銀ちゃんの嘘【13】
2009年1月3日 宝塚(花)早く終わらせたいので、さくさく行きます。
花組ドラマシティ/青年館公演「銀ちゃんの恋」について。
とりあえず、どこかで書こうと思っていたんですが、この作品の時間の流れについてここでまとめておきたいと思います(最後まで書けるかわからないので)。
まず。
ヤスのアパートに小夏を連れてきたとき、小夏は『4ヶ月』でした。
で、前にもどこかで書きましたが(いっぱいありすぎて探せない…)、このとき季節は6月か7月頃。雷雨があったってことはたぶん梅雨の終わりがけ、7月頭くらいだったんじゃないかと思います。
4ヶ月ってことは16週。単純計算して、年末くらいが予定日になるのかな?
このあと、ヤスが仕事を探して…それなりに稼いだりアレコレしているうちに1ヶ月くらいは軽く過ぎるでしょう。
で、8月頭くらいにプールサイドテラスの対決があって、その日に帰ってきてプロポーズ。
お盆には人吉に帰る、と。
はるばる九州まで行くんだから、安定期の5ヶ月か6ヶ月くらい。7月頭に4ヶ月だったとしたらだいたい妥当なセンですね。で、そこで挨拶したときはまだお腹はちいさかった訳で。
ところで、
…人吉の盆は旧盆でいいですよね?
#昔住んでいた九州の某地域では、七夕は旧暦(8月7日)にやるけど盆は新暦(7月)だったんですよねー。あれは結構不思議でした。
一幕ラストに撮影所で会ったときは、えらく腹がでかいんですけど、まだ結婚式前。
カレンダーも翌年のミュージカルの計画もだいたい決まって、でもまだ外部への発表前、な感じ。……ってことは、8月末か9月頃?と思ったのですが。衣装的にはあまり残暑厳しい頃っぽくないし、小夏の腹も随分育っているので、10月に入ってすぐくらいかな?と。(適当ですが)
初産であの大きさってことは、8ヶ月くらい…?とか思ってしまいましたが、せいぜい7ヶ月ちょいってとこか。個人差なのかな。
……そういえば、このとき小夏は撮影所に何しに来たんでしょうかねぇ?監督たちに挨拶でもしにきたのか?
腹帯を貰ったのは結婚式の後なんですよね。「結婚式の御礼にご馳走を」みたいなこと言ってたし。
ってことは、結婚式が10月の大安吉日。その翌週か翌々週くらいに挨拶兼ねて差し入れに、って感じ?となると10月後半か11月頭。そのとき小夏は、8ヶ月を過ぎたくらい。
帯祝いは普通5ヶ月目だと思っていたのですが、9ヶ月目って地域もあるみたいだし、いろいろなんでしょうか。小夏はたしか群馬の出身だから……(←わかりません)
同じ頃、ヤスは「階段落ちやります」と言って銀ちゃんと気まずくなってる。
ただし、それを言った時点で、すでにヤスは
「最近、立ち回りの時も全然本気で斬りかかってくれないし」
と拗ねているので、銀ちゃんの態度が変わったのは一幕ラストの小夏とのやり取りから、なのでしょうね。
あの会話で、銀ちゃんは「ヤスに預けておいた」だけのつもりだった小夏が、もう戻ってこないことを知り、そうしてヤスが自分の腕の中から飛び立とうとしていることに気づいてしまった…。
もう、気安く殴ったり蹴ったりしてはいけないのかもしれない、と。ほんのちょびっとだけ、そう思っている。その遠慮(?)を、ヤスは見逃さない。ヤスにはヤスのわだかまりがあって、ある意味銀ちゃんに殴られないと、そのわだかまりが綻びない。ヤスにとっては、銀ちゃんに殴られない=殴られる距離にいられなくなった、ということだから。
そんな微妙なバランスの、細い細いライン上を歩く二人。まるでフィギュアスケートのコンパルソリのように、決められたラインを一ミリでも外れたら失格になると思っているかのように。
そんな、銀ちゃんとヤスの間がこじれて、すれ違っている時間が、1ヵ月半くらい。
ここは、場面的にはまったくの空白です。焼肉屋の時期は、明示されていないけども階段落ち前夜と考えて問題はなさそうだし。
で、階段落ち前夜。コタツも出ているし、あからさまに真冬。テーブルの上の可愛いラスカル(←嫌味ですかソレは)とか、もしかしてクリスマスの翌日とかですか?と思ったりしました。
ヤスが「銀ちゃんに似てるからつい買っちまったんだよ…」とか言って小夏にプレゼントしたのよきっと♪(←無いから)
で、この時はもう「今にも生まれそう」な感じ。
