“擬似母”に対して懐くのではなくて、最初から“大人の女への恋心”に見えてしまったのはどうなのでしょうか?
最終的には、それもアリなんですけどね、確かに。
まぁ、ポーランド系として蔑まれる中でエーリヒを守るためには、一足早く大人にならなくてはいけなかったはずだから、あのくらい大人っぽい子供でもいいのかな。
“大人”になってしまったフランツが、時々子供に戻るのが可愛い、といわれれば、「確かにそれはそうかも」と思わないでもないです。はい。
それでも、二幕の回想シーンは一幕より大人びているせいか、違和感無かったですけどね。あちらをターゲットに配役したのかもしれませんね。
エーリヒの深山さんは……えーっと、おいくつでしたっけ?(汗)。
なんであんなに半ズボンが似合うんだろう。なんであんなに頭悪そうに子供っぽく喋ってるのにステキなんだろう。謎がいっぱいです…。
■ミヒャエル(舟見和利)
細表で腺病質で、いかにもマルガレーテの息子っぽい雰囲気の造形が見事でした。
落ち着いた役作りで、さすがでしたね♪
■楽師兄弟(フランツ 曽世海司、エーリヒ 小野健太郎)
フランツ&エーリヒの成人版。
さりげないロマっぽい衣装が良く似合って、二人ともとても格好良かったです。フランツの、奥底に激情を秘めた穏やかさと、瞬間湯沸し機みたいなエーリヒの対比が見事で。
二幕からしか出ないし、難しい役だと思うんですけど、お二人ともさすがでした。
…曽世さんがお元気だとライフを観たなあ、という気がします。ご活躍が嬉しいです!
■モニカ 青木隆敏
「マージナル」のメイヤードさんですよね?一声声を聞いただけで、顔がみえなくてもすぐ判りました。正直なところ、本当に申し訳ないと思うのですが、私は彼の声(と喋り方)がどうしても好きになれないんです(T T)。モニカさんが登場して1分後には「もう黙れ」と思ってしまった。
なのに!
メイヤードのときも、彼が登場して5分後くらいに「もう絶対ダメ。無理」と思ったのに、一幕観終わったら、もう受け入れていたんですよね(汗)。都市編の方はぜんぜん違和感なかったですし。私が素直なのか、倉田さんが「とっつきで“最悪!”と思わせて、後で納得させる」という演出を狙ってしていらっしゃるのか、そのあたりは良くわかりませんが(^ ^)。
とにかく。
何をどんなに罵っても、馬の耳に念仏というかまったく聞いてない、効いてないマルガレーテの強靭さが凄いなあ~!と思わせる、そのためのモニカという役に見えてしまって、憐れでなりませんでした。めっちゃ同情しました。
あの役に共感を集めるって、青木さん凄いんじゃないだろうか……
■ゲルト 荒木健太朗
今まで彼のことは割と女っぽい美少年役で観ることが多かったのですが、こういう野生的な少年役の方が圧倒的に似合いますね(*^ ^*)。
キラのときにも書きましたが、美形だけどゴツゴツしたこういう顔の人は、女役似合わないと思うんですよ。よほど技術があれば別だけど、いくら小柄で細くても、“たおやか”に見せることが難しいタイプ。
原作ではかなり重要な役ですが、舞台ではテーマが違うこともあってだいぶ意味不明の役になっていたのが残念。ヘルムートさんとのラヴシーン(ラヴ言うな)は確信犯ですか?>倉田さん
■ヘルムート 前田一世
この人も謎な人になっていたなあ…。というか、二幕は全体的に破綻しきっていて意味不明なシーンが多かったので、練り直して欲しかったです。もうちょっとどうにかなったと思うんだけどな。
前田さん自身は色気もあっていい男っぷりだったので、作中での位置づけが滅茶苦茶だったのがとても残念でした。もう少し落ち着いた役でもう一度観てみたい人です。
■ブリギッテ(吉田隆太)
ステキでした。はい。
あのエネルギーと上昇志向は凄い!と思わせる。モニカの陰にこもったネツい口調ではなく、カラッとパワフルに嫌味を叩きつける、その可愛らしさがステキでした。
友達にはしたくないけど、たしかにああいう人は時代に拠らずどこにでも一人はいるんだろうな、と、そんなことを納得してしまったブリギッテでした。
マタニティはもっと思い切って詰め込んでもよかったかも(笑)。
ロシア民謡の「黒い瞳」が繰り返し流れる舞台空間。
なんでロシア民謡?と思ったのですが(←無知)、そもそもこの曲はロシア系ドイツ人が作曲した曲なんだそうですね。散々練習した歌なのに知らなかった…(恥)。詩(こちらはウクライナ人)は異民族の娘の黒い瞳を歌った歌だから、もしかししたらツィゴイナーなのかもしれませんね。(私はずっと、草原の娘だと解釈していたのですが)
いろいろな意味で面白い公演でした。
Wキャストのもう片方も、観てみたかったなー。(←すでに過去形)
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AKUROーまつろわぬモノたち
2008年12月8日 演劇 コメント (4)ヤクルトホールのトークスペシャル(早霧せいな、凪七瑠海、純矢ちとせ)に行きたかったのに……
日付が変わるまで会社にいました。くすん。チケット持ってたのに。行きたかったのに。……しょぼん。
どんなお話があったのか、CSで流れるまで待てない私にどうぞ教えてくださいm(_ _)m。
さて、本題。
池袋の芸術劇場中ホールにて、TSミュージカル「AKURO」を観てまいりました。
初演はどうしても都合がつかなくて観られなかった作品。
ものすごーーーく観たかったのにいけなかったので、再演を心待ちにしておりました。
坂上田村麻呂によって平定された、陸奥の国のものがたり。
もともと東北の生まれで、「中央」によって平定された「くに」の物語に物凄く思い入れしやすい猫ですから。
……そりゃーもう、泣きました。
ああいう舞台を観ると、言葉なんて何の力もないものなんだな、と思いますね。
言葉、言葉、言葉。言葉が神の御技で、ひとが操っていいものではない、という思想に思わず納得してしまう。
「その場」で語られる物語。
「その場」で発散されるエネルギー。
「その場」でなくては出来ない経験があって、それが一番実感として感じられるのが生の舞台なのだと思う。
なぜなら、そこには人間の肉体があるから。
ナマの人間の喉が発する音が、なによりいちばん、ダイレクトに心に響くから。
何から語っていいのかわからない…と思いつつ1日が過ぎてしまいましたが、
とりあえず、この感動をちょっと吐き出しておきたいな、と思って書き留めておきます。
新神戸オリエンタルは終わってしまって、東京公演も今週の金曜日まで。
せめて土日にやってくれていたらもう一回観るのにっ!!
また再演してほしいので、ぜひぜひ皆様、足を運んで「盛況」にしてあげてくださいませ。
お願いします!(←選挙運動みたいだな自分)
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日付が変わるまで会社にいました。くすん。チケット持ってたのに。行きたかったのに。……しょぼん。
どんなお話があったのか、CSで流れるまで待てない私にどうぞ教えてくださいm(_ _)m。
さて、本題。
池袋の芸術劇場中ホールにて、TSミュージカル「AKURO」を観てまいりました。
初演はどうしても都合がつかなくて観られなかった作品。
ものすごーーーく観たかったのにいけなかったので、再演を心待ちにしておりました。
坂上田村麻呂によって平定された、陸奥の国のものがたり。
もともと東北の生まれで、「中央」によって平定された「くに」の物語に物凄く思い入れしやすい猫ですから。
……そりゃーもう、泣きました。
ああいう舞台を観ると、言葉なんて何の力もないものなんだな、と思いますね。
言葉、言葉、言葉。言葉が神の御技で、ひとが操っていいものではない、という思想に思わず納得してしまう。
「その場」で語られる物語。
「その場」で発散されるエネルギー。
「その場」でなくては出来ない経験があって、それが一番実感として感じられるのが生の舞台なのだと思う。
なぜなら、そこには人間の肉体があるから。
ナマの人間の喉が発する音が、なによりいちばん、ダイレクトに心に響くから。
何から語っていいのかわからない…と思いつつ1日が過ぎてしまいましたが、
とりあえず、この感動をちょっと吐き出しておきたいな、と思って書き留めておきます。
新神戸オリエンタルは終わってしまって、東京公演も今週の金曜日まで。
せめて土日にやってくれていたらもう一回観るのにっ!!
また再演してほしいので、ぜひぜひ皆様、足を運んで「盛況」にしてあげてくださいませ。
お願いします!(←選挙運動みたいだな自分)
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新宿の紀伊国屋劇場にて、Studio Life公演「マージナル」を観劇してまいりました。
ひさしぶりに担当役者(だった)笠原浩夫さんが出演されるということで、萩尾ファンの猫は喜びいさんで行ってまいりました。
1985年に結成された劇団Studio Lifeは、脚本・演出の倉田淳を紅一点とした男優ばかりの劇団。
劇団が喧伝するほど美形ぞろいとも思わないのですが(苦笑)、萩尾作品や文芸耽美作品の舞台化で認められ、今にいたっている……のかな?私が初めて観たのは萩尾望都原作の「訪問者」(の、多分初演)で、その後「トーマの心臓」などいくつか観て……こないだの「カリフォルニア物語」が久しぶりのライフだったのですが。
今回で、だいぶ人を覚えたかなあ(汗)。
倉田さんの脚本は、漫画のコマ割りをそのまま舞台に再現しようとしているのか、場面が非常に細かく切られているので、よほど台詞術のある役者を揃えないと観客が流れについてきてくれない気がします。
あと、彼女の演出で特徴的なのは、強い台詞を言い捨てて暗転と、暗転の中のモノローグ、そして、暗転の中に響く大音量のクラシカルなBGM(大抵は、ファンタジーのあるボーイソプラノのソロ)。
暗転することで拡散した観客の意識をBGMに集中させ、BGMのヴォリュームを下げると同時に舞台に光を入れることでふたたび観客の耳目を集め、集中力を途切れさせない。ちょっと使い方は違いますが、世界のニナガワこと蜷川さんも時々使っていて、理屈のある演出手法だなあとは思うのですが、倉田さんの場合はちょっと多用しすぎ。
観客の意識を音と光で操る作業なので、ひとつの公演の中で何回も使われると観ていて疲れてしまうし、印象的な場面がぶつ切りになって物語そのものへの興味が切れてしまう。
宝塚歌劇団の植田景子さんもこの手法を良く使っていたのですが(「シニョール・ドンファン」は使う曲まで一緒で、倉田淳のパクリと当時言われてましたっけ…)、「Hollywood Lover」にはなかったんですよね。その代わりに、音楽に意味を持たせる手法を編み出したんだな、と。
“あ、景子さんは卒業したんだ!”と思ったものですが…。
対する倉田さんは、なかなか殻を捨てられないみたいですねぇ(; ;)。
今回の「マージナル」は、原作は単行本で5巻だか6巻だかにわたる長編漫画。
内容も複雑で、環境汚染によって死に瀕する地球、情報を統制されて全滅を待つばかりの羊のようなひとびと、月へ逃れた「上流階級」たち、火星へ移住した「先駆者」たち……多様な人間の集団が出会い、きしみ、彼らの利害と愛憎が絡み合い、縺れ合って、ラストに至る愛と救済のものがたり。
公演としては「砂漠編」と「都市編」に分けて構成されていて、私は、最終的にはWキャストのうち、WOMB(ウーム)チームの両編を観ました。
で。
今からこの作品を、しかも両方のバージョンを観る方に一つアドバイス!
