Alexという名の"Rex"【2】
2008年1月5日 宝塚(月)月組ドラマシティ公演「A-"R"ex」についての、つづきです。
なんだか、改めて読み返すと意味がわかりにくいですね、昨夜の文章…(反省っ)(っていうか、長すぎ)
あらためてまとめなおそうと思ったのですが……うーん難しい(汗)
非常に興味深い作劇だ、と思いました。
とにかく強く印象に残ったのは、アレックス以外の登場人物がすべて「キャラクター(性格)」を持たない「記号」であったこと、です。
70年代、という時代背景の中で。
舞台装置と簡単な筋書き、そして、記号化された役者たちを残して作者は去り、
唯一の「人間」である「瀬奈じゅん」が、主人公アレックスとして舞台に呼び出される。
二重構造、ということがよく言われますが。
たとえば、「The Last Party」が二重構造である、というのとは根本的に意味が違う、と思いました。
「The Last Party」での“役者”たちは、基本的に作者(植田景子さん)の意図を説明するために設定されているだけ。
あくまでも舞台の上に居るのは「スコット」であって、「YAMATO」でも「OZORA」でもなかった。
あの作品は、本質的に『二重構造』ではなく『二役』というべきものだったと思います。
でも、荻田さんは麻子さんに、「瀬奈じゅん」のまま舞台に立って、「アレックスを演じる」ことを要求する。
これこそがまさに『二重構造』なんでしょう、多分。
麻子さんは、一瞬たりとも「アレックス」にはならない。あくまでも「アレックスを演じる瀬奈じゅん」であり続ける。
こういう構造を作ることで、観客が「瀬奈じゅん」という寓像に対して抱く幻想をも、荻田さんは舞台の中に取り込んでしまう。
そもそも、この役は個人ではなく「宝塚の主演男役」に宛書された役なので、その幻想も強烈です。
あらかじめ筋書きが与えられ、それによって規定された役割(「あなたは闘うために生まれてきたの」)を、言われたとおりに演じることを要求される苦しさや孤独、といったものはその最たるものなのでしょう。
でも。
ある意味、「与えられた役割を必死でこなす」ことは、慣れてしまえばたやすいことです。何も考えなくても、神に与えられた使命を果たせばいいのだ、と思い込むことは。
それが「幼児の幸福」であり、「奴隷の自由」なのだ、と、
…そんなことに、気づきさえしなければ。
その真実に目を向けさせるのが、記号としての“蛇”のお役目。
エデンの園にしのぶ蛇は、ただの悪魔ではありません。彼は「知恵の実」へ目を向けさせることで(決して無理やり食わせたわけではない)、アダムとイヴを“幼児の幸福”の中においておこうとした神の裏をかいただけなのですから。
アダムとイヴが「大人」になったことでエデンの園を追放されたように、
アレックスが『与えられた使命』を超えることを望んだならば、彼は現実の中に放り込まれなければならない。
与えられた枠組みをどう超えるのか、
現実と直面したときに、どう対処するのか、
その方法論には正解はなく、「キャラクター」次第ということになりますが。
結論として、彼はインドで力尽きるという歴史上の事実は変わらない。つまり、「主演男役」がどんなに枠組みを超えようとしても、「宝塚」という枠から出ることは出来ないわけです。インドから先へは行けるはずがない。
だから。
…インドの場面がああいう展開になったのか、と、ある意味とっても納得したのでした……。
記号としての役割を与えた役者たちと、生身の「主演男役」を、
閉じられた「舞台空間」に放り込む。
そこでどんな化学反応が起こるかを楽しみに。
…もちろん、実際に放り込まれるのは「麻子さん」な訳で。荻田さんは、ちゃんと彼女に合わせて、また回りのキャストに合わせて、詳細のつじつまはしっかり構築してくださっているんですけれども。
でも本当に、作品的にはアレックスは主演男役なら誰でも良かったのだと思います。細かい部分は役者によって変わるでしょうけれども、大枠は変える必要はないから。
今回はたまたま月組でしたけれども、他の組だったらどんな化学反応が起きて、最終的にどんな作品になるのか、ちょっと観てみたい気がします☆
