月組全国ツアー「ダル・レークの恋」。
お稽古集合日から丸4日。だいぶ佳境に…入ったのでしょうか?
まだまだかな?


さすがの観劇マニアの私もちょっとネタ切れしてしまったので、ダル湖のほとりをバーチャル散策してみたいと思うのですが…
また長くなっちゃいました(滝汗)

…本当はモダンミリーやNeverSleepなどなどの舞台となった1920年代のアメリカについて豆知識を集めていたんですが ^ ^;、うまくまとまらなかったんだもん…(涙)



“ダル湖”で検索をかけてみたら、かなりの数のページがひっかかります。
宝塚関連の情報も多いのですが、意外と多いのがインド紀行の中でダル湖に立ち寄っているもの。紛争地域だったため日本人は立ち入り禁止だった時代も長いのですが、ここ10年くらいの日記や紀行文が結構出ていて、読んでみると結構面白いんです♪


まず。“ダル湖”について、割と共通のイメージがあるんですね。
タージマハールみたいに、誰もが知っていて、実際に観た人もほぼ共通の感慨やイメージを抱く「有名な観光地」とは違うと思っていたのですが、インドに旅行に行くような人々の間では、ある程度大枠の「イメージ」はあるんだな、と思いました。

まぁ、日本で言えば…どこがイメージ近いんでしょうね。都のすぐ近くの高級リゾート…交通の要所でもあったところなので、関ヶ原を擁する鈴鹿とか伊吹とかあのあたり?でも高級リゾートとは言い難いような…。
古代の高級リゾートっていうと有馬と南紀白浜しか思いつかない私(涙)。





ダル湖。
カシミールの州都・シュリナガルを囲むように存在する、(正確な大きさは不明)多分、川口湖の倍くらい、かな?(←目分量)


残念ながら、水はあまりキレイではないらしいです。写真も水草がすごーくて、ちと多すぎる感じのものが多数(汗)。

 
でも、本来はヒマラヤの絶景を映し出す「水の宝石」、澄明な水面に雪の高山や湖畔の常緑樹の影を描く「天国の湖」であったようです。
各サイトさまに掲載されている日暮れや朝の写真は、どれもとても美しい。
また、イスラム帝国(ムガール帝国など)領であった時代も長いせいか、湖畔の建物も華麗なイスラム建築が多いようですね。(なんちゃってイスラムかもしれませんが)



どの写真を見ても、水面にはハウスボート(船の形をした宿泊施設)がたくさん。
インドがイギリスの植民地だった時代も、カシミールは藩王国(半独立国)であったためにイギリス人は自由に別荘を建てることができず、ダル湖に船を浮かべて避暑していたことから、ホテル(というか民宿の方が近いかな?)として営業されるようになったのだそうです。
何艘かのハウスボートを通路でつないで、大きなホテルとして営業していたりするそうな。揺れたという記述はあまりなかったです。そんなに大きな湖ではないから、波風も大したことはないのかな…。





ダル湖のあるカシミール地方は、インド・パキスタンの北端。
カシミヤ山羊の棲む深山幽谷です。
チベット高原(その南限としてのヒマラヤ山脈)に東を、カラコルム山脈からヒンズークシ山脈に北から西までを閉ざされ、K2とナンガパルパットという有名な山がそびえ立つ地域。

その山脈の隙間を、ヒマラヤ北嶺に端をはっしたインダス河が東から西へ抜けていく。

シュリナガル(ダル湖)はインダス河の支流であるジェラム川沿い。ヒマラヤとカラコルムに挟まれたこの“カシミール谷”は、別名“幸福な谷”とも言われる肥沃な土地で、カシミール地方の経済を支えています。





ちなみに。

ナホちゃんが演じるチャンドラ・クマールは、ベナレスの領主
ベナレス(ヴァーラーナシー)は、ガンジス河による豊潤なヒンドゥスタン平原の上流部。釈迦が初めて説法を行ったサールナート(鹿野苑)が近く、ヒンドゥー教、仏教の聖地となっています。




あひちゃんが演じるクリスナはハイダラバードの領主
ハイダラバード(ハイデラバード)は、デカン高原のど真ん中。
熱帯の内陸性高原のため気温は一年中高く、特に乾期はアツイ。ドラヴィダ系の人が多く、イスラムが優勢。
現在はITなど工業が盛んだが、19世紀くらいまでは世界有数のダイヤモンド産出国だったそうです。
ペペルがリタをだまくらかしてまず向かうのが「ハイダラバード」だったのは非常に意味があるんだと思います(笑)。




かなみちゃんのカマラは、「この夏」が終わればデリー大公の姫の女官長になる身分。
デリーはもちろん、現インドの首都でパンジャブの中心地、商業・工業・政治の中心地のひとつ。基本的にはイギリス直轄領だったはずなのですが、「デリー大公」というくらいだから、藩王国ではなく、イギリスとの共同統治みたいな形になっていたのかもしれませんね…。




ちなみに、“某”さんの出身地であるベンガルは、現在のカルカッタを含むガンジス河下流の広大なデルタ域。もちろんバングラデシュも全域含まれます。

地域全体としてはイギリスの支配下にあったはずですが、中心地の一つであるダッカ(?)はフランス植民地でした。
「ダル・レークの恋」という物語が、どうしてイギリスではなくフランスを中心に話が進むのかすごく疑問だったのですが、ベンガルだから、だったんですね…。






第二次世界大戦後のインド共和国設立において、ハイダラバード藩王国は共和国への参加を拒否して別個の独立を主張し、中央政府との武力衝突を起こしました。

ダル湖を含むカシミール藩王国は、住民はイスラム(パキスタンへの帰属を希望)が多いにもかかわらず、藩王家がヒンズーだったことからインドへの帰属を希望し、いわゆる「カシミール紛争」が勃発。
現在はいちおう国境も落ち着いて、パキスタン側の“アザド・カシミール”、インド領の“ジャンム・カシミール”、そして中国が実行支配している東北端地域の3つに分断されていますが、最終的な決着がついたと言えるのかどうかは…?







歴史を辿ってみれば。

アーリア人がガンジス河流域に次々と国を建て、仏教などの新興(当時は)宗教が起こったのが前6世紀頃。
それに伴って国力を増した各国が、西からの圧力(ペルシア・マケドニア)を受けて北インド(カシミール〜ガンジス流域一帯、最大の時はアフガニスタンまで)を覆う統一帝国を作ったのが前4世紀のマウリヤ朝。仏教の推進で知られるアショーカ王は、このマウリヤ朝の3代目です。

これ以降、インドは南北に分裂した時代が長く、16世紀のムガール帝国成立ではじめて統一されることになります。
日本で言えば桶狭間の頃に出来たこのイスラム系帝国は、150年の長きにわたる繁栄を誇りますが、18世紀初頭(5代将軍綱吉の頃)から衰退。小王国が分立する状態に戻ります。
そのまま帝国主義時代を迎え、イギリス直轄領と諸王国の名残ともいうべき藩王国(半独立国)との斑ら文様に色分けされたインド。

イギリスのインド支配は、階級社会の上位を抑えた宥和策もあって比較的平穏。次第に現地でもイギリス本国に似たブルジョアが発達をはじめます。政治経済にも影響を与えるようになった彼ら“ブルジョア”は徐々に力をためて第二次世界大戦後の独立の力となっていったのでしょう…。






そしてまた、直接は関係ありませんが。

その昔。

唐の玄奘三蔵がインドへ向かったルートは、
【1】チベット高原の北を通ってゴビとタクラマカンの間を抜け、天山山脈(現キルギス)を越えてカザフスタン側へ
【2】パミール高原を大回りしてサマルカンド(ウズベキスタン)へ
【3】ヒンズークシ山脈を越えてカブールあたりに出て、カシミールからパンジャブへ出て、ガンジス河沿いに聖地へ

帰路は、カシミールからヒンズークシ山脈を越えずにチベット高原の北辺(タクラマカン砂漠の南側)を通って帰ったようですが、
いずれにしても、インドと中国という当時の“2大国家”が連絡を取るのに、このカシミールを通ってチベット高原を大回りするか、東南アジアをぐるーーーっと回ってカルカッタからガンジス河を遡るか、どちらかしかなかったことがわかります。



情報の伝達経路であり、国内有数の美しい保養地(避暑地)でもあるカシミール。
その、カシミール谷の中心にあるダル・レーク。

インド中の「王様」たちが一堂に会する場として、こんなにふさわしい場はないのでしょう。


本来、インドの階級制(ヒンズーのカースト制)は、同じカーストに属する同士以外の結婚を禁ずるものですから、「ヴァイシャ」と明示されたラッチマンと、どう考えてバラモンかクシャトリアのカマラが結婚できないのはそりゃーそうなんですが。

ただちょっと気になるのは、確か「ヴァイシャ」のカーストはいつの頃からか「商人」を表すようになっていたはずので、騎兵大尉のラッチマンは、本来は政治・軍事に携わる「クシャトリア」なんじゃないかと思うんですけどね。
それとも、騎兵大尉っていうのは尉官になっているけれども、実際は下士官で、カーストとは無関係なんでしょうかねぇ…。



…いえ、こんな屁理屈、作品の面白さとは何の関係もないんですけどね…(滝汗)



ダル・レークの恋。
帝国劇場で上演されたのを一度だけ観ましたが。
麻路さきさんのターバン姿の格好良さと、
星奈優里ちゃんのサリー姿がそれはそれはキレイで、うっとり見惚れていたのと、
稔幸さんの登場場面が凄く印象的で、それ以外の出番は全く覚えていないんですけど(汗)あそこだけ目に焼き付いているのと、
絵麻緒ゆうさんのおっとり坊やが大好きだったのと、

…アレ?結構覚えているじゃん私…。

イギリス統治下のインド貴族たち。
麻子さん、かなみちゃん、あひちゃん、あいちゃん、
そして貴族じゃない人代表:祐飛さん。



初日まで、あと3週間、ですね♪
どんなカシミールに連れて行ってくださるのか、楽しみにしています!




雪組さんのエリザベートが開幕しましたねー。
まだ観れていないので何も書くことないんですけど、
とりあえずCS観まして、俄然楽しみになってしまいました(笑)。


私は、どんなにアレコレ言われても、サエコさんのトートと麻子さんのエリザベートは歌はともかく芝居は素晴らしかったと信じているので(^ ^;)、
そして、ちづさんのゾフィーとガイチさんのフランツを超えることは、誰であれ、とても難しいだろうと思っているので、

…そのくらい熱烈な月組ファンなので(^ ^;;;;;;

雪組さんはどんな切り口でこの作品を料理するのかなー、と、
それがとっても楽しみです♪



水くんのトートに期待しているのは、冷たさ、かな。
ポスターとかのイメージなので、実際どんなふうにしたいと思っていらっしゃるのかは判りませんし、実際舞台で観たら全然違ううのかもしれませんが。
サエコさんにはなかった「冷たさ」「尊大さ」みたいなもの、「死」の偉大さや隔絶感を描きだしてくれたら面白いだろうなあ、と思っていたりします。勝手なイメージですみません。



となみちゃんは、とにかくキレイでしょうから。目の保養っ♪
私の(勝手な)彼女のイメージはスカーレットIIなので。
おきゃんで純粋で正直すぎる少女っぽさ。大人になりきれない、子供っぽい“嘘のつけなさ”、っていうのは得意なんじゃないかなーと期待しています。
あんまり「孤独感」「悲壮感」にこだわらず、「エリザベート」という一人の女として、ああいう境遇で生き抜く(生き残る)ために闘った女、として生きてみてほしいなー、と。
「夜のボート」だって、投げやりに歌ってもいいし、冷酷に歌ってもいいし、フランツに喧嘩を売ったっていいじゃないですか。そこまでの2時間にどういう生き方をしてきたか、それが出ていればいいと思うんです。

となみちゃんのエリザベートがどんなふうに“運命”と闘うのか、「Un Grande Amore」に抗うのか、楽しみです。

ただ。麻子ちゃんには音についていくだけで精一杯だった「私だけに」を、娘役のとなみちゃんにはどうしても歌いきってほしいなぁと思うので。
それだけは本当に、がんばってね…。(ごめんなさい)