砂漠編から先に観ることをお勧めします。
基本的に砂漠編が本編、都市編はその種明かしというか謎解き編というつくりになっているので、絶対そのほうが面白い。
あと、なんといっても、砂漠編は主人公がキラなので、ラストがきちんと語られているのが大きいですね。
砂漠編も、原作を全く知らなかったらちんぷんかんぷんでしょうけれども、それでも「なんかよくわかんないエピソードがいろいろあるけど、これは後で都市編を見たら解決するんだわきっと!」と思って見逃してあげてください。そうすれば大丈夫。
実際、都市編でそのあたりの疑問点は全部解決しますので。
砂漠編で中心となるメンバー(“地球人”)たちは、「何も知らない。」
その目線で語られる砂漠編の方が、予備知識(原作未読)の観客の意識に合うのです。
都市編は、まず主人公がメイヤードなところで終わっている(^ ^;ゞ、
こちらで中心となるメンバー(“月世界人”と“火星人”)たちは、「知っている」ひとびと。
だから、砂漠編で語りきれなかったエピソードを説明し、片付けるための物語になっているんですね。物語の全体の流れは知っている前提で、種明かしに時間を取られつつ話が進むので、予備知識がない観客はついていけないのではないかな、と。
まぁ、これは私の印象ですので、都市編から入ったほうが良いという方もいらっしゃるかもしれませんが…(^ ^;ゞ
舞台奥が高くなっている(よくある2階部分みたいな感じの)セットは、ほぼ転換無しで、砂漠も都市もこれ一つで表現する。美術担当は松野潤。なかなか良くできたセットでした。
今回、倉田さんの演出で、面白いなーと思ったのは、この2段になった舞台の使い方。
砂漠編では、原則として砂漠で起こることは本舞台で、都市で起こることは段上がりで描き、
都市編では逆に、都市で起こることを本舞台で、砂漠でのエピソードを段上がりで…という構成の妙。
ただ、物語の後半はどちらのバージョンも舞台が都市の中になるので、その区別がつけにくくなり、しかもキラを苦しめる幻影は常に段あがりにいるので、その人がどの立場の人なのか咄嗟にわかりにくくなってしまったりはするのですが。
もう少し話を整理して、砂漠編と都市編で入れるエピソードを完全に入れ替えるようなことができたら、もっと面白くできたと思うのですが、ちょっと中途半端だったかも。
それと、段あがりで演じられる芝居が、人が袖からちょろっと出てきて、何か喋って、またひっこむ、しかできないののがイマイチでしたね。段上なので奥行き狭いし、構造上真ん中が通れないセットなのであまり横の動きも出せなかったのはわかるのですが、それにしても…という感じ。
でも、都度暗転しなくてすむだけ良かったです。シーンの連続感があって、観ていて心を持っていきやすかったので。
……演出の話で長くなってしまいましたが、キャストの話も簡単に。
○キラ(荒木健太朗)
美形だけれども、やわらかみのないゴツゴツした男顔の美少年。“普段の”キラのキャラクターにはよく合っていたと思います。
ただ、“グリンジャと反応した”、両性具有モードの時のキラは、ちょっと物足りなかった…。
化粧を直すわけにもいかない場面なので、ライトをピンで当てて飛ばすとか、何か工夫して演出面でフォローしてあげてほしかったです。原作を読んでいなかったら、アシジンの驚きととまどいがサッパリ意味不明だったんじゃないかと思うので。(あそこが理解できないと、その後のアシジンのキラへの執着がぴんと来ないだろう)
○グリンジャ(笠原浩夫)
この人を目当てに観にいったので、もう単純に『あなたに会えて嬉しい』の一言です。
やっぱかっこいいし、外部出演が多いだけに芝居も達者だなあ、と。
ただ、割と愛情が溢れやすい人なので、グリンジャにしてはえらく愛情過多でしたね。もうちょっとクールなキャラだと思うんだけどおな、グリンジャは。
個人的な好みですが、アシジンを観てみたかったなーーーー。倉田さんのイメージするアシジンはタイプが違うのかしら?でも実際、笠原さんが「マージナル」に出るって言われて、最初に浮かんだのはアシジンだったんだけどなあ(T T)。
○アシジン(仲原裕之)
あんまり芝居が上手なんでびっくりしました。原作の美形っぷりを考えるとちょっと惜しいって感じですけど(←ごめんなさい)、グリンジャに対する妬みとか、いろんな複雑な感情が溢れ出るさまがすごく伝わってきました。
いい男だった!!……髪の毛大事にしてあげてください…。
○メイヤード(青木隆敏)
あの、人を小馬鹿にしきった喋り方と声は、わざとなんでしょうか…。砂漠編が終わったときには「虫唾がはしるほど嫌いだ!」と叫んでいた私ですが、都市編が終わったときにはなんだか納得してしまっていました……。
うーん、演出意図にぴったりと嵌っていたのは確かですね。他の人のメイヤードを観てみたかった気持ちはありますが、今回は彼で正解だったのかもしれません。
次回作を楽しみにしています。
○ミカル(三上俊)
かわいいいいいい!と、いいきなり激落ちしてしまいました(^ ^;ゞ 本当にいい加減にしろよ自分っ!
それにしても可愛いです。芝居も巧い。いや、キャラクター自体がミカルそのもの。まさに嵌り役とはこのことですっ!!いやーーーっ、惚れてしまった(汗)。次回公演「死の泉」で主演するらしいので、今から楽しみです♪
○ネズ(奥田努)
この人も、砂漠編では台詞に癖がありすぎて「ちょっといい加減にしてよ」…と言いたくなったりしたのですが、都市編は意外と良かったなあ~。それだけ、二つの物語は印象が違うってことなんでしょうけれども……。
メイヤードともども、自分がメインでない砂漠編での居方というのは、もう少し倉田さんと検討してみたほうが良かったかもね。
○フェロペ/ローニ(渡部紘士)
か、かっこよかったです(*^ ^*)。フェロペ、もっと出てきてほしかったなあ☆(←原作読んでる癖に何を言うか)
フェロペがカッコよすぎて、ローニの情けなさがちょっと違和感(汗)。なぜこの二人を一人にふったんだ倉田さん。謎。
○スズキ・ゴー(山崎康一)
私が観ていたころは、ぴっちぴちの若手スターだった(ような気がする)山崎さん。
すっかりロマンスグレイが似合う素敵なオジサマになっていてびっくりしました。卑屈な感じが素敵♪
次は「死の泉」のクラウスを演じるみたいで、やっぱり観てみたいなあと思ったりします☆
「カリフォルニア物語」の私が観た回にイーヴを演じていた松本慎也くんは、荒木くんとWでキラを演じていますが、どうなんでしょうねぇ…。もう観にいくのは無理なのですが、ちょっとだけ気になっています。がんばってほしいなあ。
ちょっと、遠ざかっていたライフ熱が戻ってきた公演でした。
嵌っちゃったらどうしよう(汗)。
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ひさしぶりに担当役者(だった)笠原浩夫さんが出演されるということで、萩尾ファンの猫は喜びいさんで行ってまいりました。
1985年に結成された劇団Studio Lifeは、脚本・演出の倉田淳を紅一点とした男優ばかりの劇団。
劇団が喧伝するほど美形ぞろいとも思わないのですが(苦笑)、萩尾作品や文芸耽美作品の舞台化で認められ、今にいたっている……のかな?私が初めて観たのは萩尾望都原作の「訪問者」(の、多分初演)で、その後「トーマの心臓」などいくつか観て……こないだの「カリフォルニア物語」が久しぶりのライフだったのですが。
今回で、だいぶ人を覚えたかなあ(汗)。
倉田さんの脚本は、漫画のコマ割りをそのまま舞台に再現しようとしているのか、場面が非常に細かく切られているので、よほど台詞術のある役者を揃えないと観客が流れについてきてくれない気がします。
あと、彼女の演出で特徴的なのは、強い台詞を言い捨てて暗転と、暗転の中のモノローグ、そして、暗転の中に響く大音量のクラシカルなBGM(大抵は、ファンタジーのあるボーイソプラノのソロ)。
暗転することで拡散した観客の意識をBGMに集中させ、BGMのヴォリュームを下げると同時に舞台に光を入れることでふたたび観客の耳目を集め、集中力を途切れさせない。ちょっと使い方は違いますが、世界のニナガワこと蜷川さんも時々使っていて、理屈のある演出手法だなあとは思うのですが、倉田さんの場合はちょっと多用しすぎ。
観客の意識を音と光で操る作業なので、ひとつの公演の中で何回も使われると観ていて疲れてしまうし、印象的な場面がぶつ切りになって物語そのものへの興味が切れてしまう。
宝塚歌劇団の植田景子さんもこの手法を良く使っていたのですが(「シニョール・ドンファン」は使う曲まで一緒で、倉田淳のパクリと当時言われてましたっけ…)、「Hollywood Lover」にはなかったんですよね。その代わりに、音楽に意味を持たせる手法を編み出したんだな、と。
“あ、景子さんは卒業したんだ!”と思ったものですが…。
対する倉田さんは、なかなか殻を捨てられないみたいですねぇ(; ;)。
今回の「マージナル」は、原作は単行本で5巻だか6巻だかにわたる長編漫画。
内容も複雑で、環境汚染によって死に瀕する地球、情報を統制されて全滅を待つばかりの羊のようなひとびと、月へ逃れた「上流階級」たち、火星へ移住した「先駆者」たち……多様な人間の集団が出会い、きしみ、彼らの利害と愛憎が絡み合い、縺れ合って、ラストに至る愛と救済のものがたり。
公演としては「砂漠編」と「都市編」に分けて構成されていて、私は、最終的にはWキャストのうち、WOMB(ウーム)チームの両編を観ました。
で。
今からこの作品を、しかも両方のバージョンを観る方に一つアドバイス!
砂漠編から先に観ることをお勧めします。
基本的に砂漠編が本編、都市編はその種明かしというか謎解き編というつくりになっているので、絶対そのほうが面白い。
あと、なんといっても、砂漠編は主人公がキラなので、ラストがきちんと語られているのが大きいですね。
砂漠編も、原作を全く知らなかったらちんぷんかんぷんでしょうけれども、それでも「なんかよくわかんないエピソードがいろいろあるけど、これは後で都市編を見たら解決するんだわきっと!」と思って見逃してあげてください。そうすれば大丈夫。
実際、都市編でそのあたりの疑問点は全部解決しますので。
砂漠編で中心となるメンバー(“地球人”)たちは、「何も知らない。」
その目線で語られる砂漠編の方が、予備知識(原作未読)の観客の意識に合うのです。
都市編は、まず主人公がメイヤードなところで終わっている(^ ^;ゞ、
こちらで中心となるメンバー(“月世界人”と“火星人”)たちは、「知っている」ひとびと。
だから、砂漠編で語りきれなかったエピソードを説明し、片付けるための物語になっているんですね。物語の全体の流れは知っている前提で、種明かしに時間を取られつつ話が進むので、予備知識がない観客はついていけないのではないかな、と。
まぁ、これは私の印象ですので、都市編から入ったほうが良いという方もいらっしゃるかもしれませんが…(^ ^;ゞ
舞台奥が高くなっている(よくある2階部分みたいな感じの)セットは、ほぼ転換無しで、砂漠も都市もこれ一つで表現する。美術担当は松野潤。なかなか良くできたセットでした。
今回、倉田さんの演出で、面白いなーと思ったのは、この2段になった舞台の使い方。
砂漠編では、原則として砂漠で起こることは本舞台で、都市で起こることは段上がりで描き、
都市編では逆に、都市で起こることを本舞台で、砂漠でのエピソードを段上がりで…という構成の妙。
ただ、物語の後半はどちらのバージョンも舞台が都市の中になるので、その区別がつけにくくなり、しかもキラを苦しめる幻影は常に段あがりにいるので、その人がどの立場の人なのか咄嗟にわかりにくくなってしまったりはするのですが。
もう少し話を整理して、砂漠編と都市編で入れるエピソードを完全に入れ替えるようなことができたら、もっと面白くできたと思うのですが、ちょっと中途半端だったかも。
それと、段あがりで演じられる芝居が、人が袖からちょろっと出てきて、何か喋って、またひっこむ、しかできないののがイマイチでしたね。段上なので奥行き狭いし、構造上真ん中が通れないセットなのであまり横の動きも出せなかったのはわかるのですが、それにしても…という感じ。
でも、都度暗転しなくてすむだけ良かったです。シーンの連続感があって、観ていて心を持っていきやすかったので。
……演出の話で長くなってしまいましたが、キャストの話も簡単に。
○キラ(荒木健太朗)
美形だけれども、やわらかみのないゴツゴツした男顔の美少年。“普段の”キラのキャラクターにはよく合っていたと思います。
ただ、“グリンジャと反応した”、両性具有モードの時のキラは、ちょっと物足りなかった…。
化粧を直すわけにもいかない場面なので、ライトをピンで当てて飛ばすとか、何か工夫して演出面でフォローしてあげてほしかったです。原作を読んでいなかったら、アシジンの驚きととまどいがサッパリ意味不明だったんじゃないかと思うので。(あそこが理解できないと、その後のアシジンのキラへの執着がぴんと来ないだろう)
○グリンジャ(笠原浩夫)
この人を目当てに観にいったので、もう単純に『あなたに会えて嬉しい』の一言です。
やっぱかっこいいし、外部出演が多いだけに芝居も達者だなあ、と。
ただ、割と愛情が溢れやすい人なので、グリンジャにしてはえらく愛情過多でしたね。もうちょっとクールなキャラだと思うんだけどおな、グリンジャは。
個人的な好みですが、アシジンを観てみたかったなーーーー。倉田さんのイメージするアシジンはタイプが違うのかしら?でも実際、笠原さんが「マージナル」に出るって言われて、最初に浮かんだのはアシジンだったんだけどなあ(T T)。
○アシジン(仲原裕之)
あんまり芝居が上手なんでびっくりしました。原作の美形っぷりを考えるとちょっと惜しいって感じですけど(←ごめんなさい)、グリンジャに対する妬みとか、いろんな複雑な感情が溢れ出るさまがすごく伝わってきました。
いい男だった!!……髪の毛大事にしてあげてください…。
○メイヤード(青木隆敏)
あの、人を小馬鹿にしきった喋り方と声は、わざとなんでしょうか…。砂漠編が終わったときには「虫唾がはしるほど嫌いだ!」と叫んでいた私ですが、都市編が終わったときにはなんだか納得してしまっていました……。
うーん、演出意図にぴったりと嵌っていたのは確かですね。他の人のメイヤードを観てみたかった気持ちはありますが、今回は彼で正解だったのかもしれません。
次回作を楽しみにしています。
○ミカル(三上俊)
かわいいいいいい!と、いいきなり激落ちしてしまいました(^ ^;ゞ 本当にいい加減にしろよ自分っ!
