星組全国ツアー「琥珀色の雨に濡れて/セレブリティ」を観劇いたしました。


柴田侑宏さんの往年の名作の再演。
私は初演は観ておらず、匠ひびきのサヨナラだった2002年の花組版が初見。その時も柴田さんはもう演出はされておらず、今回と同じ正塚さんの演出でした。

あれから、早いものでもう10年が過ぎました。あの頃から少しずつ傾向が見えつつあった柴田浪漫を演じられるスターが育ちにくいという状況が顕著になった今の時代に、貴重な再演だったと思います。
柴田浪漫を上演するには、佳い女が不可欠。謎めいた佳人、何を考えているのかわからない、根は純粋なのに、いろいろなものを否応なく細い肩に背負った美女。

今の夢咲ねねのシャロンを観ることができて、良かったです。
今の音波みのりのフランソワーズに出会うことができて、幸せでした。
男役が軒並み柄違いで苦戦していても、メインの女役二人が嵌っていれば柴田浪漫はなんとかなるんだな、と実感した1時間半でした。
ねねちゃんはるこちゃんに引っ張られて、男役陣も千秋楽には役を掴めますように、と祈りつつ、梅田での観劇を楽しみにしています!(^^)


いやはや、それにしても星組すごいなあ。今のタカラヅカで、シャロンが演じられるのはねねちゃんだけだと思う。ちょっと前なら何人かいたけど、今は本当にいない……ねねちゃんだって、今だから良かったけど、ほんの1年前なら手も足も出なかったと思う。シャロンは、ファンタジックかつ謎めいていないと駄目なんですよね。ちゃぴはファンタジックだけど謎めいてないし(←そこが良い)、、、アンネローゼ次第だけど、3年後の伶美うららちゃんに期待できるといいんだけどなあ。
フランソワーズも難しい。芯の強い貴族の娘で、多少自分の容姿にコンプレックスがあって、、、「私たち、おしまいね」という台詞をああいう風に言えるのは、今は本当にはるこちゃんだけになっちゃったなあ……(T T)。あああ、野々すみ花ちゃんと藤咲えりちゃんの卒業が、今更ながら痛いです。柴田作品は、しばらく回ってこないだろうな宙組。。。テルくんは柴田作品似合いそうなんだけどねぇ(溜息)。



私はチャーリーさんの生硬なクロードがとても好きで、東京で代役を務めた春野さんのクロードは今一つぴんとこなかったのですが、今回礼音くんのクロードを観て、ああ、オサさんはどちらかというならルイのほうが向いてる役者だったんだな、と思いました。なんか世慣れた器用さを感じたんですよね。先に観たのがルイだったせいもあるかもしれませんが。
匠さんは、撃墜王というよりは学生っぽい印象でしたけど(苦笑)、「大貴族のおぼっちゃん」らしい礼儀正しさと傲慢さが同居していたのが好きでした。

礼音くんは、ルイ向きっていうのともちょっと違うんですが、世慣れた感じ、っていうのはあったかな。やんちゃな感じが撃墜王っぽくはあるんだけど、むしろ「銀河英雄伝説」の撃墜王たちみたいなイメージで、、、ああいうのはどちらかといえば第二次世界大戦のアメリカ空軍っぽい気がするんですよね。第一次世界大戦の空軍はほぼ貴族のお坊ちゃんたちの溜まり場で、第二次世界大戦になってやっと空軍にも庶民が入ったという話を聞いたことがありますが、なんかそんなイメージでした。(←ちゃんと調べたわけではないので、違っていたらすみません)

まさこちゃん(十輝)のルイは、嵌り役!でした。
いやはや恰好良い(*^ ^*)。一緒にトランブルーに乗ろう、ホテル代も持つよ、とクロードに言われたときの「鷹揚だねえ~(苦笑)」とか、ホテルでシャロンを口説く場面の「このあたりで認めてしまいなよ」の言い方とか、もううっとりします(*^ ^*)。
礼音くん、ねねちゃん、まさこちゃん、はるこちゃんで歌い継ぐ「セ・ラ・ヴィ」は、、、、まあ、かなり覚悟をもって聴いたので、あまり気になりませんでした(汗)。どうぞみなさま、そこは十分に期待値を下げておいてくださいね(^ ^)。




