花組大劇場公演、千秋楽おめでとうございます。
盛り上がったんだろうなあ。。。みーちゃん、本当にお疲れさまでした!他のみなさまも、ゆっくり充電してくださいね。東京で、お待ちしています!




さて。
ちょっと時間がたってしまいましたが、雪組バウホール公演「春雷」について。

出演者(主な配役)が発表されたときに驚愕して遠征を決め、ポスターの美しさにワクワクしたこの作品。
実際に舞台を観ても、舞台面の美しさには感銘を受けました。中でも、舞台奥にずっと鎮座するおおきな樹がとても印象的で、時代感のある衣装もとても綺麗で、とにかく美しかった!

作・演出は原田諒。衣装は有村淳、舞台装置は大劇場の「愛と革命の詩」と同じく、松井るみ。
松井るみといえば、数々の舞台で印象的な装置を創ってきたひと…というか、私にとっては「装置が凄いなー」と思ってプログラムを見るとことごとく松井さん、という人。宝塚の舞台に参加されるのは同じ原田さんの「南大平洋」に続いて二度目だと思いますが(←コメントありがとうございました)、それがまた大劇場とバウとで同時なところも面白い偶然……なのでしょうか。
舞台全体を括る象徴的な大きなオブジェと、それを引き立てつつ舞台転換するちいさなセット(作品によって吊り物だったり運ばれてきたりいろいろですが)の組み合わせが絶妙で、結果的に舞台転換もスピーディーになる。演出と一体化した装置が得意なひとだから、うまく使いこなせれば舞台の質が格段にあがるんですよね。

しかし。
花組公演を観た時もちょっとだけ思ったのですが、生半可な作品では、松井さんの装置を使いきれないんですね……。
なんというか、装置が印象的すぎて、それに負けてしまうんです。セットありきの演出に見えてしまって、作品世界に入りにくい。
入ってしまえばあの「世界そのもの」のような装置が最大の味方になるのですが、そこまでいけるかどうかは演出(脚本)にかかっているのだな、と、あらためて思いました。

原田さんの作品は、舞台面の美しさには定評があって、「ロバート・キャパ」の空とか、「華やかなりし日々」のレビューシーンとか、本当に綺麗なんですよね。今回も、大きな樹を背景にした森の場面の美しさは格別でした。登場人物の美しさも含めて、これだけの美形ばかり集めたキャスティングができたことも含めて、プロデュース力はあるひとなんだろうな、と思います。
ただ、今回は、残念ながら原作から改変したところが悉く失敗していて、結果的に、彼の「物語」の構築力の弱さが露呈した形になったなと感じました。



「春雷」の原作は、ゲーテの名作「若きウェルテルの悩み」。
この作品の中でも象徴的に使われる「オシアンの歌」は、1765年にイギリスの詩人マクファーソンが「古代スコットランドの吟遊詩人オシアンによる叙事詩」であるとして発表したもの。この真贋については諸説あるようですが、同時代人であった若き日のゲーテは、「新しく発見された古代の叙事詩」である、と認識していたのでしょうね。
突如発見された古代の文書……いまでいえば、「死海文書」みたいなものなんでしょうか?叙事詩(物語)だから、それとはまたちょっと違うかな。むしろ、「東日流外三郡誌」みたいなものなのでしょうか?もしそうだとすると、「常識ある大人」を自称するアルベルト(鳳翔)が偉そうに「そんなお伽話を読んでいるのか」とシャルロッテ(大湖)を非難するのもわかる、かも。

原作のクライマックスで、長々と引用される「オシアンの歌」。
「春風よ、我を呼び起こししは何ゆえぞ」で始まるこの歌は、ウェルテルの決意を象徴する詞になっています。原田さんは、この詩をあまり具体的には使っていませんが、「我が葉をふるい落す嵐は迫れり」というあたりから今回の作品のタイトルをつけたのでしょうか?
春の嵐によってうちたおされる英雄と自分自身を重ねた、身勝手な若者のイマジネーションをあざ笑うように、舞台奥に鎮座していた世界樹の存在感。本来、その辺をねらった演出だったのだろうな、と推測はできるのですが、残念ながら終盤の脚本も演出も中途半端で、しかも、最後にゲーテの場面に戻したりするものだから、テーマがブレちゃったな、と、非常に残念に思いました。



とにかく、今回の作品の脚本面での最大の問題は、最初と最後に「若きゲーテ」を出したところだと思うんですよね。
なんというか、、、後味が悪い、というのかな。ウェルテルの選択の結果を見せられた後で、ゲーテの歓喜を見せられると、、、ウェルテルは運が悪かったんだね、というか、そういう気になってしまって……そう、とにかく後味が悪いんです。
ウェルテルは「若き」のまま消えうせ、ゲーテは「大人」になってたくさんの作品を後世に残す。その差がどこにあったのか、というところが、こういう展開にする場合に重要なことだと思うのですが、あの展開だと、二人の違いは「幸運」ということになってしまうのがなあ……。

せめて、ゲーテを出すにしても、「若き」ゲーテではなく、晩年の功なり名とげたゲーテなら、まだわかったかもしれないのですが。でも、それだと多分、原田さん的には意味がないんだろうな……たぶん(よくわかりませんが、たぶん)

そもそも論になりますが、原田さんには、「原作」である「若きウェルテルの悩み」に、もっとまっすぐに向き合ってほしかったな、と思う。彼の悩みが何であったか、観客にウェルテルの何を伝えたかったのか。
映画は映画でいいと思うけど、「原作」と「映画」の間には何らかの「解釈」があるわけだから、シチュエーションだけ拝借してはいけないと思うんですよね。ちゃんと「映画」を原作にするならそれもありなのですが、今回は違うのだから。
初の「原作もの」でしたが、「作品世界」に対する敬意というか重みの掛け方が、残念ながら私とはとことん合わないんだなあ、と思いました。



もう一点、今回の演出上の大きな疑問。
嵐の夜、ウェルテルとロッテの間に既成事実を作らせた意味は何だったのでしょうか?

あそこにラブシーンを入れるのはわかります。でも、本来は抱擁か、せいぜいキスどまりであるべきでは?
そこまでやったら洒落にならない。嵐の夜に、しかも野外ですよ?抵抗しないロッテもあり得ないし、あきらかに服が駄目になるだろうに気がつかない家族もどうかと思う。いくら母親がいないとはいえ……
いや、そんなことはどうでもよくて。
その後の展開のすべてが既成事実がない前提で進んでいくのが、、、本当に気持ちが悪くて、とにかく無理でした(涙目)。
ロッテ自身もそんな事実は無かったかのような態度だし、、、あのラブシーンがああいうことになったのは後付けだったと聞きましたが(しかも、実際の動きの細かいところは大ちゃんが付けたらしい/汗)、、、それならそれで、それ以降の脚本をそれに合わせて修正しないと、物語全体の構成がぶっ壊れるってことが何故わからないんだ!!(怒)

いろいろな点で、原田さんは、もう一度、「宝塚」で自分がやりたいことが何なのか、というか、やりたい何かが宝塚にあるのかどうか、考え直してみたほうがいいのではないかと真顔で思った観劇後でした



そういえば、上でもちょっと書きましたが、何故「春雷」というタイトルになったんでしょうね。ナウオンとかでもタイトルの話はしていなかったような?(聞き逃していたらすみません)
内容的には「若きウェルテルの悩み」で良かったと思うんだけどな。ゲーテを出したこと自体がそもそも蛇足の極みなのだし。



キャストは本当に皆素晴らしかったので、それはまたあらためて書きたいと思います!