ユミコちゃんのフランツは、どう作ってくるかなあ…。
トートが冷たくくるなら、ぜひ、フランツには「ほんわか」路線で!(←え?)
 ←それ、作品違うから

普通、フランツの「見せ場」は、「エリザベート、開けておくれ…」だと思うんですよね。少なくとも、宙組エリザ(初見)でタカコ(和央)さんのフランツに惚れたのはそこでした。フランツ、という役の、美しさ、切なさが一番出る場面だと思います。

でも、花組エリザの樹里さんのフランツで一番好きだったのは、幸せそうな「嵐も怖くない」。すいません、私は樹里さんの幸せオーラに弱いんですっ。みどりちゃんともお似合いで、声も似合いで、幸せな時間でした。

ガイチさんのフランツは…全編好きだったんですけど(←ごめんなさい)。一番印象に残っているのは、一幕ラストの鏡の間で「君の手紙何度も読んだよ…」っていうところ。
ガイチさんのフランツは、そもそも“ただの優等生”でも“マザコン”でもなかったんですよね。「皇帝」として、きちんと自分の責任と向き合う「大人」の男。母の意見を参考にしつつ、最終的には自分で全て判断し、裁断し、国のために手も汚してきた。…そんな男が、初めて愛のために間違いだと判っていることを、自分も国も不幸にすると予想できるにもかかわらず、せずにいられない苦悩を感じさせてくれたあの場面が一番好きでしたね…。

フランツ、って、色んなイロがつけられる役だと思うんです。
ユミコさんのフランツで、一番好きになるのはどの場面かなぁ、と、色々考えているのが今はとっても楽しいです。



そして、ゾフィー。
フランツとゾフィーは、役作りとして私の中ではセットなので、続けて想像してみます。

ちづさんのゾフィーは、厳しい母親でした。国のため、皇帝のため、全ての判断基準にそれがあるのがよくわかる。エリザベートのことも冷静に観察して、その上で「やっぱりダメ」っていう烙印を捺しているんですよね。
いわゆる「嫁姑戦争」っぽくならなかったのが嬉しくて。麻子さんの「あたしを妬んでる!」っていう叫びに「フッ」と冷笑するちづさん、本当に大好きでした。

ハマコさんは、歌声も力強いし基本的には陽性のキャラクターなので、そのまんまで「天然」のとなみちゃんと闘っていただきたいです♪
歌は、ちづさんもゾフィーの低音には苦戦していたので、ハマコさんの方が音域も合うと思うんですよねー。「強く〜厳しく〜♪」がしっかり響くと、執務室の音楽的な緊迫感がものすごくあがるので、とっても期待しています♪



キムちゃんのルキーニ。「可愛いキムちゃん」イメージを払拭する絶好の機会だと思うので、気合い入れて取り組んでほしい!月組は本公演(霧矢さん)も新公(彩那音ちゃん)も、エリザベートに惚れているという裏設定があったみたいで、かなり切ない目で彼女を見守っていたのが印象的だったのですが(←ホント?)、雪組ではどうなるのかなー?
ワタルさんの男っぽいワイルドでセクシーなルキーニも(歌はともかく)ステキでしたけど、キムちゃんのワイルド&セクシー…想像がつかないしなぁ…(←すみません)



それにしても、黒天使の長が真波そらさんかぁ…若いなー!!
本当は一人くらい上級生がいると締まるんですけどね…。と思ったけど、真波さんの上と言っても85期しかいないのか(汗)。
ハロー!ダンシング組、さっそくのデビュー、って感じですね。大した振付じゃないのが残念ですが、3ヶ月の成長っぷりも含めて楽しみに見せていただきまーす♪

とりあえず。85期の3人(奏乃はると、彩那音、柊巴)の活躍を心から祈りつつ、
…早く観たいよー、、、




花組東京宝塚劇場公演。
えーっと、何回目だ私?なんだかんだ言いつつ結構ハマっているのですが。

そういえば、まだショーについてはあんまり書いてなかったな、と気が付きましたので。
今回はショーのお話を。



ジャズをテーマにしたショーは今までにも色々ありましたが…
ま、私は雪組さんの「Let’s JAZZ!」なんかが好きでしたね(笑)。
あんまりジャズの素養がないので、難しいことを言われてもわからないし、地を這うような「オールマンリバー…」を聴けただけでも幸せでした。



んで、今回。大劇場で観て、
「さすが荻田さんのショーは凄い!」と思ったこの作品。

東宝の幕があいてすぐに観てみたら。
「春野寿美礼の、春野寿美礼による、春野寿美礼だけのショー」になってたんですよね。なので。
ああ、春野寿美礼を観たなあ、という深い満足感がありました…。


前回観た後の日記にも書きましたが。
トップスターは、ここまでやっていいのか、という純粋な驚きがまずあって。芝居で強く感じたこの感慨が、ショーになってもやっぱりもの凄かった。

やっぱり「今の」花組は「オサさんの組」なんだなあ、と思ったのでした。




オサさんと荻田さん、といえば、思い出すのは「マラケシュ」。
あの時、荻田さんがオサさんに振ったのは、「過去に生きる男」でした。
月組の「螺旋のオルフェ」のイヴと同様、オルフェウスとエウリディーチェの神話の後日譚をベースにした役でしたが、
愛する女と『自分に責任のある事由で』引き離され、喪い、それを悔やみ続けている。自分の「生」を否定しがちで、多くの精霊たちに愛されるけれども、愛に応えることはできずに現世を彷徨うだけの男。
最後に愛した女を救うことで赦しを得、砂の中へ還っていきましたが。


…そういえば、あの時も最後には神になったっけな、オサさんは……



もとい。
「マラケシュ」の時は、まだ荻田さんの掌の中にいたオサさん。

今回は、荻田さんの頭の中で創られたイメージとは、ちょっと違う方向へ行ってしまっているんじゃないかと思うんですよね、今は。で、それを荻田さん自身が楽しんでるんじゃないかなー、とか。
荻田さんのイメージを、春野寿美礼というプリズムを通したら、全然あさっての方に曲がってった上に、思いもよらない色もついた、みたいな感じがするんです。

でも、なんていうのかな、創り手側の「やってみよう、試してみよう」感がかいま見えるというか。荻田さんにしてもそれは折り込みずみだった感じがして、その「予想外」さがすごく面白い作品になっているような気がします。


タキシード・ジャズは、荻田さんにしては比較的わかりやすいショーのはずだったんじゃないかな。
「タキシード」で「ジャズ」っていうタイトルからしても、比較的高級感のあるジャズシーンを考えていたんだと思うんですよね。「Let’s JAZZ」で出てきたような、プリミティヴで力強い「アフリカ」というイメージを残したジャズじゃなくて。

実際、場面としても「20世紀のアメリカ」を出ることはないんですね。まぁ19世紀後半かもしれませんけど、とりあえず南北戦争前はない。黒人霊歌の時代じゃなくて、「ジャズ」の時代なわけです。
まぁ、むしろ「時代」をその時代に固定しておいて、音楽的にはジャズじゃないものもたくさん使ってましたね。さすがにシャンソンとかはなかったけど(笑)、いわゆる「ジャズ」っぽい、ビッグバンド系のもの、スウィングジャズ系のものはあえて外したのかなーと思いました。
ああいう「複雑な軽さ」「裏があるから表はシンプルに軽い」っていうのは、あんまりオサさんのイメージではないので、仕方ないのかな。観客としては、もっとシンプルに「これがジャズだよ!」っていうのを聴かせてもらった方がわかりやすかったのかもしれませんけどね(笑)。

でも、私はあの選曲好きです♪知らない曲ばかりでしたけど、楽しかった♪

大劇場の初日明けてすぐに観て、いきなりものすごくハマったんですよね。

まぁ、あの、まっつのファンですから、まっつがあれだけ活躍してくれればそれだけで満足っていうのもあるんですけど(恥)、まずキャストの豊富さに目が眩みました。


その前に観ていた月組大劇場公演「ファンシー・ダンス」。
私はこのショーももの凄く好きだったんですけど、これがまた「出る人」と「出番がない人」がものすごくキッパリしたショーで。
「こ、この人でさえプロローグとパレードにしか出てないのかよ…」ということがわんさかあったんですね。


しかし、「タキシード・ジャズ」。

一番目を疑ったのは、当然まっつが銀橋センターで歌い出したことですけど(←本当に信じられなかった)、同じくらいびっくり仰天したのがだいもん(望海風斗)以下3人のトリオと、扇めぐむくんのパレード前ソロ。

何が起きたのかと思いました…!!


月組でいえば、本公演で沢希理寿・彩星りおん・海桐望あたりのエンカレメンバーがトリオでソロあり、五十鈴ひかりがエトワール、みたいなもん…かな?


たしかに、扇くんもだいもん・ネコ(彩城レア)・アーサー(煌雅あさひ)も皆、去年のエンカレッジコンサート(もう一年経っちゃいましたねー)で結果を出したメンバーなので、再び声が聴けて嬉しかったんですが。

他にも、場面ごとにいろんな人がたくさんソロをもらっていて、そういうのが凄く羨ましかったんですよね。

月組は、タキさんがいらっしゃるから、どうしてもそこに集中してしまいがちですし…。タキさんの歌声は大好きなので、たくさん聴けるのは嬉しいのですが、どんなに達者な歌姫でも、声のバリエーションには限りがありますから(^ ^;。


なんていうかな、全体のバランスが良かったんでしょうね。

思ったほど、オサさんとシビさんが「歌いまくる」ショーではなくて、たくさんの歌姫がそれぞれの場面に合った声でソロをもらっていて。
大劇場の初日すぐに観た時は、人によっては(まっつ含め)まだまだ…いや、正直に言えば「他に人いるだろう」と思ってしまったところもありましたが、さすがに東宝もラストに近づいた今は、皆さん全開で歌っていらっしゃって。

気持ちよく、世界に浸って音を紡いでいる。

とても気持良かったです。


そして。
その、「世界」を創る神として、オサさんがいる。

そんな感じでした。




そして。

一番割を喰ったのは、ごくまっとうに「普通」の男であるまとぶん。
この人は、本当に「まとも」な男なんですよね。

本来、与えられた役に入り込むタイプなので、芝居でなら「人間外」の役もやれると思うのですが(だから刻の霊はかなり楽しみ)、
「真飛聖」で勝負しなくてはならないショーにおいては。
いつだって「まともで誠実な男」なんですよね…。

その毒のなさは、宝塚の路線スターとしてものすごい麗質だと思うのですが。
荻田さんのショーにおいて、しかも春野寿美礼が神として君臨する花組のショーにおいて、まとぶんの「まともさ」「誠実さ」っていうのは一片の価値も与えられない。
容姿のキレイさ、衣装の似合いよう、歌・ダンスに破綻ない実力と不足はない人なのに、どうにも使いようがない。

オサさんと勝負させることもできない(だって別次元の存在だから)二番手、って、本当に難しいなぁ、と思ったのでした…。

まとぶんのことは大好きだし、「路線スター」の一人としては別格の魅力を放っていたし、壮ちゃん・みわっちを従えた「とんちんかんトリオ」のところはとっても良かったので。
いいんじゃないかな、そのままで。
もう仕方ないよ。オサさんに二番手はいらない。それだけのことだから…。



で。
芝居ではしっかり3番手「主役の親友」を勤めている壮一帆。

壮ちゃん、本当に花に帰ってこれて良かったねーーーー、と、
芝居で非常に強く思ったのですが、ショーでも思いました。

雪組でも愛されていたけど、どっか浮いていた壮ちゃん。
ショーでも、なんとなく「置き場所に困って」いた壮ちゃん。

花ではしっくりと馴染んで、「いい人オーラ」と「太陽のような笑顔」という武器(雪組ではまったく役に立たなかった…)ですっかりテリトリーを確保した壮ちゃん。
すっかり惚れ直してしまった(笑)。頭の中将がんばってね〜♪



