宝塚歌劇団雪組のみなさま、千秋楽おめでとうございます\(^o^)/
無事午前の公演のチケットをゲットして、2階の天辺で観てまいりました。
いやー、良い作品だったので、公演が終わってしまってとても寂しい。一ヶ月って本当に短いですね。なんだったら全ツもこれで良かったのになあ……なんて思ったり。
いえ、「情熱のバルセロナ」は観たことがないのでわからなくて、、、すみません(^ ^;
デボラのいづるん、
眼鏡っ子ネコタナのかぐやちゃん、
ペトルーシュカの愛輝ゆまさん、
ネコタンな寿々音綾さん、
メイエルホリド劇団員な冴輝ちはやくん、
みなさまご卒業おめでとうございますm(_ _)m。
これから歩んでいく道に、幸いの多きことを祈っています。
で、この「ロシアン・ブルー」。
キャストごとの感想とかは結構書いていると思うのですが、そういえば「作品」についてはあまり書いてない…かな?という気がしてきたので、最後にちょっとだけ呟かせてください。
最初に観たときも書きましたが、この話、当初の企画と話の内容がかなり変わったんじゃないか?という印象を抱いたのですが、実際はどうだったのでしょうか。
大野さんには「更に狂わじ」という前科(事前に出ていたあらすじとは、まっっったく違うストーリーだった)があるので、全然不思議じゃない(^ ^)。今回は表に出ていた部分(アルバートとイリーナに関わるところ)は影響なかったので、変更されたんだとしても問題ないし。
だって、何の説明もなくメイエルホリド劇団やバレエ・リュスを出しておいて放置、だなんて、大野さんらしくないような気がしたんです。彼だったら、仮に本筋に絡まないのは元々だったとしても、思いっきり薀蓄をかたむけてくれただろうに(; ;)。
もし変わったんだとしたら、たぶん、いろんな理由があったんだろうな、とは思うんですけどね。日本ではあまり知られていない話だから、説明するだけでも大変だし。でも、本来の彼の発想の中で、メイエルホリド劇団に関わるエピソードはどんな内容だったんだろう?どんな風に本筋に絡んでいたんだろう?と思うと、すごく残念な気がします。
それだけ、大劇場公演の一幕モノ100分、っていうのは構成が難しいんでしょうね。マニアックな人が創るとどうしても内容を詰め込んでしまいがちなので、大野さんも、大劇場については一本モノを任されるようになるまでは原作ありに絞ったほうがいいのかもしれません。原作ものは、原作に書いてあることはある程度省略できるので。(←「夢の浮橋」の成功が良い例)
んで、ドラマシティやバウでは、思いっきりマニアぶりを発揮して宛書してほしい(*^ ^*)。
ぜひぜひ宙組の春のドラマシティにっ!!お願いします~っっ(祈)(ことだま、ことだま)
こほん。
「ロシアンブルー」自体はすごく面白かったのですが。
でも、もう少し当時のソヴィエトの芸術レベルや、メイエルホリド劇団だけではない、『共産革命によって生まれた新しい世界でしか創り得ない、20世紀の新しい芸術』とかいうお題目、そして、それを見守る西側社会の目といったモノに対する大野さんの解釈を、聞いてみたかったなー、と思いました。
たとえば「ヘイズ・コード」は、作品自体のテーマが『ルールの是非』だったんですよね。
『くだらないルール』に対する反発と、『そもそもどういった理由でそのルールができたか』を両方きちんと(っつーか長々と)薀蓄込みで語った上で、『ルールには理由がある。でも、“やるからには最高を目指す(byハリウッドラバー)”なら、こんな抜け道があるんじゃね?』というのが主筋だった。
ウッドロウの屈託だとか、監督を襲うギャングだとか、そういうのは割とどうでもいい枝葉のエピソードで、主役は「ルール(ヘイズ・コード)」であり、そのルールに闘いを挑む芸術家たち。そして、『自分の為しうる最高のもの』とは何か?を諦めず、倦まずにいつまでも追求しつづける人々こそが芸術家である、という定義を語って物語を締めていました。
そういう、ちゃんと最後に伏線を拾って結論を出すところが、大野作品のいいところだと思う訳なのですが。
じゃあ「ロシアンブルー」のテーマは何か?というと。
ちょっと難しいんですが、私は、本来のテーマは「自由のないところに芸術はありうるのか?」というところにあったんじゃないか、と思っています。
