銀座博品館劇場「WILDe Beauty」、千秋楽おめでとうございます。
いやあ、面白かったです。幸せな体験でした。


オスカー・ワイルド、という作家について、私はほとんど何も知りません。
かろうじて読んだことがあるのは「サロメ」のみ。「ドリアン・グレイの肖像」をはじめ、あらすじくらいは知っているものもありますが、実際に読んだことはありません。あ、「幸福な王子」は絵本で読んだけど、あれを書いたのがワイルドだったとは今回初めて知りました。
アイルランド生まれだったことも、最後の裁判のことも、それにいたる経緯についても、ほとんど知りませんでした。なんとなーく、いろんな意味で妖しげなイメージはもっていたのですが、詳しいことは何も。
むしろ、「サロメ」の挿絵を描いたオーブリー・ビアズリーの方が詳しいくらいで。



だから。

荻田さんがワイルドを取り上げる、と聞いて、ちょっと意外な気がしていたのですが。


…すいませんごめんなさい。ワイルド、読んでみます。はい。
と、ひれ伏したくなってしまいました…。



でも、荻田さんが本当に描き出したかったのは、「オスカー・ワイルド」という一人の人間ではないのだ、と思いました。
彼が描きたかったのは、『人間は、絶対的な“美”に全てを捧げることができるか?』だった。
それはたぶん、月組DC公演「A-“R”ex 」の副題、如何にして大王アレクサンダーは世界の覇者たる道を邁進するに至ったかと、たぶんまったく同じ問いかけだったのではないでしょうか。如何にして、美の伝道者オスカー・ワイルドは、美を追求する道を邁進するにいたったか?、と。

父によって天賦の才を与えられ、
母によって自分の役割を規定され…
彼自身、“美の伝道者”であり続けるためのさまざまな見栄に疲れ果てる瞬間もあったかもしれない。
それでも、彼は諦めない。「一人の人間」であることに価値を見出すことができないままに、破滅へ向かって走り続ける。

植田景子さんの「舞姫」で、太田豊太郎が「私という人間は、(母や友によって)望まれるとおりに演じる役者のようなもの」と述懐するのとまったく同じ感慨を、荻田作品の登場人物は常に抱えて生きている。ただ、荻田作品の登場人物は、そんなわかりきった青臭い台詞をわざわざ吐かないことと、植田景子作品の登場人物ほど「リアル」に描かれていないだけ。
太田豊太郎は、その台詞を独白した後、自分の来し方を見て「新しい生き方」を模索しはじめる。
たまたまそれがエリスとの出会いと重なったこともあって、「新しい生き方」の象徴としてエリスを愛し、逆に「エリスを愛する自分」に酔うことになる…。


オスカーは、違う。最初から、「美の伝道者」であるために見栄をはり、欺瞞でかためた自分の姿を愛することはない。
そうやって「有名な」ひとびとにもてはやされる自分というもの、「名誉ある」交際に長けた自分自身を嫌悪し、唾棄すべきものと思いながら、そこを離れて“新しい生き方”を探そうとは思わない。
逆に、彼は『その道』を極めることを望む。

極めるならば、それが真実へ続く道だと思っているから。



荻田作品の中で、登場人物自身が「創造する」ことについて説明的な台詞を吐くことはありません。
むしろ彼らは、「創造する」ことを汚いものであるかのように語ることが多い。それは排泄物なのだと。美を追い求めることは、「それと共に生きる」「自分が美しいものになる」ことが目的なのであって、「自分が美しいものを生み出す」ことに重きをおいてはいない。
むしろ、自分が「排泄物」として棄ててしまいたいものを、他人が褒め称え、崇めることに我慢ができない、そんな気分が強い。

荻田さん自身が、『なんでも好きなことをやれる』はずの外部舞台で、人間の汚い部分をことさらに引きずり出し、気分が悪くなるような昏く醜悪な物語を愉しげに、まるでその醜悪さこそが気持ちいいかのようにさらけだし、見せつけたがるのは、この「ワイルド・ビューティ」にいたる前段階だったのかな、と思いました。
自分が生きていくためには吐き出さなくてはならない「排泄物」だから、どんなに醜悪なものでも表に出すしかない。そんな、ギリギリの「クリエーター」。

