エッグ

2012年10月28日 演劇
新装なった東京芸術劇場プレイハウスにて、NODA MAP公演「エッグ」を観劇してまいりました。


ここ数年、チケットが手に入らないこともあってご無沙汰していたNODA MAPですが、久しぶりに観て、、、なんというか、野田作品を観るには、ある意味「慣れ」のようなものが必要なんだな、と思いました。
それなりの緊張感を持って、しかも台詞を追うんじゃなく空気に浸らないと、すぐ置いていかれてしまうんですよね(- -;ゞ。すべての台詞は2重3重に罠が仕掛けられているので、ずっと裏を読んでいかないといけないし。なんだかこの感覚久しぶりー!と思ったら、なんというか、それだけで楽しくなってしまいました(滝汗)。


作品は、なんというか、野田さんらしい展開だな、と。
「エッグ」という、おそらくサッカーをボールの代わりに卵でやるようなイメージの(?)空想上のスポーツがあって、それに人生を賭けている人々の物語……として始まったようにみえて、途中で何度もパラダイムシフトをおこして、最期にはまったく違うテーマが見えてくる……。
その呼吸が、なんだか懐かしい気がしました。野田さんご自身はずっと新しい挑戦を続けていらしているのですが、根底に流れる「野田流」という部分は変っていないんだなあ、というか。
ずっと観ていれば一作ごとの違いに目がいくのかもしれませんが、なまじ久しぶりだっただけに、余計にその「変わらなさ」が懐かしくさえ感じられた気がします。





チームの主将・粒来(仲村トオル)と、新しいスターとして彼を超えることになる阿倍(妻夫木聡)。阿部のフルネームが「阿倍比羅夫」であることにはあまり意味を持たせていませんでしたが、彼の出身地が「東北(二重の意味がある)」であることには深い意味がありました。
粒来の焦りと、鈍感なまでの阿倍の若さ。お芝居の前半には重要なテーマであったはずの二人の相克が、後半に、意味を喪っていくのが切ないほどでした。歴史の渦に巻き込まれた個人的な相克の意味の軽さ。二人が青春と人生を賭けた「夢」の意味のなさと、二人の背番号(粒来が「7」で阿部が「31」の重さ。まるでお遊びのような数字の羅列が象徴する「意味」と、二人が生きた「人生」に何の関係もないところが、なんだかとても、辛かったです。

すべての鍵を握る、アイドル歌手の苺イチエ(深津絵里)。
作品の目玉の一つであった椎名林檎の唄を、あの独特の声でしみじみと歌いあげ、「音」で芝居世界を盛り上げる。基本的に生歌ではなく録音だったわけですが、いかにも「アイドル」ちっくな歌い方と、いかにも「なんちゃってアイドル」に作りこんだ外観と、いつもどおりのリアルな存在感のある芝居が織りなす非現実感に心奪われました。
「愛」とか「愛してる」とか、、、彼女の口からそういう台詞が出てくることにいちいち驚きながら。

「エッグ」チームのオーナーで、「世界中の9割を所有している人の娘」を演じた、秋山菜津子。
こういう役で観るのは久しぶりな気がしましたが、何をやっても魅力的な人ですね。物語の後半、何度目かのパラダイムシフトの結果、舞台となっているのが満州であることが解った後の、「世界」を支える屋台骨の自覚と、すべてを見捨てたい衝動の合間で立ち竦んでいる姿が、とても印象的でした。こういう存在が、きっとあの時代にもたくさんいたんだろうし、きっと今の時代にもたくさんいるんだろうな、と、2重写しになってブレて歪んだ「世界」を視ながら思ったのでした。


チームの監督・消田(橋爪功)は、パラダイムシフトの鍵をさりげなく落とす担当として、ベテランの味をたっぷりとみせてくださいました。
劇場案内係と芸術監督の二役を演じた「芝居小屋の妖精」・野田秀樹は、、、野田さんは、そろそろ自分を出さない芝居を書くべきだと思うなあ。彼が舞台に出るっていうのは、やっぱりどこか反則な気がするというか、「必要悪」な気がしてしまう。ワイルドカードなんだもん、野田戯曲の野田さんって。
そろそろ芝居小屋の妖精には楽屋に収まっていただいて、役者だけで紡ぐ芝居を創ってみてほしいな、と思うんですよね。役者の野田さんも好きだけど、逆に、違う演出家の作品に出てほしい、とも思う。ワイルドカードじゃなくて、「役者」の野田さんに逢ってみたい、という気がします。



新装なったプレイハウスでの初の上演を意識してか、一番最初の場面は「建設中の劇場の楽屋」。
そこにやってきた修学旅行中の学生が、柱に貼り付けられていた未完成の脚本を発見する。「寺山修司」と署名のあるその脚本は、「エッグ」という、不思議なゲームに人生を賭ける人々の物語だった……。

ロッカールームに並ぶロッカーの一つ一つがバラバラに動いて、殆ど唯一の舞台装置として機能する。彼らの目指す「東京オリンピック」が、2020年⇒1964年⇒1940年と、どんどん意味を変えていく中で、物語が東京から満州へと世界を変容させていくなかで、人の出入りにも使われるロッカーだけが、「世界」と「物語」の繋ぎ目としての意味を変えずに存在しつづけていました。
その確固たる存在感と、それが動きまわる「世界」の中で渦をまく言葉たちの空虚。舞台の上に立ち並ぶロッカーたちが、意味を喪って消えていく言葉たちを凝っと眺めているような、そんな感覚がありました。
不思議な体験。物語を理解できたかと言われるとだいぶ疑問だし、面白かったかと問われるとちょっと困る、というのが正直なところなのですが、、、「不思議な体験」をしたような気がしています。

NODA MAP。なかなか観れない公演が多いのですが、もう少しチケットを取る努力をするべきだな、と思いました。……そんな感想ですみません(汗)。




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