たとえば、「ヘイズ・コード」は、「理由のあるルール」でした。制定された理由はちゃんとある。でも、あまりにも杓子定規に運営されれば芸術家の自由な発想を妨げるものとなる。結局のところ、ルール自体は正しくても、運営が間違っていれば無意味あるいは有害なものになりうるということだったと思うんですよね。
それに対して、「ロシアンブルー」のエジェフの行動には、ルールがない。
彼が本当に私利私欲の塊であったとしても(←事実はわかりませんが)、ソヴィエト式の共産主義社会は情報統制・思想統制が厳しく、自浄作用が働きにくいので、一度彼が権力を掴んでしまえばそれを引っくり返すことは非常に困難です。
あれだけあからさまな不正の証拠を握っても、せいぜい「軍なら、睨みくらいはきかせられるだろう」としか言えないのですから。
この情報や思想の統制というのは、共産主義自体が人々の裡から自然に出てきた思想ではなく、たぶんに哲学的な発想から生まれた理想主義的なものであり、教育的手段で植えつける必要があったこと、ソヴィエト(ロシア)があまりにも物理的に広く、民族的にも多様すぎて、同一の価値観を持たせることが困難であったこと、などから必要悪的に出てきたものであったわけですが。
実際には、権力を持ったものがあっという間に腐敗していったであろうことは想像に難くない。
そして、そんな権力者たちにとって、「ソヴィエトは健康的な社会である。なぜなら、自由のないところには育たないといわれる芸術が、こんなにも豊かに花開いている!」そういうふうに言うことが、絶対に必要だった。
だから彼らはこの当時、さまざまな芸術推進策をうっています。芸術家たちの家もその一つだし、さまざまなコンクールを実施したり、各地から才能のある子をスカウトしてきたり。
実際、この当時だったら、アメリカよりソヴィエトの方が文化レベルは高かったはずなんですよね。アメリカで作られたショーが、理由なく却下されても不思議はなかった。アメリカのショーは、芸術とは認められていなかったのですから。
アメリカの芸術が『世界的な』レベルになるのは、なんといっても第二次世界大戦でヨーロッパのユダヤ人が大量に亡命して以降なのですから。音楽も、絵画も、バレエも、なにもかも。
でも。
実際には、ソヴィエトの芸術レベル自体が高いことは事実でも、審査はそうはいかない。
エジェフ自らが呟くように「差し戻しが増えているとは思わんかね」ということになっているわけです。彼らは社会を抑圧しているわけですから。
社会が抑圧されていれば、芸術はそれに反発します。そうでなければ、芸術の意味がない。
そういう自然の摂理があるから、「自由のないところに(健康的な)芸術は無い」のです。
自由のないところには、反社会的な芸術がはびこるのが当然ですから。
そして。
「自由のないところに芸術は無い」ことと、
「革命が俺を裏切っても、俺は革命を裏切らない」ことは、裏表なのだと思います。
彼らは、革命によって自由な社会を得るつもりだった。
得られると思っていた。
ユーリの屈託は、「マリポーサの花」でネロが苦しんだ屈託と同じモノ。だけれども、ユーリはネロのようにすぱっと軍を辞めて自分のできることをはじめるのではなく、革命政府の中で、少しでも自分のやれることがないかを探している。
ネロもユーリも、自分にできることを精一杯やる という姿勢は同じです。ただ、方法が違っているだけ。
だから。
…おそらく、この物語よりも未来のどこかで、ユーリは何かを救うために命を賭けることになるのでしょう。それがとても切ない。彼は革命を裏切れないのだから。だから。革命を救うために、ひいては革命に飛び込んだ自分の心を救うために、革命に殉じてしまうのだろう、と。
願わくば。せめて、そのときの指導者がエジェフではなく、もう少し革命に対して真摯なひとであることを、祈りたい。
そして、この物語の主役は、革命に裏切られたユーリ先輩ではなく、ウィスラー一族の当主として、皆(何人居るのか知りませんが)の生活に責任があるアルバート。彼は、「一族だけじゃない、抑圧されている全ての人の役に立ちたい」と思って政治家を志し、ああかこうかと揺れながら、それでも(裏技を使いながら)下院議員にまでなった。
決して理想家肌ではないけれども、自分の責任は自覚しているし、そのために自分のできることがあるなら全部やってやろう、と思っているひとですよね。
ヘンリーと二人、結構手段を選ばずにやってきたのだと思うんです。まあ、あの「キラー・スマイル」は魔法じゃないみたいですが(^ ^)。
そんな彼が、ロシアで同族にめぐり合う。