「3番手」に定着したみわっち(愛音羽麗)。
どうしても「幻の女」に話題が集中しがちですが。
まとぶん・壮ちゃんと並んだ時に、すごく似合っていたことに驚きました。
ああ、スターなんだな、と。



2回も銀橋センターで歌わせていただいているまっつ(未涼亜希)。
…ファンなので。大好きなので。
ソロが聴けて幸せです。

今だからやっと正直に言えますけど。
大劇場で観た時も、東宝初日すぐに観た時も、「え、まっつの歌ってこんなんだった…?」って耳を疑ったんですよね。
ちょっと音域的に厳しいところだったんですけど、もの凄く喉に力の入った歌い方で。「良い声」が全然出てなかった(涙)。

でも。
すごく良くなってました。
あの音域の攻略方法がわかったんでしょうか。
やっと「銀橋センターでソロ」っていうプレッシャーから抜けたんでしょうか。

ああ、これよこれ、これがまっつの声よ、と、
回りの方に自慢したい歌になってました(←迷惑だからやめとけ)
あー良かった。ひと安心(笑)。



一花ちゃんの「アメリカン・ガール」が最高に可愛い。でも、彼女がずーっと出ているので、他が観られなくてとっても困るんです…。
バビロンの時もレオン&ウメがずーっと舞台の端っこで踊っていて、とっても困ったっけ(涙)。荻田さん勘弁してよ、と思う唯一の点(笑)。




さおり(高翔みずき)さんのソロダンスもカッコイイ♪♪
ただ、ねぇ。つなぎの場面だから仕方ないんですけど、願わくばあの衣装ではなくて着替えさせてあげたいよー…あの衣装で踊るならもう少し衣装にあった振付でお願いしたかった。
あのニコニコ笑顔のまま舞台に残って、スポット浴びて音楽が変わった時に表情が激変するあたり「さすが」と思うんですけどねぇ。衣装がね…。


彩音ちゃんはやっぱりダンサーなんだなーと感心。
今回、オサさんは野々すみ花ちゃんとも踊るし、鈴懸さんとも踊るし、華月由舞ちゃんとも踊るし、もちろんみわっちとも組むし…いろんな人と組んでいらっしゃって、それもすごく月組ファン的に羨ましかったりするんですけど(笑)
やっぱり彩音ちゃんと組むと、すごくデュエットが映えるんですね。
彩音ちゃん、背が高かったり体格的にもしっかりしていたりして、華奢なオサさんと組むのは難しいと思っていたんですが。
オサさんは今回「神」なので。
大きさなんて「神」には関係なかったな、と。

中詰め後の「ナイト・ジャズ」の場面で、まとぶんと彩音ちゃんが組むところがありますが。
この二人も雰囲気いいですよね〜。なんか初初しくて可愛い♪
毒々しい「幻の女」みわっちと、清純な彩音ちゃん。衣装も白と淡いグリーンで、「樹精」のようなイメージの彩音ちゃんと、同じデザインでモノトーンの「土精」のみわっち。

オサさんの探す女は「樹精」。爽やかな翠の香りがするような乙女。なのに、出会ったと思えば腕からすり抜けていく。
この場面ん、大好きなんですけど、どこがどう「ジャズ」なのか意味不明、ではあるんですよね…。

で、オサさんが振り向くと土精の女王のような女が立っている。
白鳥と黒鳥。そっくりだけど色が違う二人の女。
王子はギリギリで気づいて手を離す。戻ってくる樹精は、けれども他の男(これも樹精?)と手に手を取って行ってしまう。


…わからなかったのは、場面の最初に赤いスーツで出てきたまとぶん(ものすごく良く似合ってはいた。確かに)は何だったんだ、っちゅーことなんですけどね。
(いや、そんなこと本当にどうでもいいんですけど)
確か彼が彩音ちゃんを最初に示してましたよね。森の王なのかなーと思ったんですけどね。…衣装を着替えた時点で別人と思えって感じ…?


水の精たちの場面はだいたい判ったんですけど(いや、橋から落ちたとは気づいていませんでしたが、酔っぱらってそういう幻覚を見ているんだろうと思ってました)。ナイト・ジャズの、特に赤いスーツのまとぶんは、私にはちょっと意味不明の役でした…(汗)。

何か解釈をご存じの方、あるいは想像している方、ぜひぜひ教えてくださいませ。


うーん。
なんか色々思い出しているうちにまた見たくなってしまった(笑)。
大好きな人が大活躍している舞台、って、何度観ても楽しいものですが。
うーん、またサバキ待ちしに行っちゃおうかなぁ…。




今日家に帰って、ふ、と気が付いたことが一つ。


うちの飾り棚には、まだおひなさまが飾ってあった。





えーっと。
今年のおひなさまについては、先にこちらをお読みください。
http://diarynote.jp/d/80646/20070219.html





うちには男の子がいないので、基本的に端午の節句の飾り物は無いのですが。
甥ッ子が生まれてからは、多少の飾り物は置いております。

その飾り物が。
5月8日の今日になっても飾り棚にそのままになっていることに気づいた私は、とりあえず片づけようと思って飾り棚に近づきました。






そうしたら。


兜の影に隠れるように、小さな人形雛が一対、
ひっそりと立っていたのでした…。





3月4日の朝、私が起きた時にはすでに片づけられていた
【たくさんの】おひなさま。



こんなところに一対残してあるなんて………





母上さま。
私がずーーーーーーっと家に居ても、いいのね?



それはそれで微妙な気持になってしまう、びみょ〜なオトシゴロのねこでした。



今週の土曜日から旅に出るので(残念ながら「あなたと一緒ならどこへでも」と言ってくれる可愛い相方はいなかった…)。
旅から戻ると、旅の話がしばらく続くはずなので(^ ^)、その前に書かなくっちゃ、と思っていた話題が、書き終わらないうちに一つ残ってしまいました。


でも。

明日は朝早いので。
とりあえず、さわりだけ。
…ってゆーか、ほんとにちょっとだけよ!まだ荷物できてないんだからねっ!>自分



正式な公演タイトルは「コンフィダント・絆」。
作・演出は三谷幸喜。
三谷がPARCO劇場と組んで…何作目だろう?とにかくその一環です。でも別に何かのシリーズというわけではなく、独立した作品だと思います。


題材は。
19世紀末(この時代ホントに多いなー!)のパリ・モンマルトルの「ラ・ボエーム」=共同で助け合いながら生きる貧乏画家たちの物語。

セットは一つ。
シュフネッケルが中心になって借りた、どこか古ぼけた、薄暗い
パリのアトリエ。
ムーラン・ド・ラ・ギャレットに近い、ってことは当時の「新開地」だったモンマルトルの丘近辺の、ベランダがあって、結構本格的な台所がある、心地よい空間。

三谷得意のシチュエーション芝居。コミカルな部分も多いですが、ものすごくシリアスな物語でもありました。



登場人物は5人。
メインは、アトリエに集う4人の貧乏画家たち。

理論家で、「理論さえ心得ていれば誰にだって絵が描ける」と豪語する、理屈屋でなかなか素を見せない点描手法の開拓者、
ジョルジュ・スーラ(中井貴一)

対象と向き合って思いのままに観たものを画布に写し取る、躁鬱の激しい繊細で攻撃的なオランダの天才、
フィンセント・ファン・ゴッホ(生瀬勝久)

ペルーで育ち、船員として商才を存分に発揮し、広い世界を見てきた生活能力のある色男。なのに画家になるために妻子を捨て、安定してた仕事も捨てて身ひとつでパリに来た、
ポール・ゴーギャン(寺脇康文)

そして、温厚で誠実で、話がうまく、妻子を愛し、普通の生活を送る幸運に恵まれた美術教師、
クロード・ミッシェル・シュフネッケル(相島一之)

そして紅一点、4人の画家の共同アトリエの専属モデルとなった、ムーラン・ド・ラ・ギャレットの踊り子志望のウェイトレス、
ルイーズ(堀内敬子)

これに、音楽監督でピアノ生演奏の荻野清子さんがちょこっと絡みつつ物語は進行します。


うーん、何から話しましょうか。

まず驚いたのは、このキャスティング。
それぞれに違うバックボーンを持った、それぞれに「自分の世界」を持っている同世代の俳優4人。
それぞれ、自分が主宰しているユニットなり劇団なりをもち、あるいは持っていたことがあり、自分一人で座長をつとめる力も人脈もあって、プロデュース能力に長け、演出だって出来ちゃうような、そんな“一流”の男たち。

三谷さんはパンフレットに「同世代の仲間達で何かをやりたかった」と書いていますが。
この4人が二つ返事で参加を引き受け、精一杯の力を出し切って、イタの上で思いっきり傷つけあって、幸せそうに輝いてしまう、
それだけの魅力が三谷のホンにはあるんだなあと改めて思いました。

…今更なんですけどね。


「ラ・ボエーム」のモデルになったモンマルトルの貧乏芸術家たち、というと、宝塚ファン的には星組さんの「1914」が浮かぶ…のが正しいのかな?
私はあの公演、日程が合わなくて観られずじまいだったのですが、あれは確か20世紀初頭の話ですよね?「コンフィダント」の舞台になっているのは、エッフェル塔が工事中のパリなので、1886〜89年の間です。
(月組ファン的には、エッフェル塔に関する話題が何度も出てくるので、そのたびに笑ってしまった。しかも三谷さん、結構いい加減なこと言わせてるし…)



パリの貴族趣味な「サロン」では全く評価されない、「印象派」を中心とする新時代の画家たち。
彼らはまったく収入を得る見込みはなく、お互いに助け合って共同生活をし、また共同で芸術活動を行い、可能なものは必要なものに援助し、
慰めを与え、批評しあい…

そんな。

すべてを分け合っているはずの「芸術家」仲間が。

【人間】というモノが、時としてどこまで残酷に、そして痛烈になれるものなのか。

…なんというか。

観ていてこんなに“痛い”と思った作品は久しぶりでした。



自分より優れた人に対して抱く、憧れとねたみ、そして、恨み。

きっと、「何もかも全て」が優れているなら憧れだけですむはずなのです。
そうであったなら、自分も天使でいられたのに。

なのに、この「天才」は、「絵」以外のことはからっきし駄目で…。



でも、もう魅せられてしまったから、離れることもできない。
とらわれて、
逃げられない。


「ゴッホがいると知っていたら、おれはこんな(画家の)道になんて入らなかったのに」

血を吐くようなゴーギャンの叫び。

それでも、彼は一度踏み込んでしまった道を戻ることは考えない。

ただ、
「俺は、絵以外のすべてで必ずゴッホを上回ってやる」
と。



これって、一番悲しい叫びなんですよね。
だって、彼が本当に陵駕したいと思うのは、越えなくては生きていけないのは、まさに「ゴッホの絵」なんだもの。

たった一つの「絵の才能」 と、「それ以外の全て」。
それは、天秤に載せれば必ず左に傾くのです。
彼らの秤は。



その二つを、秤に載せるゴーギャンの痛み。
それが左に傾くようすから目を離せない、ゴーギャンの痛み。

…そして、その秤が何故左に傾くのか、それがさっぱりわからない、ルイーズの痛み。



そしてまた。
ゴッホの痛み。
シュフネッケルの痛み。
スーラの痛み。

一人一人、それぞれに違う傷をさらけだして、慰めと赦しを与えながら。
物語は進んでいく。

「友情」とは何なのか、
芸術家にとって、「仲間」とか「友達」というのは何かになりうるのか…?

その問いかけそのものが、酷く心に突き刺さって、
もう本当に、痛くて痛くてたまりませんでした……(号泣したんですホントに)





PARCO劇場公演は終わっちゃいましたが、今は大阪のシアターBRAVA!で上演が始まったみたいです。BRAVA!って、一時期劇団四季の大阪劇場だったところですよね?京橋から歩くと、大阪城ホールのちょっと手前。
割と観やすくて、好きな劇場でした。ディズニーの「アイーダ」好きなので結構行ったなあ。懐かしい〜!