それにしても可愛いです。芝居も巧い。いや、キャラクター自体がミカルそのもの。まさに嵌り役とはこのことですっ!!いやーーーっ、惚れてしまった(汗)。次回公演「死の泉」で主演するらしいので、今から楽しみです♪
○ネズ(奥田努)
この人も、砂漠編では台詞に癖がありすぎて「ちょっといい加減にしてよ」…と言いたくなったりしたのですが、都市編は意外と良かったなあ~。それだけ、二つの物語は印象が違うってことなんでしょうけれども……。
メイヤードともども、自分がメインでない砂漠編での居方というのは、もう少し倉田さんと検討してみたほうが良かったかもね。
○フェロペ/ローニ(渡部紘士)
か、かっこよかったです(*^ ^*)。フェロペ、もっと出てきてほしかったなあ☆(←原作読んでる癖に何を言うか)
フェロペがカッコよすぎて、ローニの情けなさがちょっと違和感(汗)。なぜこの二人を一人にふったんだ倉田さん。謎。
○スズキ・ゴー(山崎康一)
私が観ていたころは、ぴっちぴちの若手スターだった(ような気がする)山崎さん。
すっかりロマンスグレイが似合う素敵なオジサマになっていてびっくりしました。卑屈な感じが素敵♪
次は「死の泉」のクラウスを演じるみたいで、やっぱり観てみたいなあと思ったりします☆
「カリフォルニア物語」の私が観た回にイーヴを演じていた松本慎也くんは、荒木くんとWでキラを演じていますが、どうなんでしょうねぇ…。もう観にいくのは無理なのですが、ちょっとだけ気になっています。がんばってほしいなあ。
ちょっと、遠ざかっていたライフ熱が戻ってきた公演でした。
嵌っちゃったらどうしよう(汗)。
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かもめ -SEAGULL-
2008年7月12日 演劇 コメント (2)赤坂ACTシアターで上演されていた「かもめ」が、本日千秋楽でした。
この後、大阪・広島・名古屋と公演は続きますが、とりあえずひと段落ということで、忘れないうちに観劇の感想を。
コスチャに藤原竜也。
アルカージナに麻実れい。
トリゴーリンに鹿賀丈史。
キャストを聞いたときは、てっきり鹿賀さんが座長だと思っていたので、プログラムを見て竜也くんがトップクレジットだったことに、まず驚愕。「かもめ」って、きちんと観たことはないんですが、アルカージナとトリゴーリンが主役の物語だと思っていたので……でも、そう言われてみれば、物語世界を立ち上げるのはコスチャ(トレープレフ)とニーナ(美波)なんですね。アルカージナとトリゴーリンは、その世界に“登場”するだけで。
チラシの竜也コスチャは髭が生えていたので、勝手に髭萌えしていた猫ですが……。舞台では残念ながら(?)きれいに剃ってしまっていました。しょんぼり。
私が竜也くんを初めてみたのは、身毒丸の凱旋公演ですから……あれから10年以上たってるんですね。肩も腰もほそくて、それこそ今の早乙女太一くんみたいな身体だったのに(サッカーやってたせいか脚は太かったけど)、なんだかすっかり大人の身体になって…。顔は相変わらずまん丸くて童顔ですけどね(^ ^;ゞ……でも、やっぱり大人の顔になったなあ。昔はあんなに祐飛さんと似てるーと思ったのに、今はもう思わないですもんね。お二人とも、この10年で様々な経験をして、それぞれ違う方向に顔が変わったんでしょうね。
もちろん、今の方がかっこいい(*^ ^*)ですよ、ご両人とも♪
チェーホフの作品、って、シェイクスピアと違ってほとんど観たことがないので、作品についてはあまり語れないのですが。
プログラムで竜也くんが言っているとおり、劇構造として「ハムレット」に非常に良く似た設定をもっているんですね。若くて才能に溢れた若者と、美しくふしだらなその母と、若者の憎悪の対象となる母の恋人。
でも、根本的にこの作品は“喜劇”である。いや、非常にシリアスな物語を語るシリアスな世界なんですけど、なんとなくそれを茶化している雰囲気があるんですよね。
ハムレットが、殺された父を懐しみ、クローディアスへの恨みと煩悶を訴える場面なんて、ちょっと演出のテンポが悪かったり、役者のテンションが観客席をひっぱり切れなかったりしたらすぐ失笑が漏れてしまうんですけど、
それと全く同じことが、今回コスチャの嘆きやマーシャ(小島聖)の長台詞、トリゴーリンの自嘲などの場面で“笑いのネタ”として使われていたし、アルカージナは全編笑いを取りにきていたし。
それでも、二幕(戯曲的には“4幕”)で、戻ってきたニーナの語る物語を聞いているコスチャの、無表情の仮面を追うだけで、泣けて泣けて仕方ありませんでした。
一幕冒頭で、「ああ、ニーナの足音だ!」と叫んで飛び上がって喜ぶコスチャの、若々しい激情の暴発っぷりと、
自分を守ろうという保身のない、ただ衝撃が大きすぎて感情を表に出す方法を見つけられないが故の“無”の仮面と。
コスチャ、という一人の人間の、ほんの数年を間においた変貌ぶりに、藤原竜也という役者が、10年を経てここまできたんだな、と実感いたしました…
アルカージナの麻実れい。
彼女の美しさと迫力はたとえようもなく、『モスクワ一の大女優』という称号がぴったり!その驕慢さ、美しさ、迫力。赤ん坊のように全てを欲して我侭で、子供のように残酷な、そうでなくては『大女優』なんてやってられない!という輝き。
今なお美しい彼女に、いつか「サンセット・ブールバード」の“往年の大女優”ノーマを演じて欲しい、という野望は、未だ私の中に強くあるのですが。
いつかノーマになる女性、としてのアルカージナ。その残酷な驕慢さを観て楽しむ私たち観客が、たぶん一番残酷なんだろう、と、あらためて思ったりもしました……。
トレゴーリンの鹿賀丈史。
1年前の「ジキルとハイド」で、役者としての今後を危ぶんだベテラン俳優。最初の長台詞をきちんとこなしたとき、思わず涙が出ました。完全復活されて、本当に良かった……。心配したんですよぉ、あの時は(涙)。
ま、そんなことはおいといて、
トレゴーリン、ステキでした♪私がニーナだったら絶対ついていくね。お洒落でかっこよくて誠意がない。掴みどころのない、“都会的”な紳士がこんなに似合う人も珍しい!!
そして、麻実さんとめちゃくちゃお似合いで(*^ ^*)。
チェーホフの謎めいた世界は、鹿賀さんに合っているのかなーと思いました。…またもう一度、トレゴーリン中心の演出で観てみたいなーと思います。
ニーナの美波。
ポリーナ役で出演なさった藤田弓子さんが、「文学座の新人女優が、まず勉強するのがニーナ」とプログラムに書かれていらっしゃいますが。
確かに、オフィーリアの現代版ともいうべきこの美しいキャラクターは、「新人女優」の勉強の場にぴったりでしょうね。「女優」という仕事への、その世界への限りない憧れ。すべてを捨てて憧れに生きる決意と、転んでも弾き出されても、諦めない情熱。その両方を勉強できる、滅多に無い機会。
シェイクスピアのオフィーリアは記号的な存在ですが、チェーホフのニーナは、最終的にはコスチャを超えて羽ばたいていく“かもめ”の化身。
「かもめ」というタイトルは彼女の台詞から来ているわけですから、ある意味彼女こそがタイトルロールなわけですが(^ ^)、美波さんのニーナは、確かにそれだけの存在感がありました。
一幕と二幕の間に過ぎる“数年”という時間は、コスチャとニーナの上だけを過ぎる。二人以外の登場人物は、その程度の時間では誰一人歳をとりません。ただ二人だけが、容赦ない時の流れに洗われ、磨かれて、本質を剥き出しにされていく。
二人の悲劇は、時が止まったような湖の端で、二人の上だけを時が過ぎてしまったために起こる。
アルカージナも誰も彼も、彼らの上を通り過ぎた時間に気づかない。時間にも、それによって奪われたものにも。
マーシャの小島聖さんは、美しかった!
喪服が似合って、清楚で、なのにどSで。
素晴らしかったです。
ただ、お恥ずかしいんですが、この戯曲の中での「マーシャ」という人物が私にはよくわからなくて……(汗)。なので、マーシャに関しては、もう一回観るまでの宿題にさせてくださいm(_ _)m。
あと、オジサマ蓮ではドルンの中島しゅうさんと、ソーリンの勝部演之さんが素晴らしかったです♪♪大人のオジサマの包容力と色っぽさ。おばさんと恋を語っても美しいドルン、妹(アルカージナ)や甥(コスチャ)への愛情深いソーリン。
ステキだったー!
チェーホフの、シリアスな喜劇。
完全にコスチャに感情移入して観てしまいましたが、作品としてはいろんな解釈が成立しうる、興味深い作品だな、と思います。
また近々のうちに、竜也のコスチャをもう一度観てみたいです。
名古屋のあと、もう一度東京に帰ってこないかしらん…
(一回では掴み切れない部分がたくさんあったので)
そして。いつの日か必ず、竜也のトリゴーリンで「かもめ」が上演される日が来ますように、と。竜也には、そういう役者になってほしいな、という夢をみることができて、幸せです。
しばらくはコスチャに集中!でしょうけれども、また次の作品を楽しみにしています☆
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この後、大阪・広島・名古屋と公演は続きますが、とりあえずひと段落ということで、忘れないうちに観劇の感想を。
コスチャに藤原竜也。
アルカージナに麻実れい。
トリゴーリンに鹿賀丈史。
キャストを聞いたときは、てっきり鹿賀さんが座長だと思っていたので、プログラムを見て竜也くんがトップクレジットだったことに、まず驚愕。「かもめ」って、きちんと観たことはないんですが、アルカージナとトリゴーリンが主役の物語だと思っていたので……でも、そう言われてみれば、物語世界を立ち上げるのはコスチャ(トレープレフ)とニーナ(美波)なんですね。アルカージナとトリゴーリンは、その世界に“登場”するだけで。
チラシの竜也コスチャは髭が生えていたので、勝手に髭萌えしていた猫ですが……。舞台では残念ながら(?)きれいに剃ってしまっていました。しょんぼり。
私が竜也くんを初めてみたのは、身毒丸の凱旋公演ですから……あれから10年以上たってるんですね。肩も腰もほそくて、それこそ今の早乙女太一くんみたいな身体だったのに(サッカーやってたせいか脚は太かったけど)、なんだかすっかり大人の身体になって…。顔は相変わらずまん丸くて童顔ですけどね(^ ^;ゞ……でも、やっぱり大人の顔になったなあ。昔はあんなに祐飛さんと似てるーと思ったのに、今はもう思わないですもんね。お二人とも、この10年で様々な経験をして、それぞれ違う方向に顔が変わったんでしょうね。
もちろん、今の方がかっこいい(*^ ^*)ですよ、ご両人とも♪
チェーホフの作品、って、シェイクスピアと違ってほとんど観たことがないので、作品についてはあまり語れないのですが。
プログラムで竜也くんが言っているとおり、劇構造として「ハムレット」に非常に良く似た設定をもっているんですね。若くて才能に溢れた若者と、美しくふしだらなその母と、若者の憎悪の対象となる母の恋人。
でも、根本的にこの作品は“喜劇”である。いや、非常にシリアスな物語を語るシリアスな世界なんですけど、なんとなくそれを茶化している雰囲気があるんですよね。
ハムレットが、殺された父を懐しみ、クローディアスへの恨みと煩悶を訴える場面なんて、ちょっと演出のテンポが悪かったり、役者のテンションが観客席をひっぱり切れなかったりしたらすぐ失笑が漏れてしまうんですけど、
それと全く同じことが、今回コスチャの嘆きやマーシャ(小島聖)の長台詞、トリゴーリンの自嘲などの場面で“笑いのネタ”として使われていたし、アルカージナは全編笑いを取りにきていたし。
それでも、二幕(戯曲的には“4幕”)で、戻ってきたニーナの語る物語を聞いているコスチャの、無表情の仮面を追うだけで、泣けて泣けて仕方ありませんでした。
一幕冒頭で、「ああ、ニーナの足音だ!」と叫んで飛び上がって喜ぶコスチャの、若々しい激情の暴発っぷりと、
自分を守ろうという保身のない、ただ衝撃が大きすぎて感情を表に出す方法を見つけられないが故の“無”の仮面と。
コスチャ、という一人の人間の、ほんの数年を間においた変貌ぶりに、藤原竜也という役者が、10年を経てここまできたんだな、と実感いたしました…
アルカージナの麻実れい。
彼女の美しさと迫力はたとえようもなく、『モスクワ一の大女優』という称号がぴったり!その驕慢さ、美しさ、迫力。赤ん坊のように全てを欲して我侭で、子供のように残酷な、そうでなくては『大女優』なんてやってられない!という輝き。
今なお美しい彼女に、いつか「サンセット・ブールバード」の“往年の大女優”ノーマを演じて欲しい、という野望は、未だ私の中に強くあるのですが。
いつかノーマになる女性、としてのアルカージナ。その残酷な驕慢さを観て楽しむ私たち観客が、たぶん一番残酷なんだろう、と、あらためて思ったりもしました……。
トレゴーリンの鹿賀丈史。
1年前の「ジキルとハイド」で、役者としての今後を危ぶんだベテラン俳優。最初の長台詞をきちんとこなしたとき、思わず涙が出ました。完全復活されて、本当に良かった……。心配したんですよぉ、あの時は(涙)。
ま、そんなことはおいといて、
トレゴーリン、ステキでした♪私がニーナだったら絶対ついていくね。お洒落でかっこよくて誠意がない。掴みどころのない、“都会的”な紳士がこんなに似合う人も珍しい!!
