日本青年館にて、月組公演「春の雪」を観劇いたしました。
いやはや。
バウの初日があいてすぐに観てから、今まで感想を書けずにいたのは、何を書けばいいのか判らないほど嵌ったから、なのですが。
生田さんの夢と萌が詰まり過ぎていて、生田さんのファンとしては本当に全公演観たいほど浸れた作品なのですが、、、、、普通の宝塚ファンにとってはどうなんでしょうか(^ ^;ゞ 真顔でわからなくなっております。。。
……と言っていても仕方がないので、思いつくままに。
とにかく、この作品が名作になっているとしたら(←いわゆる「名作」とはちょっと違うと思いますが)、最大の功労者はキャスティングだと思うんですよね。
明日海りお=松枝清顕という、万人が手をうって肯いてくれる決定的な主演者が居たという奇跡のみならず、宇月颯の飯沼茂之、珠城りょうの本多繁邦、鳳月杏の治典王、それぞれの似合いっぷりも奇跡的だと思うんですよ。
観る前から飯沼と本多は絶対だなと思っておりましたが、観てみたら洞院宮も息を呑むほど似合っていて。
この4人が同じ組で、近い学年のそこそこの立場(こういう役が回ってくる位置)で並んでいたという奇跡は、本当に、何ものにも替え難い奇跡だと思いました。
そして、それ以上に凄いのは、大人たちの嵌りよう。
清顕の産みの両親である輝月ゆうまと花瀬みずか、育ての親ともいうべき綾倉伯爵家の美翔かずきと琴音和葉、二家の両親それぞれの説得力。
若者たちが主題の物語に見えて、彼らの育ってきた家庭がきちんと描かれていることが、「時代の空気」を醸しているんだな、と実感しました。
治典王の両親(華央あみりと萌花ゆりあ)、本多の両親(星那由貴と真愛涼歌)も良かったし、他にも、綾倉家の蓼科(美穂圭子)の怖さ、松枝侯爵の母・夏月都の強さ、そして、月修寺のご門跡・白雪さち花の圧倒的な存在感。鉄板の専科は美穂さんだけであとはみんな組子であることを考えると、本当に素晴らしいなと思います。
粗野で横暴なくせに、「優雅」に卑屈な松枝家当主のコンプレックスのもとは、幕末の動乱中で武功をたて、侯爵にまで成りあがって故郷鹿児島では神と崇め奉られている「ご先代」。そのご先代の妻であり、軍人として将来を嘱望されながら若くして亡くなった兄を溺愛する母親との相克が、短いやり取りで本当に巧く表現されているなあ、と感心しました。
「ご先代」が華々しく喧伝される「武力」という価値観に対抗するために、彼は「貴族」や「伝統」という価値観を導入しようとする。元々そういう土壌のない松枝家に、無理をしてそれを植え付けようと。
その同期の不純さからくる歪んだ憧れと、力の無きもの対する蔑みという自己矛盾は、痛々しいほどで。
彼の「優雅」に対する希求の歪みが清顕を歪め、その家の「武」に対する盲目的な信仰が清顕の肉体を壊してしまう。子供のように素直で欲求に素直な松枝侯爵が一番欲したものは、結局、何一つ彼の手には入ら(残ら)なかった……2巻(「奔馬」)にちらっと出てくる老残の松枝侯爵も、まゆぽんなら演じてくれそうな気がします。いやもう、キャストそのままで「奔馬」も上演してほしいです(すごく真顔)(作品的に、、演出は大野さんあたりの方が良いかも)
代々続く「みやこ」の公家臭がぷんぷんする、綾倉伯爵。コンプレックスを知らない、他人に対して開く扉を持たない、、、凡人には理解しがたいその距離感のようなもの。東京などという田舎にはありえない、「みやこ」の雅、表面の穏やかさとその裏にある嫌味な感じは、本当に素晴らしかったと思います。表面的には何を考えているのかわかりにくい人ですが、実際には何も考えていないところがとても素敵でした。
全てにエネルギッシュで、目に入るものすべてを支配せずにはいられない松枝侯爵と、すべてに関して無関心で、何かを支配することなど考えたこともないのに、すべてのものは自分によかれと存在していると信じている……いや、そういうものだと思っている(知っている)綾倉伯爵。
原作では蓼科との関係が描かれる綾倉伯爵ですが、さすがにカットされていましたね。まあ、そういう関係がなくても、蓼科の怖さも綾倉伯爵の底知れなさも、いささかも損なわれなかったのはさすがです。
松枝侯爵(と姑)に抑圧された末に、すべてに無関心になった侯爵夫人・都志子。
彼女の空虚さが清顕に与えた影響は大きかったと思うんですよね。幼い清顕の中にあった「空虚」。本来であれば「母の愛」で埋められているはずの心の虚ろに、綾倉家が1000年かけて精製してきた「毒」が注ぎ込まれた結果が、現実を否定し、夢に溺れる清顕だったのだろうな、と。
綾倉伯爵と結婚したのが不思議なほど、愛情に溢れた「普通の母親」であった伯爵夫人。
ちびあずの「普通」さは、この作品の中ではむしろ異質で、だからこそ清涼剤のように優しく感じられました。
一幕での聡子姫の「普通」さは、彼女の娘だからなんだな、と納得したんですよね。でも、2幕になって、「ああ、やっぱり綾倉伯爵の娘だったんだな」と思わされてしまうあたりは、、、生田さんの演出が巧いのかな?(←ファン)
そういえば、綾倉伯爵夫人はどういう出自の人なんでしょうね。原作でも説明はなかったような気がしますが……清顕も、彼女に育てられていたら良かったのにね(^ ^)。行儀見習い、ということだから、奥向きにはあまり出入りしなかったのでしょうか……?