…とりあえず。
今日はこのへんにして、またいつか、時間ができたら続きを書かせていただきたいと思っています。

それこそ、すごい長文になっちゃいそうですけどね…(汗/いや、今もう充分長いからっ!!)



.
行って参りました。雪組エリザベート。
旅の主目的は違ったんですが、そちらはもう終わってしまった公演ですので、またいずれ。

天気にも恵まれて、楽しい旅でした。
あちらでご一緒させていただいたみなさま、どうもありがとうございましたm(_ _)m。


さて。
雪組版「エリザベート」。

えーっとね。

すんごく!楽しかったです。ホントに。


基本的な演出は、月組版をベースにしていて特に大きな変更はなかったと思います。
ただ、全体的なトーンとしてシシィがフィーチャーされ、「トートとシシィ編」になっていた月組版に比べて、「トート主役」が前面に出ているなーと思いました。



月組でのサエコ(彩輝直)さんのトートは、その佇まいがまさに「幻想」の存在。もともと私の中のトートのイメージは森川久美さんのコミック版「エリザベート」のトートだったので、それに一番近くて、本当に大好きでした(歌以外は)。

影ながらエリザベートを見守り、「現世を生きるのは君には辛いことでしかないのに、なぜ執着するの?僕のところに早く来ればいいのに。この隔り世なら、君は自由になれる。僕は君に、自由を与えてあげられるのに…」、と寂しく呟く。
ウィーン版でいう「エリザベートの心の影」とはまたちょっと違う、寂しい影のような、「シシィが苦しむことで自分も苦しむ」、そんな存在。



それに比べると、今回の雪組版は、はっきりと「トート主役」、「人格のあるトート」を打ち出していたと思います。ビジュアルは、サエコさんとは違う意味で「この世のモノとは思えない」存在感たっぷりの素晴らしさでしたが、水さんのトートは表情豊かにエリザベートに恋し、誘惑し、拒否されると怒りに震え、また次のたくらみを考える、「生身の存在」でした。

…人間かどうかはよく分かりませんでしたが…。


なので。
「エリザベート」という作品が、「宝塚版」に戻ったな、と思いました。
シシィを見守る「死」ではなく、
シシィに「恋」する「死」、という構図に。

シシィのとなみ(白羽ゆり)ちゃんも、無邪気で子供で、最後の最後まで天然で世の中のこと何もわかっていなくて、自分のことしか考えていなくて、

でも、圧倒的に美しかった!(←ここ重要)

まだ多少迷いがあるみたいでしたけれども、私は今の方向もすごく面白いと思いました。
今までの「シシィ」像、特に花総さんや白城さんの「シシィ」像に囚われる必要はないと思うので。

ただ、もう少し追求しほしいなー、と。

…要は、「宮廷におさまりきらない個性」があればいいと思うんですよ。
ハナちゃんはそれを「繊細さ」で表現していましたが、本来はもっと「強迫観念」的なモノであったはず。

「国家」というものに縛られて、「自分であること」を認められない。19世紀の前近代の人間ならそれは当たり前のことでした。
でも、シシィは父親から自由主義的な思考を与えられた、どちらかと言えば進歩的な「近代人」です。

日本で言えば、川上貞奴が江戸城の大奥に入るようなもの?(←全っ然違うだろうが!)
バイエルン公女としての自分の個性もアイデンティティも完全に否定され、王権神授説の信者たちの中、「全てを王家に捧げること」だけを請求される。
その焦り、個性を認めてもらえない怒りを、となみちゃんは結構ストレートに出していたと思いますが、それはそれで良い、アリだ、と私は思うのです。

ただ。
となみちゃんの「ぽわわん」とした可愛いところは、役者として一つの個性だし、私の大好きなところではあるのですが、それは史実の「エリザベート」とは残念ながらかけ離れた個性なので。
そこの溝を埋める努力が、もう少し必要なのではないかと思いました。

演出の小池さんが誉めていらっしゃったとおり、結婚式の翌朝、ゾフィーが現れた時の「何か?」という台詞の自然さ、その台詞を言った時の浮き上がりっぷりは、まさに「シシィ」!だったので。
そこから組み立てていくシシィもありだと思うし、水くんも実に個性的なトートを作っているから、二人で舞台上でぶつかりあって、どんどん深みにハマってみてほしいです。

もっともっと。

幕があいて、わずかに一週間。
まだまだ公演はこれからですから。

がんばれ!!





ってな話を書き始めると止まらないのですが。
フランツとゾフィー(間違いなくこの公演の成功の功労者はこの二人だ!)の話を始めたらもっと長くなるので。



先に髭の話をしたいと思います。(←?)



私は今まで、いわゆる「髭役」の人に惚れたことはあまりありませんでした。
外部のミュージカルでも、こないだのジキル&ハイドの某弁護士さんが初めてなくらいで。

基本的にビジュアル重視の私は、髭役って芝居においては重要で大好きな役がたくさんありますけれども、ビジュアルで「ステキっ!!」と目がハートになったことってほとんど記憶にないのです。
(←自慢げに書くことじゃないな)


しかし。
今回の雪組公演。

素敵な人は、みんな髭つけてるよ!?



まず最初に引っかかったのは、ルドヴィカの灯奈美さんが親戚一同の前でヘレネのお見合いの話をする場面。

なんかすごーくカッコイイ親戚のオジサマがいる…アレ誰?

…ひ、ひろみ(彩那音)ちゃんっ!?(いやマジで)


さすがにパンフレットをそういう意味ではチェックしていなかったので、あんな処でバイトしていることも知らなかったのですが。
本当に仰天しました。
カッコイイよ。
あの童顔なのにサンタクロース髭(え?)がよく似合ってる。

っつーか、ステキだ!



そしてその次は。
待ってましたのらぎ(柊巴)ヒューブナー。

ちょっと待って。カッコイイよこの人。

見る前から、キタロウ(緒月遠麻)シュヴァルツェンベルクはさぞ似合うだろうと思っていたんですよ。
そして思ったとおりよく似合って自然に格好良かったんです。いかにも軍人、って感じで重厚さがあって。

で、個人的に、童顔丸顔のらぎには「絶対似合わない」髭をどうするのか、と、興味津々(←悪趣味)だったんですけど。

…かっこいい。

ねぇ、本当にかっこいいよ。
私の目、おかしい?曇ってる?贔屓目になってる?そうなの?ねぇ?


どなたか普通の目線で感想を教えてください……。


谷みずせちゃんも、元々スッとした美形ですけど、お髭もすんごい似合ってました。
イケメン重臣たち、最初の執務室くらいはせっかくのイケメンを生かして髭無しでくると思っていたのに…
髭つけたらもっとイケメンだった……詐欺だろソレ……

それにしても本当にイケメン揃いだった〜!
しかも雰囲気が、ハマコゾフィーのハーレムではなく、ナガ(飛鳥裕)さんグリュンネの寵童たちだった。グリュンネ伯爵の寵愛を得て養子にでも入り、引き立てて貰って出世の道を拓いた貧乏貴族たちなんですよきっと。だってみんな野心満々ですごかったもん!
ハマコゾフィーは、信頼するグリュンネに推薦されるままに登用し、身近においていたに違いない。
別に宦官って訳ではないので、そういう奉仕もしているかもしれませ(←どこまで行くつもりだお前)



そして。
フランツ(彩吹真央)!

あなたは絶対髭をつけた方がステキです。
フィナーレで下手花道からせり上がって来た時、髭がないからがっかりしてしまったくらい(汗)。
渋さと厳格さ、そしてほの見える甘い優しさ。
こんないい男なのにねぇ、シシィの男の趣味ってどうかと思うわ…(←見た目で判断すんな)

ユミコさんの髭、キャリエールの時はあまり似合ってないと思ったんですけどねぇ。髭顔も進化するんだなぁと実感しました。
さすが研究熱心なユミコさんらしいエピソードです。



そして。
エルマー(彩那音)!

あなたも髭つけた方がステキです♪
ただ、髭つけてしまうと細かい表情が見えにくいので、その辺はもう一工夫の必要があるかも。

あと、マイクの位置が悪いのか、髭の付け方のせいなのか、台詞の声が若干くぐもって聞こえたのが残念でした。声に力がないとあの役は弱くなってしまうので…。
シュテファンの沙央くらまさんとか、蓮城まことさんとかの方が台詞の通りが良かったのは、マイクなのか発声なのか…月組時代も、雪に来てからのこの1年間の舞台でも、いつでもひろみちゃんの一番の魅力は「声」の良さだったので、今回の公演だけなぜダメなのかわからないのですが。

あ、というか最初の親戚のオジサマの場面も特に問題なかったんだよね。本当にエルマーだけ、声に力が無い感じがする。
せっかくの声が行かせる良い役なので、なんとか解決して、がんばってほしいです!

…んでもって、髭もとってもステキです♪(←結局それか)



そして、とどめに。

キムーーーーーーっ!!!(絶叫)

似合う。似合いすぎる。
ありえない。
キムちゃんこそ、絶対似合わないと思っていたのに。
いくら黒塗りしたって絶対むり無理、

そう思っていたのに。

…ごめんなさい。

そういえば、ひろみちゃんの新公ルキーニもすごく良く似合っていたっけ。あの時はあんまり考えてなかったから何とも思わなかったけど。
キムといい、ひろみちゃんといい、らぎといい、童顔の方がかえって髭が映えるってこともあるのでしょうかねぇ?

それにしても、今まで私が髭萌えしなかったのは何故なんだろう。こんなに皆ステキで、たまらなくかっこいいのに。

…付け方?雪組伝統の、組外持ち出し禁止の秘法か何かあるんでしょうか。
そういえばケロさんの髭役って何かあったっけ?(美濃さん以降で)
あんまり記憶にないなぁ…似合いそうなのに(←なんか猛然と観たくなってきた)。


なんというんでしょうか。違和感がないんですよね、みんな。今まで観てきた髭役って「付けてる」感があって、どうしたって表情とかに違和感があったと思うんですけど。
月組でシュヴァルツェンベルクを演じたのぞみ(楠恵華)ちゃんも、軍服が良く似合っててかなり格好良かったけど、やっぱり微妙に違和感があったんですよね。違和感が完全に無くなるには、エリ(嘉月絵理)さんくらい経験を積まないと難しいんだろうなぁ、とか思っていたんですけど。

なのに。なんだか皆、下級生(てことないですね。もう中堅)なのに全然違和感なくて、普通に生えてる感じがしたんですよ。
また、らぎちゃんなんて、娼婦たちを観てニヤニヤしながら髭をこねるしぐさがメチャクチャやらしくて。どこでそんな仕草を覚えたのあなたはと小一時間(笑)…


…あの場面でらぎヒューブナーをガン見していた自分に、今気づきました………呆然………だから鳥さんたちを覚えていないんだな私(涙)。プチショック…




もとい。

楽しかったです、雪組「エリザベート」。

月組版を思い出せば、耳にも夢のように優しい公演でした。
あ、ダンスナンバーの素晴らしかった。そういえば他の組はこういう振付だった、と思いました(←死)。

なぜこの作品、ダンスナンバーのセンターを取るのがトートとルドルフなんだろう(涙)、と思い続けた月組公演…
いやあ、ダンスナンバーを手に汗握らずに観られるのって幸せだなあ♪


でも。
私にとっては。
   あくまでも、芝居は月組版がイチバン!なんですけどね…(苦)

だけど。
楽しかったです、雪組再演版。

東宝公演を楽しみにしています♪


今日は私的に、二つのニュースがありました。
宙組新人公演配役と、花組バウホール公演配役。

まずは。
春風弥里さん、新公主演おめでとうございます〜!!

…えっと、これが初めて、ですよね…?
すごい!私が落ちたとゆーのに主演が回ってくるなんてっ!!(←ヲイ)


「A/L」ただ一作の彼女しか知らないので、「柴田さんのスペインもの」でどんな芝居をされるのか全く予想もつきませんが。
あの声でたくさん喋って歌ってくれるのかと思うと(主演だから台詞も歌もたくさんありますよね?ね?)、今から幸せになってしまいそうです。

東宝新公、がんばってチケット取るぞ!
すっごい楽しみです!