イリーナとの出会いは運命の邂逅。「…薬のせいで」と言い合いながら、素直に惹かれあう二人。その絶妙の距離感がすごく好きです。
そして、最後の別れ。退去命令が出ているアルバートと、簡単には出国できないイリーナ。
銀橋で「ダスビダーニャ」と別れていく二人の間に希望の光があるだけに、この後の時代を知る現代の私は、切ないです。
「私が知っているのは、ここまで。……アメリカとソヴィエトが喧嘩をする、少し前のお話です」
という、ロビンのとぼけたナレーションが、せつないほどに優しくて。
絶滅寸前だった(というか、絶滅した)のに復活したロシアンブルーのように。
たとえ将来、アメリカとソヴィエトが喧嘩をおっぱじめても、それでも二人が再び巡り合う可能性は0じゃない。
それこそ大統領になってでも(←ならないけど)迎えに行くだろうアルバートの、もうブレることもない清々しい笑顔が、すごく眩しい。
『心無い笑顔』とヘンリーに評されたキラー・スマイルよりも、もっと威力のある、魅力的な笑顔を知って、彼は、彼の本来の戦場に戻っていく。
そして、イリーナもイリーナの戦場に。
一族を守り、そして、革命を裏切らない自分であるために。
ロシアの王侯貴族が愛した美しい猫、ロシアンブルー。
彼らは、第二次世界大戦中に姿を消します。物語の中で、モスクワには1930年代の時点でいなかったことになっていますが、実際はどうだったのでしょうか。
ちなみに、現在、世界で飼われるいるロシアンブルーは、当時の血統ではなく、シャム猫とブリティッシュ・ブルーという青猫から復元されたものなのだそうです。へーへーへー。
ロシアンブルー、というタイトルにこめられた大野さんの思いは、なんとなく、わかるようなわからないような…と思いつつ。
でもたぶん。公園中を必死で追いかけられるロシアンブルーは、喪われてしまった過去、あるいは自由の象徴、なんでしょうね。ネコタナ一族、ウィスラー一族の微妙な能力もまた、ロシアンブルーのようなものなのかもしれません。
……しかし、ロシアみたいな寒い土地に、あんな短毛で細長い種がもともと居たとも思えないんだが……そもそもの存在自体が不思議な猫だ。<ロシアンブルー
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無事午前の公演のチケットをゲットして、2階の天辺で観てまいりました。
いやー、良い作品だったので、公演が終わってしまってとても寂しい。一ヶ月って本当に短いですね。なんだったら全ツもこれで良かったのになあ……なんて思ったり。
いえ、「情熱のバルセロナ」は観たことがないのでわからなくて、、、すみません(^ ^;
デボラのいづるん、
眼鏡っ子ネコタナのかぐやちゃん、
ペトルーシュカの愛輝ゆまさん、
ネコタンな寿々音綾さん、
メイエルホリド劇団員な冴輝ちはやくん、
みなさまご卒業おめでとうございますm(_ _)m。
これから歩んでいく道に、幸いの多きことを祈っています。
で、この「ロシアン・ブルー」。
キャストごとの感想とかは結構書いていると思うのですが、そういえば「作品」についてはあまり書いてない…かな?という気がしてきたので、最後にちょっとだけ呟かせてください。
最初に観たときも書きましたが、この話、当初の企画と話の内容がかなり変わったんじゃないか?という印象を抱いたのですが、実際はどうだったのでしょうか。
大野さんには「更に狂わじ」という前科(事前に出ていたあらすじとは、まっっったく違うストーリーだった)があるので、全然不思議じゃない(^ ^)。今回は表に出ていた部分(アルバートとイリーナに関わるところ)は影響なかったので、変更されたんだとしても問題ないし。
だって、何の説明もなくメイエルホリド劇団やバレエ・リュスを出しておいて放置、だなんて、大野さんらしくないような気がしたんです。彼だったら、仮に本筋に絡まないのは元々だったとしても、思いっきり薀蓄をかたむけてくれただろうに(; ;)。
もし変わったんだとしたら、たぶん、いろんな理由があったんだろうな、とは思うんですけどね。日本ではあまり知られていない話だから、説明するだけでも大変だし。でも、本来の彼の発想の中で、メイエルホリド劇団に関わるエピソードはどんな内容だったんだろう?どんな風に本筋に絡んでいたんだろう?と思うと、すごく残念な気がします。