ほぼ予定日っぽいので、小夏がヤスのアパートに連れていかれてから、約5ヵ月半(24週)が過ぎていると思っていて間違いなさそう。
とりあえず、気忙しい年の瀬、なんですよね、多分。
二人が一緒に暮らし始めて、半年弱。
小夏が選んだのは、五年を共に過ごした「スタァ」ではなく、「傍に居てくれる人」だったはずなのに、
ヤスも飛んでいってしまうのだ、と、
……男とは、決していつまでも傍に居てはくれない“いきもの”なのだ、と……。
ってなところで、舞台に戻ります。
第十四場D 生命保険
上下から塀のセットが出てきて、立ち竦むスターを隠す。
と、袖から登場する小夏と、銀ちゃん組の大部屋3人、そして、保険屋(紫陽レネ)。
紫陽さんのお芝居、ドラマシティの最初の頃は空回りしていたりしたところもありましたが、後半から青年館にかけて本当によくなっていったのが印象的でした。
橘のマネージャー、「ししとう」のバーテン、保険屋、池田屋……どれも一人の人が演じているとは思えない多彩な役作りはさすが!!石田さんの信頼篤い名役者、って感じでしたよね♪
特にこの保険屋は、身体能力の高さもしっかりアピールしてくれて(笑)、毎回“今回は何回転するのかなっ!?”と楽しみにしておりました。
マメちゃん・さあやと同期では色んな意味で役を勝ち取るのが大変そうですが、楽しみな役者さんで嬉しかったです。太王四神記では、どんな役どころにいらっしゃるのかなあ~(^ ^)
最後の引っ込みでの「ハンコくだささいぃぃぃ~」という声というか言い方がめちゃめちゃ好きでした☆
もちろん、容赦なく突っ込みまくって足をひっつかんで無碍に引っ張っていくマコトの男らしさも大好きです(^ ^)一期下とは思えない遠慮のなさが、とってもステキ☆
第十五場 回想
「俺と銀ちゃんが出会ったのは、もう10年も前のことだ…」
塀の陰から姿を現したヤスが、野球帽を被りながら語りだす。
帽子を被ると10年前、脱ぐと今、という(一応)設定らしいのですが……うーん、もう少し芝居(声とか仕草とか)で10年前になってほしかったなーと思ったりはしました。
あまり大きな動きがない場面なので、難しいんだろうなと思いますが。
もう“いっぱしのスタァ”だった銀ちゃんと、そのファンの会話、なのかな、あれは。
それとも、ヤス自身何かスタッフとして撮影所の中に入ってたとかなのでしょうか?
「へぇー、おめぇ大学出て舞台やってんのか」
「はい!新劇です。チェーホフとか、赤毛ものを」
「そぉか!だからおめぇ、華がねぇんだよ!」
………(無言)。…ま、わからんでもないですが。
銀ちゃんの言いたいことは、多分「良い映画にはスタァが必要である」ってことなんでしょうね。
映画は映像ですから(もちろん)、観方が限定されます。フレームの中におさまったものしか伝えられないわけですし、もともと2次元で完成された映画は、その製作者が意図した見え方しか、基本的にはできないものです。
だから、“華”のある役者が一人居れば、それだけで画面がキまるわけで。
まずはそれがないと、どんなに脚本がよくても芝居が良くても、「映像」が良くなければ価値がないわけです。だって、その映像しか存在しないんだから。
でも、舞台はそもそもが3次元だから、映像と違い、見え方を製作者(演出家)が完全にコントロールすることは不可能なわけで。逆にいえば、「映像」としての完成度というのは全く要求されないわけです。
しかも、映像の片隅でいくら小芝居しても、フレームを外してしまえば観客に見せないでおく(あるいは撮り直すとか)ことができますが、舞台の片隅の小芝居は、ナマだから止めることもできないし、やりすぎれば舞台全体を壊してしまうことも可能。
でも。
舞台に狎れてしまえば、“映像向き”の華やかさ、目を惹く力といったものが薄れてしまうのは確かなのかもしれません。舞台の空気を動かすことと、映像で目を惹く華は、同じように見えて全く違うものですから。
両方を兼ね備えた稀有なスタァは、確かに存在しますけれども。
それは決して、多数派ではあり得ない。
それに気づいたとき、ヤスは銀ちゃんの歩く道を追いかけてみたい、と思う。
どんな道を往くのか、純粋な好奇心、で。
自分自身の運命の岐路の、一方を選んでしまったのだと、この時は気づかずに。