恋が終わっても思い出は残る……透明な雨の向こうに、琥珀色の湖がひろがるように。
いやはや、久しぶりに「宝塚の名作」に触れられて、幸せでした。

思い出を抱えたまま、フランソワーズと静かな生活を送るクロードを想像すると、なんだかドキドキします。いつかどこかでまたシャロンと出会ってしまったなら、今度こそすれ違うのか、それとも、今度こそ汽車に飛び乗るのか。それがわからないから。
先の見えない人生を歩きつづける、琥珀色の闇の中を。

この作品は、「バレンシアの熱い花」などに通じる、『身分違いの恋』の物語なんですよね。時代はだいぶ違いますが。
柴田作品の『身分違いの恋』は、身分が違うから諦めるという話じゃないところがすごく好きです。シャロンも、イザベルも、自分で自分が生きるべき世界を選んで男の許を去るんですよね。彼女には彼女の世界があって、貴族の玉の輿に乗ることがイコール幸せじゃない。だからといって、この時代の男が、貴族社会を離れて自分のところに来てくれるはずがないことも判っている。諦めるんじゃなくて、もちろん棄てられるのでもなくて、男のモノになることを拒む、誇り高い、自立した女。 私が柴田作品を好きなのは、自尊心の高い女性が主役だからなのかもしれません。ヒロインでなくても、2番手や3番手クラスに佳い女がいることが多いから。誇りゆえに男の許を去り、誇りゆえに死を選ぶ、譲らないものを持った女性は美しいから。

シンデレラストーリーじゃない。王子さまと結婚して幸せに暮らしました、というおとぎ話じゃない。柴田作品の女は、みんな男と出会う前から真剣に生きていて、男よりも自分の世界を、自分のプライドを選ぶんですよね。
茶番劇でもない、「ゴタゴタ」でもない、人生を変えた恋。
お互いに恋を終わらせて元の世界に戻ったようにみえても、もう人生は変わってしまった。世界は変わってしまった。世界のどこかに、琥珀色の雨が降っているかぎり。心のどこかに、琥珀色の雨が降り続けているかぎり。

そんな風に考えた時、今の時代に柴田浪漫を演じられる役者が育たないのも無理はないのかもしれない、とも思いました。時代が求めるのは「優しさ」や「平等」「公平」であって、「誇り高さ」というのは求められないものなのかな、と。
身分制度、というのは、その身分にみあった「責任」と表裏になっているもので、「平等」というのは、言葉は綺麗でも、無責任になりやすい。生まれながらに責任を課せられた存在がいないから、誰も責任を取らなくなってしまうのです。
「貴族」が「ノブレス・オブリージ」を自覚していた時代。彼らが誇りをもって生きていたということは、その下の層も、それぞれに自分の生き方、生きる世界に誇りを持っていたんだと思うのです。酒場の踊り子には踊り子の誇りと意地が。まして、新しい時代のマヌカンには、マヌカンの誇りと意地があったはず。
でも、そういう誇りと意地が、今の時代からはどんどん消えていっているような気がするんですよね。小説を読んでも、あまりそういう設定のものはなくて人々はみんな「平等」に憧れている。上に立つ者として責任を取るのは大変なことだから、誰もがそこから逃げているような気がしてならないのですが。

ただ、興行界っていうのは最後に残った「身分制度」の砦みたいなところがあると思うんですよね。座長がすべての責任を取る代わりに、ある程度好きなようにやれる、という意味で。
宝塚は、歌劇団という組織の中のトップスターだから完全な「座長」とは違うけど、誇り高くあらねばならないのは同じだと思う。だから、時代がどんなに変わっても、ああいう「身分違いの恋」を誇り高く演じられるスターがいる、上演できる劇団であってほしい、と思います。
本公演で上演するのは客入り的に問題があるのだとしたら、たとえば若手のワークショップとかでやってくれないかなあ。若い演出家も勉強になるだろうし。たまきち&ゆめちゃんで「琥珀」とか、キキちゃん&べーちゃんで「大江山」とか、咲奈&あんりちゃんで「バルセロナ」とか。このまま上演の機会が減っていったら、役者も育たないよ……(T T)。



そういえば。2002年の公演を観た時も、家に帰ってイタリアのガイドブックを調べたっけなあ。景勝地としてのマジョレ湖のことはいろいろ書いてあったけど、「琥珀色の雨」の伝説については一言も言及されていなくて、あれ?と思った記憶が。あの伝説自体、柴田さんの創作なのかなあ?それとも、現地では言われているのでしょうか。