国民の映画

2014年3月10日 演劇
パルコ劇場にて、「国民の映画」を観劇いたしました。

初演時は予定が合わなくて観られなかったこの公演。再演が発表されて、今度こそ観たいと思っていたのですが、無事千秋楽に観ることができました。



第二次世界大戦中のドイツ国宣伝大臣ゲッペルス(小日向文世)の、「風と共に去りぬ」を超える映画を創る!という『夢』の物語。


夢は美しく、美しい夢を見る権利は、すべてのひとにひとしく与えられる。

たとえそれが、悪魔の所業を決定し、実行したひとびとであったとしても。


華やかな夢。ハリウッドの総天然色の美しい夢。「風と共に去りぬ」を超える、すべての国民が誇れる「国民の映画」をという、映画ファンのゲッペルスにとっては、そう簡単には諦められない夢。

その「国民(nation)」に、同じ国土に住まう、ある民族が含まれていないとしても、その夢の美しさが嘘になるわけではない。
いっそ嘘になるなら、そのほうがずっと良いのだろうけれども。



親衛隊長ヒムラー(段田安則)が、物語の前半でゲッペルス夫人マグダ(吉田羊)に語るカイガラムシのくんだり。「害虫」と呼ばれるのは人間都合であって、カイガラムシが悪いのではないのだから、むやみに殺してはいけない、と。死んでしまったなら、丁重に葬ってげなくては、と。

そのあたりのエピソードの積み重ねに、背筋が冷たくなるような怖さがあるのは、ゲッペルスやヒムラーやゲーリング(渡辺徹)らが、「偉大な悪魔」などではなく、単なる想像力のない小市民的な小者にすぎない(すぎなかった)、という事実なのだ、と。
小悪魔でさえない、『小市民』の怖ろしさ。いま一緒に電車に乗って、隣に座っているひとが、さっき道を歩いていてすれ違ったひとが、何かの理由で、ある一つの民族の「生物的消滅」を望むことがあるのかもしれない。そういう、ものすごくリアルな怖さは、あのシンプルな台詞劇を支えた名優たちのたまものだと思うわけです。



名優・グリュントゲンス(小林勝也)の選択は、彼なら当然のことだし、それ(同性愛)は、俳優生命には関わったとしても、生物的な生命に影響を与える問題ではない。
逆に、ナチス高官たちに愛された若き女性映画監督レニ(新妻聖子)の、これまた「当然」の選択も、それに対するゲッペルスの選択も、説得力がありました。

けれども。
それまでずっとナチスに協力し、ゲッペルスの言いなりになって美味しい思いをしてきた映画監督兼俳優のヤニングス(風間杜夫)が、最後の最後、彼らが考えている「最終解決」の真実を知ってゲッペルスの許を去る最後の選択が、同じ小市民の私にとっては、大きな救いでした。まだ世界は大丈夫かもしれない。電車で隣に立っている人が突然「最終解決」と言いだしたりはしない、きっと、たぶん、と祈れる気がする。
それでも、彼にはゲッペルスの映画の先生だった執事のフリッツ(小林隆)を、救うことはできない。それまで、幾多の映画人たちを救ってきたフリッツなのに。

ゲッペルス自身にさえ、フリッツを救うことはできない。いや、本気で救おうとしたら手はあったのかもしれない。でも彼は、フリッツを守ろうとはしたけれども、救おうとはしなかった。仕方ない、という諦め。フリッツが喪うのは命なのに、それがどういうことなのか、想像できない男。
指導者において、想像力の欠如は罪なのに。



ナチスによって弾圧をうけた作家ケストナー(今井朋彦)の生き方のあやうさ。折れず、譲らず、命を捨てず……頭の中にある物語を形にするまでは死ねない、という固い決意が美しくて、重たくて、怖い。そのために何でもする、という彼の価値観の揺るがなさが。ここで醜い小者たちに魂を売っても、それでも、それよりも生き抜いて自分が生み出す芸術のほうが尊く、人類にとって価値があるのだ、という確信。
それはもしかしたら、ナチスよりも自己中心的な生き方だったのかもしれない、と。

ヤニングスの選択によって救われた気持ちが、ケストナーの選択によってもう一度突き落とされる感じ。
人間って怖い、生きるって怖い、、、でも、そういうものなのかもしれない、と納得できてしまったことが怖くて。

でも、たぶん、そうであってはいけないのだ、と。
想像力を捨ててはいけない。他人の痛みに鈍感になりたくない。だって、ゲッペルスには止められたはずなのだから。もっと早いどこかで。ここまで来てしまう、もっと前に、何らかの手を打てたはずなのだから。
どこがそのポイントだったのかはわからないけれども、どこかにきっと。
生物的消滅、なんていう言葉を使う前の、どこかに、きっと。


祈ることしかできないけれども。
信じることしか。


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