そして、10年後たっても尚、その選択を悔やむことはなかった……。
ここで。
「大学出のインテリ役者」だったヤスと、すでに「“若手スター”の一人」だった銀ちゃんが、ほぼ同い年なのは、大事なことではないんでしょうね、きっと。
精神的には、どっちも子供だったんですから。
ヤスは、終始この作品の事実上の主役(の片割れ)として舞台に立ちます。
物語は常に小夏とヤスの視点で語られ、結果として銀ちゃんという一つの容を描き出す。
銀ちゃんという「理不尽で酷いモノ」、人外の暴力的な存在を描き出すことで、その“嵐”に依存せずにはいられない弱い人間を描き出す物語だから。
だから。
ヤスという平凡な男、普通に大学を出て、趣味の芝居を楽しみつつサラリーマンをするはずだった男から“平凡な幸せ”を奪い、狂わせたのは、銀ちゃんという悪魔だった、と。
銀ちゃんと出会ったことで、ヤスの人生は“平凡”ではなくなった。
彼の無意味だった人生が、そこではじめて意味を持つのかもしれない。
倉丘銀四郎はナチュラルに悪魔だから、悪意はない。
そう。悪魔に悪意はないのです。
彼はただ、ヤスの幸せを祈っているだけ。
小夏に幸せになってほしいだけ。
それが、二人にとって迷惑以外のなにものでもなかったとしても、
そこにあるのは常に「愛」であり、「祈り」でもあった。
だからこそ銀ちゃんとヤスは、離れられない。
俺のものは銀ちゃんのもの。
両手いっぱいに宝を抱えたままで、天国の門をくぐることはできないから。
その全ての“価値あるもの”を、銀ちゃんに捧げたい。
その、依存。
銀ちゃんに渡したから、もう大丈夫、という依存。執着。
そして。
ヤスのものは俺のもの。
ヤスの全てを捧げられて、その全てを受け取らなくてはならないプレッシャー。
それでも、ヤスが捧げてくれるから自分でいられる、という依存。
ヤスがいなくては、自分の存在を確認できない、執着。
それでもヤスは、一歩を踏み出そうとする。
10年間守られてきた腕を振り払い、新しい一歩を踏み出そうとする。
好奇心に負けた10年前から、一歩も成長しなかった、成長することを拒否していた男が、
久しぶりに一歩を踏み出そうとする。
小夏のため、ではなくて、
……ただ、銀ちゃんのため、
銀ちゃんのためだけ、に……
.
花組ドラマシティ/青年館公演「銀ちゃんの恋」について。
とりあえず、どこかで書こうと思っていたんですが、この作品の時間の流れについてここでまとめておきたいと思います(最後まで書けるかわからないので)。
まず。
ヤスのアパートに小夏を連れてきたとき、小夏は『4ヶ月』でした。
で、前にもどこかで書きましたが(いっぱいありすぎて探せない…)、このとき季節は6月か7月頃。雷雨があったってことはたぶん梅雨の終わりがけ、7月頭くらいだったんじゃないかと思います。
4ヶ月ってことは16週。単純計算して、年末くらいが予定日になるのかな?
このあと、ヤスが仕事を探して…それなりに稼いだりアレコレしているうちに1ヶ月くらいは軽く過ぎるでしょう。
で、8月頭くらいにプールサイドテラスの対決があって、その日に帰ってきてプロポーズ。
お盆には人吉に帰る、と。
はるばる九州まで行くんだから、安定期の5ヶ月か6ヶ月くらい。7月頭に4ヶ月だったとしたらだいたい妥当なセンですね。で、そこで挨拶したときはまだお腹はちいさかった訳で。
ところで、
…人吉の盆は旧盆でいいですよね?
#昔住んでいた九州の某地域では、七夕は旧暦(8月7日)にやるけど盆は新暦(7月)だったんですよねー。あれは結構不思議でした。
一幕ラストに撮影所で会ったときは、えらく腹がでかいんですけど、まだ結婚式前。
カレンダーも翌年のミュージカルの計画もだいたい決まって、でもまだ外部への発表前、な感じ。……ってことは、8月末か9月頃?と思ったのですが。衣装的にはあまり残暑厳しい頃っぽくないし、小夏の腹も随分育っているので、10月に入ってすぐくらいかな?と。(適当ですが)
初産であの大きさってことは、8ヶ月くらい…?とか思ってしまいましたが、せいぜい7ヶ月ちょいってとこか。個人差なのかな。
……そういえば、このとき小夏は撮影所に何しに来たんでしょうかねぇ?監督たちに挨拶でもしにきたのか?
