木の上の兵士

2013年4月13日 演劇
シアターコクーンにて、「木の上の軍隊」を観劇いたしました


故・井上ひさしの脚本により、2010年に上演される予定だった「木の上の軍隊」。井上氏の逝去により幻となった作品を、蓬莱竜太が組み立てて栗山民也が演出した、まさに「幻」の公演。
松井るみによる巨大なガジュマルの樹が仁王立ちする舞台に、2010年にも出演予定だった藤原竜也と、山西惇・片平なぎさという3人の出演者が立ち竦む、、、そんな2時間(休憩なし)でした。


私が観たのは開幕してすぐの時だったのですが、山西さん(上官)と竜也くん(新兵)の会話の迫力に振り回されて、痛くて、もっていかれっぱなしでした。
あれから日も過ぎて、さらに迫力が増しているのでしょうか。もう一度観たいような、観るのが怖いような。蓬莱さんもよくこんな痛い脚本を書いてくれた、と感心するばかりです。



物語の舞台は、沖縄戦争末期の伊江島(沖縄本島から北西約9km)。

ときどき忘れそうになるのですが、いわゆる「沖縄戦争」は、「本土決戦」ではなかったんですよね。
私にとって「沖縄」は日本の一部で、だから日本軍は日本の国土としての沖縄を護ろうとして、護りきれなかった……と思いたいのですけれども。でも、実際には、資材も糧食も、兵士さえ現地調達した日本軍は、沖縄弁で喋ることを禁じ、志願兵にはろくな武器も渡さなかったと聞くと、忸怩たる思いが募ります。
それでも、「新兵」は「日本」を信じた……「日本」の代表としての「上官」を。その真っ直ぐな信頼は、重たかったかもしれないけれども、それでも「上官」は、ちゃんとそれを受け止めていたんですよね。
……戦勝パーティーの夜までは。

パーティーの意味に気づき、泣きながら残飯をあさる山西さんの慟哭に、理解しながら認められない「敗北」、「勝利」のために命を賭けていたからこそ認められない「敗北」の重さを感じて、胸が痛みました。
残飯の豪華さ、自分たちに支給された糧食との差に唖然とした彼の心が折れていくさまが哀しくて、痛くて。理性は「敗北」を認められないから、樹を降りることはできない。でも、彼の心は戦争が終わったことを理解している。「上官」として「新兵」に戦争が継続していることを信じさせながら、自分自身はその矛盾の狭間でどんどん壊れていく。……意味もわからずに「上官」の崩壊を見ているしかない「新兵」の不安も痛いし、「新兵」の眼を通じて自分の欺瞞を見せつけられる「上官」の懊悩も、今の私が受け止めるには、あまりにも痛すぎて。

「上官」と「新兵」は、どちらが正しいというのでもないと思うのです。ただ、自分が産まれ育った場所を護ろうとした志願兵と、軍人として戦略的・戦術的な目的をもって島にやってきた「上官」との、立場の違い。立場の違う二人が、最終的にわかりあえなかった……そういう物語。
もしも、あの夜、「上官」が何も気づかなかったなら。だとしたら、どうなっていたでしょうね。
食料が尽きる前に「上官」が「新兵」を殺して、そして、、、食料も毛布もないまま、樹の上で亜熱帯の冬を越せたかどうか、、、かな。
どちらにしても、「上官」と「新兵」が立場の違いを乗り越えて理解しあうことは難しかっただろうな、と思う。彼らの夢見た「平和」や「勝利」は、そもそも違うものだったのだから。
それが哀しくて、そして痛いのです……とても。



まだこちらには感想を書いていませんが、この公演を観る前に、宝塚歌劇団によるブロードウェイミュージカル「南太平洋」を観ました。
宝塚作品なので、南太平洋に展開したアメリカ軍にとっての「敵軍」が何かについては隠されていましたが、かつて南太平洋でアメリカと闘ったのはただ一国で、エミール(轟)とケーブル中尉(真風)が命を賭けて偵察した結果の勝利が太平洋の制海権奪取につながり、それが最終的には沖縄決戦につながったことは間違いないんですよね。
だから。後半の緊迫した場面で「新兵」が語る「アメリカ兵と遭遇した」というエピソードの「アメリカ兵」は、もしかしたらあの星組の海兵さんたちの誰かだったかもしれない、、、なんてことを考えながらの観劇になりました。

「南太平洋」における「貌のない敵軍」と、「木の上の軍隊」における「鬼のような敵軍」。
どちらも、実際に顔を合わせて会話をする機会があれば戦うことなんてできないだろうに、その機会を与えられず、ただ戦うことを強いられた彼らは、、、ある意味幸せだったのかもしれません。己の勝利を信じていられる間は。
「ハニー・バン」を歌いながら戦場に向かう海兵たちを視ながら、言葉にならない想いを持て余していたのですが、この「木の上の軍隊」を観て、どちらも同じものの裏表なんだな、と思ったら、なんというか、、、痛くてたまりませんでした。


「木の上の軍隊」を観た今、もう一度「南太平洋」を観たいような、もう観たくないような、そんな矛盾した気持ちがあります。喉にひっかかって呑みこめない、何かの叫びのように。
ガジュマルの木の上で、変わっていく「世界」を見凝めるキジムナーたち。彼らの眼には、こんなふうに揺らぐ気持ちが、どんなふうに映っているのでしょうか。

とはいえ、彼らは諦めたわけではない、と思うのですけれども。理解しあうことも、それ以外も、なにひとつ。
だって、ここで諦めるくらいなら、木の上に残らなかったと思うから。彼ら……彼らの魂は。



「作家」としての全てを賭けた蓬莱さんの気迫を、私がちゃんと受け止められたのかどうか、あまり自信がありません。
ただ、その痛みから目を逸らしてはいけないんだ、ということはわかったような気がします。上官の迷いからも、その矛盾からも。新兵が正しいのではない。ただ、彼らは「犠牲者」だった。上官が「犠牲者」であると同時に「加害者」でもあったのと同じように、全員が「犠牲者」だったのだ、と、、、言葉にすることの難しい、そんな想いは伝わったような気がします。


樹の上に残ったキジムナーたちの、ガラス玉のような瞳に映るものが、少しでも美しいものになりますように。


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