それだけ、大劇場公演の一幕モノ100分、っていうのは構成が難しいんでしょうね。マニアックな人が創るとどうしても内容を詰め込んでしまいがちなので、大野さんも、大劇場については一本モノを任されるようになるまでは原作ありに絞ったほうがいいのかもしれません。原作ものは、原作に書いてあることはある程度省略できるので。(←「夢の浮橋」の成功が良い例)
んで、ドラマシティやバウでは、思いっきりマニアぶりを発揮して宛書してほしい(*^ ^*)。
ぜひぜひ宙組の春のドラマシティにっ!!お願いします~っっ(祈)(ことだま、ことだま)
こほん。
「ロシアンブルー」自体はすごく面白かったのですが。
でも、もう少し当時のソヴィエトの芸術レベルや、メイエルホリド劇団だけではない、『共産革命によって生まれた新しい世界でしか創り得ない、20世紀の新しい芸術』とかいうお題目、そして、それを見守る西側社会の目といったモノに対する大野さんの解釈を、聞いてみたかったなー、と思いました。
たとえば「ヘイズ・コード」は、作品自体のテーマが『ルールの是非』だったんですよね。
『くだらないルール』に対する反発と、『そもそもどういった理由でそのルールができたか』を両方きちんと(っつーか長々と)薀蓄込みで語った上で、『ルールには理由がある。でも、“やるからには最高を目指す(byハリウッドラバー)”なら、こんな抜け道があるんじゃね?』というのが主筋だった。
ウッドロウの屈託だとか、監督を襲うギャングだとか、そういうのは割とどうでもいい枝葉のエピソードで、主役は「ルール(ヘイズ・コード)」であり、そのルールに闘いを挑む芸術家たち。そして、『自分の為しうる最高のもの』とは何か?を諦めず、倦まずにいつまでも追求しつづける人々こそが芸術家である、という定義を語って物語を締めていました。
そういう、ちゃんと最後に伏線を拾って結論を出すところが、大野作品のいいところだと思う訳なのですが。
じゃあ「ロシアンブルー」のテーマは何か?というと。
ちょっと難しいんですが、私は、本来のテーマは「自由のないところに芸術はありうるのか?」というところにあったんじゃないか、と思っています。
たとえば、「ヘイズ・コード」は、「理由のあるルール」でした。制定された理由はちゃんとある。でも、あまりにも杓子定規に運営されれば芸術家の自由な発想を妨げるものとなる。結局のところ、ルール自体は正しくても、運営が間違っていれば無意味あるいは有害なものになりうるということだったと思うんですよね。
それに対して、「ロシアンブルー」のエジェフの行動には、ルールがない。
彼が本当に私利私欲の塊であったとしても(←事実はわかりませんが)、ソヴィエト式の共産主義社会は情報統制・思想統制が厳しく、自浄作用が働きにくいので、一度彼が権力を掴んでしまえばそれを引っくり返すことは非常に困難です。
あれだけあからさまな不正の証拠を握っても、せいぜい「軍なら、睨みくらいはきかせられるだろう」としか言えないのですから。
この情報や思想の統制というのは、共産主義自体が人々の裡から自然に出てきた思想ではなく、たぶんに哲学的な発想から生まれた理想主義的なものであり、教育的手段で植えつける必要があったこと、ソヴィエト(ロシア)があまりにも物理的に広く、民族的にも多様すぎて、同一の価値観を持たせることが困難であったこと、などから必要悪的に出てきたものであったわけですが。
実際には、権力を持ったものがあっという間に腐敗していったであろうことは想像に難くない。
そして、そんな権力者たちにとって、「ソヴィエトは健康的な社会である。なぜなら、自由のないところには育たないといわれる芸術が、こんなにも豊かに花開いている!」そういうふうに言うことが、絶対に必要だった。
だから彼らはこの当時、さまざまな芸術推進策をうっています。芸術家たちの家もその一つだし、さまざまなコンクールを実施したり、各地から才能のある子をスカウトしてきたり。
実際、この当時だったら、アメリカよりソヴィエトの方が文化レベルは高かったはずなんですよね。アメリカで作られたショーが、理由なく却下されても不思議はなかった。アメリカのショーは、芸術とは認められていなかったのですから。
アメリカの芸術が『世界的な』レベルになるのは、なんといっても第二次世界大戦でヨーロッパのユダヤ人が大量に亡命して以降なのですから。音楽も、絵画も、バレエも、なにもかも。
でも。
実際には、ソヴィエトの芸術レベル自体が高いことは事実でも、審査はそうはいかない。
エジェフ自らが呟くように「差し戻しが増えているとは思わんかね」ということになっているわけです。彼らは社会を抑圧しているわけですから。
