ロミオとジュリエット【2】
2010年8月29日 宝塚(星) コメント (2)星組博多座公演「ロミオとジュリエット」。
シェイクスピア作品の中でも短い方に分類される「ロミオとジュリエット」ですが、それでも公演によって省略されるエピソードはいろいろあります。
博多座のミュージカル版では「ロミオの恋」のエピソードが削られていました。ジュリエットと出会う前のロミオには、激しい片思いの対象であるロザラインという女性がいた、というエピソードが。
彼はずっと「ロザライン、ロザライン」と片恋の熱に浮かされて、家族にも仲間にも心配をかけており、キャピュレット家のパーティーに潜り込むのも「憧れのロザラインが出席する」と聞いたから、だったりするんですよね。なのに、そこで出会ったジュリエットといきなり恋に落ちる、という展開には結構無理があるんですよ。
今までに私が観たことがある舞台の中で、そのあたりを脚本どおりに進めていて面白い演出だなあと思ったのは、このエピソードによって「若者の恋の危うさ、不安定さ」を前面に出していたものでした。
「大人」とは違う時間が流れている「若者」にとっての「恋」=「刹那の激情」である、とでも言えばいいのでしょうか。
ロミオの側からすれば、「ジュリエットに向かうこの気持ちを恋と呼ぶなら、今までの恋は恋ではなかった」ってなところだったのに、幼くて純粋なジュリエットにとっては、疑いようもなく、生涯を懸ける価値のある「初めての恋」だった……その温度差が、すなわち「運命の恋」の無慈悲さであり、「大人の事情」の冷酷さでもあるのだな、と。
でも、ミュージカル版では余計なものを削って「純粋で一途な、輝くような運命の恋」が描かれます。
ロミオは、元々の戯曲におけるジュリエットと同じ立ち位置で、「恋に恋し」ており、「たった一人の、一生を捧げられる人」を探している。
そしてさらに、主人公の二人だけが純粋な恋をしていて、他の人々は違う、という設定もある。
マキューシオとティボルトは、タイプは違うようですがどちらも女たらし。
キャピュレット夫人と乳母は、口をそろえて「夫を愛する必要なんてない」と言い切り、キャピュレット卿は女中や他の女に手を出しまくる。
ロミオとジュリエットにとっては、「真実の愛」に身をささげているのはこの街で自分たちだけ……そんなふうに見えていた、はず。
内面的なことをいえば、ティボルトの真実の愛はジュリエットに捧げられているわけですが、その事実は誰も知らない。また、ベンヴォーリオの真実の愛は、もしかしたらロミオに捧げられているかもしれない(←おいこら)けれども、それはベンヴォーリオ自身にさえ自覚されることはない。
彼らは「真実の愛」に身を捧げた「若き恋人たち」にとっては別の生き物なんですよね。決して理解されることはない、理解しあえるとは思えない存在。
だからこそ、ロミオはたった一人の理解者であったジュリエットを喪ったと知って絶望し、死を希う。
自分が「恋」を捧げるのはただひとりだ、という想いがあるから、そこに疑問はないんです。そして彼は、ただ薬を飲むためだけに霊廟へ向かう。彼を妨げるパリスの登場もなく、ただ、彼を誘う「死」の微笑みに惹かれて。
ほかにもいくつかの変更点がありますが、中でも「おお」と思ったのは、ヴェローナの街の人々が二人の秘密結婚を知っている、という設定でした。
これって、実は結構重要で。これがなければ、もしかしたら悲劇は起こらなかったかもしれない。
父親は、パリスが噂を耳にする前にジュリエットと結婚させて持参金を手にしようと焦り、ティボルトの死の翌日(ロミオの追放の朝)にいきなり「明日結婚式を挙げるように」娘に命令する。
それゆえに追いつめられた娘は、神父の無茶な計画に乗らざるをえない。
時間の無い中、同時進行で進めた計画は、使者がロミオを見つけられずに頓挫し、最悪の結果を生む。
戯曲では、父親は秘密結婚の事実は知らず、ただ、ティボルトの死という事実に沈んだ娘を力づけるために結婚の準備を進める、という設定だったはず。でも、実際芝居として観ていると、別にそんなに急ぐ必要はないはずなのに、エピソードを進めるために結婚を急がせているように見えて、違和感を感じることが多かったんですよね。