腹帯を貰ったのは結婚式の後なんですよね。「結婚式の御礼にご馳走を」みたいなこと言ってたし。
ってことは、結婚式が10月の大安吉日。その翌週か翌々週くらいに挨拶兼ねて差し入れに、って感じ?となると10月後半か11月頭。そのとき小夏は、8ヶ月を過ぎたくらい。
帯祝いは普通5ヶ月目だと思っていたのですが、9ヶ月目って地域もあるみたいだし、いろいろなんでしょうか。小夏はたしか群馬の出身だから……(←わかりません)
同じ頃、ヤスは「階段落ちやります」と言って銀ちゃんと気まずくなってる。
ただし、それを言った時点で、すでにヤスは
「最近、立ち回りの時も全然本気で斬りかかってくれないし」
と拗ねているので、銀ちゃんの態度が変わったのは一幕ラストの小夏とのやり取りから、なのでしょうね。
あの会話で、銀ちゃんは「ヤスに預けておいた」だけのつもりだった小夏が、もう戻ってこないことを知り、そうしてヤスが自分の腕の中から飛び立とうとしていることに気づいてしまった…。
もう、気安く殴ったり蹴ったりしてはいけないのかもしれない、と。ほんのちょびっとだけ、そう思っている。その遠慮(?)を、ヤスは見逃さない。ヤスにはヤスのわだかまりがあって、ある意味銀ちゃんに殴られないと、そのわだかまりが綻びない。ヤスにとっては、銀ちゃんに殴られない=殴られる距離にいられなくなった、ということだから。
そんな微妙なバランスの、細い細いライン上を歩く二人。まるでフィギュアスケートのコンパルソリのように、決められたラインを一ミリでも外れたら失格になると思っているかのように。
そんな、銀ちゃんとヤスの間がこじれて、すれ違っている時間が、1ヵ月半くらい。
ここは、場面的にはまったくの空白です。焼肉屋の時期は、明示されていないけども階段落ち前夜と考えて問題はなさそうだし。
で、階段落ち前夜。コタツも出ているし、あからさまに真冬。テーブルの上の可愛いラスカル(←嫌味ですかソレは)とか、もしかしてクリスマスの翌日とかですか?と思ったりしました。
ヤスが「銀ちゃんに似てるからつい買っちまったんだよ…」とか言って小夏にプレゼントしたのよきっと♪(←無いから)
で、この時はもう「今にも生まれそう」な感じ。
ほぼ予定日っぽいので、小夏がヤスのアパートに連れていかれてから、約5ヵ月半(24週)が過ぎていると思っていて間違いなさそう。
とりあえず、気忙しい年の瀬、なんですよね、多分。
二人が一緒に暮らし始めて、半年弱。
小夏が選んだのは、五年を共に過ごした「スタァ」ではなく、「傍に居てくれる人」だったはずなのに、
ヤスも飛んでいってしまうのだ、と、
……男とは、決していつまでも傍に居てはくれない“いきもの”なのだ、と……。
ってなところで、舞台に戻ります。
第十四場D 生命保険
上下から塀のセットが出てきて、立ち竦むスターを隠す。
と、袖から登場する小夏と、銀ちゃん組の大部屋3人、そして、保険屋(紫陽レネ)。
紫陽さんのお芝居、ドラマシティの最初の頃は空回りしていたりしたところもありましたが、後半から青年館にかけて本当によくなっていったのが印象的でした。
橘のマネージャー、「ししとう」のバーテン、保険屋、池田屋……どれも一人の人が演じているとは思えない多彩な役作りはさすが!!石田さんの信頼篤い名役者、って感じでしたよね♪
特にこの保険屋は、身体能力の高さもしっかりアピールしてくれて(笑)、毎回“今回は何回転するのかなっ!?”と楽しみにしておりました。
マメちゃん・さあやと同期では色んな意味で役を勝ち取るのが大変そうですが、楽しみな役者さんで嬉しかったです。太王四神記では、どんな役どころにいらっしゃるのかなあ~(^ ^)
最後の引っ込みでの「ハンコくだささいぃぃぃ~」という声というか言い方がめちゃめちゃ好きでした☆
もちろん、容赦なく突っ込みまくって足をひっつかんで無碍に引っ張っていくマコトの男らしさも大好きです(^ ^)一期下とは思えない遠慮のなさが、とってもステキ☆
第十五場 回想
「俺と銀ちゃんが出会ったのは、もう10年も前のことだ…」
塀の陰から姿を現したヤスが、野球帽を被りながら語りだす。
帽子を被ると10年前、脱ぐと今、という(一応)設定らしいのですが……うーん、もう少し芝居(声とか仕草とか)で10年前になってほしかったなーと思ったりはしました。
あまり大きな動きがない場面なので、難しいんだろうなと思いますが。
もう“いっぱしのスタァ”だった銀ちゃんと、そのファンの会話、なのかな、あれは。
それとも、ヤス自身何かスタッフとして撮影所の中に入ってたとかなのでしょうか?
