今日は、昨日の月組新公の続きを書くツモリだったのですが。
感動が先走ってしまってどうもまとまらないので、先に雪組「凍てついた明日」の続きを書かせていただきたいと思います♪

せっかくリクエストもいただいたので(*^ ^*)、とりあえずテルくんの話を。



初演を観た10年前の、遠い印象をかき集めてみる。

「凍てついた明日〜ボニー&クライド」。

作劇としては、「オーディエンス(と観客)」が外側から眺めている、という外枠を作ったうえで、「ボニーの物語とクライドの物語を交互に語る」という二人主役作品の典型的な手法を使っていて、脚本的にはごくシンプルで解りやすい作品でした。

主人公二人の心象風景の描写が(宝塚というエンターテイメントの舞台としては)抽象的に過ぎるきらいはあったものの、脚本そのものは本当によく出来ていたような気がします(あまり覚えていませんが)。

ただ、役者としてのたーたん(香寿)さんは、非常に落ち着いた“大人”の風貌(と雰囲気)を持っていた人でしたので。
クライド役に求められるキャラクター(若く未熟な“モラトリアム”青年)と外観のギャップが大きく、そのギャップを観客が自発的に想像力(創造力?)で埋めていかなくては物語として鑑賞することが難しかった。
それが、この作品が「難解」と言われ続けたゆえんだったと思っています。



そして、再演された「凍てついた明日〜ボニー&クライドとの邂逅」。

これは、“ボニーとクライドが、なぜジェレミーの農場への小径を寄り添って歩くに至ったか”の物語だ、と思いました。

年末のドラマシティ公演の副題で「如何にして大王アレクサンダーは世界の覇者たる道を邁進するに至ったか」というのを使ってしまったので、今回「農場への小径を寄り添って歩くに至ったか」というタイトルが使えなかったんだろうな、と勝手に解釈しているのですが(^ ^)。

これは、テッドが、ジェレミーが、オーディエンスたちが、“ボニー&クライド”に出会う物語であり、二人が自分の運命と出会うまでの心象風景を描いた物語だった、と思いました。
(再演では、二人は常に同じ風景を見ていたので)



…なんて、偉そうに書いていますけれども、正直、私は「凍てついた明日」の初演は細かいところ、いえ、重要なところも全然覚えていないんですよね(^ ^;ゞ。
どのくらい覚えていないかというと、冒頭でいきなりテッド(緒月遠麻)がセンターで歌いだしても全然驚かなかったし、そもそもフィナーレがないことにも気づいてませんでした…。

いやぁ、我ながら本当に初演観たのか?という感じなのですが。


それにしては、意外と細かいことを覚えていたりもするのが面白いところ。
ロイの振付が違うこととか(←だって、あれでちー坊さんのファンになったんだもん!)、
ボニーの花束の捨て方とか、

クライドがあまり笑わなかったこと、とか。



再演のクライドは、ほとんど常に笑っていました。
微笑み、嘲弄、爆笑、『笑い』にもいろいろありますが、
クライドが笑っていないのは、アニスに対峙しているときだけ、だったような気がします。



…初演と再演は、荻田さんらしく“全く別の作品”だったみたいなので、初演と比較するわけでは全然ないのですが。

私は、再演の方が嵌りました。

初演も十分嵌ったんですよ?泣いたし、どうしてももう一回観たい!と思ったし。初演は歌手が揃っていたので、CD出して欲しい、とも思いましたし。

でも、再演の方が嵌り度は高い。

それは、ただただ「若さゆえの愚かしさ」が必要な作品だから、というのもあります。
荻田さんが成長して、指導力が増したこともあるんだろうと思います。

でも。

大きく違うのは、役者。
みなこちゃんのボニーは、グンちゃんのボニーとは全くキャラクターが違っていて、どっちも凄くよかったと思います。

でも。

クライドと、…そして、ネル(涼花リサ)。
この二役は、再演キャストの嵌りように驚いた二人。
この姉弟の微妙な感情を、きちんと演出したことが、作品の理解度を高めたと思います。


姉には笑顔しか見せないクライド。

初演では、母親役と同じカテゴリーにいた姉が、
再演ではアニスと同じカテゴリーにいた。



姉から涙と一緒に渡された花束を、笑顔でボニーに渡すクライド。

「私が作ったの。ボニーに渡してあげて」と切なげに花束を弟に渡す姉。
眼をそらして受け取る弟。

笑顔で渡された花束を、見ようともせずにそのまま離すボニー。



ネル、アニス、そしてボニー。



凰稀かなめ、という、たとえようもなく美しいヘタレな男役を、
『そのまま』美しいままに舞台にあげた、荻田浩一。
「A-Rex」のときも思いましたが、

……荻田さんって、本当に子供のように残酷ですよね…。


「アメリカン・パイ」の頃から、テルくんの抜群の容姿と抜群のヘタレ度を深く愛していた私ですが。
「男役」としての完成度というのは、観客を感動させるために不可欠のもの、というわけではないんだな、と、改めて思い知らされてしまいました。
「男役」でなくても、力のある演出家に使い切ってもらえるならば、それでいい。それは、舞台役者としてのひとつのあり方です。それを「演出家に愛されている」と言ってもいい。


「凍てついた明日」は、凰稀かなめのための作品ではなかった。
でも、結果的に初演を超えた作品に仕上がったのは、クライドが凰稀かなめだったからだ、と、心から思います。


…そして、
それが役者本人にとって吉と出るか凶と出るか、それはこれからの数年間が過ぎてみないとわからないのだ、と。



今回、「凍てついた明日」を観て。
舞台作品としての「凍てついた明日」に深く感動しながら、
テルくんのファン(?)の一人として、漫画「ライジング!」の仁科祐紀を思いだしていました。
彼女もまた、実力のついていない時代に宛書された「レディ・アンを探して」で華々しくデビューしてしまったばかりに苦労するんですよね。
最終的には、「演じる」ことの本当の苦しさと、それを乗り越えたときの楽しさを知った彼女が、一人前の役者として「レディ・アン」を超えるために戻っていくわけなのですが。

テルくんの、その立っているだけでため息が出そうに美しい容姿とか、脚線美とか、困ったような嘘っぽい笑顔とか、
そういった天与の魅力にうっとりと見惚れながら。
(いや脚線美は今回関係ないけど)

たった一回しか使えないジョーカーを、こんなイレギュラーなカタチで切ってしまった、凰稀かなめ。

このカードはもう使えない。次に主演が回ってきたときには、「一人前の男役」「大人の男」で勝負しなくてはならないのです。


テルくんの、役者としての幸せと、幸せになるための自覚を、心の底から祈って止みません……

とりあえず、この公演が終わるまでは今のこの幸せに浸りつつ。