PARCO劇場の「ホロヴィッツとの対話」。

作・演出は三谷幸喜。
出演は、天才ピアニストにしてトスカニーニの娘婿ホロヴィッツに段田安則、“彼の”調律師モアに渡辺謙、モアの妻エリザベスに和久井映美、ホロヴィッツの妻ワンダに高泉淳子の4人。

『「コンフィダント・絆」「国民の映画」に続く海外芸術家シリーズ三作目』という売り文句に騙されて そそられて観に行った作品だったのですが、「コンフィダント・絆」とは全く雰囲気の違う作品でした。
面白かったけど、「コンフィダント」を期待していくと肩透かしというか。。。ホロヴィッツも芸術家として非常にギリギリの人生を歩んだ人で、そういうところまで描かれるのかな、と期待していたのですが、そういうところは通り過ぎた後、晩年の、我侭だけど好々爺なホロヴィッツの姿がそこにありました。

主人公であるモアも、彼はあくまでも芸術家の手足となる職人であって「芸術家」ではないわけで。
芸術家同士の相克を残酷なまでに描きだした「コンフィダント」とは、テーマの選び方もキャラクターの配置もまったく異なる作品でした。
……まあ、私みたいに「コンフィダント」の一言でふらっと観に行く人間がいるのだから、そういう意味では見事なキャッチだったのかもしれません。でも、作品の評価という意味では、、、「コンフィダント」をイメージさせたのはあまり良くなかったんじゃないかなあ、なんて、、、ちょっとだけ思ったりもしました。

まあ、期待しすぎてしまった私がいけないんですけれども、ね。



なんて、不満げなことを書いていますが、その先入観をとっぱらった「ホロヴィッツとの対話」は、とても興味深い作品だったと思います。
特に、段田ホロヴィッツの、いかにも芸術家然とした佇まいが非常に見事でした。

我侭だけど、案外に素直で可愛らしい好々爺。支配的な妻との長い闘争の果てに、大きな犠牲と引き換えに小さな平穏を見出した、神経質な芸術家。闘いに明け暮れた無残な日々は終わりを告げて、もはや護るべきものも何もない、孤独な男。生きていくこと自体が苦しみであった彼にとって、今はもう、終わりを待つだけの平穏な日々なのでしょう。心の平穏と肉体的能力の衰退。彼を「天才」たらしめていた全てを喪って、残ったものは名声と愛、ただそれだけ。。。。

自らが引き起こしたのかもしれない「悲劇」の井戸の周りをぐるぐると回っているワンダに、そっと差し伸べる不器用な手がとても優しくて、他人をいつくしんだことのない「天才」ピアニストの慣れない優しさが、傍若無人で、それがとても切なくて。

彼の長い人生(享年86)の中で、愛娘ソニアの死は半分をちょっと超えたくらいのところにあり、この物語で描かれた一夜の後も、彼は20年以上も生きるのだ、、、と思うと、なんというか、「悠久の」という言葉を捧げたくなります。
音楽と共に生きた天才。音楽を愛し、ピアノを愛し、常に“神の前で”演奏していたピアニスト。

ラストシーン。
ずっと舞台の真中に置かれていた沈黙のピアノの前に、ホロヴィッツが座る。
蓋をあけて、椅子を調節して、、、さて!というところで暗転し、全編を彩る音楽を生演奏で弾いていた荻野清子さんのピアノが流れ出す。
段田さんが弾く振りをして、、、とかではなくて、完全な暗転から舞台奥の紗幕を隔てた向こう側で弾いている荻田さんを見せる、見事な演出。
お洒落で粋で、そして、切ないラストでした。


段田さんばかり語ってしまいましたが、高泉さんのワンダも、すごく高飛車で、良い意味でも悪い意味でも浮世離れしていて、、、迫力満点で、とても素敵でした(はぁと)。舞台作品の主役は、間違いなく謙さん演じる「スタインウェイの職人」モアであり、和久井さん演じる「普通の主婦」エリザベスなのですが、やっぱりこの物語(脚本)は「ホロヴィッツ」あるいは「ホロヴィッツ夫妻」の物語であり、タイトルロールはその二人なんだな、と、そんなことを強く感じました。

こういう物語である、と納得したところで、もう一回落ち着いてみたいなあ、、と思いましたが、千秋楽直前の観劇で果たせず、残念です。
いや、当日券が取れただけでもラッキーだったのは判っているんですけどね。……再演しないかなあ。



ああ、でも、再演といえば!
「コンフィダント・絆」の再演はまだですかっっっ!?(←キャストが揃わないんだってば)



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