そして、麻実さんとめちゃくちゃお似合いで(*^ ^*)。
チェーホフの謎めいた世界は、鹿賀さんに合っているのかなーと思いました。…またもう一度、トレゴーリン中心の演出で観てみたいなーと思います。
ニーナの美波。
ポリーナ役で出演なさった藤田弓子さんが、「文学座の新人女優が、まず勉強するのがニーナ」とプログラムに書かれていらっしゃいますが。
確かに、オフィーリアの現代版ともいうべきこの美しいキャラクターは、「新人女優」の勉強の場にぴったりでしょうね。「女優」という仕事への、その世界への限りない憧れ。すべてを捨てて憧れに生きる決意と、転んでも弾き出されても、諦めない情熱。その両方を勉強できる、滅多に無い機会。
シェイクスピアのオフィーリアは記号的な存在ですが、チェーホフのニーナは、最終的にはコスチャを超えて羽ばたいていく“かもめ”の化身。
「かもめ」というタイトルは彼女の台詞から来ているわけですから、ある意味彼女こそがタイトルロールなわけですが(^ ^)、美波さんのニーナは、確かにそれだけの存在感がありました。
一幕と二幕の間に過ぎる“数年”という時間は、コスチャとニーナの上だけを過ぎる。二人以外の登場人物は、その程度の時間では誰一人歳をとりません。ただ二人だけが、容赦ない時の流れに洗われ、磨かれて、本質を剥き出しにされていく。
二人の悲劇は、時が止まったような湖の端で、二人の上だけを時が過ぎてしまったために起こる。
アルカージナも誰も彼も、彼らの上を通り過ぎた時間に気づかない。時間にも、それによって奪われたものにも。
マーシャの小島聖さんは、美しかった!
喪服が似合って、清楚で、なのにどSで。
素晴らしかったです。
ただ、お恥ずかしいんですが、この戯曲の中での「マーシャ」という人物が私にはよくわからなくて……(汗)。なので、マーシャに関しては、もう一回観るまでの宿題にさせてくださいm(_ _)m。
あと、オジサマ蓮ではドルンの中島しゅうさんと、ソーリンの勝部演之さんが素晴らしかったです♪♪大人のオジサマの包容力と色っぽさ。おばさんと恋を語っても美しいドルン、妹(アルカージナ)や甥(コスチャ)への愛情深いソーリン。
ステキだったー!
チェーホフの、シリアスな喜劇。
完全にコスチャに感情移入して観てしまいましたが、作品としてはいろんな解釈が成立しうる、興味深い作品だな、と思います。
また近々のうちに、竜也のコスチャをもう一度観てみたいです。
名古屋のあと、もう一度東京に帰ってこないかしらん…
(一回では掴み切れない部分がたくさんあったので)
そして。いつの日か必ず、竜也のトリゴーリンで「かもめ」が上演される日が来ますように、と。竜也には、そういう役者になってほしいな、という夢をみることができて、幸せです。
しばらくはコスチャに集中!でしょうけれども、また次の作品を楽しみにしています☆
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キャラメル箱の梶尾真治
2008年3月1日 演劇 コメント (4)サンシャイン劇場にて、キャラメルボックス「きみがいた時間 ぼくのいく時間」を観てまいりました。
久しぶりのキャラメルボックスでしたが、
いやーーーー、面白かった!です。
小技の効いた演出がキャラメルらしくて、楽しいです。キャストも粒ぞろいで。まー西川浩幸さんが出てくるだけでステキなのは当然として(*^ ^*)、3年ぶりの上川隆也がカッコイイのはもっと当然として(***^ ^***)、
驚いたのは渡邊安理さんの可愛らしさ♪「嵐になるまで待って」のヒロインが決まっているそうですが、さもありなん、という輝きでした…。
物語は、よくあるタイムトラベルもの…と言ってしまっても間違いではないのでしょうけれども。
原作は、梶尾真治の短編連作「クロノス・ジョウンター」シリーズの一編。キャラメルで劇化するのもこれで4作目ですが、以前の作品を観ていなくても多分あんまり関係ないと思います。まぁ、そういうシリーズなんだという知識くらいは、予備知識としてあったほうがいいかもしれませんが。
梶尾真治。
熊本在住のこのSF作家の名前をご存知の方は少ないのかもしれませんが。
…と思っていたけど、そういえば「黄泉がえり」は映画にもなったし、最近ライトノベルの棚に「おもいでエマノン」がシリーズ化して並んでいたりするし、案外メジャーな作家なのでしょうか?
私が一番最初に読んだのは「地球はプレイン・ヨーグルト」だったと思います。ありえないほど物凄いブラックコメディ(?)で、作品の突拍子の無さも印象的だったし、発想力豊かなSF作家として「カジシン」の名前を記憶に刻んでくれた星新一の解説もおもしろかった。
でも、その時点ではそんなに惚れ込むことはなく。しばらく間があいて。次に読んだのはデビュー作の「美亜に贈る真珠」でした。それから、順番に読み始めたんですよね。
一番好きな作品は?と聞かれると悩むんですけれども。父との確執から生まれた「清太郎出初式」も非常に好きな作品ですし。
でも、なんといっても彼の作品に特徴的なのは「愛」の純粋さだと思うのです。それも、やっぱりデビュー作の「美亜に贈る真珠」ですでに痛切に表現された「見守る愛」の美しさが抜群で、切なくて。
彼の作品に繰返しあらわれるテーマは、「時間を超越した愛」。「クロノス・ジョウンター」シリーズ以外にも、タイムマシンものを何本も書いている彼ですが、その作品群のテーマは「マシン」ではなく、常に「愛」なんですよね。「時間を超越した」「見返りを求めずに見守る」愛。その純粋な強さ。
そのあたりの「純粋さ」を、キャラメルボックスの成井豊さんは実にうまく戯曲化しているな、と、カジシンシリーズを観るたびに毎回思います。
特に。タイムマシンの開発秘話を中心に、理論のとっぴさを売りにした「クロノス…」シリーズの中でも、この「きみがいた時間、ぼくのいく時間」は、「人生を懸けた愛」をテーマにしているので。
一方通行の愛。
ただひたすらに、見守るだけの、哀しい愛。
3年ぶりのキャラメル出演となった上川隆也が、愛に人生を懸けた男を切なく演じきってくれました。
美しい男。
かっこいい男。
そんな男が、全てを捨てて一人の女を救うために人生を捨てる。
仕事も、家族も、なにもかも。
もう二度と、自分の腕の中に戻ることはない女のために。
この腕で、守れなかった女のため、に。
何度も舞台で観て、そのたびに「本当にかっこいいな、巧いな」と惚れ惚れし、惚れ直しつづけてきた上川隆也。
今回もまた惚れ直してしまいました。…あーもう、懲りないなー、私ってば。
声がいい、目がいい、手がいい、腕がいい、
ちょっとした仕草がどれも可愛くて、優しくて、ステキで、
「愛」に盲目だった一幕冒頭の彼も、全てを捨てて愛のために生きようと決心した二幕の彼も、どちらも本当にかっこいい。
キャラメルボックスのお芝居って、世界設定を思いきってファンタジー(あるいはSF)に振っておきながら、そこに生きる登場人物たちは物凄く地に足がついたリアルな人物像だったりすることが多いのですが。
その中でも、上川隆也のリアル感、「確かにそこに生きている」という実感の強さというのは別格だなあといつも思います。
どんなに設定がファンタジックに突拍子なくても、彼がいるだけで“現実の物語”として受け入れることができる。
ああ、そういうこと(タイムマシンの開発)をしている会社もあるかもね、と素直に思える、そんな説得力のあるリアル感。
原作者の梶尾真治自身が「これは上川隆也で」と指定したのもわかるなあ、という嵌り役っぷりでした。
観ることができてよかったです!!
あと、印象に残ったのは、大好きな(キャラメルボックスといえばこの人!)西川浩幸さんと、
今回当たり役だった坂口理恵さん。
坂口さん、切ない役でしたが淡々と芝居されていて、それが余計に切なかったです。終盤の、馬車道ホテルのレストランでの場面はぼろ泣きでした私…。“いい女”ではないところがまたポイントが高いです。大好き。
5年間の海外派遣留学を終えて帰国した秋沢里志(上川隆也)。
空港に出迎えるのは、里志の妹・真帆(岡内美喜子)と、
5年前に別れた恋人・梨田紘未(西山繭子)。
真帆にあれこれおせっかいされて、紘未とよりを戻し、結婚を申し込む里志。
「研究が一番で、君は二番目だ」「人間の中ではあたしが一番ってこと?」「…そう」「…それなら、いいわ。夢を追いかけるあなたが、好きだから」
多分、里志が紘未を本気で愛したのは、この瞬間からなんでしょうねぇ…。
帰国した里志を迎えるのは、「クロノス・ジョウンター」を開発したP・フレックの野方耕一(西川浩幸)。そして、「クロノス・スパイラル」を開発中の若月まゆみ(温井摩耶)。
「時の流れは、螺旋を描いて過去へ向かう…螺旋の一巻き前にジャンプするための装置があれば、簡単にタイムトラベルができる」若月の“時間螺旋理論”を許に開発されたクロノス・スパイラルは、あらゆるものを39年前に送ることができる。そのシステムで使うエネルギー装置の開発を任された里志は、同僚の山野辺(阿部丈二)、佐藤(渡邊安理)と共に開発を進めていく。
そんな中、自分の妊娠に気づいた紘未は、仕事を休んで病院にいこうとして、
…途中で、交通事故にあってしまう…。
彼女を喪った里志は、どうするのか。
プロポーズに「研究が1番で、紘未は二番」と言った男が、
彼女のためにした選択は?