以前、街の人々が知っているという設定の芝居を観たことがあって(神父がばらす場面まであった)、おお、これってわかりやすいなーと思ったのでした(^ ^)。
「ロミオとジュリエット」からインスパイアされた傑作ミュージカル「ウェストサイド物語」は、子供たちの物語でした。
物語に深くかかわる「大人」は、刑事(←公正に裁かない大公)とドック(←祝福を与えられない神父)の二人だけ。「父」も「母」も「神父」もなく、登場人物のほとんどが「子供」である世界。
「子供」を定義するならば、「責任をとれない存在」ということになると思うんですよね。リフにしてもベルナルドにしても、彼らは「リーダー」であって「指導者」ではない。子供たちの中では強くて頭が良いというだけで、大人ではないんです。
でもトニーは、「Something Comin’」を探すために「仲間」を抜けて、「大人」になろうとしているところでした。
まだ完全な「大人」ではないけれども、もう「子供」では、ない。だからこそ、彼は「マリアのために」喧嘩を止めに行くんです。巻きこまれたのではなく、意思をもって喧嘩をとめるために走り出す。
結果的には、喧嘩の現場にトニー(青年)が現れたことで子供(=ベルナルド)は引くに引けなくなり、すべては悲劇へ向かって転げ落ちることになるのですが。
トニーは、登場の最初から物語のラストまで、「大人」でも「子供」でもない「青年」でありつづけ、
少女であったマリアは、トニーを喪ったときに一足飛びに「大人」になる。そういう物語でした。
……そういえば、トニーも初恋でしたね、マリアが。
スピード感と最後のカタルシスを大切にしようとすると、ロザラインのエピソードは最初に削られるのかなあ(^ ^)。
それに対して、今回博多で上演されていた「ロミオとジュリエット」のロミオは、最初から最後まで「少年」であったような気がします。
彼の変化は、「まだ恋を知らない少年」から、「恋を知った少年」への変化のみ。子供ではないけれども青年にさえなっていない「少年」のまま、ロミオは短い青春を駆け抜ける。
彼らの回りにはたくさんの大人たちがいて、基本的に、若者たちは『大人たち』の支配下にあるんですよね。
「支配下」という云い方が悪ければ、「影響下」でもいい。勝手な理屈でティボルトを抑圧し、勝手に対立してマキューシオを駆り立て、ベンヴォーリオを悩ませる、我儘で身勝手な「大人たち」。
「ロミオとジュリエット」は、そのまま上演すれば普通はジュリエットが主役になるものです。
ロミオは頭が軽くて手の早い、「イマドキの青年」であり、純粋な「真実の愛」の体現者は、幼い少女ジュリエットなのですから。
自ら結婚を言いだし、若いロミオを駆り立てる、美しく残酷な少女。ロミオはむしろ、そんなファム・ファタルの犠牲になったようにさえ見えるかもしれません。
でも、このミュージカル版では、両家の不和に心を痛める優しい少年が、ちゃんと主役に見えました。
そして、彼を愛するジュリエットが「少女」から脱皮するのは、彼への愛ゆえに父親に口ごたえをして、さらには母代りの乳母に嘘を吐いた とき。
プレスギュルヴィック氏のオリジナルがそうなっているのか、宝塚用に小池さんが手を入れた結果なのか、実際のところはわかりませんが、心優しい少年が視る「不安」の象徴としての「死」という設定が、すごく印象的でした。
真風くんが扮する「死」は、ロミオが独りになると近づいてきます。
心優しい少年の裡に潜んでいた闇。それはたぶん、少年にとっては近しい存在だった。
爆発しそうなエネルギーに満ちた「仲間」たちよりも、もっと心の近くに在る存在。
それはたぶん、本来はキャピュレット卿やモンタギュー卿の心にもあったものなのだと思う。ただ、完全な「大人」になった暁には、もうその存在を脅かすことはできない、というだけで。
彼らの前で「死」が容を為すのは、彼らの死の瞬間のみ。そこが、「少年」「青年」と「大人」の違い。
そして「死」は、無邪気で無力な子供の瞳には映らない。
マキューシオやベンヴォーリオ、そしてティボルトには、彼の姿は視えないのです。