書き始めたら長くなるだろうなあ、と予想してはいましたが、それ以上に長くなりそうでちょっと怯えています。
いや、だって、みれば見るほど想像をかきたてられて、書けば書くほどいろいろ思いついてしまうんですもの(^ ^)。
キャスティングは文句なく神だと思うのですが、演出も良かったな、と。
舞台面の美しさ、音楽の印象的な使い方、海と蝶、そして、融け崩れる淡い雪。マニアックなまでに細かい舞台セットと転換の妙技。彼が、盆もセリも使い放題な大劇場を担当したら、いったいどんな舞台を見せてくれるのか、とても楽しみです。
ただちょっと、、、青年館の舞台は、生田さんの夢で埋めるには少し広すぎるのかも、とは思いました。舞台転換が多いのは生田作品の特徴の一つなのですが、バウでは緊迫感のあった転換も、青年館だとちょっと間が空いちゃうな、と。
いや、そうは言っても初めての青年館にしては良く出来ていたし、役者ががんばって埋めていたから、問題ではないんですけどね、、、と、つい擁護したくなってしまうのはファンだからなんでしょうか……。
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いやはや。
バウの初日があいてすぐに観てから、今まで感想を書けずにいたのは、何を書けばいいのか判らないほど嵌ったから、なのですが。
生田さんの夢と萌が詰まり過ぎていて、生田さんのファンとしては本当に全公演観たいほど浸れた作品なのですが、、、、、普通の宝塚ファンにとってはどうなんでしょうか(^ ^;ゞ 真顔でわからなくなっております。。。
……と言っていても仕方がないので、思いつくままに。
とにかく、この作品が名作になっているとしたら(←いわゆる「名作」とはちょっと違うと思いますが)、最大の功労者はキャスティングだと思うんですよね。
明日海りお=松枝清顕という、万人が手をうって肯いてくれる決定的な主演者が居たという奇跡のみならず、宇月颯の飯沼茂之、珠城りょうの本多繁邦、鳳月杏の治典王、それぞれの似合いっぷりも奇跡的だと思うんですよ。
観る前から飯沼と本多は絶対だなと思っておりましたが、観てみたら洞院宮も息を呑むほど似合っていて。
この4人が同じ組で、近い学年のそこそこの立場(こういう役が回ってくる位置)で並んでいたという奇跡は、本当に、何ものにも替え難い奇跡だと思いました。
そして、それ以上に凄いのは、大人たちの嵌りよう。
清顕の産みの両親である輝月ゆうまと花瀬みずか、育ての親ともいうべき綾倉伯爵家の美翔かずきと琴音和葉、二家の両親それぞれの説得力。
若者たちが主題の物語に見えて、彼らの育ってきた家庭がきちんと描かれていることが、「時代の空気」を醸しているんだな、と実感しました。
治典王の両親(華央あみりと萌花ゆりあ)、本多の両親(星那由貴と真愛涼歌)も良かったし、他にも、綾倉家の蓼科(美穂圭子)の怖さ、松枝侯爵の母・夏月都の強さ、そして、月修寺のご門跡・白雪さち花の圧倒的な存在感。鉄板の専科は美穂さんだけであとはみんな組子であることを考えると、本当に素晴らしいなと思います。
粗野で横暴なくせに、「優雅」に卑屈な松枝家当主のコンプレックスのもとは、幕末の動乱中で武功をたて、侯爵にまで成りあがって故郷鹿児島では神と崇め奉られている「ご先代」。そのご先代の妻であり、軍人として将来を嘱望されながら若くして亡くなった兄を溺愛する母親との相克が、短いやり取りで本当に巧く表現されているなあ、と感心しました。
「ご先代」が華々しく喧伝される「武力」という価値観に対抗するために、彼は「貴族」や「伝統」という価値観を導入しようとする。元々そういう土壌のない松枝家に、無理をしてそれを植え付けようと。
その同期の不純さからくる歪んだ憧れと、力の無きもの対する蔑みという自己矛盾は、痛々しいほどで。