…まーそれにしても。
タイムトラベルものの中でも、これはかなりパラドックスが多い話なので…
ぽろぽろ泣きながら、それでも色々と突っ込まずにはいられませんでしたねぇ(汗)。
やっぱり「過去を変える」話は難しいですね。変えちゃった過去はどこへ行くの?と思ってしまうし。変える前のエピソードは、じゃああれは何だったの?ということにもなるし。
でも。
…やっぱり、ちょっと純子さんに対しては残酷だと思うわ、里志……。
あと気になるのは、岡田達也さんが演じた“浩二”さんが、事件の後どうなったか、なんですけど。
うーん、キャラメルだったら梶尾さんが書いてない部分でも、ラストにもう一回浩二を語るエピソードを入れてもいいと思うんだけどな。
などと。
ネタバレを避けているようで、あまり避けていない疑問を提出しつつ、
とにかく上川隆也がステキでした、という結論で終わりたいと思います(*^ ^*)。山内一豊ネタもあったのが流石キャラメル、って感じでしたが(爆)。
ああ、やっぱりキャラメルって観れば絶対面白いんだよねー。
しばらく忙しくて観ていなかったんですが、今年はもう少し優先順位をあげておかなくてはっ♪
久しぶりのキャラメルボックスでしたが、
いやーーーー、面白かった!です。
小技の効いた演出がキャラメルらしくて、楽しいです。キャストも粒ぞろいで。まー西川浩幸さんが出てくるだけでステキなのは当然として(*^ ^*)、3年ぶりの上川隆也がカッコイイのはもっと当然として(***^ ^***)、
驚いたのは渡邊安理さんの可愛らしさ♪「嵐になるまで待って」のヒロインが決まっているそうですが、さもありなん、という輝きでした…。
物語は、よくあるタイムトラベルもの…と言ってしまっても間違いではないのでしょうけれども。
原作は、梶尾真治の短編連作「クロノス・ジョウンター」シリーズの一編。キャラメルで劇化するのもこれで4作目ですが、以前の作品を観ていなくても多分あんまり関係ないと思います。まぁ、そういうシリーズなんだという知識くらいは、予備知識としてあったほうがいいかもしれませんが。
梶尾真治。
熊本在住のこのSF作家の名前をご存知の方は少ないのかもしれませんが。
…と思っていたけど、そういえば「黄泉がえり」は映画にもなったし、最近ライトノベルの棚に「おもいでエマノン」がシリーズ化して並んでいたりするし、案外メジャーな作家なのでしょうか?
私が一番最初に読んだのは「地球はプレイン・ヨーグルト」だったと思います。ありえないほど物凄いブラックコメディ(?)で、作品の突拍子の無さも印象的だったし、発想力豊かなSF作家として「カジシン」の名前を記憶に刻んでくれた星新一の解説もおもしろかった。
でも、その時点ではそんなに惚れ込むことはなく。しばらく間があいて。次に読んだのはデビュー作の「美亜に贈る真珠」でした。それから、順番に読み始めたんですよね。
一番好きな作品は?と聞かれると悩むんですけれども。父との確執から生まれた「清太郎出初式」も非常に好きな作品ですし。
でも、なんといっても彼の作品に特徴的なのは「愛」の純粋さだと思うのです。それも、やっぱりデビュー作の「美亜に贈る真珠」ですでに痛切に表現された「見守る愛」の美しさが抜群で、切なくて。
彼の作品に繰返しあらわれるテーマは、「時間を超越した愛」。「クロノス・ジョウンター」シリーズ以外にも、タイムマシンものを何本も書いている彼ですが、その作品群のテーマは「マシン」ではなく、常に「愛」なんですよね。「時間を超越した」「見返りを求めずに見守る」愛。その純粋な強さ。
そのあたりの「純粋さ」を、キャラメルボックスの成井豊さんは実にうまく戯曲化しているな、と、カジシンシリーズを観るたびに毎回思います。
特に。タイムマシンの開発秘話を中心に、理論のとっぴさを売りにした「クロノス…」シリーズの中でも、この「きみがいた時間、ぼくのいく時間」は、「人生を懸けた愛」をテーマにしているので。
一方通行の愛。
ただひたすらに、見守るだけの、哀しい愛。
3年ぶりのキャラメル出演となった上川隆也が、愛に人生を懸けた男を切なく演じきってくれました。
美しい男。
かっこいい男。
そんな男が、全てを捨てて一人の女を救うために人生を捨てる。
仕事も、家族も、なにもかも。
もう二度と、自分の腕の中に戻ることはない女のために。
この腕で、守れなかった女のため、に。
何度も舞台で観て、そのたびに「本当にかっこいいな、巧いな」と惚れ惚れし、惚れ直しつづけてきた上川隆也。
今回もまた惚れ直してしまいました。…あーもう、懲りないなー、私ってば。
声がいい、目がいい、手がいい、腕がいい、
ちょっとした仕草がどれも可愛くて、優しくて、ステキで、
「愛」に盲目だった一幕冒頭の彼も、全てを捨てて愛のために生きようと決心した二幕の彼も、どちらも本当にかっこいい。
キャラメルボックスのお芝居って、世界設定を思いきってファンタジー(あるいはSF)に振っておきながら、そこに生きる登場人物たちは物凄く地に足がついたリアルな人物像だったりすることが多いのですが。
その中でも、上川隆也のリアル感、「確かにそこに生きている」という実感の強さというのは別格だなあといつも思います。
どんなに設定がファンタジックに突拍子なくても、彼がいるだけで“現実の物語”として受け入れることができる。
ああ、そういうこと(タイムマシンの開発)をしている会社もあるかもね、と素直に思える、そんな説得力のあるリアル感。
原作者の梶尾真治自身が「これは上川隆也で」と指定したのもわかるなあ、という嵌り役っぷりでした。
観ることができてよかったです!!
あと、印象に残ったのは、大好きな(キャラメルボックスといえばこの人!)西川浩幸さんと、
今回当たり役だった坂口理恵さん。
坂口さん、切ない役でしたが淡々と芝居されていて、それが余計に切なかったです。終盤の、馬車道ホテルのレストランでの場面はぼろ泣きでした私…。“いい女”ではないところがまたポイントが高いです。大好き。
5年間の海外派遣留学を終えて帰国した秋沢里志(上川隆也)。
空港に出迎えるのは、里志の妹・真帆(岡内美喜子)と、
5年前に別れた恋人・梨田紘未(西山繭子)。
真帆にあれこれおせっかいされて、紘未とよりを戻し、結婚を申し込む里志。
「研究が一番で、君は二番目だ」「人間の中ではあたしが一番ってこと?」「…そう」「…それなら、いいわ。夢を追いかけるあなたが、好きだから」
多分、里志が紘未を本気で愛したのは、この瞬間からなんでしょうねぇ…。
帰国した里志を迎えるのは、「クロノス・ジョウンター」を開発したP・フレックの野方耕一(西川浩幸)。そして、「クロノス・スパイラル」を開発中の若月まゆみ(温井摩耶)。
「時の流れは、螺旋を描いて過去へ向かう…螺旋の一巻き前にジャンプするための装置があれば、簡単にタイムトラベルができる」若月の“時間螺旋理論”を許に開発されたクロノス・スパイラルは、あらゆるものを39年前に送ることができる。そのシステムで使うエネルギー装置の開発を任された里志は、同僚の山野辺(阿部丈二)、佐藤(渡邊安理)と共に開発を進めていく。
そんな中、自分の妊娠に気づいた紘未は、仕事を休んで病院にいこうとして、
…途中で、交通事故にあってしまう…。
彼女を喪った里志は、どうするのか。
プロポーズに「研究が1番で、紘未は二番」と言った男が、
彼女のためにした選択は?
…まーそれにしても。
タイムトラベルものの中でも、これはかなりパラドックスが多い話なので…
ぽろぽろ泣きながら、それでも色々と突っ込まずにはいられませんでしたねぇ(汗)。
やっぱり「過去を変える」話は難しいですね。変えちゃった過去はどこへ行くの?と思ってしまうし。変える前のエピソードは、じゃああれは何だったの?ということにもなるし。
でも。
…やっぱり、ちょっと純子さんに対しては残酷だと思うわ、里志……。
あと気になるのは、岡田達也さんが演じた“浩二”さんが、事件の後どうなったか、なんですけど。
うーん、キャラメルだったら梶尾さんが書いてない部分でも、ラストにもう一回浩二を語るエピソードを入れてもいいと思うんだけどな。
などと。
ネタバレを避けているようで、あまり避けていない疑問を提出しつつ、
とにかく上川隆也がステキでした、という結論で終わりたいと思います(*^ ^*)。山内一豊ネタもあったのが流石キャラメル、って感じでしたが(爆)。
ああ、やっぱりキャラメルって観れば絶対面白いんだよねー。
しばらく忙しくて観ていなかったんですが、今年はもう少し優先順位をあげておかなくてはっ♪
アルジャーノンに花束を
2007年12月6日 演劇下北沢・本多劇場にて、劇団昴の「アルジャーノンに花束を」を観てまいりました。
…いや、実際に観劇してからはだいぶたってしまいましたが(汗)。
えーっと。
私は学生時代(……何年前だよっ!?)からの劇団昴ファンでして。当時本拠地だった三百人劇場にはずいぶん通いました。後援会(?)にも入って、シェイクスピアをはじめ、良質のお芝居たくさん見せていただいたものです。
その中でも、「クリスマス・キャロル」と「アルジャーノンに花束を」は、当時から『劇団の誇る名作』として、毎年のように再演されていました。ホント、何回も観ましたねぇ、私も(^ ^;ゞ
その後、私はミュージカルに嵌り、さらにタカラヅカに嵌ってストレートプレイを観に行く機会が減ってしまい(・・)…
三百人劇場のある千石へ行く用事もなくなってからは、だいぶ疎遠になってしまったのですが。
…それでも年に一回くらいは観ていたかな?
中でも「アルジャーノン…」は、もともと原作に惚れ込んでいたし、舞台も誠実なつくりで大好きだったんですよね♪
昨年末に三百人劇場が閉鎖される前から「昴」も全然観ていなかったのですが、たまたまチラシをもらったので、久しぶりに観に行ってみました。
「現代演劇協会」を離れて独立法人になったということで、雰囲気とかも変わっちゃったかな?と思ってたんですが、案外役者も残っていたし(*^ ^*)、ハコが違うにもかかわらず舞台の雰囲気も変わってませんでしたね♪
スタッフさんもそのまま残っているのかなあ…。とにかく、「昴」は「昴」のままだったことが一番嬉しかったです。
しばらくご無沙汰してしまっていたけど、やっぱり好きなんだなあ…。
(なーんて偉そうに書いていますが、三輪えり花演出での「アルジャーノン…」は1回しか観ていないはずなので、細かいところは違っていても解らなかった……はずっっ ^ ^;ゞ)
よくできた脚本を、練り直しての再演。
菊地准の脚本は、あまりひねらず、原作を大切にそのまんま舞台にのせているんですよね。無駄なモノローグも少なくて。
だから、役者の技量が大きくものを言う。
菊地さん自身が演出していたときは、舞台装置もシンプルで、まさに「台詞劇」だったこの作品。
何年か前に三輪えり花さんに演出が変わってから、ぐっとアグレッシブに、ハッタリのある舞台になったよなー、と思うのですが。
この作品が「台詞劇」であるという基本は、同じ、なんですよね。
で。
平田広明さんのチャーリーは、ものすごく純粋で残酷な、子供、でした。
優しくて、世間知らずで、正義感に満ちた、子供。
平田さんの魅力は、なんといっても声だと思うんですが。
あの膨大な量の台詞をひたすら喋りっぱなしな役でも、すべてのコトバを「チャーリー」、それもいろんな段階のチャーリーとして喋りつづけることができるのはサスガ!と、あらためて思いました。
棒読みも、テクニックとしての棒読みではなく、役作りとしての棒読み。
滔々と論陣を張って、教授たちをやりこめる場面の見事さ。
そして。
「………わからないんですか?」と教授に尋くときの、心底不思議そうな声と顔。
嫌味のひとっっかけらもなく、ただただ「え?」という不信感。
…いや、むしろ、そこに浮かんでいるのは、驚愕でしたねー♪
「オトナは、あらゆる問いに対する答えをスベテ知っている」はず。
そんな子供たちの信念を、裏切ってばかりのオトナたち。
……原作ファンなので、語り出すと止まらない(汗)。すいません、このへんでやめておきます。
平田さんのチャーリーで、いや昴の「アルジャーノン…」で一番好きなのは、チャーリーが最後まで人を愛していたことです。
解釈次第で、チャーリーがオトナ社会に絶望して“元に戻る”ことを望んだ、というように見せることも可能だと思うのですが。
平田さんのチャーリーは、最後のギリギリのところで包容力を見せてくれるのが、大好きです。
最後にアリスを救い、自分自身をも掬い上げて、
……その上で元の世界へ帰っていくチャーリーだからこそ。
だから、パン屋へ戻った時の笑顔が、心に沁みるのです。
アリス・キニアンの服部幸子さんは、相変わらずお見事でした。
落ち着いた、しっとりとした優しい女性。男の子が「憧れる」キャラクターにぴったりの雰囲気。
なのに、母性はないんだな………。
チャーリーが求めるものは、常に母親。
なのに、この作品には母親がいない。
チャーリーの母親本人を含めて、女性登場人物の誰一人として母性をもっていない。母親として、チャーリー自身を無条件に愛してくれる存在が、無い。
だから。
母性の欠如、というのは、アリス・キニアンという役に不可欠な条件です。アリスが母性に溢れたタイプだと、話が成立しませんから。
もちろん、フェイ(松谷彼哉)も。
まぁ、フェイは原作を普通に読めば“母性があるわきゃない”系になるんですけど、アリスは一見母性に溢れたキャラに見えてしまうのが難しいところですよね。
“先生”として慕われる=母性がある、と誤解されやすいポジションですし。
服部さんは、そんなアリスを「少女のように」演じていらしたと思います。可愛らしく、チャーリー以上に純粋で、その純粋さが魅力的な“少女”。
アリス、という名前から連想されるキャラクター、そのものでした。
お見事。
助演陣もみな見事だったなあ〜。
久しぶりに「普通の」ストレートプレイを観て、とても楽しかったです。
短い公演でしたが、また近々再演してほしい!