「へぇー、おめぇ大学出て舞台やってんのか」
「はい!新劇です。チェーホフとか、赤毛ものを」
「そぉか!だからおめぇ、華がねぇんだよ!」
………(無言)。…ま、わからんでもないですが。
銀ちゃんの言いたいことは、多分「良い映画にはスタァが必要である」ってことなんでしょうね。
映画は映像ですから(もちろん)、観方が限定されます。フレームの中におさまったものしか伝えられないわけですし、もともと2次元で完成された映画は、その製作者が意図した見え方しか、基本的にはできないものです。
だから、“華”のある役者が一人居れば、それだけで画面がキまるわけで。
まずはそれがないと、どんなに脚本がよくても芝居が良くても、「映像」が良くなければ価値がないわけです。だって、その映像しか存在しないんだから。
でも、舞台はそもそもが3次元だから、映像と違い、見え方を製作者(演出家)が完全にコントロールすることは不可能なわけで。逆にいえば、「映像」としての完成度というのは全く要求されないわけです。
しかも、映像の片隅でいくら小芝居しても、フレームを外してしまえば観客に見せないでおく(あるいは撮り直すとか)ことができますが、舞台の片隅の小芝居は、ナマだから止めることもできないし、やりすぎれば舞台全体を壊してしまうことも可能。
でも。
舞台に狎れてしまえば、“映像向き”の華やかさ、目を惹く力といったものが薄れてしまうのは確かなのかもしれません。舞台の空気を動かすことと、映像で目を惹く華は、同じように見えて全く違うものですから。
両方を兼ね備えた稀有なスタァは、確かに存在しますけれども。
それは決して、多数派ではあり得ない。
それに気づいたとき、ヤスは銀ちゃんの歩く道を追いかけてみたい、と思う。
どんな道を往くのか、純粋な好奇心、で。
自分自身の運命の岐路の、一方を選んでしまったのだと、この時は気づかずに。
そして、10年後たっても尚、その選択を悔やむことはなかった……。
ここで。
「大学出のインテリ役者」だったヤスと、すでに「“若手スター”の一人」だった銀ちゃんが、ほぼ同い年なのは、大事なことではないんでしょうね、きっと。
精神的には、どっちも子供だったんですから。
ヤスは、終始この作品の事実上の主役(の片割れ)として舞台に立ちます。
物語は常に小夏とヤスの視点で語られ、結果として銀ちゃんという一つの容を描き出す。
銀ちゃんという「理不尽で酷いモノ」、人外の暴力的な存在を描き出すことで、その“嵐”に依存せずにはいられない弱い人間を描き出す物語だから。
だから。
ヤスという平凡な男、普通に大学を出て、趣味の芝居を楽しみつつサラリーマンをするはずだった男から“平凡な幸せ”を奪い、狂わせたのは、銀ちゃんという悪魔だった、と。
銀ちゃんと出会ったことで、ヤスの人生は“平凡”ではなくなった。
彼の無意味だった人生が、そこではじめて意味を持つのかもしれない。
倉丘銀四郎はナチュラルに悪魔だから、悪意はない。
そう。悪魔に悪意はないのです。
彼はただ、ヤスの幸せを祈っているだけ。
小夏に幸せになってほしいだけ。
それが、二人にとって迷惑以外のなにものでもなかったとしても、
そこにあるのは常に「愛」であり、「祈り」でもあった。
だからこそ銀ちゃんとヤスは、離れられない。
俺のものは銀ちゃんのもの。
両手いっぱいに宝を抱えたままで、天国の門をくぐることはできないから。
その全ての“価値あるもの”を、銀ちゃんに捧げたい。
その、依存。
銀ちゃんに渡したから、もう大丈夫、という依存。執着。
そして。
ヤスのものは俺のもの。
ヤスの全てを捧げられて、その全てを受け取らなくてはならないプレッシャー。
それでも、ヤスが捧げてくれるから自分でいられる、という依存。
ヤスがいなくては、自分の存在を確認できない、執着。
それでもヤスは、一歩を踏み出そうとする。
10年間守られてきた腕を振り払い、新しい一歩を踏み出そうとする。
好奇心に負けた10年前から、一歩も成長しなかった、成長することを拒否していた男が、
久しぶりに一歩を踏み出そうとする。
小夏のため、ではなくて、
……ただ、銀ちゃんのため、
銀ちゃんのためだけ、に……
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