彼の「優雅」に対する希求の歪みが清顕を歪め、その家の「武」に対する盲目的な信仰が清顕の肉体を壊してしまう。子供のように素直で欲求に素直な松枝侯爵が一番欲したものは、結局、何一つ彼の手には入ら(残ら)なかった……2巻(「奔馬」)にちらっと出てくる老残の松枝侯爵も、まゆぽんなら演じてくれそうな気がします。いやもう、キャストそのままで「奔馬」も上演してほしいです(すごく真顔)(作品的に、、演出は大野さんあたりの方が良いかも)
代々続く「みやこ」の公家臭がぷんぷんする、綾倉伯爵。コンプレックスを知らない、他人に対して開く扉を持たない、、、凡人には理解しがたいその距離感のようなもの。東京などという田舎にはありえない、「みやこ」の雅、表面の穏やかさとその裏にある嫌味な感じは、本当に素晴らしかったと思います。表面的には何を考えているのかわかりにくい人ですが、実際には何も考えていないところがとても素敵でした。
全てにエネルギッシュで、目に入るものすべてを支配せずにはいられない松枝侯爵と、すべてに関して無関心で、何かを支配することなど考えたこともないのに、すべてのものは自分によかれと存在していると信じている……いや、そういうものだと思っている(知っている)綾倉伯爵。
原作では蓼科との関係が描かれる綾倉伯爵ですが、さすがにカットされていましたね。まあ、そういう関係がなくても、蓼科の怖さも綾倉伯爵の底知れなさも、いささかも損なわれなかったのはさすがです。
松枝侯爵(と姑)に抑圧された末に、すべてに無関心になった侯爵夫人・都志子。
彼女の空虚さが清顕に与えた影響は大きかったと思うんですよね。幼い清顕の中にあった「空虚」。本来であれば「母の愛」で埋められているはずの心の虚ろに、綾倉家が1000年かけて精製してきた「毒」が注ぎ込まれた結果が、現実を否定し、夢に溺れる清顕だったのだろうな、と。
綾倉伯爵と結婚したのが不思議なほど、愛情に溢れた「普通の母親」であった伯爵夫人。
ちびあずの「普通」さは、この作品の中ではむしろ異質で、だからこそ清涼剤のように優しく感じられました。
一幕での聡子姫の「普通」さは、彼女の娘だからなんだな、と納得したんですよね。でも、2幕になって、「ああ、やっぱり綾倉伯爵の娘だったんだな」と思わされてしまうあたりは、、、生田さんの演出が巧いのかな?(←ファン)
そういえば、綾倉伯爵夫人はどういう出自の人なんでしょうね。原作でも説明はなかったような気がしますが……清顕も、彼女に育てられていたら良かったのにね(^ ^)。行儀見習い、ということだから、奥向きにはあまり出入りしなかったのでしょうか……?
書き始めたら長くなるだろうなあ、と予想してはいましたが、それ以上に長くなりそうでちょっと怯えています。
いや、だって、みれば見るほど想像をかきたてられて、書けば書くほどいろいろ思いついてしまうんですもの(^ ^)。
キャスティングは文句なく神だと思うのですが、演出も良かったな、と。
舞台面の美しさ、音楽の印象的な使い方、海と蝶、そして、融け崩れる淡い雪。マニアックなまでに細かい舞台セットと転換の妙技。彼が、盆もセリも使い放題な大劇場を担当したら、いったいどんな舞台を見せてくれるのか、とても楽しみです。
ただちょっと、、、青年館の舞台は、生田さんの夢で埋めるには少し広すぎるのかも、とは思いました。舞台転換が多いのは生田作品の特徴の一つなのですが、バウでは緊迫感のあった転換も、青年館だとちょっと間が空いちゃうな、と。
いや、そうは言っても初めての青年館にしては良く出来ていたし、役者ががんばって埋めていたから、問題ではないんですけどね、、、と、つい擁護したくなってしまうのはファンだからなんでしょうか……。
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