(来年は旅公演があるらしいです。……旅かぁ〜)
ああ、それにしても。
来年再演の噂があったのに、どうやらポシャった(涙)らしい
荻田浩一演出のミュージカル版「アルジャーノンに花束を」、
……再演切望っ!!!(←シメはそれですか)
なんでしたら署名協力でもなんでもしますので、もしかして運動している方がいらっしゃいましたら、ぜひお声をかけてくださいましm(_ _)m。
.
…いや、実際に観劇してからはだいぶたってしまいましたが(汗)。
えーっと。
私は学生時代(……何年前だよっ!?)からの劇団昴ファンでして。当時本拠地だった三百人劇場にはずいぶん通いました。後援会(?)にも入って、シェイクスピアをはじめ、良質のお芝居たくさん見せていただいたものです。
その中でも、「クリスマス・キャロル」と「アルジャーノンに花束を」は、当時から『劇団の誇る名作』として、毎年のように再演されていました。ホント、何回も観ましたねぇ、私も(^ ^;ゞ
その後、私はミュージカルに嵌り、さらにタカラヅカに嵌ってストレートプレイを観に行く機会が減ってしまい(・・)…
三百人劇場のある千石へ行く用事もなくなってからは、だいぶ疎遠になってしまったのですが。
…それでも年に一回くらいは観ていたかな?
中でも「アルジャーノン…」は、もともと原作に惚れ込んでいたし、舞台も誠実なつくりで大好きだったんですよね♪
昨年末に三百人劇場が閉鎖される前から「昴」も全然観ていなかったのですが、たまたまチラシをもらったので、久しぶりに観に行ってみました。
「現代演劇協会」を離れて独立法人になったということで、雰囲気とかも変わっちゃったかな?と思ってたんですが、案外役者も残っていたし(*^ ^*)、ハコが違うにもかかわらず舞台の雰囲気も変わってませんでしたね♪
スタッフさんもそのまま残っているのかなあ…。とにかく、「昴」は「昴」のままだったことが一番嬉しかったです。
しばらくご無沙汰してしまっていたけど、やっぱり好きなんだなあ…。
(なーんて偉そうに書いていますが、三輪えり花演出での「アルジャーノン…」は1回しか観ていないはずなので、細かいところは違っていても解らなかった……はずっっ ^ ^;ゞ)
よくできた脚本を、練り直しての再演。
菊地准の脚本は、あまりひねらず、原作を大切にそのまんま舞台にのせているんですよね。無駄なモノローグも少なくて。
だから、役者の技量が大きくものを言う。
菊地さん自身が演出していたときは、舞台装置もシンプルで、まさに「台詞劇」だったこの作品。
何年か前に三輪えり花さんに演出が変わってから、ぐっとアグレッシブに、ハッタリのある舞台になったよなー、と思うのですが。
この作品が「台詞劇」であるという基本は、同じ、なんですよね。
で。
平田広明さんのチャーリーは、ものすごく純粋で残酷な、子供、でした。
優しくて、世間知らずで、正義感に満ちた、子供。
平田さんの魅力は、なんといっても声だと思うんですが。
あの膨大な量の台詞をひたすら喋りっぱなしな役でも、すべてのコトバを「チャーリー」、それもいろんな段階のチャーリーとして喋りつづけることができるのはサスガ!と、あらためて思いました。
棒読みも、テクニックとしての棒読みではなく、役作りとしての棒読み。
滔々と論陣を張って、教授たちをやりこめる場面の見事さ。
そして。
「………わからないんですか?」と教授に尋くときの、心底不思議そうな声と顔。
嫌味のひとっっかけらもなく、ただただ「え?」という不信感。
…いや、むしろ、そこに浮かんでいるのは、驚愕でしたねー♪
「オトナは、あらゆる問いに対する答えをスベテ知っている」はず。
そんな子供たちの信念を、裏切ってばかりのオトナたち。
……原作ファンなので、語り出すと止まらない(汗)。すいません、このへんでやめておきます。
平田さんのチャーリーで、いや昴の「アルジャーノン…」で一番好きなのは、チャーリーが最後まで人を愛していたことです。
解釈次第で、チャーリーがオトナ社会に絶望して“元に戻る”ことを望んだ、というように見せることも可能だと思うのですが。
平田さんのチャーリーは、最後のギリギリのところで包容力を見せてくれるのが、大好きです。
最後にアリスを救い、自分自身をも掬い上げて、
……その上で元の世界へ帰っていくチャーリーだからこそ。
だから、パン屋へ戻った時の笑顔が、心に沁みるのです。
アリス・キニアンの服部幸子さんは、相変わらずお見事でした。
落ち着いた、しっとりとした優しい女性。男の子が「憧れる」キャラクターにぴったりの雰囲気。
なのに、母性はないんだな………。
チャーリーが求めるものは、常に母親。
なのに、この作品には母親がいない。
チャーリーの母親本人を含めて、女性登場人物の誰一人として母性をもっていない。母親として、チャーリー自身を無条件に愛してくれる存在が、無い。
だから。
母性の欠如、というのは、アリス・キニアンという役に不可欠な条件です。アリスが母性に溢れたタイプだと、話が成立しませんから。
もちろん、フェイ(松谷彼哉)も。
まぁ、フェイは原作を普通に読めば“母性があるわきゃない”系になるんですけど、アリスは一見母性に溢れたキャラに見えてしまうのが難しいところですよね。
“先生”として慕われる=母性がある、と誤解されやすいポジションですし。
服部さんは、そんなアリスを「少女のように」演じていらしたと思います。可愛らしく、チャーリー以上に純粋で、その純粋さが魅力的な“少女”。
アリス、という名前から連想されるキャラクター、そのものでした。
お見事。
助演陣もみな見事だったなあ〜。
久しぶりに「普通の」ストレートプレイを観て、とても楽しかったです。
短い公演でしたが、また近々再演してほしい!
(来年は旅公演があるらしいです。……旅かぁ〜)
ああ、それにしても。
来年再演の噂があったのに、どうやらポシャった(涙)らしい
荻田浩一演出のミュージカル版「アルジャーノンに花束を」、
……再演切望っ!!!(←シメはそれですか)
なんでしたら署名協力でもなんでもしますので、もしかして運動している方がいらっしゃいましたら、ぜひお声をかけてくださいましm(_ _)m。
.
銀座博品館劇場「マウストラップ」を観てまいりました。
先にキャストを書いておきます。(登場順)
モリー 芳本美代子
ジャイルズ 内海光司
クリストファ 野沢聡
ボイル夫人 淡路恵子
メトカーフ少佐 桐山浩一
ミス・ケースウェル 山崎美貴
パラビチーニ氏 田村連
トロッター刑事 戸井勝海
演出 大和田伸也
…と、書き始めたのが30分前。
ほぼ書き上げて、アップする前に読み直している途中で、
パソコンが落ちました。
泣。
気を取り直して書きたいと思いますが。
……さっきは作品の歴史からストーリー、今回の公演ツアーの状況までかなり詳細に書いたのですが。疲れたので省略させていただきます。
ま、どっちみちカーテンコールで「この結末はどなたにもお話にならないでください」と言われてしまうんだしねー。
で。
言わずとしれた、アガサ・クリスティの名作戯曲ですが。
演出・音楽共に端正で完成度高く、大変面白い作品だと思います。演出は違いますが、やはりロンドンで55年以上もロングランされるだけのことはあるなあ、と。
私はこのカンパニー(というか、大和田演出)の初演から観ていますが(今回が三演目)、キャストも少しづつ変わって、それぞれに印象の違う公演になっていると思います。
山荘の管理人の妻・モリーの芳本美代子。
めちゃくちゃ可愛い!年齢不詳の可愛らしさが役にぴったりで、この役でしか観たことはないのですが、本当に大好きです♪
トークショーで一度だけ「モリー」でない「芳本美代子」を観たことがありますが、まんまモリーでした(笑)。素でやってたんかいっ!!でも、あれで実生活ではお子さんがいらっしゃる…んですよね?すげー……想像できませんっ(汗)。
山荘の管理人・ジャイルズの内海光司。
初演からずっと出ている3人のうちの一人。光GENJI時代はあまりよく知らないのですが、いい声の役者ですよね。トークではあまりの天然ボケ(←しかも、他の人が突っ込みようがないようなところでボケてくれる困りもの)っぷりに呆然としてしまいましたが(笑)、あの天然さが良い意味で出ていると思います。
前回までに比べて、途中で「あいつ(さて誰でしょう?)が犯人に決まってるじゃないか!」と言い出すあたりが強さを増して、二面性が出てきたところが劇の面白さを深めていて、すごくかっこいいです♪♪
山荘の客、やかましくて落ち着きのない青年クリストファ・レンの野沢聡。
エリザベートでデビューして以来、人気上昇中の野沢くんは、今回が初参加。この人もマジで可愛い!んです、…が、ちょっとこの役には背が高すぎる…(涙)。
戯曲のキモとして、「登場人物全員が怪しい」というのがあるんですが、それには「身長」が全員同じくらいである、という前提があるんですよね。
今回は、野沢くんが一人だけ大きいので、初見の方は「彼が犯人なのだとしたら何か大きなトリックがないとおかしいよね」、とか、つい考えすぎてしまうんじゃないかと思うんですよね(←お前の方が考えすぎだ)。
初演・再演とこの役をやっていた岩田翼さんは、他のメンバーとそんなに変わらない(多分)背丈なのに、わざと猫背に丸めて小柄に見せる業を使っていて、いろんな意味で怪しくてすごく良かったのですが…野沢くんの場合、縮むにも限界があるから(涙)。
あと、野沢くん、あまりにも無邪気に可愛らしすぎるの(^ ^;。本当に子供みたいで、すっごく可愛かった!!んですけど、もうちょっと、二面性というか、裏があるようにやると面白い役になるんだけどなぁ…って感じでした。
でも、あの天性の明るさというか、素直な華やかさは大きな武器だと思うので。美点を損なわないようにしつつ、すこーし裏をチラ見せできるようになってくれたら幸せかも♪
山荘の客、尊大で意地悪なボイル夫人の淡路恵子。
元SKDから映画スターへの道を歩んだ大女優。年を重ねても、素敵な人は本当に格好良い!
この作品は初演から参加されていて、ほぼ彼女の色で作品ができているといっても過言ではない、って感じ。今までは、イギリスの厳格な老婦人らしく髪をキレイに結い上げていらっしゃいましたが、今回はがらっと雰囲気を変えて銀髪のおかっぱボブ。衣装の雰囲気も微妙に違って、おしゃれだけど尊大で嫌味なおばあさま、という印象。
役にはこっちの方があっているかも、と思いました。
あと、途中でラジオから流れるタンゴに合わせて一人で踊る場面があるんですが、ここの振り付けが、以前は本当にちょこっとポーズをとるくらいだったのに、今回はクッションを相手役に見立ててしばらく踊るようになっていて。
過去の夢(栄光)を思い出させることで「誰からも相手にされない現在」の寂しさがさらに強調されて、物凄く痛い場面になっていました。
こういうシーンをさらっとやれてしまう淡路さんの底の深さ、懐の広さ。演出の大和田さんも安心だろうなあ、と思いました。
山荘の客、メトカーフ少佐の桐山浩一。
手堅い役者ですね。彼も今回初参加組ですが、自然に動いていて、空気のように違和感がない。見事な存在感でした。
翻訳劇は今回初めてとのことでしたが、良かったですー!これからもぜひぜひ、色々出演してください!