非常に面白いと思ったのが、ロミオとジュリエットが寄り沿って眠る霊廟での、「死」と「愛」の動きでした。
ジュリエットが剣で胸を突いた瞬間の、嬉しそうな「死」。
あえて形容するとしたら「残酷な」とつけ加えたい、そんな笑顔で。
倒れ伏した二人を発見した大人たち。
嘆く彼らを、舞台の上手端の壁のセットに寄り掛かってにやにやしながら視ている「死」。
バルコニーの上で、「世界」を心配そうに見おろす「愛」。
モンタギュー夫人(花愛瑞穂)が歌いだす、名曲「罪びと」。
次第に心を一つにして、手を取り合うキャピュレットとモンタギュー。
そんな光景を、嬉しそうに見守る「愛」と、慌てたように姿勢を変える「死」
舞台(世界)の向こう側に立つ「死」をじっと見凝めて、腕をさしのべる「愛」。
「愛」の微笑みを、呆然として受ける「死」。
バルコニーの上の「愛」が纏う光と、上手のセットの陰に隠れてしまいそうな「死」。
それは、どちらの勝利でもどちらの敗北でもなく、ただ、あるべき姿に戻っただけだったのだ、---と。
「死」が少年で、「愛」が子供であったからこそ、表現できた真実。
「愛」というタイトルで想像するような色っぽい女役ダンサーではなく、スタイルはいいけれどもダンスにはあまり色気のない、男役の色も女役の色もついていない下級生に「愛」をやらせたのには、単なる抜擢以上の意味があったのだと思います。
そして「死」についても、こちらはある程度「男役」としての経験を積んだ、でも、まだのびしろのあるダンサーを選んだんだろうな、と。
「愛」に必要なのは柔らかさと中性的な魅力であり、「死」に必要なのは静謐さと残酷なまでの優しさ。
そして、両役に共通して必要なのが、まったき若さ。
小池さんが、雪組版でこの二人に誰を選ぶのか、とても楽しみです。
あとはじゃあ、群衆たちのツボを簡単に。
■キャピュレットの男
・美城れんさんは、目立つ役としては一幕の乳母の従者(ピーター)があります。コミカルな動きと間の良さが印象的でした。あとはやっぱり、眼光鋭くモンタギューを睨みつけるところが迫力だったなあ(はぁと)
・海隼人さんは、最初の「ヴェローナ」の前の喧嘩シーンで、群衆に引き裂かれ、ボコられる恋人……でしたよね?(女性の方は優香さん)
綺麗な人ですが、今回も黒っぽい髪がワイルドで、とても目立っていたと思います。
・みっきぃさん(天寿光希)は………もちろん目立つ役というならパリスなんですが(^ ^;ゞ。
個人的には、「ヴェローナ」の前の喧嘩シーンで、汐月しゅうさんに担ぎあげられていたのに吃驚しました。確かに小柄だし、「リラの壁の…」のときよりさらに痩せたけど、筋肉質であまり軽い方ではないと思うんですけど、どうしてそんなに軽々と(涙)。
あとは……下手の奥で、キトリちゃんとお店をやってるっぽい芝居があったのは、「キレイは汚い」だったかな。星組のMyお気に入りさんが二人、一緒に芝居してくれて、二人ともめっちゃ可愛かったですー♪
そして、二幕の喧嘩(決闘)シーン。
下手側で戦うみっきぃさんをボコるのが、汐月さんとれんた(如月蓮)だったのは、私へのサービスかと思いました。しかも、スローモーションになったところでキトリちゃんがみっきぃさんを助けようと手を伸ばすんだよ!!すごい!!(←何がだ)
えっと。
……キャピュレットサイドは、みっきぃさんとキトリちゃんを観るのに精一杯で、あまり下級生チェックができませんでした。ごめんなさい。
■モンタギューの男
・どいちゃん(鶴美舞夕)の「目立つ場面」は、そりゃー仮面舞踏会のバトントワラーですよね(*^ ^*)あの場面、雪組ではどうするんだろうなあ……。
いつもハンサムなどいちゃんですが、編みこみの髪型もすごい迫力で、大好きでした。そして、あの髪型のおかげで仮面をつけていてもすぐに分かったのはありがたかったです♪
・れんた(如月蓮)は、ロレンス神父がマントヴァに居るロミオに差し向ける使者役が大きいかな。台詞はないけど、いい芝居してたなあ。薬売り(=「死」)に止められてロミオに会えない場面の必死さが良かったです。
モンタギューの男としては、ライオンヘアーが似合っていて格好良かった!
