2度目の「蝶々さん」観劇で思ったこと。


これは、コレル夫人の回想の物語だったんですね。


…すみません。勿論、回想であることは最初から明らかなんですけど。

「蝶々さん」のコレル夫人と蝶々さんは、9割までの会話をお互いではなく、客席を向いて行います。

お互いの顔を見て会話する場面は、ケイト夫人をまじえたクライマックスを含めて、ほんの僅か。



最初に観た時は、何とも思わなかったのですが。

…私(観客)の瞳に映っている、この“蝶々さん”は、コレル夫人の瞳に、過去、映っていた蝶々さんなんだな、と。

コレル夫人が過去を語っているのではなくて。
コレル夫人の過去を、観客が追体験している。

そんな感じを受けたのです。

…なんだか、うまく説明できませんが(T T)。


コレル夫人は、蝶々さんを死なせたことに責任を感じているんですね。
自分に罪があったとは思わないけれども、もう少し何かしてあげられたのではないか、自分がもう少しうまく立ち回れば彼女を救えたのではないか、と思っている。

そもそも、人が人を救いたいと思うこと自体が思い上がりであることに気づかない西欧人、という“毒”を微かにしのばせながら。
荻田さんの演出は、“蝶々さん”よりも、むしろ彼女を見守るコレル夫人の欺瞞をあばいていくのです。


長崎で蝶々さんと出会い、彼女の死に直面して。
帰国してからの数十年、その「可哀相な少女」のことを忘れられない。

蝶々さんが何故、何のために死を選んだのか、その本質的な意味を、どうしても理解できないから。


やみくもに救いたい、と、
やみくもに守りたい、と、
そんな気持が、秘密を持たせた。
蝶々さんの夫・フランクリン少尉の正体、という秘密を。


蝶々さんが最後の最後に「裏切られた」と思い絶望するのは、夫の正体そのものよりも、むしろコレル夫人に、だったのではないかと思うのです。

誰よりも、蝶々さんを「人形」だと思っていたのはコレル夫人だったのではないか、と。
何も知らない異国の人形として、大事に飾っていたつもりだった、そんな、欺瞞を、蝶々さんだけが気づいていた…。



追憶の中の蝶々さんは、微笑む。
その微笑みを忘れられないコレル夫人は、きっと苦しんだのでしょう。
自分には理解できなかった、日本。
理解できなかった、少女。

蝶々さんが「子供を渡さないだろう」ことは確信が持てても、混血児に対する差別の厳しい明治の長崎で、混血児として生きるイサクの幸せは、確信できない。
それは、蝶々さんがミッションスクールに入れないとわかった時に「せめて彼女の魂を救うために洗礼を…」と歌うのと同じ感情なのではないかと思うんですよね。
それが彼女の(イサクの)幸せだ、と、コレル夫人は本気で信じている。


丸山という花街に生きる“丸山芸者”が、たかが旦那に裏切られたくらいで何故死ななくてはならないのか?
「長崎式結婚」を繰り返して生きた“らしゃめん”も、現実にはたくさんいたのに。

それは、一つには彼女が早々にキリスト教に改宗していたから、なのではないかと思います。

何事にも前向きで、一生懸命で、頭のいい蝶々さんが、「一番良い道」だと思ったキリスト教への改宗。
それは、「もはや戻れない道」なのです。

実際、オペラ「蝶々夫人」にも、親族に「裏切り者」とののしられる、激しいナンバーがありますが。
蝶々さんは、改宗によって両親の墓参も許されない身の上になるのです。

身請けされ、ハンサムな海軍士官に可愛がられた、幸せな日々。
そこに愛があった、に自分自身を一点賭けで賭けて、洗礼を受ける蝶々さん。

その賭けに負けた以上、芸者に戻ってきちんと息子を育てるつもりだった。
芸者でも、誇りを捨てずに生きることは可能だったから。
そうやって、フランクリン少尉と出会うまでを生きてきたのだから。

でも。

「自分が誰の人形でもなかったのだということを証明しなくてはなりません」
「自分が、一人の人間であったことを」

ここが。
メッセージとして非常に明快に打ち出していながら言葉として整理されていない、かなり曖昧な表現だったのが…

わかりにくいっ(涙)。

男に裏切られたから死ぬのではなく、誇りを捨てて生きても「息子を立派に育て上げる」ことにはならないから、自分の生き方を「証明」することを優先した、と。

それをあの一曲で表現しきるには、歌穂ちゃんの表現力は十分なのですが音楽的にちょっと弱かったのかもしれません。
あるいは、歌詞かな…。
美しい音楽なのですけどねぇ。ミュージカルって難しいなぁ…。


理解できない世界の、理解できない考え方を象徴するように。
コレル夫人にとっての「蝶々さんを追い詰める、理解できない何か」そのもののように、
アンサンブルは皆白装束で台詞もなく、舞台装置の一部であるかのようにひっそりと蠢き、潜み、隠れて見守っている。
それはたぶん、「時間」という名の魔法使いなんでしょうね。

そしてラスト。
全ての愛も悲しみも、蝋燭に灯を点して流してしまう精霊流しで。
コレル夫人は許されたのか、許されないのか、
…なによりも、自分自身、に。



この作品の最大の問題点は、忠の仁さんの脚本と、荻田さんの演出がいまひとつ噛み合っていなかったことだと思います。
もう少し時間をかけて、作品の方向性をすりあわせたら良かったのになー…。

あと、あまり「長崎」モノ、っぽさを感じなかったこと。
それが、最初と最後の精霊流し場面の弱さになっていたような気がします。土の匂いがしないのね(←この場合は水の匂いか)。

荻田さんはわりと幻想的な演出を得意とする方なので、そういう「ご当地」ものはあまり強くないのかなーと思ったりしましたが。

そのあたりが、ちょっとだけ心残りです。

面白い作品に成りうる設定だと思うので、もう少し練り直して再演してほしいなあ、と。
祈ってみたりして。

それにしても。
ウタコさんのコレル夫人、過不足のない、本当にいい芝居で、いい歌だったなぁ…☆