山荘の客、背の高い、男装の女ミス・ケースウェルの山崎美貴。
外国暮らしが長く、そこで舐められないよう男装で、態度も言葉遣いも男のような、長身の女、という設定で、初演は高汐巴さんがなさった役ですが…。
まずトレンチコート(登場時の衣装)が似合うことが凄く大事!なの。
「コートを脱ぐまで男だと思って」いて、コートを脱いだら「女なので驚く」という観客の「!」って大事だと思うんですね、この役は。とにかく全員が「犯人かも?」と思わせなくては戯曲が成立しないんですよね…。
山崎さん自身は包容力もあってすごく良い役者だと思いますが、このカンパニーでのこの役は、ちょっとキャラ違いだったかなーと思いました。それがとても残念です。
やはり「男装の女」となると、(宝塚でなくてもいいんでしょうけど)「男役」の経験って大きいんですよ。これは、全然宝塚ファンじゃない友人も同じことを言っていたので、私が宝塚ファンだからじゃないと思うんですけど。
まぁ、最初から山崎さんで観ていれば違和感なかったのかもしれませんが…
山荘の闖入者、パラビチーニ氏の田村連。
いやもう、はまり役。胡散臭くていやらしくて、この上もなく魅力的な男。本当にはまり役でした。コメントの必要なし。
トロッター刑事の戸井勝海。
一幕の終盤になって突然現れる人なので、その登場シーンが一番重要だと思うのですが、今回はかなり印象的に出られたんじゃないかと思います。初演メンバーの一人ですが、都度印象が変わる人なので、一概に「よくなってた」とか言いにくい(^ ^)。でも、役づくりがずいぶんかわったなーと思いました。
ご本人は「彼自身の今までの人生を追いかけて、役作りをやり直した」みたいなコメントをしていらっしゃいましたが、観ていて思ったのは、曲者らしさが増したなー、ってことかな(汗)。
刑事が一番かかわりを持つジャイルズとモリーが天然な夫婦なので、トロッターの曲者ぶりが好対照で面白かったです♪
…あああ、ネタバレできないのが苦しい………(涙)。
.
先にキャストを書いておきます。(登場順)
モリー 芳本美代子
ジャイルズ 内海光司
クリストファ 野沢聡
ボイル夫人 淡路恵子
メトカーフ少佐 桐山浩一
ミス・ケースウェル 山崎美貴
パラビチーニ氏 田村連
トロッター刑事 戸井勝海
演出 大和田伸也
…と、書き始めたのが30分前。
ほぼ書き上げて、アップする前に読み直している途中で、
パソコンが落ちました。
泣。
気を取り直して書きたいと思いますが。
……さっきは作品の歴史からストーリー、今回の公演ツアーの状況までかなり詳細に書いたのですが。疲れたので省略させていただきます。
ま、どっちみちカーテンコールで「この結末はどなたにもお話にならないでください」と言われてしまうんだしねー。
で。
言わずとしれた、アガサ・クリスティの名作戯曲ですが。
演出・音楽共に端正で完成度高く、大変面白い作品だと思います。演出は違いますが、やはりロンドンで55年以上もロングランされるだけのことはあるなあ、と。
私はこのカンパニー(というか、大和田演出)の初演から観ていますが(今回が三演目)、キャストも少しづつ変わって、それぞれに印象の違う公演になっていると思います。
山荘の管理人の妻・モリーの芳本美代子。
めちゃくちゃ可愛い!年齢不詳の可愛らしさが役にぴったりで、この役でしか観たことはないのですが、本当に大好きです♪
トークショーで一度だけ「モリー」でない「芳本美代子」を観たことがありますが、まんまモリーでした(笑)。素でやってたんかいっ!!でも、あれで実生活ではお子さんがいらっしゃる…んですよね?すげー……想像できませんっ(汗)。
山荘の管理人・ジャイルズの内海光司。
初演からずっと出ている3人のうちの一人。光GENJI時代はあまりよく知らないのですが、いい声の役者ですよね。トークではあまりの天然ボケ(←しかも、他の人が突っ込みようがないようなところでボケてくれる困りもの)っぷりに呆然としてしまいましたが(笑)、あの天然さが良い意味で出ていると思います。
前回までに比べて、途中で「あいつ(さて誰でしょう?)が犯人に決まってるじゃないか!」と言い出すあたりが強さを増して、二面性が出てきたところが劇の面白さを深めていて、すごくかっこいいです♪♪
山荘の客、やかましくて落ち着きのない青年クリストファ・レンの野沢聡。
エリザベートでデビューして以来、人気上昇中の野沢くんは、今回が初参加。この人もマジで可愛い!んです、…が、ちょっとこの役には背が高すぎる…(涙)。
戯曲のキモとして、「登場人物全員が怪しい」というのがあるんですが、それには「身長」が全員同じくらいである、という前提があるんですよね。
今回は、野沢くんが一人だけ大きいので、初見の方は「彼が犯人なのだとしたら何か大きなトリックがないとおかしいよね」、とか、つい考えすぎてしまうんじゃないかと思うんですよね(←お前の方が考えすぎだ)。
初演・再演とこの役をやっていた岩田翼さんは、他のメンバーとそんなに変わらない(多分)背丈なのに、わざと猫背に丸めて小柄に見せる業を使っていて、いろんな意味で怪しくてすごく良かったのですが…野沢くんの場合、縮むにも限界があるから(涙)。
あと、野沢くん、あまりにも無邪気に可愛らしすぎるの(^ ^;。本当に子供みたいで、すっごく可愛かった!!んですけど、もうちょっと、二面性というか、裏があるようにやると面白い役になるんだけどなぁ…って感じでした。
でも、あの天性の明るさというか、素直な華やかさは大きな武器だと思うので。美点を損なわないようにしつつ、すこーし裏をチラ見せできるようになってくれたら幸せかも♪
山荘の客、尊大で意地悪なボイル夫人の淡路恵子。
元SKDから映画スターへの道を歩んだ大女優。年を重ねても、素敵な人は本当に格好良い!
この作品は初演から参加されていて、ほぼ彼女の色で作品ができているといっても過言ではない、って感じ。今までは、イギリスの厳格な老婦人らしく髪をキレイに結い上げていらっしゃいましたが、今回はがらっと雰囲気を変えて銀髪の
役にはこっちの方があっているかも、と思いました。
あと、途中でラジオから流れるタンゴに合わせて一人で踊る場面があるんですが、ここの振り付けが、以前は本当にちょこっとポーズをとるくらいだったのに、今回はクッションを相手役に見立ててしばらく踊るようになっていて。
過去の夢(栄光)を思い出させることで「誰からも相手にされない現在」の寂しさがさらに強調されて、物凄く痛い場面になっていました。
こういうシーンをさらっとやれてしまう淡路さんの底の深さ、懐の広さ。演出の大和田さんも安心だろうなあ、と思いました。
山荘の客、メトカーフ少佐の桐山浩一。
手堅い役者ですね。彼も今回初参加組ですが、自然に動いていて、空気のように違和感がない。見事な存在感でした。
翻訳劇は今回初めてとのことでしたが、良かったですー!これからもぜひぜひ、色々出演してください!
山荘の客、背の高い、男装の女ミス・ケースウェルの山崎美貴。
外国暮らしが長く、そこで舐められないよう男装で、態度も言葉遣いも男のような、長身の女、という設定で、初演は高汐巴さんがなさった役ですが…。
まずトレンチコート(登場時の衣装)が似合うことが凄く大事!なの。
「コートを脱ぐまで男だと思って」いて、コートを脱いだら「女なので驚く」という観客の「!」って大事だと思うんですね、この役は。とにかく全員が「犯人かも?」と思わせなくては戯曲が成立しないんですよね…。
山崎さん自身は包容力もあってすごく良い役者だと思いますが、このカンパニーでのこの役は、ちょっとキャラ違いだったかなーと思いました。それがとても残念です。
やはり「男装の女」となると、(宝塚でなくてもいいんでしょうけど)「男役」の経験って大きいんですよ。これは、全然宝塚ファンじゃない友人も同じことを言っていたので、私が宝塚ファンだからじゃないと思うんですけど。
まぁ、最初から山崎さんで観ていれば違和感なかったのかもしれませんが…
山荘の闖入者、パラビチーニ氏の田村連。
いやもう、はまり役。胡散臭くていやらしくて、この上もなく魅力的な男。本当にはまり役でした。コメントの必要なし。
トロッター刑事の戸井勝海。
一幕の終盤になって突然現れる人なので、その登場シーンが一番重要だと思うのですが、今回はかなり印象的に出られたんじゃないかと思います。初演メンバーの一人ですが、都度印象が変わる人なので、一概に「よくなってた」とか言いにくい(^ ^)。でも、役づくりがずいぶんかわったなーと思いました。
ご本人は「彼自身の今までの人生を追いかけて、役作りをやり直した」みたいなコメントをしていらっしゃいましたが、観ていて思ったのは、曲者らしさが増したなー、ってことかな(汗)。
刑事が一番かかわりを持つジャイルズとモリーが天然な夫婦なので、トロッターの曲者ぶりが好対照で面白かったです♪
…あああ、ネタバレできないのが苦しい………(涙)。
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誰でも「創造者」になれる!?
2007年6月5日 演劇1920年代、ニューヨーク。
「魔法の万年筆」に振り回される人間模様を、PARCO劇場に観にいってきました。
お目当てはいちおう、久世星佳さん。
物語の冒頭は、あるデパートの屋上。
作家志望(はしくれ?)の若い男(稲垣吾郎)が一人、万年筆を買いにデパートの文具売り場にやってくる。
彼が探すのは、「頭で考えているイメージが、そのまま腕を通って紙に定着するような、その間に一抹の抵抗もないような」、そんな書きやすい万年筆。
彼のポケットには、自分のエージェント(阿南健治)から貰った(奪い取った)5ドル。
私は作家ではありませんが。
そんな万年筆があったらいいなあ、と思う反面、
魔法の万年筆で紙に写したいほどの何かを私は持っているのだろうか、その魔法の万年筆で私は何を書くんだろうか、という不安から、逃れられないような気がしてなりません。
でも。
稲垣くんのパーカーは、ついぞその不安に囚われることはなかったらしい。
…それはやっぱり、彼が「天才」であった、ということなのかもしれません。
だから。
万年筆がなくても、彼は成功したのかもしれないなあ、…と。
だとしたら。
万年筆を得たことで通った路は、大きな回り道だったのか、それとも真の「創造者」となるための通過儀礼だったのか…。
この作品、登場人物の名前をすべて有名な文具メーカーというか万年筆メーカーから取られておりまして。
主人公(稲垣吾郎)=パーカー
その恋人(西牟田恵)=デルタ
その妻(久世星佳)=セーラ(ー)
妻の父(山崎一)=モンブラン
妻の兄(河原雅彦)=パイロット
主人公の友人兼エージェント(阿南健治)=ウォーターマン
主人公の担当編集者(三鴨絵里子)=ペリカーノ
万年筆作りの名人(?)(小林隆)=エルバン
エルバンだけは万年筆ではなくインクメーカーなので私はあまりなじみがありませんでしたが、他のはぜんぶ知ってました。
…持ってないけど(笑)。
久しぶりに観た、劇団「ラッパ屋」主宰の鈴木聡の作・演出の舞台。
率直な感想として。
事前にチラシのストーリーを読んだり、人から話を聞いたりして想像(創造?)していたイメージに比べると、えらくシンプルな物語でした。
それほど大したひねりもなく、ラストは一応どんでん返しなのであまり詳細には触れずにおきますが、まぁなんとなく予想がついたようなつかないような。
でもね。
人間模様としては実に面白かったです。
特に、パーカーの恋人・デルタの存在、が。
私の目当てのノン(久世星佳)さんの役は、
「文壇の大物」モンブラン氏の、“ちょっとオールドミスだけど、それは彼女が悪いんじゃない”娘。
魔法の万年筆を使って「ストーリーが泉のように湧いてくる」状態になった彼の小説を、文壇の大物が「名作」と認めてくれたことに有頂天になったパーカーは、ウォーターマンが持ってきた見合い話に乗ります。
そして、結果的にあっさりと恋人・デルタを捨てる。
彼は、「穏やかな、アイスクリームの匂いのする幸せ」に溺れてクリエーターとしてダメになる自分が怖いんだ、と理屈をつけて、「作家としての未来」「立派な書斎」「文壇での地位」を約束されたモンブランの娘との結婚を選びます。
「俺はデルタを捨てる(た)んじゃない。未来を選んだんだ」と繰り返し言うパーカー。
でも。
結婚式当日まで、デルタに別れ話を「する暇がなかった」と言い放ち、ウォーターマンに「後は頼む」とデルタへの説明さえ押しつけてしまうという無責任ぶり…
突然ですが。
私は、舞台の稲垣吾郎さんはかなり好きでして。
「広島に原爆を落とす日」からだから…もう何年?彼は大体平均すれば年に一作くらい舞台に出ているので、もう随分な数の作品を観ているのですが。
今回の彼は、正直、私的にはちょっと残念、な感じでした。
去年の「ヴァージニア・ウルフなんて怖くない」は面白かったのになあ…。
作・演出の鈴木さんが、彼を理解しているようでほんの少しずれている、そのずれ感が私の感性には合わなかったようです。
たとえば、この(セーラとの)結婚式で、デルタから逃げる場面。
彼の本来の持ち味である「知的」で「理性的」な部分が、こういう時まで悪い意味で出てしまう。本能のままに逃げてしまう「どうしようもない最低男」になりきれない。
彼だったら、もっとデルタにベラベラ喋って、舌先3寸で誤魔化そうとした末に失敗…みたいな嫌な男の方が似合うんじゃないかしら…。
2幕でデルタと再会した時も、西牟田さんの見事なテンションと集中力、緊迫した演技とどうも噛み合わなくて、
そういえば、今まで彼の「受け芝居」ってあまり観たことなかったかも、とあらためて思ってしまったのでした。
滑舌だとか、仕草だとか、そういった一人でも練習できる部分は、昔に比べれば本当に巧くなったなーと思うのですが。
やっぱり他の人とは「舞台」に懸ける時間が違うのでしょうか…。キャリアの問題だけではないと思うんですよね。相手の芝居を見る、相手の芝居を受ける、というのは芝居の基本ですから。
声の良い人なので、モノローグの多いつかこうへい芝居には案外よく似合う人なのですが。
人間関係で見せるラッパ屋の芝居には、いまひとつだったかな、というのが正直な感想です。
でもね!