…大劇も行きたーい…(T T)
蘭とむロドリーゴ&みっちゃん(北翔海莉)ラモンのバージョンも観たいし、梅田のあさきゆめみしも観たいよーーーーっ!!

しょんぼり…。



そして、もう一つ。
花組バウホール公演、まっつ(未涼亜希)の相沢役も発表♪

み、み、み、観たいよ〜〜〜〜〜っ(号泣)。

「舞姫」をやるって発表があった時から、相沢はまっつがいいなあと思っていたんです私。
でも、絶対無理だろうと思っていたんですよね。

なのに。
振り分け発表で、もしかして、と思って。

そして今日、
……やったあああああ〜!

なのに。


なぜにあの時期なんだまっつ、じゃなかった、みわっち。
あの2週間だけはどうしてもダメなの。旅は無理だよ私は(涙)。

…どうして月曜日に楽なのでしょうか(涙)。月末の週末なら迷わず観に行くのに〜〜〜!!!公演スケジュール決めた人のばかぁっ!!





そして。

話は全然違いますが。

今日やっと、雪組の柊巴さんが出ているCSの「新日本史探訪」を見ました(ずっと前に録画したのですが見てなかった)。

このシリーズも…毎回思うんですけど、メンバーの選定基準が微妙すぎません?(苦笑)。
っていうか、私の好みにピンポイントすぎてて怖いんですけど。…もしかして無意識のうちに編集会議とか出てるんだろうか私、と思うほど、回を重ねるごとに私の好み丸出しな企画になっていっているような(爆)

だって。

1回目が月組で、桐生園加ちゃんで「宮本武蔵」。
2回目が花組で、まっつで「天草四郎」。
3回目が星組で、ゆかり(綺華れい)ちゃんの「土方歳三」。
4回目が雪組で、らぎの「明智光秀」。

…これで5回目の宙組が、ともちん(悠未ひろ)で豊臣秀頼か足利直義、とかいうことをやってくれたら、どう考えても私がキャストを決めているとしか思えないんですが。どうでしょう。


番組の内容自体は、ちょっとどうかなーというか。
ホンキで私を呼んでくれたら、絶対面白くするのに!テーマとなっている人の面白エピソードが全然入ってないじゃんっっ!!という突っ込みどころ満載なのですが。

ま、それはともかく。

次回も楽しみにしています♪
(なんて言って、とっくに内容が発表されていたらどうしよう/汗)



エリザベートのお話は、書けば書くほど内容がふくらんでいって、完全に収拾がつかなくなっております。
うーむ、どうすればいいんだっ!!いつになったらアップできるんだぁ〜(涙)

…どなたか私の替わりにまとめてくださいませんか(涙)。


.
明日は宙組大劇場公演発売日。
昨日に引き続き春風さんモードから抜けられず、新公チケット欲しさにぴあに並びに行こうかと一瞬真剣に考えてしまいました。

チケット取ってどうするんだ。あんな日に休めるわけがないだろーが>自分。





さて。

違う「エリザベート」を観てしまう前に、雪組版について、とりあえず一番書きたいところを吐き出し、あ、いえ、書いておきたいと思います。

…さてさて。




ものすごーーーく私見ですが。

宝塚版の「エリザベート」という作品における、どの版でも共通の「基本設定」として。

「主役」はあくまでもトートであり、

「タイトルロール」はエリザベートであり、

「立役者」はゾフィーとフランツである、

と、私は考えています。


オリジナル作品との違いは、トートを前面に出したことでルキーニがその後ろに隠れてしまったこと。
結果、ルキーニはあくまでも「トートの道具」という位置、作品世界における狂言回しという存在に留まり、「物語」に積極的に関わっていく立場にありません。


ということはつまり。

「物語」を動かすのは「運命」であり、「運命の恋=Un Grande Amore」であって、トート本人の意志でもなければ、ルキーニでもない、ということでもあります。



「タイトルロール」のエリザベートの視点に沿って、彼女の目に映る「ここでないどこか」の象徴としてのトートを主軸に進む物語。
けれども、物語の縦糸となるのは、エリザベート本人の目にはほとんど映らない、「現世」を象徴する存在としてのゾフィーとフランツ。

「現世」を縦糸に、「幽り世」のトートを横糸にして織り出された、「エリザベート」というタイトルの織物。織機を操り、杼を通していくルキーニ

そういうイメージでした。


私が初めて生で観た「エリザベート」は、宙組版です。
初演の雪組版をご覧になっている方とは受けた印象が違うんでしょうね、きっと。「初演」というのはそれ自体特別なもので、再演とは全く違う物語空間を作るのが普通ですから。

雪組初演版では、星組版では、もしかしたらトートが故意に歴史を動かし、ハプスブルグ家を滅ぼした、という物語であったのかもしれません。

でも。



私の観た宙・花・月・雪ではそういう印象は弱くて、どの公演もトートは燃え上がった炎に風を送るくらいのことはしたかもしれませんが、「ほくちに火をつける」行為はしていなかったと思うのです。

東宝版は、そのあたりがちょっと微妙だったんじゃないかな、と思います。
…小池さんの演出意図は、私にはよくわかりませんケド(涙)




そして。
「宙組版・花組版」と「月組版・雪組再演版」で一番違うのは。

ゾフィーとエリザベートの対立軸でした。



花組版までは、どちらかと言えば「嫁と姑」、あるいは「自由と拘束」を対立の軸にしていた印象があります。

エリザベートは「自由」を求め、ゾフィーとその取り巻きは、彼女を見下しつつ「王家のルール」に従わせようとする、という構図。



でも。

月組版でのゾフィー(&フランツ)とエリザベートの対立軸は。

「責任能力のある大人」と「無責任な子供」の対立として私の目には映ったのでした…。




なんと言っても、ゾフィーのキャラクターが全然違ってたんですよね。
「怖い」「キツい」「恐ろしい」「酷い」といった形容詞ではなく、
「厳しい」「鋭い」「容赦ない」、…まぁ「キツい」はそのままかもしれないけど(^ ^)、そういった形容詞をつけたくなるキャラクターになっていた。


つまり。
平たくいえば。

客観的な正義は、完全にゾフィーの側にあったのです。

シシィにあるのは、「主観的な正義」だけ。そして、それはたやすく「自分勝手で我侭な言い分」に化けてしまいます。



トートがシシィに恋をしたのが「Un Grande Amore」ならば。
フランツがシシィに恋をしたのは、それ以上に「Un Grande Amore」だった。

だって彼は、この世で一番シシィに恋をしてはいけない男だったのだから。



国を背負って立つ一人の皇帝が、責任能力のない天使に恋をしてしまった。
これが月・再演雪版「エリザベート」という作品の、一番の悲劇でした…。



天使に国を背負える訳がないんです。
だって天使だもん。
娘を生んでも、皇太子を生んでも、シシィは大人にはならない。
彼女の理想は「パパ」。「パパみたいに」なりたい、「パパみたいに」生きたいのです。

せっかく背中に羽根があるんだから、その羽根をいっぱいに広げて大空に羽ばたいて、地上の柵などすぐにも断ち切ってしまいたくてたまらない。

そして。
その羽根をもぎ取ろうとする勢力のことは、全身全霊をかけて否定する。
闘うのではありません。否定したんです。「子供であり続ける」ことによって、戦いを拒否した。

敢然と頭をあげて「慣習」と闘うのではなく、敵に背を向け、自分の最大の武器となった「美貌」を磨くことで自分のアイデンティティを守り抜いて。なるべく顔を合わせないように、敵の陣地からなるべく身を離しておくように、というところに尽力して時代を生き抜こうとした、それが彼女の「戦い」。


天使は闘う存在ではないから。





それでも、彼女を地上につなぎ止める鎖をギリギリまで切らずにいたのは、彼女がフランツを「愛していた」から、というのが
月組版での麻子シシィの結論だったと思います。
麻子さんは、最後の「夜のボート」まで、フランツに対する情があった。
愛であったかどうかは判りませんが、確かにその名残があったのです。

でも。

雪組再演版でのとなみシシィは。

「あなたは私を見殺しにするのね」と言ったその時から、フランツのことは切り捨てていました。






ピシャっ、と。

そんな音さえ聞こえてきそうなほど、キッパリとフランツに背を向けるシシィ。
その声は「悲痛」ではなく、ただ淡々と「事実」を述べる声。

あなたは私を見殺しにするのね。
そう、そうなのね。
ならばいいわ。さようなら。


「嵐も怖くない」と言った満面の笑顔から、そんなに時間は過ぎていないのに。



冷たくそう吐き捨てて、ベッドへ向かうシシィ。





ナイフを取って、発作的に喉に向けようとして。
でも、それさえどうしたらいいのか判らない「子供」。

刺せる訳がない。そんなことが出来ようはずもない。
子供が興奮のあまりナイフを手首にあててみる、リスカするのをみせつける、
…その程度、の。



イヤよ、なんで私が死ななくちゃならないの。
私が悪いの?違うでしょ。何も悪いことなんてしてないわ。
当たり前のことが当たり前にできない、この宮殿の人たちがおかしいのよ。

私は、私よ。
私が生きるのは、私自身のためよ!





王者は全ての人民の手本とならねばならない。
それが王権神授説のもとで特権を与えられた王家の、唯一の義務。

その義務が、天使にはどうしても理解できない。
永遠のすれ違い夫婦。





この場面の水くんのトートは、もの凄く美しかったですね。
冷たく厳然とした、けれどもその中に全てを安らがせる「闇」をもった「死の眠り」。

彼が愛したのは、シシィの光。
天使だけが持つ、光輝。
だから、その背にある「翼」に傷をつけることなく冥府へ連れ去るために、彼女がスベテを諦めるのを待つことにした。

無理に、力づくでモノにしてしまえば、その背の翼は落ちてしまうから。
翼のないシシィ、天使でなくなったシシィには、興味がないから。


どこまでも追い続けよう。
お前がどこまでいけるのか、
この辛い現世を、その皓い翼を抱えたままで。

見守っていてやろう、その翼を落とすことのないように。
追い続けよう、いつまでも…。






そうして天使は目覚め、辛い牢獄の日々へ戻っていきます。
ハンガリーで味方を得、少しづつ宮廷に地歩を築きながら。

それでも。

今までの公演、フランツが子育てについて「ママの方が経験豊富だ任せよう」と歌うたびに。
「なんつーマザコン!」と思っていたのですが。(それはもう、ガイチさんの時でさえソコだけはどうかと思った)

なのに、今回ばかりは。

うん。フランツが正しい。
天使に子育ては、無理。子供を産むことはできても、育てるのは、まして「教育」するのは、もう絶対に無理。

そこがすんなり納得できたのは凄いなあ、と思いました。
となみちゃんのシシィが、あまりにも浮世離れした天使だったから。

国を憂う皇帝なら、自分の跡継ぎを天使に育てさせるなんて冒険はできるはずがなかった。

でも。

フランツは、最終的に「国」よりも「天使」を取る。

君の手紙、何度も読んだよ
君の愛が僕には必要

君のいない人生に耐えることなどできない…


一人の「生身の皇帝」の、凄絶な告白。
誠実な男の、初めての弱音。



ユミコさんのフランツの、鏡の間の歌は。
この選択の意味を真実に理解して歌っているな、と思いました。

この選択は間違いだ。
自分の国は、いずれ遠からず滅びるのだ、と。

彼女を選んだことで、自分は悪魔との契約書にサインしたのだ、と。



でも、彼にはどうすることもできなかった…。
君無しの人生は耐えられないから。


ガイチさんのこの場面も本当に好きでした。
このガイチさんを超える人はいないだろうと思っていました。

でも。
ユミコちゃんのフランツは、もしかしたら。
今後の進化次第では、マイベストフランツになるかもしれない、と…。

低音が豊かなのは、既存のミュージカルで男役をやるうえでもの凄い武器なんですよね。どうしても音域が低いところに来ますから。
ガイチさんも随分低い響きを作っていらっしゃいましたけれども、元々の声が細くて高いタイプなのでどうしても限界はあったんですよね。

