大空祐飛さんが花組に異動して、ちょうど一年が過ぎました。

……早いものですね。本当に。





ほとんど卒業公演のつもりで通いつめた「Hollywood Lover」。
月組ファンでもあった猫にとっては、月組から卒業したら、あとはもう余生くらいに思っていたのに。


今、あんなにも楽しそうに、そして何より幸せそうに舞台に立っている祐飛さんを観るたびに、涙がでるほど幸せな気持ちになります。
何度も書いていますが、暖かく迎えてくださった花組のみなさまには、心から感謝しています(; ;)。ありがとう!





…と、いうわけで、
今日観たわけではないのですが、先週遠征したときの花組公演のレポートを。




正月休みに観てから、半月。
一番「変わった」!と思ったのは、まとぶんのタムドクでした。
いかにも裏のない「真っ白な」二枚目っぷりに終始した役作りから、少しずつですが懐の深さを感じさせる王者像を創りつつあったと思います。

小池さんの作品って、割と単純な「勧善懲悪」モノになりやすいのですが(←それこそ“宝塚的”潤色の天才、と呼ばれるゆえん)、私みたいなひねくれたファンには、それだと物足りなかったりするんですよね。でも、タムドクがなぜ王位を拒否するのか?が見えてくると、ドラマが重層化して面白くなってくるんです。
ヨン・ホゲが玉座を欲するのは、ある意味当然のお約束。それだけではドラマとして弱い(ひねくれ度が足りない)。

なぜタムドクが玉座を拒否するのか?
命を救ってくれたキハをさえ疑わなくてはならない父王を幼い頃から見てきて、そんな立場になりたくないと思っていた、から。
だからこそ、父王の死を知って、「自分はヤン王のようではなく、“愛に満ちた世界”を創るために王になるのだ」という自覚を得て、神器を集める決意をしたのだ……
という流れがきっちり見えてきたのが、すごく納得できました。



あとは、まとぶんの癖なのかな?すこーし早口なのと、台詞の語尾を少し切り捨てるように言うのが一本調子で乱暴者っぽい口調になりがちなのが変われば、すごく良いんじゃないかと思います(はぁと)
「街へ独りで出たことがないんだ…(こんなんじゃ)君を案内できない」という台詞とか、これはアランじゃなくて深窓の皇子様なんだから、あんまりぶっきら棒に言わないで、ゆっくり間をとって落ち着いて喋ってほしいんですよね。
可愛い女の子の前で緊張している、っていう芝居ともまた違うし。



あと、キハはホントはやっぱり、もう少し歳上の役作りでお願いしたいなあ。
ホゲ様を相手にしているときは良い感じなのに、まとぶん相手になると途端に純情少女になるのが……それだけタムドクが素敵だってこと!?って感じなんですけど(汗)、
特に、この「独りで出たことがないんだ…」の場面は、
タムドクが王として自分の進むべき道に迷っているときに、王たるべき彼を認め、守ろうとしてくれた初めての女なわけですから。
もっともっと大人な、タムドクを守ってあげたいくらいの感じでいいと思うんですよね…。

今のままじゃ、何もわからない子供に「あなたは王だもの、きっと素敵な王様になるわ!」とかなんとか言われてその気になっちゃった莫迦皇子、みたいじゃないですか(T T)。





そして、そのチュシンの王の目覚めを目前で見たホゲは惑う。
…俺は、何のために玉座を望むのか?と

チュシンの星の輝く夜に生まれたから?
王座を切望していた母(本当は、自分が玉座に座りたかった)のために?
(幼い頃から王たるために鍛錬を重ねてきた)自分自身への褒美として?

タムドクは、世界を支配するためではなく、新しい世界を創るために、
忌避してきた玉座を希むことにした。

…ならば、自分は?


自分の手の中に何もないことに気づいたとき、“英雄”としてのホゲは、壊れてしまう。
他人(母だけど)の希みを自分の望と見間違えたときから、少しずつ始まっていた崩壊が、自分の真実の希みが何か見失ったことを知って、歯止めが外れてしまう。

そこにつけこんだプルキルの悪意が、怖かった。



最初に観たとき、私はごく素直に「どうしてプルキルはそんなにホゲに執着するんだろう?」と思ったんですよね。
実はホゲが好みのタイプだったのか?とか、勝手に邪推してたりしたんですけど(苦笑)。

今回あらためて観て、プルキルは最初から知っていたのかもしれないな、と思いました。
最初から、ホゲがチュシンの王ではないことを知っていた
チュシンの王ではないからこそ、自分の付け入る隙がある。
自分の思うように操ることができるだけの、隙が。

炎の巫女の預言を与えて、ホゲの魂を闇に堕し、自分のものにする。
英雄でもある彼をうまく操って、神器を集めさせる。真実のチュシンの王が座る玉座でないならば、神器さえあればどうにでもなる。
……そんなことを考えていそうな感じ。