社会が抑圧されていれば、芸術はそれに反発します。そうでなければ、芸術の意味がない。
そういう自然の摂理があるから、「自由のないところに(健康的な)芸術は無い」のです。
自由のないところには、反社会的な芸術がはびこるのが当然ですから。
そして。
「自由のないところに芸術は無い」ことと、
「革命が俺を裏切っても、俺は革命を裏切らない」ことは、裏表なのだと思います。
彼らは、革命によって自由な社会を得るつもりだった。
得られると思っていた。
ユーリの屈託は、「マリポーサの花」でネロが苦しんだ屈託と同じモノ。だけれども、ユーリはネロのようにすぱっと軍を辞めて自分のできることをはじめるのではなく、革命政府の中で、少しでも自分のやれることがないかを探している。
ネロもユーリも、自分にできることを精一杯やる という姿勢は同じです。ただ、方法が違っているだけ。
だから。
…おそらく、この物語よりも未来のどこかで、ユーリは何かを救うために命を賭けることになるのでしょう。それがとても切ない。彼は革命を裏切れないのだから。だから。革命を救うために、ひいては革命に飛び込んだ自分の心を救うために、革命に殉じてしまうのだろう、と。
願わくば。せめて、そのときの指導者がエジェフではなく、もう少し革命に対して真摯なひとであることを、祈りたい。
そして、この物語の主役は、革命に裏切られたユーリ先輩ではなく、ウィスラー一族の当主として、皆(何人居るのか知りませんが)の生活に責任があるアルバート。彼は、「一族だけじゃない、抑圧されている全ての人の役に立ちたい」と思って政治家を志し、ああかこうかと揺れながら、それでも(裏技を使いながら)下院議員にまでなった。
決して理想家肌ではないけれども、自分の責任は自覚しているし、そのために自分のできることがあるなら全部やってやろう、と思っているひとですよね。
ヘンリーと二人、結構手段を選ばずにやってきたのだと思うんです。まあ、あの「キラー・スマイル」は魔法じゃないみたいですが(^ ^)。
そんな彼が、ロシアで同族にめぐり合う。
イリーナとの出会いは運命の邂逅。「…薬のせいで」と言い合いながら、素直に惹かれあう二人。その絶妙の距離感がすごく好きです。
そして、最後の別れ。退去命令が出ているアルバートと、簡単には出国できないイリーナ。
銀橋で「ダスビダーニャ」と別れていく二人の間に希望の光があるだけに、この後の時代を知る現代の私は、切ないです。
「私が知っているのは、ここまで。……アメリカとソヴィエトが喧嘩をする、少し前のお話です」
という、ロビンのとぼけたナレーションが、せつないほどに優しくて。
絶滅寸前だった(というか、絶滅した)のに復活したロシアンブルーのように。
たとえ将来、アメリカとソヴィエトが喧嘩をおっぱじめても、それでも二人が再び巡り合う可能性は0じゃない。
それこそ大統領になってでも(←ならないけど)迎えに行くだろうアルバートの、もうブレることもない清々しい笑顔が、すごく眩しい。
『心無い笑顔』とヘンリーに評されたキラー・スマイルよりも、もっと威力のある、魅力的な笑顔を知って、彼は、彼の本来の戦場に戻っていく。
そして、イリーナもイリーナの戦場に。
一族を守り、そして、革命を裏切らない自分であるために。
ロシアの王侯貴族が愛した美しい猫、ロシアンブルー。
彼らは、第二次世界大戦中に姿を消します。物語の中で、モスクワには1930年代の時点でいなかったことになっていますが、実際はどうだったのでしょうか。
ちなみに、現在、世界で飼われるいるロシアンブルーは、当時の血統ではなく、シャム猫とブリティッシュ・ブルーという青猫から復元されたものなのだそうです。へーへーへー。
ロシアンブルー、というタイトルにこめられた大野さんの思いは、なんとなく、わかるようなわからないような…と思いつつ。
でもたぶん。公園中を必死で追いかけられるロシアンブルーは、喪われてしまった過去、あるいは自由の象徴、なんでしょうね。ネコタナ一族、ウィスラー一族の微妙な能力もまた、ロシアンブルーのようなものなのかもしれません。
……しかし、ロシアみたいな寒い土地に、あんな短毛で細長い種がもともと居たとも思えないんだが……そもそもの存在自体が不思議な猫だ。<ロシアンブルー
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