年を越してしまいましたが、月組ドラマシティ公演「A-"R"ex」について。
…青年館の初日が明ける前に書いておきたいと思っているのですが。
さて、何から書こうかな?(^ ^;




えっと。

開幕前にわかったことについては、11月21日の日記にコメントさせていただきましたが。
http://diarynote.jp/d/80646/20071121.html

この時点ではわからなかったキャスティングとしては。

○プトレマイオスはきりやんが
○ダリウス三世は萬あきらさんが
○世継の母親、ロクサネ(ロクサーヌ)はかなみちゃんが
それぞれ二役(?)で演じていらっしゃいました。

それと、麻華りんかちゃんのクレオパトラは、アレクサンダーの妹でしたね。
天野ほたる嬢のヴァルシネは、元人質のペルシア貴族の娘。アレクサンダーの愛妾としてではなく、幼馴染としての登場でした。

ディオニュソスはアレックスの敵ではなかったし(←というか、敵役は出てこない)、毒殺未遂事件も全然関係なかったなー。

…っていうか、プトレマイオスもヘファイスティオン以下の4将軍も、割とどうでもよかったというか…。まさお(龍真咲)くん以下、将軍役をもらった子たちは、いちおう「実在の人物」ってことでいろいろ勉強したんだろうなーと思うんですが、うーん……。


えっと。
なんちゃって荻田ファンの私ですが。
今回の作品は、非常に興味深かったです。

あちこちのブログ様に伺うと、十人十色にいろいろなことが語られていて、ほうほう、なーるほど、とか思いながら読ませていただいているのですが。

…1幕終わって、最初に思ったのは、「野田作品へのオマージュだな」ってことでした。
っていうか、多分この作品、いつもの「NODA-MAP」メンバー集めてシアターコクーンで上演したら、誰も野田作品だと疑わないと思いますよ?
特に「キル」に似ている。いや、似てるっていうか、完全に「キル」を本歌取りして「A-"R"ex」作られたんだろうな、と思いました。

決して、野田作品をパクっている、とかそんなことを言いたいわけではありません。そこはご理解くださいませ。


全然関係ありませんが、
野田作品に似ている、といえば、藤井大介さんの「から騒ぎ」のときも結構話題になった記憶があります。
私も野田版「から騒ぎ」は観ていましたが、…まー藤井さんは野田さん大好きなのねーと思っただけで(笑)。プログラムにも「尊敬する野田さん」みたいなことを書いていらっしゃったし、まぁ仕方ないかな、って感じで。
ただ、藤井版「から騒ぎ」は確かに野田版をなぞっているところもあって、今回は良いにしても今後作品を生み出し続けていけるのかな?とは思いましたね。ま、その後藤井さんは「イーハトーブ・夢」という名作を生み出してくれたので、私的には問題なし、オールグリーン、というところなのですが(彼の芝居作品における最近の低迷は、また別の問題)。

…関係ないのに藤井さん話してすみませんm(_ _)m。(←だって好きなんだよ!)


荻田さんの場合は、野田作品に似ている、なぞっている、という話ではなく、純粋にオマージュだなーと思ったのですが。
ただ、彼が野田さん方向に進むとはまったく思っていなかったので、驚いたことは驚きました。

野田さんもいろいろな作品を作っていらっしゃるのに「野田っぽい」とか、すごーく大雑把な表現だなあと自分でも思いますが(汗)。
彼は、こんなところで私みたいな素人が一言で表現しようったって、とてもできない偉大なクリエーターですけれども、
すごーく個人的な印象で語らせていただくことをお許しいただけるならば。

遊眠社時代は宛書の人だったと思うのですが。解散してNODA-MAPを立ち上げてからは、どちらかというと先に物語世界を構築して、キャラクターを当てはめていく人になったように感じていました。(うわー、ファンの方に怒られそうだ〜〜〜っ)


それに対して、荻田さんはあくまでも「宛書の天才」というイメージが強くて。

なので、
荻田さんと野田さん、という二人の天才の関係に、すごく不思議な印象を持ってしまうようです。


でも、物凄く納得している私もいます。
荻田さんの外部の芝居もいくつか見ていますが、彼は、宝塚では宛書の天才でいるけれども、本来は「物語世界」を完璧に構築してしまうタイプのクリエーターなのだろう、と思っているので。

本来、彼にとっての「世界」は閉じていて、外部からちょっかいを出す余地はないのです。
閉じた世界の内側で、時間軸は反転し、捩れ、螺旋を描く。狂った因果律。そんな世界に閉じ込もって、目の前にある「今」ではない“時”を探し続ける男が、美々しくも空々しい言葉たちと共に彷徨い続ける…。
宝塚で発表された作品では、「彼」がひとつの出会いをきっかけにその世界から抜け出し、壊れたレコードのように繰り返される時間を止めて新しい朝を迎える、というストーリーが多いのですが。外部の作品では、そのまま、世界ごと自分自身を破壊してしまう、あるいは、肉体の破壊がイコール「世界」からの脱出である、という落ちのものも多い印象があるのですが。