真実のチュシンの王が座ってしまえば、神器を集めたくらいでどうなるものでもない。
それこそ、チュシンの王の血を引く子供の血で神器を洗うとか、そういう困難な儀式を必要とする。
…だったら、嘘で玉座を埋めてしまえばいい、と。





そうしてホゲは、「あなたこそチュシンの王なり」との預言を与えてくれた炎の巫女に縋りつく…。

それは最初から、愛ではなく、執着だった。
自分がキハを愛していないことを知りながら、
キハが自分を愛していないことを知りながら、
それでもキハを手放すことができない。キハがいなければ、自分はチュシンの王でいることができないから。

紅玉と引き換えにキハをプルキルに渡したとき。ホゲは自ら、炎の巫女の預言さえ否定する。
「俺はチュシンの王ではない。…だが、そんなことは関係ない」
俺は、高句麗の王になるのだから、と。


どんな国を創るのか。
ここに到ってもまだホゲははっきりとしたイメージを持つことができない。
彼は英雄。偉大な王を得て仕えることができることが、彼にとっても国にとっても一番の幸せ。
そして、その次の幸せは、平時の王となることだった。

でも、今は変革の時代。チュシンの星が輝きを放った後。
平時の王は勤まっても、導く先の見えない英雄に、変革を乗り越えることは出来ないだろう。
…“チュシンの王”でなければ。









ところで。

キハとホゲの「愛の無い結婚」の場面での、騎馬隊長の(祐澄)しゅん様(チョク・ファン将軍)の芝居が変わっていたんですけど……いつからなのっっ!?
正月休みに観たとき、ホゲ様をじぃーーーーーっと凝視するチョク・ファンの視線の強さに、真剣に心が震えたんですけどっ!

なんか、こないだは普通にパーティーの客と談笑していて、ホゲ様の方なんて全然見てなかったんですけど(T T)。ええーーーっ、なんでぇー?小池さんに注意されたんでしょうか…ぶつぶつ。


靺鞨(まっかつ)での戦闘場面で、ホゲの方針(虐殺してでも神器の情報を集めろ)に真っ向から反対したチョク・ファン。私は、この場面を見るたびに、小野不由美さんの「十二国記」シリーズの短編集、「華胥の幽夢」に収録された「乗月」を思い出します。

「王」の間近で、その「王」の悪政に悩んだ重臣が、王を討った、その後の物語なのですが。
重臣がその「王」のことを語る場面がとても印象的で。

『今から思えば』と、小野氏の筆は地の文で喝破する。
『彼は、王の転落をあれ以上見ていたくなかったのだ。なぜそんな、自らに泥を塗るようなことをする、自らを玉座と誉れから追い落とすようなまねをするのだ、と叫びたかった』

話自体は「太王四神記」とは全く関係のない物語なのですが、この靺鞨での場面と、その後の結婚式でのチョク・ファン将軍の苦しみは、そういうことなのかな、と思ったんですよね。
武芸には自信のあった自分でさえ、「腕を磨いて出直します!」と言わざるをえない英雄が、誰からも愛されて、市民たちにも人気のある御曹司が、なぜそんな愚かな真似をするのか!?と。

虐殺などしなくても、無理な戦争を始めなくても、
そもそも神器などなくてもいいじゃないか!…と。

『チュシンの王』でなければ王座に就けないわけではない。
実際、ヤン王は神剣を胸に享けて死んだ。ということは、「真の王」ではないということ。
4つの神器を集めなくても、玉座に就くことはできるのだ。
タムドク皇子を斬って、天地神堂を切ればいい。
どうせ五部族会議(選帝候みたいなもの)はヨン・ガリョに掌握されている。
放っておいてもホゲを推すはず。

なのになぜ、罪を犯してまで『チュシンの王』にそんなに拘る?



結婚式で食い入るようにホゲ様を見凝めるしゅん様を見ながら、そんな妄想の声を聴いていたのですが。
……違ったのか……ちぇっ(涙)



まぁ、チョク・ファン将軍は最後までホゲについているわけで(←そりゃそうだ)、
そんなに思い詰めて、チョク・ファンがホゲを討ってしまったら話がひっくり返ってしまうので。

仕方ないかな、と思ったりもしつつ(汗)。





世間一般では、こういう(食い入るようにホゲを凝視している)イメージがあるのはイルス(日向燦)のようですが。
イルスさんは、元々ヨン家の家司みたいなので、ある意味ホゲに従うのは当たり前なんですよね。
元々騎馬隊長という役職にあり、ヨン家の者ではないはずのチョク・ファンが惚れてしまう(←妙な意味ではありません)ところが好きだったんだけどなー。なんといっても、イルスはホゲに従うばかりで反論がないところが萌え足りない(苦笑)。



ホゲ様のラストで、全身で絶叫するマメちゃんと、小さく呟きながら(←ほとんどマイクには入ってない)、呆然と崩れるしゅん様。私はストイックな人に弱いのかなあ(*^ ^*)。