ユミコちゃんの声。切ないほどに甘い、豊かな響き。
恋しいシシィを呼ばずにはいられない切迫感。
動きのほとんどない場面で、表情もほとんど髭に隠れて見えない役で、声だけでドラマを創る。

ドラマティックな、声。



皇帝は、まずは生きることが必要だった。
無傷で玉座に居ることが、最初の義務。
だから。

天使に傍にいてほしい。


その、あまりにも辛い叫びを。
全身全霊を懸けて声に篭める。

泣かせていただきました。
ユミコちゃん、ありがとう。



そして。
その呼びかけに応えて登場するエリザベートの、その圧倒的な美しさ。
フランツが間違った道を選んでしまう気持が心の底から納得できる、この世のものならぬ美貌。

ユミコちゃんは、扉が開いてとなみちゃんが振り返った瞬間に、ふ、と微笑んだんです。
ほんの幽かに、
哀しそうに。

美しい天使と引き替えに、国を売った裏切り者である自分。

それでも。
私にはこれが必要なのだ、と。




そんな二人を見守る水くんのトート。
銀橋にイヤラシク寝そべっていたトートが、ふいに起きあがる。

天使が嗤った、

その瞬間に。


子供だからこそ、自分の美しさのために振り回されるフランツを眺めるのが楽しくて仕方がない。
哀れな皇帝を莫迦にしきった、嗤い。


この人が私のモノであるかぎり、私は生きていけるかもしれない。
空に飛びたつことはできなくても、

このヒトが私のモノであるかぎり。




黄泉の帝王の受ける衝撃。

お前に命許したために
生きる意味を見つけてしまった



天使のくせに、
子供のくせに、
いや、子供だからこそ
誰よりも残酷で、思いやりの一欠片もない、
我が侭な美貌。

なのに、愛さずにはいられない。



皇帝が迷い、
黄泉の帝王が惑い、

そして求めずにはいられない、完璧な美貌。


エリザベート…!

驚愕と賛嘆の叫び声と共に、降りてくる幕。




Un Grande Amore.




オーストリア・ハンガリー二重帝国が成立するのが1867年ですから、1幕ラストは1865年頃、ということになるのでしょうか?
イタリア王国が動きだし、ビスマルクが政権を取って少し落ち着いた頃。

中央ヨーロッパを巡る情勢が風雲急を告げ、
それに対応しようとしたフランツは、手に余る情勢の中で疲れ切って、そして、シシィの掌の中に堕ちていく。

シシィは、宮廷における小さな勝利に酔っている。

踊るなら。
踊りたい時に、好きな音楽で、
踊る相手も私が選ぶの

…踊るなら!




その、小さな勝利に酔った足元に、白蟻が巣くっていることを彼女は気づかない。

「ママー!」

悲痛な叫びが、母に届く日はこない。




シシィは。

彼女は「子供を可愛がりたかった」のであって、
「子供を育てたかった」のではない、のです。

子猫を可愛がるように、
子犬を可愛がるように、
仔馬を可愛がるように、

天使は子供たちを可愛がりたかった…。



シシィの分身であるトートは、エリザベートの分まで子供を可愛いがりに現れる。
シシィと同じものをみている子供。
シシィと同じ羽根を持った、天使。



シシィの愛は、子供の愛。
我が侭で、気まぐれで、
安定感のない、愛。
そして、求める者には与えられない、残酷な優しさ。



トートもそう。子供の愛。
思いこんだら一直線で、手に入るまでは決して諦めない、
でも、いったん手に入れてしまえばすぐに終わる、
気まぐれで激しい、嵐のような愛。



フランツの愛は、大人の愛。
空気のような、あって当たり前になりがちな、愛。
暖かな日だまりのような。

冬にはありがたいけど、夏には暑くてやってられない。
それが、フランツ。

気まぐれな嵐のようなトートの愛と、比べるなんて野暮の極み。



でも。

時として、水さんのトートの激しい愛は、そのまま引きずられてしまう魅力と迫力があったんですよね。
シシィを求め、欲するトートの激しさに。


この世のモノならぬメークと仕草、そして、圧倒的な激しさの「愛」。

こういうトートもありなんだ、と。
すっかり「トート=サエコさんのトート」で焼きついていた私の記憶も、すこーしづつ柔軟になりはじめたところ。


水くんの一番のイイトコロは、芝居に情があるところ。
今回は歌でいっぱいいっぱい(←でも良かったです!)な感じで、まだ芝居にまで気がいっていないのかな、という印象もありましたが。

初日頃と今とではまた全然違うらしいですが。
試行錯誤して、トートとしてあちこち彷徨って流離ってみて、
水くんらしい、水くんにしか出来ないトートを作りあげてくれることを祈っています。



…大劇場に通える方が、そうやって一歩進んで2歩下がる(←あれ?)水くんのトートを見守ることのできる方が、すごーくとっても羨ましいよー…。






いろいろタイトルを考えるのが面倒なので、今後ニュース関係はこのタイトルでいきたいと思います(笑)。

私にとって、本日の最大のニュースは。
専科エンカレッジコンサート開催決定!




…すみません。私にとっては、TCAよりこっちのほーが大きなニュースだったのでした…。


だって。

TCAはどうせやるだろうし、大劇場の日程はあそこしかあいてないから分かり切っていたし、出演メンバー全員の発表はなかったし、どうせ月組公演中だから私は関西にいるだろう(←え?)し、だったら東京で何をやってもあまり関係ないし、関西はあんな人気トップさまが4人も出ちゃうんじゃ、絶対チケットなんて手に入らないんだろうし…

目新しいニュースはなかったんですー。
早く全出演者発表にならないかな。



でも。
専科エンカレは、絶対観たいんだもん!(きっぱり)



前回のも観たんですけど、それはそれは素晴らしかったです♪
都合3回は泣いたな、確か。
汝鳥さんとかが出演なさらないのが、もの凄く残念ではありますが、出演されるお姉さま方、皆さんどんな曲を選ばれるのかしら♪ああ、早く聴きたいです!!



いや、あの。
TCAも楽しみですよ、もちろん。

観られたら幸せだろうなあ〜〜〜。(哀)


………我がご贔屓さんは出てくれるのかしら…(←いくらなんでも弱気すぎ)



一週間の間に、二つの「エリザベート」に出会ってきました。

宝塚大劇場での『雪組再演版』と、新宿コマ劇場での『ウィーン版コンサート』。



台詞などはだいぶ割愛されたコンサート版でしたけれども、観ることができて良かったです。本当に。
その「場」にいることができて、幸せでした。

ああ、ウィーンに行きたいなあ〜〜〜!!
いや違う、ちょっとくらい無理しても梅田に行っておけばよかったなあ…(←後悔先に立たず)。







「エリザベート」。
同じタイトルと(ほぼ)同じ音楽を使った、宝塚版とウィーン版。二つの作品が語ってくれたのは、全く違う物語でした。

「エリザベートの愛」を語った宝塚版と、
「エリザベートの人生」を語るウィーン版。



そして。
この「『エリザベート』宝塚版」を創りあげた小池修一郎は、間違いなく天才だったのだと実感したのでした。


宝塚版では。
「主役」はあくまでもトート。
「タイトルロール」はエリザベート。
「立役者」はゾフィーとフランツ。
そしてもちろん、ルキーニが「説明役」だったわけですが。

ウィーン版では。
「主役」も「タイトルロール」も「立役者」も、ぜーんぶエリザベート!
トートもフランツも、せいぜい彼女の人生を彩った「華」でしかない。
そしてルキーニは、「説明役」ではなく「語り手」。
一人だけイタリア人の彼が、観客に向かって彼女の人生を語っている。



「タイトルロール」と「主役」は、同じように見えても微妙に違うもの。
「タイトルロール」は「作品の主題」であって、作品により「主役」本人であることもあれば、「主役の見る夢」であることもあります。
たとえば、シェイクスピアの「ジュリアス・シーザー」の主役が、シーザーではなくブルータスであったように。

同じように、宝塚版「エリザベート」の主役はトート。そして、彼が見る夢、あるいは彼が欲する対象としての「皇后エリザベート」がいるのです。
だから、フランツは主役であるトートと敵対する役割を果たすことになり、ルキーニはその「トートの夢」を説明するだけの役割になってしまった。



でも。
よりオリジナルに近い、今回のウィーン版では。
「タイトルロール」=「主役」というわかりやすい設定で、彼女の人生を斜すに構えて揶揄するルキーニが二番手、という、ロイド・ウェッバーの「エヴィータ」と同じ劇構造。


実際、アルゼンチンの大統領夫人エヴァ・ペロンとオーストリア皇后エリザベート、アルゼンチン生まれの社会主義革命家チェ・ゲバラとイタリア生まれの無政府主義者ルイジ・ルケーニの比較は昔からよく見かける議論ですし、表面的にはよく似た設定だと思います。

でも。
「エヴィータ」は、エヴァ・ペロンの人生を「外側から」描いた作品。彼女の内面に踏み込むのは、ほとんどがチェが歌う「想像の」あるいは「説明の」ナンバーばかり。
エヴァ自身が自分自身の心情を吐露するのは、「ブエノスアイレス」くらいではないでしょうか?一番の名曲「アルゼンチンよ泣かないで」が就任後の国民への演説の形で歌われることを考えれば、その構造は明らかです。

言ってみれば、あの作品そのものが、エヴァ・ペロンの事績に対する「裁判」なのです。被告(エヴァ)本人の弁論も弁護人もなしで、検事(チェ)と裁判官(観客)のみで行われる裁判。
証人として登場するペロンやマガルディ、あるいは国民が見た「エヴァ像」が語られ、それをつないでいくことで「エヴァの人生」を再構築する試みなのです。


それに対して「エリザベート」は、シシィの内面の奥深く踏み込んでいきます。
こちらはルキーニの裁判という形で幕が開き、証人としてこの時代に生きた人々が召喚される設定で始まりますが。
本編に入ると、これもルキーニが「検事」の立場で、「観客」という裁判官に向かって「被告」であるシシィの人生を語る形に見えてくるのです。
でも、そのストーリーのポイントポイントで、ルキーニ自身が時にカフェの噂話に風を送り、時に怒りの炎を焚き付けつつ主体的に動いたり、シシィ本人が自分の心情を率直に吐露し、謳いあげている(「私だけに」など)ところが「エヴィータ」とは全然違っていて、作品をものすごくダイナミックな印象にしているところだと思います。





…なんか話がそれてますけれども(←いつものこと)
面白かったんです。本当に。
そして、「宝塚版」と「ウィーン版」、二つが全然違う作品だったから、どちらも本当に面白かったし、両方を観ることで、両方がより面白く感じられるようになりました。



宝塚版の「縛り」。
男役を主役にすること、あまりリアルに下世話なものは排除すること、そして、日本人でもすぐに話が分かるようにすること。
(他にもあるかもしれませんが、とりあえず)この3点を守ったが故に、宝塚版「エリザベート」という作品には、避けられない歪みがあることは事実です。
トートというキャラクターの分裂、ルキーニの矛盾…
でも、それは決して「間違ったエリザベート」ではなかったのだ、と。


「エリザベート」のルールよりも「宝塚」のルールを重視した「宝塚版」は、「宝塚作品」として奇跡を起こし得る作品になりました。
そして、実際奇跡は起きたのでしょう、きっと。
これだけの人気を博し、これだけいろいろなキャストでの再演がかない、それぞれに(色々言われつつも)評価されてここまで来ているのですから。



…先にウィーン版を観ていたらどう感じたかは自分でもわかりませんが(苦笑)。

ウィーン版を観て、あらためて「宝塚版エリザベート」は、宝塚作品として名作中の名作なのだと確信したのでした♪



そういう意味では、やっぱり東宝版はちょっと中途半端だったんじゃないかな〜、とも思っちゃいましたけどね(滝汗)。







えーっと。

エリザベートの夢見た放埒、マックス公爵の「自由」は、いわゆる「ラテンの享楽」とは違うものなのでしょうね。
それは、ルーマニアからハンガリーにかけて特に多かった、ロマニ語を話す人々の「自由」だったのではないでしょうか。