その「世界」(あるいは「過去の夢」)の無謬性が、主人公を追い詰める。そこから逃れるすべはないのだ、と。
夢であればこそのイマジネーションの豊かさが、荻田作品の根底を支えているわけですが。
彼の面白いところは、映像に走ろうとしないところ、ですね。
「完璧な」世界を作ってしまえば、幕が上がってしまえば何が起きるかわからない舞台なんて、怖くてやってられないんじゃないかと思うんですけどね。
でも、荻田さんはその不安はないらしい。映像とのコラボレートには無関心な方ではないと思いますが、それはあくまでも表現の豊かさを求めているだけ。今回の「A-"R"ex」には使わなかったし、それほど傾倒しているわけではないらしい。

たぶん、彼は、「生身の役者」が好きなんでしょうね。
「世界」を完璧に構築して、そこに「生身の役者」を放り込む。そこで、何がしかの化学反応が起こることを楽しみにしている。

野田さんが、自分自身も役者としてその世界の中に入り込んで動くことを自らに課し、むしろ「世界」を壊す方向に動くのとは逆に、
荻田さんは、金魚鉢、いえ、閉じられたアクアリウムケースに水草とプランクトンと小魚を入れて、どんな生存闘争の末に誰が生き残り、どんな“アクアリウム”が出来るのかを楽しみに見守り、待っている、そんな気がするのです。


…だから、私が「なんちゃって荻田ファン」でいられるのだと思うのですけれども。



なんだかどんどん話が撚れてしまうのですが。

2幕まで観終わって、すごーく思ったのは、「お芝居」と「ショー」の境目はどこだろう?ということでした。

「A-"R"ex」は、「お芝居」ではない。
ではショーなのか、といえば、もちろんショーではないわけですが。

でも、どちらに近いものなのか、といえば、私はショーに近いものなのではないかと思いました。

麻子さんが、「アレックス」ではなく、「瀬奈じゅん」として舞台に立っていたから。


「ショー」の定義って何なんでしょうか?(←洒落ではない)

「専科エンカレッジコンサート」はショーなの?
----あれは、全部で28本のお芝居をオムニバスにつないだショーでした。

「まほろば」はショーなの?
----芝居仕立てのショーだったんだと思います。
主要メンバーが通し役として「キャラクター」を持って、その役として舞台に立つ以上、お芝居に分類したいところなんですけど、台詞がない(←あるけど少ない)ので「お芝居」だと言い切るのも難しい。
で、「芝居仕立てのショー」。

ならば、「A-"R"ex」は?

役柄はどれも「キャラクター」のない「記号」でした。
4人の将軍たちも、神様たちも。
その中で、たった独り「キャラクター」を持っているのが、「アレックス」ではない「瀬奈じゅん」だった。

そして。
語られる言葉はどれも「台詞」ではなく「言葉」で。

歌は少ないけど。
言葉は多いけど。

…これって「お芝居」?


荻田作品って、芝居とショーの線引きが難しい作品が多いと思うのです。たとえば「アルバトロス、南へ」なんかも、かなり微妙な位置にありますよね?
…いえ、あの、「芝居」とか「ショー」の定義を決めよう、とか、すべての舞台作品を「芝居」と「ショー」に分類したい、とか、そういう野望に燃えているわけではないんです。
割とどうでもいいことを語っている自覚はあるのですが。

ただ。
「A-"R"ex」という作品の理解しにくさ、というのは、この作品を「芝居」として理解しようとしているからなんじゃないか?、なんて感じたので、ちょっと拘ってみました。

台詞が多いだけに、その台詞を理解すれば芝居が理解できるはず、と思っても、美辞麗句の多い、詠うような言葉の数々は…聞き取っても意味はいまひとつ解りにくい。
ならば、それは「台詞」ではなく、ただの音として受け止めるべきものなのではないか、と。

「言葉」はデジタルなもの。対して、荻田さんが表現したいのはアナログなもの(イメージ)だから、どんなに細かく台詞割りしても、すべてのニュアンスを伝えることはできない。

それを、彼はディオニュソスに楽園を侵す蛇の役割をふることで、
結婚式の哀れな結末に傷ついた妹クレオパトラにオフィーリアの面影と、そして蛇神の嫁取りのイメージをふることで、
なによりも、作品全体を「70年代の舞台の稽古」というアクアリウムケースに入れることで、伝えようとした。