他のメンバーは、みなさん「さすが」の一言なんです。
一見の価値ありですよ!
ノンさんは、過不足無く「パーカーより7歳年上のオールドミス」そのものだし。
阿南さんは「野心家だけど心優しい、ちょっとドジで気が弱いところもある、でも意外と遣り手な」エージェントそのものだし。
河原さんは「過剰に弱気で過剰に気が優しくて過剰に流されやすくて…とにかく過剰〜に!気が弱い」キャラクター造形が本当に見事でしたし。
山崎さんのユーモラスな渋味、三鴨さんのパーフェクトなお色気キャラぶり、小林さんのなんとも表現しがたい巧さ。
これだけのメンバーが揃って、演出家は楽しかったろうなぁと思わせる芝居でした。
でも。
その全てを吹っ飛ばして。
この作品の中心になっているのは、デルタ役の西牟田恵さん。
ちょっと素朴なデパート嬢としての登場、
パーカーの恋人としての世話女房ぶり。
たしかに、この女を妻にしたら「幸せな家庭」に浸かりすぎて「クリエート」する苦しみに耐えられなくなるかもしれない、と
いうパーカーの不安もわからないではありません。
それを、パーカーの台詞ではなく、デルタの芝居で納得させる。
これが出来る人は滅多にいない、と思います。
そして。
ここから先は微妙にネタバレになりますので、まだご覧になっていない方はご注意願いたいのですが。(←いまさら?)
2幕で再登場したデルタの変貌ぶり。
そして、そのパーカーへの仕打ち。
「あなたにも同じ思いをあじあわせてあげる」と宣言して実行すること。
それは、彼女自身の全てをも否定することなのに。
それほどの痛みを、彼女は与えられたのだ、と。
パーカーには、その痛みを想像さえできない。
だから、デルタがそんな行動に出るとは全く思わない。
しかも、それによる痛みは自分だけのものだと思っている。
デルタの本当に痛み、その行動を実行することによって起こる痛みには全く気づかない。
他人の痛みに無頓着。それによって、デルタは彼の「作家」としての適性に疑問さえ投げかけます。
想像力であり創造力であるものが、欠けているのではないか、と。
それさえも、彼は何も気づくことはなく。
ただ、喪われたものを惜しむばかりで。
2幕半ばの、
デルタの場面が。
あそこが、私はこのお芝居の中で、一番好きです。
具体的なネタバレはしないように注意したつもりではあるのですが。
ネタとは無関係に、脚本としてとても面白い脚本でした。
本で読んでみたいくらい。
そして、おとなーしくお上品に「おほほほほ」と笑うノンさん、という、滅多に観られないものがたっぷり観られるお得な2時間半。
いやはや、ノンさん本当に良かったです…。
そして。
ノンさんと西牟田さん、逆でもすごーーーーーく面白かっただろうなあ、と思いつつ…
.
「魔法の万年筆」に振り回される人間模様を、PARCO劇場に観にいってきました。
お目当てはいちおう、久世星佳さん。
物語の冒頭は、あるデパートの屋上。
作家志望(はしくれ?)の若い男(稲垣吾郎)が一人、万年筆を買いにデパートの文具売り場にやってくる。
彼が探すのは、「頭で考えているイメージが、そのまま腕を通って紙に定着するような、その間に一抹の抵抗もないような」、そんな書きやすい万年筆。
彼のポケットには、自分のエージェント(阿南健治)から貰った(奪い取った)5ドル。
私は作家ではありませんが。
そんな万年筆があったらいいなあ、と思う反面、
魔法の万年筆で紙に写したいほどの何かを私は持っているのだろうか、その魔法の万年筆で私は何を書くんだろうか、という不安から、逃れられないような気がしてなりません。
でも。
稲垣くんのパーカーは、ついぞその不安に囚われることはなかったらしい。
…それはやっぱり、彼が「天才」であった、ということなのかもしれません。
だから。
万年筆がなくても、彼は成功したのかもしれないなあ、…と。
だとしたら。
万年筆を得たことで通った路は、大きな回り道だったのか、それとも真の「創造者」となるための通過儀礼だったのか…。
この作品、登場人物の名前をすべて有名な文具メーカーというか万年筆メーカーから取られておりまして。
主人公(稲垣吾郎)=パーカー
その恋人(西牟田恵)=デルタ
その妻(久世星佳)=セーラ(ー)
妻の父(山崎一)=モンブラン
妻の兄(河原雅彦)=パイロット
主人公の友人兼エージェント(阿南健治)=ウォーターマン
主人公の担当編集者(三鴨絵里子)=ペリカーノ
万年筆作りの名人(?)(小林隆)=エルバン
エルバンだけは万年筆ではなくインクメーカーなので私はあまりなじみがありませんでしたが、他のはぜんぶ知ってました。
…持ってないけど(笑)。
久しぶりに観た、劇団「ラッパ屋」主宰の鈴木聡の作・演出の舞台。
率直な感想として。
事前にチラシのストーリーを読んだり、人から話を聞いたりして想像(創造?)していたイメージに比べると、えらくシンプルな物語でした。
それほど大したひねりもなく、ラストは一応どんでん返しなのであまり詳細には触れずにおきますが、まぁなんとなく予想がついたようなつかないような。
でもね。
人間模様としては実に面白かったです。
特に、パーカーの恋人・デルタの存在、が。
私の目当てのノン(久世星佳)さんの役は、
「文壇の大物」モンブラン氏の、“ちょっとオールドミスだけど、それは彼女が悪いんじゃない”娘。
魔法の万年筆を使って「ストーリーが泉のように湧いてくる」状態になった彼の小説を、文壇の大物が「名作」と認めてくれたことに有頂天になったパーカーは、ウォーターマンが持ってきた見合い話に乗ります。
そして、結果的にあっさりと恋人・デルタを捨てる。
彼は、「穏やかな、アイスクリームの匂いのする幸せ」に溺れてクリエーターとしてダメになる自分が怖いんだ、と理屈をつけて、「作家としての未来」「立派な書斎」「文壇での地位」を約束されたモンブランの娘との結婚を選びます。
「俺はデルタを捨てる(た)んじゃない。未来を選んだんだ」と繰り返し言うパーカー。
でも。
結婚式当日まで、デルタに別れ話を「する暇がなかった」と言い放ち、ウォーターマンに「後は頼む」とデルタへの説明さえ押しつけてしまうという無責任ぶり…
突然ですが。
私は、舞台の稲垣吾郎さんはかなり好きでして。
「広島に原爆を落とす日」からだから…もう何年?彼は大体平均すれば年に一作くらい舞台に出ているので、もう随分な数の作品を観ているのですが。
今回の彼は、正直、私的にはちょっと残念、な感じでした。
去年の「ヴァージニア・ウルフなんて怖くない」は面白かったのになあ…。
作・演出の鈴木さんが、彼を理解しているようでほんの少しずれている、そのずれ感が私の感性には合わなかったようです。
たとえば、この(セーラとの)結婚式で、デルタから逃げる場面。
彼の本来の持ち味である「知的」で「理性的」な部分が、こういう時まで悪い意味で出てしまう。本能のままに逃げてしまう「どうしようもない最低男」になりきれない。
彼だったら、もっとデルタにベラベラ喋って、舌先3寸で誤魔化そうとした末に失敗…みたいな嫌な男の方が似合うんじゃないかしら…。
2幕でデルタと再会した時も、西牟田さんの見事なテンションと集中力、緊迫した演技とどうも噛み合わなくて、
そういえば、今まで彼の「受け芝居」ってあまり観たことなかったかも、とあらためて思ってしまったのでした。
滑舌だとか、仕草だとか、そういった一人でも練習できる部分は、昔に比べれば本当に巧くなったなーと思うのですが。
やっぱり他の人とは「舞台」に懸ける時間が違うのでしょうか…。キャリアの問題だけではないと思うんですよね。相手の芝居を見る、相手の芝居を受ける、というのは芝居の基本ですから。
声の良い人なので、モノローグの多いつかこうへい芝居には案外よく似合う人なのですが。
人間関係で見せるラッパ屋の芝居には、いまひとつだったかな、というのが正直な感想です。
でもね!
他のメンバーは、みなさん「さすが」の一言なんです。
一見の価値ありですよ!
ノンさんは、過不足無く「パーカーより7歳年上のオールドミス」そのものだし。
阿南さんは「野心家だけど心優しい、ちょっとドジで気が弱いところもある、でも意外と遣り手な」エージェントそのものだし。
河原さんは「過剰に弱気で過剰に気が優しくて過剰に流されやすくて…とにかく過剰〜に!気が弱い」キャラクター造形が本当に見事でしたし。
山崎さんのユーモラスな渋味、三鴨さんのパーフェクトなお色気キャラぶり、小林さんのなんとも表現しがたい巧さ。
これだけのメンバーが揃って、演出家は楽しかったろうなぁと思わせる芝居でした。
でも。
その全てを吹っ飛ばして。
この作品の中心になっているのは、デルタ役の西牟田恵さん。
ちょっと素朴なデパート嬢としての登場、
パーカーの恋人としての世話女房ぶり。
たしかに、この女を妻にしたら「幸せな家庭」に浸かりすぎて「クリエート」する苦しみに耐えられなくなるかもしれない、と
いうパーカーの不安もわからないではありません。
それを、パーカーの台詞ではなく、デルタの芝居で納得させる。
これが出来る人は滅多にいない、と思います。
そして。
ここから先は微妙にネタバレになりますので、まだご覧になっていない方はご注意願いたいのですが。(←いまさら?)
2幕で再登場したデルタの変貌ぶり。
そして、そのパーカーへの仕打ち。
「あなたにも同じ思いをあじあわせてあげる」と宣言して実行すること。
それは、彼女自身の全てをも否定することなのに。
それほどの痛みを、彼女は与えられたのだ、と。
パーカーには、その痛みを想像さえできない。
だから、デルタがそんな行動に出るとは全く思わない。
しかも、それによる痛みは自分だけのものだと思っている。
デルタの本当に痛み、その行動を実行することによって起こる痛みには全く気づかない。
他人の痛みに無頓着。それによって、デルタは彼の「作家」としての適性に疑問さえ投げかけます。
想像力であり創造力であるものが、欠けているのではないか、と。
それさえも、彼は何も気づくことはなく。
ただ、喪われたものを惜しむばかりで。
2幕半ばの、
デルタの場面が。
あそこが、私はこのお芝居の中で、一番好きです。
具体的なネタバレはしないように注意したつもりではあるのですが。
ネタとは無関係に、脚本としてとても面白い脚本でした。
本で読んでみたいくらい。
そして、おとなーしくお上品に「おほほほほ」と笑うノンさん、という、滅多に観られないものがたっぷり観られるお得な2時間半。
いやはや、ノンさん本当に良かったです…。
そして。
ノンさんと西牟田さん、逆でもすごーーーーーく面白かっただろうなあ、と思いつつ…
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