一日遅れてしまいましたが、花組東宝劇場公演、初日おめでとうございます(^ ^)。
当面、平日夜公演は休演ということになったようですが、昼間の公演だけでも上演できる幸せを噛みしめて、がんばってほしいなと思います。
余計なことは考えないで、貴女たちのエネルギーとパワーを、それこそ太陽のように降り注いであげてください。それはきっと、なんらかの形で、被災された方々のところに届くはずだから。

私の観劇予定はまだ先ですが、みんなのパワーを受け止めて、それを伝えていける観客でいたいな、と思っています。できるかどうかわからないけど。
ま、とりあえず、福沢諭吉を握り締めて参りますわ(^ ^)。




今日は、本来ならば青年館で「ヴァレンチノ」が初日を迎えるはずだった日、です。
ニュースの映像で千秋楽の様子を観て、あらためて涙が出ました。
本来なら収録しないはずのドラマシティの千秋楽。満席の客席をつぶすわけにもいかず、音響ブースの脇にひっそりと一台だけあった少し小柄なカメラを、切なく思い出しました。
千秋楽の全編映像は無理なんですよねえ、きっと。すごく良い舞台だったので、遺してほしかった気がするのですが……まあ、ぼやいても仕方がない。同じメンバーで東上がかなうことを祈るのみ、です。





初演も再演も観ていませんが、なんとなくのイメージで、高嶺さんが演じられたナターシャ役はもっと支配的な存在だったんじゃないかな、と、台詞や歌の端々から思いました。
ちらっと観たことがある映像のイメージとか、魔術師メロソープ(天羽珠紀)の場面の雰囲気とか、、、からの想像ですが。

もしそうだったとするならば、この物語全体は、ルディーの成長物語になる……んですよね、たぶん。
「支配されるもの」であったルディー(ヴァレンチノ)が、ナターシャの支配を脱して「自分の意志で」マスコミと戦い、さらに愛する女性(ジューン)を取り戻すまでの物語、感じの。



そんなイメージを(あまり根拠なく)もっていたのですが、かいちゃん(七海ひろき)のナターシャは、ぜんぜんそんな感じではなかったんですよねー。
ぶ厚い鎧の下に本来の自分を押し隠して、「ロシア系の芸術家」として認められようとした、哀れな娘。


今回の再々演は、小池さんがプログラムで語っているとおり「台本は再演版を踏襲している。(中略)基本的に演出も一緒」なのですが。
「今の私(小池修一郎)がこの題材を書いたなら、やはりルディーとナターシャの愛のもつれを主軸にした物語になっていくだろう」という言葉のとおり、台本や演出の表向きは変わっていなくても、自然と(時代にあわせて?)ルディーとナターシャの関係性がメインのテーマになっていたと思います。
二人の対等な愛と、それ故に傷つけあう二人がすごく切なくて、痛々しくて……。でも、その時間があるからこそ、ジューンによって救われたルディーの強さが際立ったんだな、とも思いました。


ナターシャに支配されたのではなく、お互いに愛し合っていた二人。なのにすれ違ってしまったのは何故なのか?
それは結局、ナターシャの弱さだったんだろうな、と。

ルディーが愛した「ナターシャ」は、彼女自身が忘れたいと思っていた「素朴で一途なな田舎娘」の部分だった。その愛が真実であればあるほど、必死に外面を取り繕っていたナターシャは耐えられない。
真実の自分をさらけ出すには、ナターシャはもう、すれた大人になり過ぎて、身を守る鎧はあまりに厚すぎて。