かなみちゃんのニケは、役得でしたね☆
すっごい可愛かったし、よく似合ってました。
私は彼女の台詞回しというか、甘えたな声と口調があまり好きではないのですが、今回は嵌っていたと思います。
タキさんに「おいで私の可愛い小鳥」と言われているのが、実に実にお似合いだった(^ ^)。
最後にロクサーヌとして出てきたときは、もう少しなんというか、声はそのままで口調を変えるとかしても良かったのでは、と思いましたが…まぁ、なにもかもニケのまま、の方が荻田さんのイメージだったのでしょう。
ニケは、“誰かの大切ななにか”になりたかったんでしょうね。
萩尾望都の「訪問者」に出てくる、「小さな神様」のイメージがだぶって見えて、ラストがとても切なかったです。
きりやんのディオニュソス/プトレマイオス
人間の「本能」側の象徴である“蛇”にして“狂乱と酩酊”の神。
きりやんという役者がものすごーーく真っ直ぐな人だから、ディオニュソスも本来の歪みを失い、直球でアレックスに誘いかけるキャラクターになったんでしょうね(^ ^)。滅茶苦茶けなげで可愛い神様でした。
色っぽさは………きりやんにソレを求める人はいないので、無問題です(きっぱり)。
シビさんのオリンピア。
「お前を愛していないわけじゃない」という台詞を、ああいう情をこめて言えるのはシビさんだけだな、と思いました。
昨夜の日記で「この作品は芝居じゃない」と書きましたが、シビさんだけは「芝居」をしていたと思います。きちんと「オリンピア」として舞台上にいらっしゃいました。
さすがの貫禄、でした。
きりやんディオニュソスとの色っぽい場面がを期待していたので、それだけが心残りです。シビさんの色っぽい場面、見たことないよー(涙)。
まさお(龍真咲)のヘファイスティオン
私の中ではかなりなヒットでした(^ ^)。
彼女もショースターなんだなあ…。キャラクターのある芝居よりも、記号でいるときのほうが表現の幅が広いなんて(涙)。「部下」でいるときの力強さと、「ヒッピー」でいるときの脆い柔らかさ。柔と剛、両方を表現しきれる人だったとは。
彼女だからこそ、アレックスが神の与えた筋書きを超えてしまったときに、最初に「不安」を覚える役がぴったりで。
うまく宛書してもらったな、と思いました。あと、声が良いっていうのは役者として本当に強みなんですねぇ…(感慨)
おときち(音姫すなお)のタイス
記号としても役としても、ちょっと中途半端な存在で気の毒でした。元々がふんわりした野の花のような人で、“神の道具”としてアレックスを追い詰めるだけの硬さや強さを表現するのは難しかったのでしょうが……うーん、もう下級生ではないからなあ〜(涙)。
歌も、ソプラノしか歌えないのでは歌姫として活躍するにも足枷なので、青年館にむけて、もう少しがんばってほしいです。
一番印象に残ったのは、ヒッピー衣装の似合いようと、スキャットでの声の美しさ。本当に可愛い人なんですけどねぇ…。
(天野)ほたるちゃんのヴァリ
いやー美しかった(*^ ^*)。よく似合ってました。なんといってもあのウザさの匙加減がぴったりだったのが素晴らしい。
「あなたは闘うための存在なのよ」
そんな台詞を、なんの情もなく語れる美女は、ほたるをおいて他にいない、かもしれない…(←いや、多分いる)
歌は壊滅的でも、台詞の声はとてもいい。そして美人。
……きれいなおねえさんが大好きです♪♪
(麻華)りんかちゃんのクレオパトラ
「あたしの結婚式の日に、父は暗殺された。それだけがあたしの存在意義」(意訳)
詠うように、流れるように、凄惨な現実を語り続ける少女。
「あたしはそのために存在したの」
アレックスの「肉親との縁(と情)の薄さ」を象徴する記号として、良い仕事をしていたと思います。卒業生への愛情にあふれた荻田さんと最後に組めて、良かったと思いました。
……もっともっと貴女の芝居を観たかった、あなたの歌を聴きたかった、と思うことは、わがままなの?ねぇ……(涙)。
将軍たち(綾月せり、響れおな、貴千碧)
それぞれ、与えられた見せ場をきっちりこなしていて嬉しかった!