・汐月しゅうさんは、ちょっと私の中でブームが起きています。いやはや、本当に格好良かった!!色の薄いプラチナブロンドを高めのポニーテールにして、鋭角的なダンス。なんだか輝いてました。
……あの髪、鬘じゃないんですね。地毛?エクステ?すごい似合ってたけど、、、でもメチャメチャ驚いたわー。
・芹香斗亜さんは、スカイフェアリーズのほわあんとした可愛らしさとはうってかわって、けっこう激しいツンツン頭にシャープな化粧。長い手足で伸び伸び踊っていて、目を惹きました。……あまり迫力は感じなかったけど、ね。
夏樹れいさんはつんつんのショートへア、漣レイラさんはハニーブロンドを結んでいて、どちらも格好良かった♪
キャピュレットの女
・稀鳥まりやちゃんはとにかく可愛い!背を高く見せるためなのか、頭の上で高々と結んだ髪型がめっちゃ似合う。かと思えば、仮面舞踏会でのソバージュヘアも死ぬほど可愛い。要するに何をしても可愛いんですが。
歌はあまり得意じゃないと思っていたけど、今回程度の分量なら十分聴かせてくれました。ああ、次の公演はもう少し役がつくと良いんだけど。ショーがないと切ない(T T)。
・そこかしこで、あの美人は誰?と思うと、千寿はるさんだった……(@ @)。え、転向したわけじゃないよね?この公演だけ?美人でスタイル良くて、声も良い。ちょっとうっとりしてしまいました。
■モンタギューの女
・特に目立っていたのは、南風里名さんと優香りこさん……かなあ。
二人ともかなり女っぽい、どちらかというと「女役ダンサー」という感じの踊り手ですが、喧嘩の場面とかは迫力もあって、とても素敵でした。
優香さん、「コインブラ物語」の姫君役はあまりピンとこなかったけど、こういう役は格好よくて色気もあって良いですねぇ~~(*^ ^*)。
お芝居のラストシーンで流れる「Aimer」のカゲソロは、水輝涼さんと夢妃杏瑠ちゃんなんだそうですね。透明感のある美しい音色で、とても良かったです♪
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シェイクスピア作品の中でも短い方に分類される「ロミオとジュリエット」ですが、それでも公演によって省略されるエピソードはいろいろあります。
博多座のミュージカル版では「ロミオの恋」のエピソードが削られていました。ジュリエットと出会う前のロミオには、激しい片思いの対象であるロザラインという女性がいた、というエピソードが。
彼はずっと「ロザライン、ロザライン」と片恋の熱に浮かされて、家族にも仲間にも心配をかけており、キャピュレット家のパーティーに潜り込むのも「憧れのロザラインが出席する」と聞いたから、だったりするんですよね。なのに、そこで出会ったジュリエットといきなり恋に落ちる、という展開には結構無理があるんですよ。
今までに私が観たことがある舞台の中で、そのあたりを脚本どおりに進めていて面白い演出だなあと思ったのは、このエピソードによって「若者の恋の危うさ、不安定さ」を前面に出していたものでした。
「大人」とは違う時間が流れている「若者」にとっての「恋」=「刹那の激情」である、とでも言えばいいのでしょうか。
ロミオの側からすれば、「ジュリエットに向かうこの気持ちを恋と呼ぶなら、今までの恋は恋ではなかった」ってなところだったのに、幼くて純粋なジュリエットにとっては、疑いようもなく、生涯を懸ける価値のある「初めての恋」だった……その温度差が、すなわち「運命の恋」の無慈悲さであり、「大人の事情」の冷酷さでもあるのだな、と。
でも、ミュージカル版では余計なものを削って「純粋で一途な、輝くような運命の恋」が描かれます。
ロミオは、元々の戯曲におけるジュリエットと同じ立ち位置で、「恋に恋し」ており、「たった一人の、一生を捧げられる人」を探している。
そしてさらに、主人公の二人だけが純粋な恋をしていて、他の人々は違う、という設定もある。
マキューシオとティボルトは、タイプは違うようですがどちらも女たらし。
キャピュレット夫人と乳母は、口をそろえて「夫を愛する必要なんてない」と言い切り、キャピュレット卿は女中や他の女に手を出しまくる。