しかも、問題なのは、「瀬奈じゅん」が「瀬奈じゅん」であることに意味があるのか、というと、全然ないっていうところなのだと思うのです。
誰でもよかった。宝塚の主演男役として、その重圧やプレッシャーと戦い続けている者であるならば。

この作品は、瀬奈じゅん、彩乃かなみ、霧矢大夢、という、実力もビジュアルも兼ね備えた月組のトップトリオに宛書した作品ではなく、ただ、「宝塚の主演男役」という「記号」にあて書きした作品である、ということ。
そもそも「宛書」に宛てたものが記号なのに、いざ舞台に立ってみると「キャラクター」なのは「瀬奈じゅん」だけで、あとはすべて記号である、という孤独。
それが「アレックス」の孤独と二重写しになったときに、初めて作品世界が立ち上がる。


残酷な作品だな、と思いました。
荻田さんが「今の月組」に宛てて書くのは、これなのか。
マミ・檀・リカ時代の月組に「螺旋のオルフェ」を書いた荻田浩一が、麻子・かなみ・きりやんの月組に宛てた作品が、これか。

天才っていうのは、残酷な存在なんだな、と……。

今の月組トップトリオに、荻田さんが萌えないであろうことは予想していましたが。
その結果として、こういう作品が出てくるとは思わなかった。
ある意味「興味深い」し、ある意味「怖い」です。

今までだって、荻田さんが萌えていないっぽい役者を主人公にして書かれた作品はたくさんあると思うのです。
その筆頭が、多分「凍てついた明日」なんじゃないかな、と思ったりするし、案外「マラケシュ」もそうかもしれない。
でも、どちらも物凄く「荻田作品」でした。
痛くて痛くて、忘れられない。

なのに。
痛くない荻田作品があるとは思わなかった!

いや、「A-"R"ex」は「A-"R"ex」なりに痛かったし、ラストのニケには泣かされたりもしたのですが。
でも、いつもとは違う痛みだった、のです。

それは、荻田さんが成長して大人になったと解釈するべきなのか?
…それとも、彼は壊れてしまいつつあるのか?

世界の構築技術ばかり完成度があがって、その中に放り込む「キャラクター」の記号度が増していくなら。
私はもう、荻田さんについていくことは難しいかもしれません。

「キャラクター」の記号度が、荻田さんの役者に対する萌え次第であるならば、今までどおり「なんちゃって荻田ファン」のまま、追いかけていけると思うんですけどね。
(「凍てついた…」にはグンちゃんとトウコさんがいたし、「マラケシュ」にはあすかちゃんが居た。でも「A-"R"ex」には、主要キャストには荻田役者は誰一人いなかったんですね…涙)(←シビさんは別枠)


つい荻田さん論を書いちゃったもんで、ありえないほど長くなってしまいました。久々の5千字突破です。すみませんm(_ _)m。
出演者個々についてはまた後日書かせていただきたいと思っています。





…最後にこんなことを書いても誰も信じないかもしれませんが。
「A-"R"ex」、面白かったですよ♪Interesting、な面白さですけど。
この週末に上演されていれば、絶対もう一回観にいったのになあ……。なんで平日6時開演なんてことが許されるんだろう(T T)。



コメント

nophoto
あずき
2008年1月18日13:07

はじめまして。でるふぃさんのバトンを引き継いだうちに一人のあずきです。
A-"Rex"についての感想が、とても近かったので、コメントさせていただきました。
面白かったけど、私にとっても、それはinterestingな面白さであって・・・、この作品に対してあまり愛情がもてないんです。ハッピーエンドっぽく〆ていますが、どうしてもハッピーエンドだとは思えないし。少なくとも、一観客としてはハッピーでは終われなかった・・・う〜ん何て言ったらいいんでしょうね。
でも、自分と似たような感覚でこの作品を捉えている方がいるというだけでも、ちょっとスッキリしました^^。

みつきねこ
みつきねこ
2008年1月19日0:25

あずきさま
はじめまして!コメントありがとうございますm(_ _)m。
でるふぃさまつながりで、時々こっそり読ませていただいていました(^ ^)。

「A-"R"ex」に対する感想について、共感してくださる方がいらっしゃるのが凄く嬉しいです。そうそう、仰るとおり、「一観客として」ハッピーで終わることが難しかったんですよね。
物語がハッピーエンドっぽく〆ているだけに、違和感がぬぐえない。その違和感がどこからきたのか、と考えているうちに、袋小路にはまる……そんな感じでした。
私も同じようなことを考えていらっしゃる方がいらしてとても嬉しいです!よろしければまた遊びにいらしてくださいね♪