3人とも踊れるけど、貴千碧くんの1幕ラストの踊りが特に印象的。ハロー!ダンシングでもセンターをはっていたダンサーですが、とても良かったです。
響さんは、やっぱり芝居巧者だな、と。すべての場面で表情がすごく良くて、しかもやりすぎることがないのは感心します。ただ、こういう作品なので、「記号」になりきれない彼女がちょっと浮いてしまいがちだったのが残念でした。
せりちゃんは、良い男役になってきましたよね!(嬉)。さすがは上級生で、下級生二人をひっぱっていい仕事してました。髪型もメークも良かったよ!(はぁと)
最後に。
そもそもの設定として、「1970年代」という時代設定があるんですけど、これって、荻田さんにとってどんな意味があるんだろう?なーんて考えてしまいました。
これがもう少し年上の、正塚さんとかそのあたりの年代の人の作品だったらわかるような気がするのですが、荻田さんが70年代について、70年代の演劇界について、あるいは「ヒッピー」について、何をどれほど知っているのか、と思っちゃうんですよね…。
…野田秀樹が「夢の遊眠社」を立ち上げたのが、東大在学中の1970年代後半だったはずなので、そのあたりを意識しているのかな?と思ったりもしますが……どうなんでしょうね(^ ^;ゞ
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なんだか、改めて読み返すと意味がわかりにくいですね、昨夜の文章…(反省っ)(っていうか、長すぎ)
あらためてまとめなおそうと思ったのですが……うーん難しい(汗)
非常に興味深い作劇だ、と思いました。
とにかく強く印象に残ったのは、アレックス以外の登場人物がすべて「キャラクター(性格)」を持たない「記号」であったこと、です。
70年代、という時代背景の中で。
舞台装置と簡単な筋書き、そして、記号化された役者たちを残して作者は去り、
唯一の「人間」である「瀬奈じゅん」が、主人公アレックスとして舞台に呼び出される。
二重構造、ということがよく言われますが。
たとえば、「The Last Party」が二重構造である、というのとは根本的に意味が違う、と思いました。
「The Last Party」での“役者”たちは、基本的に作者(植田景子さん)の意図を説明するために設定されているだけ。
あくまでも舞台の上に居るのは「スコット」であって、「YAMATO」でも「OZORA」でもなかった。
あの作品は、本質的に『二重構造』ではなく『二役』というべきものだったと思います。
でも、荻田さんは麻子さんに、「瀬奈じゅん」のまま舞台に立って、「アレックスを演じる」ことを要求する。
これこそがまさに『二重構造』なんでしょう、多分。
麻子さんは、一瞬たりとも「アレックス」にはならない。あくまでも「アレックスを演じる瀬奈じゅん」であり続ける。
こういう構造を作ることで、観客が「瀬奈じゅん」という寓像に対して抱く幻想をも、荻田さんは舞台の中に取り込んでしまう。
そもそも、この役は個人ではなく「宝塚の主演男役」に宛書された役なので、その幻想も強烈です。
あらかじめ筋書きが与えられ、それによって規定された役割(「あなたは闘うために生まれてきたの」)を、言われたとおりに演じることを要求される苦しさや孤独、といったものはその最たるものなのでしょう。
でも。
ある意味、「与えられた役割を必死でこなす」ことは、慣れてしまえばたやすいことです。何も考えなくても、神に与えられた使命を果たせばいいのだ、と思い込むことは。
それが「幼児の幸福」であり、「奴隷の自由」なのだ、と、
…そんなことに、気づきさえしなければ。
その真実に目を向けさせるのが、記号としての“蛇”のお役目。
エデンの園にしのぶ蛇は、ただの悪魔ではありません。彼は「知恵の実」へ目を向けさせることで(決して無理やり食わせたわけではない)、アダムとイヴを“幼児の幸福”の中においておこうとした神の裏をかいただけなのですから。
アダムとイヴが「大人」になったことでエデンの園を追放されたように、
アレックスが『与えられた使命』を超えることを望んだならば、彼は現実の中に放り込まれなければならない。
与えられた枠組みをどう超えるのか、
現実と直面したときに、どう対処するのか、
その方法論には正解はなく、「キャラクター」次第ということになりますが。
結論として、彼はインドで力尽きるという歴史上の事実は変わらない。つまり、「主演男役」がどんなに枠組みを超えようとしても、「宝塚」という枠から出ることは出来ないわけです。インドから先へは行けるはずがない。
だから。
…インドの場面がああいう展開になったのか、と、ある意味とっても納得したのでした……。
記号としての役割を与えた役者たちと、生身の「主演男役」を、
閉じられた「舞台空間」に放り込む。
そこでどんな化学反応が起こるかを楽しみに。
…もちろん、実際に放り込まれるのは「麻子さん」な訳で。荻田さんは、ちゃんと彼女に合わせて、また回りのキャストに合わせて、詳細のつじつまはしっかり構築してくださっているんですけれども。
でも本当に、作品的にはアレックスは主演男役なら誰でも良かったのだと思います。細かい部分は役者によって変わるでしょうけれども、大枠は変える必要はないから。
今回はたまたま月組でしたけれども、他の組だったらどんな化学反応が起きて、最終的にどんな作品になるのか、ちょっと観てみたい気がします☆
かなみちゃんのニケは、役得でしたね☆