自分自身が属する集団の「掟」にのみ縛られることを是とし、それ以外の全てのルールを否定する。そしてそのルールを遵守した場合に得られるはずの利益をも、すべて否定してのける。

でも、そのルールに従うものを見下すわけではない。

ただ、自分は違うのだ、と。
その檻の中で生きていくことはできないのだ、と…。



檻に閉じこめられることを拒否しながら、檻の外では生きていけない愚かな獣もいます。
たとえば、母そっくりと言われながら、ひ弱で精神的にも脆すぎるルドルフのように。

彼は、母と同じ、“檻の外”だけを見凝めつづける。
でも。自分が檻の外では生きていけないことに、最後まで気が付かなかった…。

でも、エリザベートは違う。

彼女は、檻の外でもちゃんと生きて行けたのです。
それは、彼女が闘うすべを知っていたから。
自分のアイデンティティを守り、取引をすることを知っていたから。

自分の美貌を武器にするだけでなく、それによる政治効果を取引材料にする知性と理性。
マヤ・ハクフォートさんのエリザベートは、ものすごく理性的な存在に見えました。彼女は、その持っている知識と理性の全てをかけて「押しつけられるルール」と戦い抜くのです。

それは、となみ(白羽ゆり)ちゃんのエリザベートにはあまり感じられなかった部分でした。となみちゃんのシシィは、“意味もわからず、とにかく束縛されるのが嫌だから拒否する”という天然素材の天使。(←誉めています)

でも、マヤさんのシシィは。国を守る、あるいは「オーストリア帝国という世界」を守ることに一片の価値も見いださない、「人は一人で生きていくモノ。国に守られるものではないわ」という主張を前面に掲げて生きていく“強い”人。

麻子(瀬奈じゅん)さんのシシィは、もう少し情がありましたね。フランツと共に生きていく術を探して彷徨っている感があり、愛する人を理解できない寂しさもにじませて。最後まで“大人”にはならなかったけれども、“孤独な子供”のまま、息子を捨ててしまったけれども。それでも、やっぱり情があったから、最後にトートと結ばれた時に「やっと幸せを見つけたんだね」と祝福してあげたくなったのです。



シシィは、自分を否定する宮廷を拒否しつつ、時代の中を生き抜いていく。
その背中の皓い翼を、
マヤさんのシシィは自分自身の理性と知性で守り抜き、
麻子さんのシシィは堕ちた翼を拾い上げ、繕ってより美しく輝かせて。
…となみちゃんのシシィの翼は、堕ちてもまた生えてくる、ような気がするんですよね……。

それが良いことなのか悪いことなのか、その答えはまだ出ていないと思いますが…。






そんなシシィを見守るトート。
彼は、ウィーン版では完全に「エリザベートの幻想」の中の、「激しい」存在、という感じでした。


水くんのトートは、出てくるたびに「生身の熱い血(←色は青いかも…)の熱さ・激しさ」を感じさせ、
サエコさんのトートは「幻想の閑けさ、子供の孤独」を纏っていましたが。

マテ・カマラスのトートは。
子供っぽくて乱暴者。もの凄い力づくでシシィを、そしてルドルフを引っ張り回して。
その激しさ、熱さ、なのに絶対に生身ではない違和感。
どうしても憎めない、目が惹き付けられて離せないキャラクター。

そして。

あの、声。


何も判っていないっぽい、子供っぽくて粗野なキャラクターに見えて、なのに声だけは世界を呑み込んでしまうほど甘く優しい、あの声は…。




この声は、ぜーったい、中川晃教だ〜〜〜!!

っと、開始15分くらいで思ってしまったのですが…。

……似てないでしょうか?


「エリィザベー…」と甘くけだるく囁きかける時の声。
激しくシャウトする声。
目を瞑ってきいたら判らないくらい、ものすごーく似た色の声だと思うんですけど。…似てませんかねぇ。



東宝版の武田真治トートも大変に興味深い役作りでしたが。

私は。

次回再演があるなら、中川くんのトートがぜひ観てみたくなりました。

というか。

その前に、今度のルカス・ペルマン&中川コンサートで、中川トート&ルカスルドルフで闇は広がるをやってほしい! これが実現したら私は2,3年のうちに絶対ウィーンに行くぞ!(←何の関係があるのかさっぱりわからん/涙)



それから、ついでにもう一つ。
ゾフィー役のクリスタ・ヴェットシュタイン。
この方がまた、ぞっとするほど前田美波里さんに声もキャラクターもそっくりでした…(^ ^;ゞ。



中川くんのトート。
美波里さんのゾフィー。

このキャスト、実現しないかなあ…(←無理)







最後に。
今回のコンサートで一個だけ残念だったのは、少年ルドルフが素人だったこと。
日本語でもいいから東宝公演のキャストを出してほしかったなぁ…(←無理)。

やっぱりね、「ママ、どこなの?」というナンバーは、エリザベートが高らかに勝利を謳いあげた直後に、足許の亀裂を見せるナンバーですから。青年ルドルフの芝居ともつながらないといけないし、作品的にも非常に重要なナンバーなんです(涙)。
まぁ、向こうからプロを連れてくるのは無理にしても、日本にも良いキャストがたくさんいるのになぁ〜。残念!





エリザベートの話は書きたいことが多すぎて完全に行き詰まってしまったので。
先に、先日観た星組東宝劇場公演のお話を♪




まず。
プログラムの表紙がキレイで羨ましかった(笑)、前モノの「さくら」。



私は谷さんの「春櫻賦」のショー場面が大好きだったので、演目が発表になった時から「谷さんの日本物のショーだぁっ♪♪」と、楽しみにしていたのですが。

さすがに舞台面の美しさ・華やかさには一日の長がありますね、谷さん。舞台の焦点の作り方、雰囲気の出し方、さすがだなあと感心してしまいました。
日本物のショーの中では、私は酒井さんの「花の宝塚風土記」が好きなのですが、今回の「さくら」は構成がとても面白くて、すごい楽しかったです。コメディ色が強くて意外性があったんですよね。

パッとキレイで華やかなプロローグ
     ↓
面白すぎて目が離せない、コメディタッチの節句人形
     ↓
シックで幽遠な竹灯籠
     ↓
濃すぎて目が離せない、コメディタッチの花折
     ↓
シックで幽遠な(?)フィナーレ。

…節句人形みたいな場面って、歌舞伎ではよくある雰囲気ですけど、宝塚では珍しいんじゃないでしょうか?まぁ、私が宝塚を観るようになってまだ10年なので、過去にはいっぱいあったのかもしれませんが……(^ ^;ゞ。




とりあえず。
「ヘイズ・コード」で水輝涼くんに落ちた身としては、節句人形の幕開きの衝撃があまりに大きくて、プロローグの記憶が飛んでしまいました。
なので、いきなり節句人形から。

私にしては珍しく全く予習せず、しかも遅刻寸前で飛びこんだので何も知らずに観ていたのですが。

プロローグが終わって、次は何だろう?と思っていたら。



礼音くんの登場に続いて、黒い衣装の小柄な子が出てきて、聞き覚えのある声でソロを歌っている。


あれ?

この声……?



膝に置いていたオペラグラスを、慌ててあげました。
や、や、やっぱり水輝くんだーーーーーっっ!!


…何ヶ月かぶりなのに、声でわかった自分って偉いなーと思いつつ(笑)。
驚きのあまり心臓が止まりそうでした…。



黒い直衣の水輝くん。あの衣装は、麻尋しゅんくんの赤の直衣と合わせて「左近の桜、右近の橘」になぞらえているんでしょうね。
しかーし、なんで「左大臣」なんだろう? 左大臣は「天皇の左側」、つまり「客席から見て右側」にいるはずなんですけどねぇ。
普通に、麻尋しゅんくんが「左大臣」で向かって右(上手)で赤の衣装、水輝くんが「右大臣」で向かって左(下手)で黒の衣装、で良かったと思うんですけど、なんでわざわざ逆にしたんだろう?位としても左大臣の方が上なのに。

…谷さんったら(苦笑)。



ついでにもう一つ。
関西の雛人形は左が上位(男雛が向かって右)とばかり思っていたのですが、この場面では関東風に、あすかちゃんの女雛が左(向かって右)でしたね。大劇場では関西風の並びだったのかしら?それとも、単純に男雛がトウコさんでなく礼音くんだったから、トップ娘役のあすかちゃんを上手に置いただけなのでしょうか…?
うーん、なんか色々難しいなあ〜(笑)。



なんだかどうでもいいことを突っ込んでしまいましたが。
ちょっと前に読んだ大正天皇(と大正時代)の本に、日本では古来左上位だったのに、彼の即位式から西洋風の右上位(舞台の場合は、客席から見ると左側が上位になる)が取り入れられた(だから関西と関東では雛の並びが違う)、という話が載っていたんですよね。
それを読んだ時に「へぇ〜〜っ」と思って印象に残っていたのでした…すみませんm(_ _)m。






話を舞台に戻して。

盆がくるんと回ると、「もうすぐ俺たちの出番だ〜♪」とワクワクしている武者人形たち。
いや、私が観たのは先週ですから、武者人形の出番もとっくに終わってるんだけどー(笑)、と突っ込みながら観ていたのですが。

…桃太郎人形のすずみん(涼紫央)のあまりの愛くるしさに、思わず目を奪われてしまいました(爆)。
この場面の見所はそこじゃないだろうっっっ!!と自分に強く突っ込みつつ、
すずみん、マジに可愛いんだもん(笑)。

それと、黒髪をみずらに結ったゆかり(綺華れい)ちゃん神武人形の美しさ!!
うっとり〜〜♪♪



なんだかこの場面は忙しくて、一人一人じっくり観る余裕がなかったのですが。

トウコさんの所作の美しさは群を抜いているなーと改めて思いました。
着物の着こなしももちろんですが、ちょっとした仕草もきっちり「武者人形」の動きになってて、出てくるだけで舞台がすごく締まって見えました。

その所作、下級生にしっかり伝わっていくといいだろうなぁ〜。
和くんとか、日本物に慣れてないなーという感じがしてちょっとひやひやしてしまいました。宙組は和物少なかったから…でも化粧は綺麗でしたね。上級生が教えてくれたのでしょうか?



この場面は本当に、ストーリーも波瀾万丈(?)で面白かったし、出てくるキャラクター出てくるキャラクター濃い人ばっかりで(爆)。
ホント、目が離せなかったです。

またどこかで再演してほしいかも(笑)。





竹灯籠。
ここは、トウコさんの美しさと、舞台装置の美しさしか覚えてません。
吊り物の、簾のような円筒の群れが翠に光ると竹に、ほの淡くピンクに染まるとしだれ桜に、と、照明一つで自在に雰囲気を変えていたのに感心しました。本来は竹を模した装置で、うっすらと節らしきものも見えるのに。同じモノでも薄紫に染めたら藤房に見えるんだろうな、などと思いつつ、舞台の美しさに酔っていました。
シンプルなのにものすごく異世界感がある装置。谷さんのああいう幻想的なショーシーンの構成力は本当にすごいなーと思います。

…ぜひ、これからもたくさんのショーを…(←ショー専門になってほしい方多すぎです)





フィナーレは「さくら」。
この作品の最大の売りでもあった、「一竹辻が花」の衣装が登場します。

…本当に美しかった。(しみじみ)

なかなか生で見る機会のない衣装なので、実際に人が身に纏って動いている辻が花を観ることができて、すごく幸せでした。
(間近で観たかったから、前方席が欲しくてがんばりました)


でも。



あそこまで宣伝して使うからには、あの衣装がもっとも映える使い方をしてほしかったよーーーーーっ!!