ロミオとジュリエットにとっては、「真実の愛」に身をささげているのはこの街で自分たちだけ……そんなふうに見えていた、はず。
内面的なことをいえば、ティボルトの真実の愛はジュリエットに捧げられているわけですが、その事実は誰も知らない。また、ベンヴォーリオの真実の愛は、もしかしたらロミオに捧げられているかもしれない(←おいこら)けれども、それはベンヴォーリオ自身にさえ自覚されることはない。
彼らは「真実の愛」に身を捧げた「若き恋人たち」にとっては別の生き物なんですよね。決して理解されることはない、理解しあえるとは思えない存在。
だからこそ、ロミオはたった一人の理解者であったジュリエットを喪ったと知って絶望し、死を希う。
自分が「恋」を捧げるのはただひとりだ、という想いがあるから、そこに疑問はないんです。そして彼は、ただ薬を飲むためだけに霊廟へ向かう。彼を妨げるパリスの登場もなく、ただ、彼を誘う「死」の微笑みに惹かれて。
ほかにもいくつかの変更点がありますが、中でも「おお」と思ったのは、ヴェローナの街の人々が二人の秘密結婚を知っている、という設定でした。
これって、実は結構重要で。これがなければ、もしかしたら悲劇は起こらなかったかもしれない。
父親は、パリスが噂を耳にする前にジュリエットと結婚させて持参金を手にしようと焦り、ティボルトの死の翌日(ロミオの追放の朝)にいきなり「明日結婚式を挙げるように」娘に命令する。
それゆえに追いつめられた娘は、神父の無茶な計画に乗らざるをえない。
時間の無い中、同時進行で進めた計画は、使者がロミオを見つけられずに頓挫し、最悪の結果を生む。
戯曲では、父親は秘密結婚の事実は知らず、ただ、ティボルトの死という事実に沈んだ娘を力づけるために結婚の準備を進める、という設定だったはず。でも、実際芝居として観ていると、別にそんなに急ぐ必要はないはずなのに、エピソードを進めるために結婚を急がせているように見えて、違和感を感じることが多かったんですよね。
以前、街の人々が知っているという設定の芝居を観たことがあって(神父がばらす場面まであった)、おお、これってわかりやすいなーと思ったのでした(^ ^)。
「ロミオとジュリエット」からインスパイアされた傑作ミュージカル「ウェストサイド物語」は、子供たちの物語でした。
物語に深くかかわる「大人」は、刑事(←公正に裁かない大公)とドック(←祝福を与えられない神父)の二人だけ。「父」も「母」も「神父」もなく、登場人物のほとんどが「子供」である世界。
「子供」を定義するならば、「責任をとれない存在」ということになると思うんですよね。リフにしてもベルナルドにしても、彼らは「リーダー」であって「指導者」ではない。子供たちの中では強くて頭が良いというだけで、大人ではないんです。
でもトニーは、「Something Comin’」を探すために「仲間」を抜けて、「大人」になろうとしているところでした。
まだ完全な「大人」ではないけれども、もう「子供」では、ない。だからこそ、彼は「マリアのために」喧嘩を止めに行くんです。巻きこまれたのではなく、意思をもって喧嘩をとめるために走り出す。
結果的には、喧嘩の現場にトニー(青年)が現れたことで子供(=ベルナルド)は引くに引けなくなり、すべては悲劇へ向かって転げ落ちることになるのですが。
トニーは、登場の最初から物語のラストまで、「大人」でも「子供」でもない「青年」でありつづけ、
少女であったマリアは、トニーを喪ったときに一足飛びに「大人」になる。そういう物語でした。
……そういえば、トニーも初恋でしたね、マリアが。
スピード感と最後のカタルシスを大切にしようとすると、ロザラインのエピソードは最初に削られるのかなあ(^ ^)。
それに対して、今回博多で上演されていた「ロミオとジュリエット」のロミオは、最初から最後まで「少年」であったような気がします。
彼の変化は、「まだ恋を知らない少年」から、「恋を知った少年」への変化のみ。子供ではないけれども青年にさえなっていない「少年」のまま、ロミオは短い青春を駆け抜ける。