すっごい可愛かったし、よく似合ってました。
私は彼女の台詞回しというか、甘えたな声と口調があまり好きではないのですが、今回は嵌っていたと思います。
タキさんに「おいで私の可愛い小鳥」と言われているのが、実に実にお似合いだった(^ ^)。
最後にロクサーヌとして出てきたときは、もう少しなんというか、声はそのままで口調を変えるとかしても良かったのでは、と思いましたが…まぁ、なにもかもニケのまま、の方が荻田さんのイメージだったのでしょう。
ニケは、“誰かの大切ななにか”になりたかったんでしょうね。
萩尾望都の「訪問者」に出てくる、「小さな神様」のイメージがだぶって見えて、ラストがとても切なかったです。
きりやんのディオニュソス/プトレマイオス
人間の「本能」側の象徴である“蛇”にして“狂乱と酩酊”の神。
きりやんという役者がものすごーーく真っ直ぐな人だから、ディオニュソスも本来の歪みを失い、直球でアレックスに誘いかけるキャラクターになったんでしょうね(^ ^)。滅茶苦茶けなげで可愛い神様でした。
色っぽさは………きりやんにソレを求める人はいないので、無問題です(きっぱり)。
シビさんのオリンピア。
「お前を愛していないわけじゃない」という台詞を、ああいう情をこめて言えるのはシビさんだけだな、と思いました。
昨夜の日記で「この作品は芝居じゃない」と書きましたが、シビさんだけは「芝居」をしていたと思います。きちんと「オリンピア」として舞台上にいらっしゃいました。
さすがの貫禄、でした。
きりやんディオニュソスとの色っぽい場面がを期待していたので、それだけが心残りです。シビさんの色っぽい場面、見たことないよー(涙)。
まさお(龍真咲)のヘファイスティオン
私の中ではかなりなヒットでした(^ ^)。
彼女もショースターなんだなあ…。キャラクターのある芝居よりも、記号でいるときのほうが表現の幅が広いなんて(涙)。「部下」でいるときの力強さと、「ヒッピー」でいるときの脆い柔らかさ。柔と剛、両方を表現しきれる人だったとは。
彼女だからこそ、アレックスが神の与えた筋書きを超えてしまったときに、最初に「不安」を覚える役がぴったりで。
うまく宛書してもらったな、と思いました。あと、声が良いっていうのは役者として本当に強みなんですねぇ…(感慨)
おときち(音姫すなお)のタイス
記号としても役としても、ちょっと中途半端な存在で気の毒でした。元々がふんわりした野の花のような人で、“神の道具”としてアレックスを追い詰めるだけの硬さや強さを表現するのは難しかったのでしょうが……うーん、もう下級生ではないからなあ〜(涙)。
歌も、ソプラノしか歌えないのでは歌姫として活躍するにも足枷なので、青年館にむけて、もう少しがんばってほしいです。
一番印象に残ったのは、ヒッピー衣装の似合いようと、スキャットでの声の美しさ。本当に可愛い人なんですけどねぇ…。
(天野)ほたるちゃんのヴァリ
いやー美しかった(*^ ^*)。よく似合ってました。なんといってもあのウザさの匙加減がぴったりだったのが素晴らしい。
「あなたは闘うための存在なのよ」
そんな台詞を、なんの情もなく語れる美女は、ほたるをおいて他にいない、かもしれない…(←いや、多分いる)
歌は壊滅的でも、台詞の声はとてもいい。そして美人。
……きれいなおねえさんが大好きです♪♪
(麻華)りんかちゃんのクレオパトラ
「あたしの結婚式の日に、父は暗殺された。それだけがあたしの存在意義」(意訳)
詠うように、流れるように、凄惨な現実を語り続ける少女。
「あたしはそのために存在したの」
アレックスの「肉親との縁(と情)の薄さ」を象徴する記号として、良い仕事をしていたと思います。卒業生への愛情にあふれた荻田さんと最後に組めて、良かったと思いました。
……もっともっと貴女の芝居を観たかった、あなたの歌を聴きたかった、と思うことは、わがままなの?ねぇ……(涙)。
将軍たち(綾月せり、響れおな、貴千碧)
それぞれ、与えられた見せ場をきっちりこなしていて嬉しかった!
3人とも踊れるけど、貴千碧くんの1幕ラストの踊りが特に印象的。ハロー!ダンシングでもセンターをはっていたダンサーですが、とても良かったです。
響さんは、やっぱり芝居巧者だな、と。すべての場面で表情がすごく良くて、しかもやりすぎることがないのは感心します。ただ、こういう作品なので、「記号」になりきれない彼女がちょっと浮いてしまいがちだったのが残念でした。
せりちゃんは、良い男役になってきましたよね!(嬉)。さすがは上級生で、下級生二人をひっぱっていい仕事してました。髪型もメークも良かったよ!(はぁと)
最後に。
そもそもの設定として、「1970年代」という時代設定があるんですけど、これって、荻田さんにとってどんな意味があるんだろう?なーんて考えてしまいました。
これがもう少し年上の、正塚さんとかそのあたりの年代の人の作品だったらわかるような気がするのですが、荻田さんが70年代について、70年代の演劇界について、あるいは「ヒッピー」について、何をどれほど知っているのか、と思っちゃうんですよね…。
…野田秀樹が「夢の遊眠社」を立ち上げたのが、東大在学中の1970年代後半だったはずなので、そのあたりを意識しているのかな?と思ったりもしますが……どうなんでしょうね(^ ^;ゞ
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