具体的には。

一竹辻が花の衣装を纏った4人以外は、無地あるいは小紋の衣装にするべきだったんじゃないかと思ったのでした。

辻が花の衣装は、あの幽遠で奥深い、絶妙の色遣いが肝なんです。
あれに強烈なタカラヅカライトをあてるというだけでも、微妙な風合いが飛んでしまいそうで不安に思っていたのに。

その回りを、よく似た大きさの柄を、強い色味の数色でぱっきりと染め抜いた、印象の強い着物で囲んでしまうなんて…。


柄の大きさや形はよく似ているのに、染めのイメージがまったく違う、『違う世界の』衣装。


辻が花の衣装をつけた人しか舞台上に居ないときの圧倒的な美しさと、異世界の衣装が登場したときの混乱。舞台空間の焦点のなさ。

「竹灯籠」の場面の装置くらい、スパッとシンプルな背景でこそ、辻が花は生きたと思います。
せっかく全員の衣装を作るのであれば、もっと辻が花が生きるように、 舞台空間全体の『焦点』として、辻が花を着た4人が機能できるように

考えていただきたかったなぁ……


なーんて思いながら。

そうは言っても華やかなフィナーレに感動しつつ幕が降りて。


慌ててプログラムを買いに走ったのでした……。




きゃーん、ツーショットのあすかちゃん、(珍しく)可愛い〜〜♪
トウコさんも男前。かっこいいぞ!!


…盛り上がって、盛り上がって、
お芝居の幕があがるのは、いつだろぉ……?




「エリザベート」という作品における、ゾフィーとフランツ親子について。



何度も書いていますが、私は月組版のちづ(美々杏里)さんのゾフィーと、ガイチ(初風緑)さんのフランツが大好きでした。

国を憂う厳しい母親と、生真面目で頑固で、でもこの上もなく優しく愛情に満ちた、孤独な皇帝。



そして、雪組再演版のハマコ(未来優希)ゾフィーとユミコ(彩吹真央)フランツ親子も、負けず劣らず大好きです!

国を憂い、息子を案じる愛情豊かな母親と、素直で優しくて愛情に満ちた、責任感の強すぎる皇帝。



ウィーン版は、クリスタ・ヴェットシュタインさんのゾフィーにマルクス・ポールさんのフランツ。

いかにも偉大な「じょおうさま」な(←意味不明)、本質的には明るくて有能で積極的で、若い頃はさぞ魅力的であったろう母親と、どうしようもなく女心に疎いマザコン皇帝っ!(滝汗)。

母親は歳を取って頑固になり、ちょっといぢわる風味も増して、野生児な嫁を疎ましく思っているところが素敵。今まで観てきたゾフィーの中で、一番近かったのはタキ(出雲綾)さんのゾフィーでしたね。女のイヤらしさをはっきり出していたところが似ていたと思います(←誉めてる。多分)。

いわゆる「嫁姑の争い」みたいな雰囲気にならずにすんだのは、クリスタさんのからっとした持ち味と、マヤさんが「ゾフィーを完全に凌駕できる迫力のエリザベート」だったから。

そして、あのフランツのマザコンぶり!素晴らしい〜!!
執務室では全てママの顔色を見ながら判断を下し、何かっちゃママの手を取ってキスをする動作。またそれが嫌味じゃないのが羨ましくてなりません。
日本にはいませんねぇ、ああいう人は…。





正しい、正しくないではなく、好き、嫌いで言うならば。
私は月雪(再演)のゾフィー&フランツが好きなのですが(だって格好良いんですもの!!)

ウィーン版を観て。
…なるほど。これが「マザコン皇帝」なのね、
と納得したのでした。

宝塚版では、2番手男役が受け持つ「フランツ」という役は“良い男”でなくてはいけませんから、「女心をくすぐる」方向に変更しているんでしょうね、きっと。



なーるほど。
この人だから、あんなにさらっと「ママの方が経験豊富だ。任せよう」とか言えるんだな〜。

となみ(白羽ゆり)ちゃんくらい、イッちゃった天然素材の天使が相手なら、「そりゃそうだろうな」と思えるのですが、リアルでたくましい「野生児」である麻子(瀬奈じゅん)さんやマヤ・ハクフォートさんには、とてもそんなこと言えないですよ、普通。
まぁ、まるっきり「子供」だった麻子さんならともかく、リアルに“大人”だったマヤさんのシシィには、普通は。


でも!

マルクスさんのフランツだと。
ホンキでそう思っているのがまるわかりなんですよね…。


しかも、嫌味じゃない。
大真面目で、ホンキ。
真剣に、自分の妻より母の方が子育てに向いていると思っている

だから、シシィは怒る。許さない。
「わかりました!あなたは敵だわ!」
…もっと早く気が付かなくてはいけなかった。この宮中に、私の味方はいないんだわ。この人も敵だし、他の人はもっと敵!!と。



歌詞でも歌われてしまう「マザコン皇帝」。
でも、歴史上の彼は。
決して「遣り手」ではありませんでしたけれども、長期間にわたって“それなりに”安定した国を作り、守り抜いた名君の一人。
ただ「マザコン」だけの人ではなかったはずなのです。

ゾフィーが亡くなってからも、皇太子を喪っても、国を大きく乱れさせることなく、さまざまな矛盾を抱え込んだまま20世紀を迎えられたのですから。



でも、ウィーン版では。
この作品の主役はタイトルロールのエリザベートですから、「エリザベートから見たフランツ」像が描き出される。

それは、“妻の味方になってやることもできず、息子を守ることにも失敗した、優柔不断なマザコン男”という、一方的な評価とならざるを得ません。

ここでフランツが“いい男”になりすぎてしまうと、エリザベートが“嫌な女”あるいは“ダメな女”になってしまう。
主役がエリザベートである以上、観客が彼女に感情移入できないようなキャラクターするわけにはいかない。したがって、フランツは“マザコン”で“究極のダメ男”でなくてはならないのです。

そして。
そういう男だから、「エリザベート皇后が彼を愛し続けられなかったのは仕方がない」と観客は思う。

最初は(「嵐も怖くない」)愛してた。彼がいれば、知らない宮中も大丈夫(リプライズ)だと思っていた。
でも。
彼は、妻よりも母を選ぶ。
他の道などまったく思い浮かばない。

それは、彼が“エリザベート”という女ををはっきりと理解していなかったから。

それが、ウィーン版のゾフィーとフランツ。





ちづさんのゾフィーは、国を憂う大人。
大人すぎて、まるっきり子供のまま成長しないシシィの心情なんぞ、全く理解できない人でした。
フランツに対する深い信頼と愛はあっても、逆に理性が勝ちすぎていて「子供」に対する「盲目的な母性愛」がありそうなタイプにはあまり見えなかった。だから、もしかしたらフランツ自身も「愛に飢えた子供時代」を送っていて、それ故にエリザベートへの愛情の示し方が判らなかったのではないか、と。
そんな憶測さえ抱いていました。



でも、ハマコさんのゾフィーは。
きっと本来の性格は妹ルドヴィカに良く似た、まぁあれほど陽気ではないにしても、十分に愛情深いタイプだったのだろう、と。
そのままバイエルンの1貴族として子供を育てていたなら、エリザベートのような嫁が来ても、まぁ溜息くらいはつくかもしれませんが(笑)、それなりに可愛がってあげることができたのではないか、と…。

そんなふうに思うのです。

だって。
ハマコさんのゾフィーは、シシィへの複雑な感情をにじませるという難題にまでトライしてのけたんだもん。


でも、このとき彼女は「皇太后」であり、事実上の「帝王」だった。つまり、「国家と臣民のため生きる」存在。

…実際には、その義務は知っているけれども、ついつい現実の自分の幸せを求めた君主なんてたくさんいたことでしょう。
でも、彼らは「くそ真面目」な親子だった。「現実」を生きた人間とは思えないほどに。

自分の幸せは国家の安泰と臣民の幸せとイコールである、と
ホンキで心の底から思っている君主…
どんなに「現実にはソンナモノありえないよ!」と思っても。
少なくとも、宝塚版「エリザベート」というミュージカルにおけるフランツ・ヨーゼフは明確に「そういう存在」であり、
そうなのであれば、彼をそう育てたゾフィーもまた「そういう存在」であった、というのは非常にあり得る話であると思います。



そんな、人間とはとても思えない心理状態の親子。
「臣民が自分に感謝している」と信じることで幸せを感じる帝王と、その母親。


…ファンタジー作家の「麻城ゆう」さんの作品に「月光界」という作品世界があるのですが。
そこにいる「帝王」という種類の人々は、その「世界」のルールによって「民の感謝」という褒美を実際に受け取ることができます。「民が私のために祈っている。それがどんなに幸せなことか」と、その「祈り」によって直接に力を得る「帝王」は呟くのです。

でも、フランツ・ヨーゼフやゾフィーが生きた世界は魔法やファンタジーの世界ではないので、そういう褒美は受け取れないんですけどね……(T T)




実際にオーストリーの民がどれほど彼らに感謝していたとしても、それが具体的に王家に還元されることはない。
それでも、二人は果敢に義務を果たそうとする。

全てを、自分自身の存在意義を懸けて。




エリザベートにはそれが判らない。
それは彼女が帝王教育を受けていないからなのかもしれませんが、
根本的には「子供だから」なのだと思うのです。


感性豊かで発想が斬新。
これは子供の特徴です。
そして、その裏返しには「感情的になりやすい」という欠点が隠れている。

感情的になっては政治は動かせません。
彼女はその発想と美貌と行動力でフランツの「政治」を助けたこともあるのですが、
なかなかそういう活動は認めて貰えない。

いつまでたっても子供扱いのまま。




麻子さんのシシィは「子供」だったから、
…“子供扱い”を不満に思うのは、その人が“子供”である証拠
なんだよね、と思いました。

となみちゃんのシシィは「天使」だから。
何にも考えてない、という感じでした。

マヤさんのシシィは、リアルな女だったから。
ただの“子供扱い”ではなく、“貧乏貴族の、美人だけど頭が空っぽな娘”という扱いには我慢ができなかったのでしょうね…。



ゾフィー、フランツ、エリザベート、そしてルドルフ。
この、「現実世界」であるハプスブルク帝国の皇帝一家の人間関係がしっかり芝居として演出されていれば、
「彼岸」の存在であるトートやルキーニも動きやすくなって、自在になる。

私が「嵌った」3つの公演において。

一番「リアル」だったのは月組公演だったと思います。
ゾフィー、フランツ、エリザベートの3人が、3人ともすごくリアルで、いかにも現実にいそうな感じ。こんな3人だったんじゃないか、と思わせる一家。
エリザベートを愛しながら、それを外側から揶揄するルキーニと、遠くから見守っているトート。


逆に、一番劇画的というか「カリカチュア」っぽい印象を受けたのがウィーン版でした。
ゾフィーのキャラもフランツのキャラも記号っぽく、トートもルキーニもこの世に生きている感がなくて。
リアルに生きているのはエリザベート一人(あ、ルドルフもか)。
鬼がいっぱいに溢れている世界で、必死に鬼ごっこをしているエリザベート。回り中、彼女には理解できない、彼女とは別の世界にすんでいる鬼だらけの空間に生きている彼女の不安と恐怖。
くるんと裏返せば、正常な“世界”からはみ出しているのは彼女の方なのに、本人にはそれがわからない、

その不安と恐怖を眺める、観客の至福。
それが、この世で一番怖いものなのかもしれません…。


雪組再演版は、今はちょうどその中間くらいに見えます。
記号的だけれども愛情と理性に溢れたゾフィーとフランツ。そして、その家庭に入り込めない、入り方がわからない天使。
天使を愛した男の幸いと苦悩。
Mっ気たっぷりのフランツのキャラクターが、私はものすごく好きかもしれません。

そして、愛情深いゾフィーも。
東宝へいらっしゃるまでにどこまで進化するのか、それがとても楽しみです。







なんだか、あれこれ比較して書いているので、不愉快に思われた方がいらっしゃいましたら本当に申し訳ありません。
そもそも、月組版が一番好き、と言っている時点で少数派であることは自覚しておりますので(滝汗)。

どうぞ(こんな長文ですけど)読み飛ばしていただければ幸いです…m(_ _)m