彼らの回りにはたくさんの大人たちがいて、基本的に、若者たちは『大人たち』の支配下にあるんですよね。
「支配下」という云い方が悪ければ、「影響下」でもいい。勝手な理屈でティボルトを抑圧し、勝手に対立してマキューシオを駆り立て、ベンヴォーリオを悩ませる、我儘で身勝手な「大人たち」。
「ロミオとジュリエット」は、そのまま上演すれば普通はジュリエットが主役になるものです。
ロミオは頭が軽くて手の早い、「イマドキの青年」であり、純粋な「真実の愛」の体現者は、幼い少女ジュリエットなのですから。
自ら結婚を言いだし、若いロミオを駆り立てる、美しく残酷な少女。ロミオはむしろ、そんなファム・ファタルの犠牲になったようにさえ見えるかもしれません。
でも、このミュージカル版では、両家の不和に心を痛める優しい少年が、ちゃんと主役に見えました。
そして、彼を愛するジュリエットが「少女」から脱皮するのは、彼への愛ゆえに父親に口ごたえをして、さらには母代りの乳母に嘘を吐いた とき。
プレスギュルヴィック氏のオリジナルがそうなっているのか、宝塚用に小池さんが手を入れた結果なのか、実際のところはわかりませんが、心優しい少年が視る「不安」の象徴としての「死」という設定が、すごく印象的でした。
真風くんが扮する「死」は、ロミオが独りになると近づいてきます。
心優しい少年の裡に潜んでいた闇。それはたぶん、少年にとっては近しい存在だった。
爆発しそうなエネルギーに満ちた「仲間」たちよりも、もっと心の近くに在る存在。
それはたぶん、本来はキャピュレット卿やモンタギュー卿の心にもあったものなのだと思う。ただ、完全な「大人」になった暁には、もうその存在を脅かすことはできない、というだけで。
彼らの前で「死」が容を為すのは、彼らの死の瞬間のみ。そこが、「少年」「青年」と「大人」の違い。
そして「死」は、無邪気で無力な子供の瞳には映らない。
マキューシオやベンヴォーリオ、そしてティボルトには、彼の姿は視えないのです。
非常に面白いと思ったのが、ロミオとジュリエットが寄り沿って眠る霊廟での、「死」と「愛」の動きでした。
ジュリエットが剣で胸を突いた瞬間の、嬉しそうな「死」。
あえて形容するとしたら「残酷な」とつけ加えたい、そんな笑顔で。
倒れ伏した二人を発見した大人たち。
嘆く彼らを、舞台の上手端の壁のセットに寄り掛かってにやにやしながら視ている「死」。
バルコニーの上で、「世界」を心配そうに見おろす「愛」。
モンタギュー夫人(花愛瑞穂)が歌いだす、名曲「罪びと」。
次第に心を一つにして、手を取り合うキャピュレットとモンタギュー。
そんな光景を、嬉しそうに見守る「愛」と、慌てたように姿勢を変える「死」
舞台(世界)の向こう側に立つ「死」をじっと見凝めて、腕をさしのべる「愛」。
「愛」の微笑みを、呆然として受ける「死」。
バルコニーの上の「愛」が纏う光と、上手のセットの陰に隠れてしまいそうな「死」。
それは、どちらの勝利でもどちらの敗北でもなく、ただ、あるべき姿に戻っただけだったのだ、---と。
「死」が少年で、「愛」が子供であったからこそ、表現できた真実。
「愛」というタイトルで想像するような色っぽい女役ダンサーではなく、スタイルはいいけれどもダンスにはあまり色気のない、男役の色も女役の色もついていない下級生に「愛」をやらせたのには、単なる抜擢以上の意味があったのだと思います。
そして「死」についても、こちらはある程度「男役」としての経験を積んだ、でも、まだのびしろのあるダンサーを選んだんだろうな、と。
「愛」に必要なのは柔らかさと中性的な魅力であり、「死」に必要なのは静謐さと残酷なまでの優しさ。
そして、両役に共通して必要なのが、まったき若さ。
小池さんが、雪組版でこの二人に誰を選ぶのか、とても楽しみです。
あとはじゃあ、群衆たちのツボを簡単に。
■キャピュレットの男
・美城れんさんは、目立つ役としては一幕の乳母の従者(ピーター)があります。コミカルな動きと間の良さが印象的でした。あとはやっぱり、眼光鋭くモンタギューを睨みつけるところが迫力だったなあ(はぁと)