彼と波長が合う人と、合わない人と。「醜悪なものにまみれた美しさ」こそが美だ、という主張にのれるひとと、のれないひと。そんなことを考えながら、ワイルドの嘆きを聞いていました。



オーブリー・ビアズリーと、その姉・メイベルとの、ギリギリの会話。
決定的なことは何も掴ませない、それでもはっきりと「あのうわさ」をあてこすっている会話。
二人の間に流れる愛情と、恋情と、欲望と、そして絶望と。
死にゆく弟。姉を置いて逝く弟。共に死んでくれない姉。共に死んであげられない姉。
そんな、直接的な言葉のいっさいない、切なすぎる姉弟の対話。
お互いに相手の目を見ることなく、手を握り合っても目線はそらしたままで、
「ねぇさん、…」と。

それが実際に彼の枕元で交わされた会話だったのか、それとも、メイベルの頭の中で鳴りつづける嘆きなのか、そのあたりは曖昧に濁したまま、場面は移り変わっていく。
オスカーの最後の恋人、ボジー(アルフレッド・ダグラス)。
ボジーを演じる浦井くんが、本当に凄い、と、千秋楽になってあらためて思いました。
「野心的な目」と宮川さんが歌う、オスカーの記憶の中のボジー。
ギラギラと瞳を輝かせて、破滅的な快楽に彼を誘う青年。


“軽妙な受け答え、豊富な話題、一風変わったファッション”
“真面目そうな貌をして、実はへんなヤツ”
そんな、「若い頃のオスカー」を演じる浦井くんの、飄々としてどこかつかみどころのない青年ぶり。野心的な言葉の数々も、わがままも、「まぁ仕方ないか」と思わせる、周囲の愛情を享けるに足る存在感。
そんな浦井くんが、ファッションもメークもそのままで、悪魔的な魅力を湛えた美青年・ボジーを演じる。表情と、声と、変化をつけられるのはそれだけなのに、まさに別人として出現する、抗いがたい魅力。

どちらの青年も、宮川さんが演じる“晩年のオスカー”の頭の中から出てきたもの、“晩年のオスカー”が記憶して(たぶん少し美化していて)いた自身の青年時代と、自分を捕らえて離さなかったボジーと。
彼(“晩年のオスカー”)の中で、その二人は『うつくしきもの』という同じポジションに置かれている。

そして、彼は、『うつくしきもの』のために全てを喪ったことを、悔いてはいないのだ。
それは彼にとっては究極の幸福。

『美』のために全てを捧げた、と思うことができること、そのものが。




繰り返し歌われる「塔の上の幸福な王子」の歌。
『うつくしきもの』のために、自分自身の持てる全てを捧げることは、彼にとってあまりにもアタリマエなことだから。


副題にもなっている「幸福な王子」が、最初から最後までほとんど出てこないこと、
むしろ、副題に「肖像画」が入っていないことが不思議なほど、繰り返し語られる「肖像画」というものに対する恐怖心。


その象徴が、メイベルが大事に包んで持ってきた「オーブリーが最後に描いたオスカーの肖像画」だったのだ、と、納得しました。



一番最後に、肖像画の包みを解くラストシーンが、あまりにも印象的で。

出てきたものは、ほぼ予想通りではあったのですが、
それをのぞきこむ宮川さんの、浦井くんの表情に、

「金の肌も、サファイアの瞳も、何もかもはぎとられた」…いえ、「何もかもを捧げた」、幸せな王子の貌が

たしかに浮かんでいたから。



とまらない涙の向こうに、オスカー・ワイルドの「幸福」が。

その幸福を見守って、その足元に息絶えるつばめの、「幸福」が。




荻田さんって、本当に子供のように残酷だ、と思いながら…