ナターシャが愛した「ルディー」は、オレンジ色の夕日に染まった南向きの斜面を夢見る優しい農夫だったはずなのに、彼女自身がその愛を認められない。彼の「役者」の部分を愛しているのだと思いこもうとする。
突っ張った挙句の「芸術家」の仮面ごとナターシャを愛そうとしたルディーと、自分が変わるのが怖いばっかりに、ルディーをスクリーンの中の虚像に押し込めておきたいナターシャ。その矛盾が、ナターシャの芸術家としての感性をゆがめていく。……一幕ラストの「血と砂」撮影場面でルディーに着せる紅い闘牛服あたりから顕著になる、ナターシャのセンスの後退っぷりの具体的な実例に、目を覆いたくなりました。骨格自体が奇跡のような大空祐飛が演じるルディーに着せるにはあまりにもゴテゴテと飾りが多すぎて、もの凄くスタイルが悪く見えるし(^ ^;ゞ。脚の太さの半分以上を占める太いラインとか、ホント邪魔!!と(汗)。ナターシャが彼に恋するあまり、彼をこれ以上売りたくないんだとしか思えませんでした……(←考えすぎ)。


ルディーが恋したナターシャと、ルディーが愛したジューン。
そして、
ルディーの虚像に恋したナターシャと、ルディーそのものを愛したジューン。



……でも、ジューンだって、ルディーと出会ったばかりの時は、完全に恋する乙女だったんですよね。

最初の出会いの夜。
別れ際に「待って!」と呼びかけるすみ花ちゃんのジューンは、どうみても「ロミオとジュリエット」のバルコニーシーンみたいでした。
呼びかけてから「あら?私なんで引き止めちゃったのかしら?」とハテナが飛んでいたのが可愛くて可愛くて、萌まくり(^ ^)。

引き止めちゃった理由をなんと説明しようか部屋の中をキョロキョロして、「あっ!」という顔をしてテーブルに置きっぱなしのオレンジの枝を取りに行くジューン。その背に生えた透明な翼が、とても可愛らしかった(*^ ^*)。

そして、呼ばれて振り返ったルディーの、どうみても他意のない、「ん?なに?」という罪のない笑顔も、とても好きです(はぁと)。
あの罪のない笑顔が、ルディーをスターにしたんだろうなあ……。



「ラテン・ラバー」……そういえば、祐飛さんって意外とラテン男の役が多いような気がします。
同期の瀬奈さんみたいに、ショーでのラテン場面を得意とするタイプでは全然ないけど、「血と砂」のプルミタスはスペイン人、「Hollywood Lover」のステファーノはイタリア人。……なんとなく、素朴とクールのブレンド具合が絶妙に女心をくすぐるタイプなんですよね、不思議なくらいに。

銀ちゃんと、ルディー。どちらも「映画スター」の役ですが。
性格も運命も180度違っているようで、不思議なくらいどちらも「大空祐飛」のキャラクターにぴったりに見えるのは、なんらかの共通点なあるからなのかもしれません。

だとしたら多分、どちらも「本気じゃなかったことなんてない!」から、なんだろうな……
ヤスを殴るのも、小夏を蹴るのも、ナターシャに優しい言葉をかけるのも、全部「本気」だから。だから愛されるし、愛することができる。あたしの銀ちゃん、あたしのルディー。祐飛さんとすみ花ちゃんは、そういう、ちょっとずれた「愛」が似合うコンビなのかもしれません。




「ヴァレンチノ」。
観る前に持っていたイメージは、「夭折した大スター」の愛と死の悲劇の物語、だったのですが。
実際に観て驚いたのは、ラストの印象がとても前向きで、後味がすごく明るかったこと、です。

ネタ的には、児玉さんの迷作「忘れ雪」と同じような終わり方なんですけど、終わらせ方を工夫するだけでこんなに爽やかな後味が残せるんだな、と感心しました。

最後にジューンに渡されるオレンジの枝。それは、初めて出会った夜にジューンがルディーに渡した「希望」であり、「夢」だった。それが返されたことがとても切なくて、でも、それをちゃんと返せたルディーが、とても幸せそうにもみえて。
これはルディーの成長物語というよりは、ルディーの「愛」の物語なんだな、と思ったのでした。

すみ花ちゃんのラストの絶唱と、彼女の心の中にあったルディーのイメージの美しさ(ゴテゴテした飾りのないシンプルな衣装を着た、4人の役者たち)。
そして、ジョージ(春風弥里)の温かな語り口。
心に残る、素晴らしいラストでした。小池さん、素敵な作品を、ありがとうございました!