・海隼人さんは、最初の「ヴェローナ」の前の喧嘩シーンで、群衆に引き裂かれ、ボコられる恋人……でしたよね?(女性の方は優香さん)
綺麗な人ですが、今回も黒っぽい髪がワイルドで、とても目立っていたと思います。
・みっきぃさん(天寿光希)は………もちろん目立つ役というならパリスなんですが(^ ^;ゞ。
個人的には、「ヴェローナ」の前の喧嘩シーンで、汐月しゅうさんに担ぎあげられていたのに吃驚しました。確かに小柄だし、「リラの壁の…」のときよりさらに痩せたけど、筋肉質であまり軽い方ではないと思うんですけど、どうしてそんなに軽々と(涙)。
あとは……下手の奥で、キトリちゃんとお店をやってるっぽい芝居があったのは、「キレイは汚い」だったかな。星組のMyお気に入りさんが二人、一緒に芝居してくれて、二人ともめっちゃ可愛かったですー♪
そして、二幕の喧嘩(決闘)シーン。
下手側で戦うみっきぃさんをボコるのが、汐月さんとれんた(如月蓮)だったのは、私へのサービスかと思いました。しかも、スローモーションになったところでキトリちゃんがみっきぃさんを助けようと手を伸ばすんだよ!!すごい!!(←何がだ)
えっと。
……キャピュレットサイドは、みっきぃさんとキトリちゃんを観るのに精一杯で、あまり下級生チェックができませんでした。ごめんなさい。
■モンタギューの男
・どいちゃん(鶴美舞夕)の「目立つ場面」は、そりゃー仮面舞踏会のバトントワラーですよね(*^ ^*)あの場面、雪組ではどうするんだろうなあ……。
いつもハンサムなどいちゃんですが、編みこみの髪型もすごい迫力で、大好きでした。そして、あの髪型のおかげで仮面をつけていてもすぐに分かったのはありがたかったです♪
・れんた(如月蓮)は、ロレンス神父がマントヴァに居るロミオに差し向ける使者役が大きいかな。台詞はないけど、いい芝居してたなあ。薬売り(=「死」)に止められてロミオに会えない場面の必死さが良かったです。
モンタギューの男としては、ライオンヘアーが似合っていて格好良かった!
・汐月しゅうさんは、ちょっと私の中でブームが起きています。いやはや、本当に格好良かった!!色の薄いプラチナブロンドを高めのポニーテールにして、鋭角的なダンス。なんだか輝いてました。
……あの髪、鬘じゃないんですね。地毛?エクステ?すごい似合ってたけど、、、でもメチャメチャ驚いたわー。
・芹香斗亜さんは、スカイフェアリーズのほわあんとした可愛らしさとはうってかわって、けっこう激しいツンツン頭にシャープな化粧。長い手足で伸び伸び踊っていて、目を惹きました。……あまり迫力は感じなかったけど、ね。
夏樹れいさんはつんつんのショートへア、漣レイラさんはハニーブロンドを結んでいて、どちらも格好良かった♪
キャピュレットの女
・稀鳥まりやちゃんはとにかく可愛い!背を高く見せるためなのか、頭の上で高々と結んだ髪型がめっちゃ似合う。かと思えば、仮面舞踏会でのソバージュヘアも死ぬほど可愛い。要するに何をしても可愛いんですが。
歌はあまり得意じゃないと思っていたけど、今回程度の分量なら十分聴かせてくれました。ああ、次の公演はもう少し役がつくと良いんだけど。ショーがないと切ない(T T)。
・そこかしこで、あの美人は誰?と思うと、千寿はるさんだった……(@ @)。え、転向したわけじゃないよね?この公演だけ?美人でスタイル良くて、声も良い。ちょっとうっとりしてしまいました。
■モンタギューの女
・特に目立っていたのは、南風里名さんと優香りこさん……かなあ。
二人ともかなり女っぽい、どちらかというと「女役ダンサー」という感じの踊り手ですが、喧嘩の場面とかは迫力もあって、とても素敵でした。
優香さん、「コインブラ物語」の姫君役はあまりピンとこなかったけど、こういう役は格好よくて色気もあって良いですねぇ~~(*^ ^*)。
お芝居のラストシーンで流れる「Aimer」のカゲソロは、水輝涼さんと夢妃杏瑠ちゃんなんだそうですね。透明感のある美しい音色で、とても良かったです♪
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