飛龍伝

2010年3月12日 演劇
先月。
新橋演舞場にて、つかこうへい作・演出「飛龍伝 ~2010ラストプリンセス~」を観劇いたしました。



1973年、つかこうへいが早稲田のアトリエで、この作品の原型(?)を発表したときと今とでは、全く時代が違うんだろうなあ、と思います。
今となっては想像もできない学生たち。ヘルメットを被って、石を持った学生たち。
石は意思であり、火炎瓶は燃え上がる正義感だった。たとえ、どんな未来が待っていたとしても。

プログラムに書かれた、当時の「つかこうへい」像がひどく切ないです。「でも、俺は在日韓国人だから。俺がヘルメットを被って石を持つってことは、大家の喧嘩に店子が口を出すようなもんでさ、だから」
……その流れに関わらないように生きるしかなかった、と。
でも、心の裡では、彼は誰よりも熱かったのかもしれない。さまざまな悲惨な事件を経て学生運動が終息に向かい、只中にいた学生たちが運動から離れていくなかで、彼が発表した物語が「初級革命講座」というタイトルであったことは、象徴だったんだろうな、と思います。

同じ「飛龍伝」というタイトルを冠した「初級革命講座」と、今回観劇した「ラストプリンセス」とは、どんなつながりがあって同じタイトルを使っているのかわからないほど違う作品のようですが(^ ^;ゞ。




今回上演された物語は。

東大生として安保闘争に参加し、国会突入に際して死亡した樺美智子女史をモデルとする架空の『全共闘の委員長』神林美智子(黒木メイサ)と、彼女を利用する『影の委員長』桂木順一郎(東幹久)、彼女を愛する『機動隊隊長』山崎一平(徳重聡)の、愛と許容のものがたり。



……「女信長」で惚れた黒木メイサを観にいったようなものだったのですが、まさしく、その凛とした美しさがすべて、みたいな作品でした(*^ ^*)。
つかこうへいの作品は、ストーリーを追いかけても意味不明なことが多いのですが、今回は比較的ストーリー自体が面白かったと思います。美智子と順一郎の関係、美智子と一平の関係が複雑で、興味深かった。極限状態の中で、こういうこともありえたかもしれないな、と。
根本的なところで追い詰められた人々のものがたりなので、私には想像もつかないような叫びがあるかと思えば、ごく当たり前のラヴストーリーが進んでいたりして、面白いなあと思いました。



ほぼ八割まではメインの3人によって語られる物語ですが、それ以外で印象に残った役者は……

舘形比呂一 横浜国大の活動家役。舘形さんらしい、ぶっ飛んだ活動家でした(^ ^;;; が、あんなにぶっ飛んだキャラクターでもちゃんとリアリティがあるところがさすが、と思いました。
いや~、格好良かったです♪

渋谷亜希 東海村女子大の後宮リリィ役。美しい!シャープでクールな黒木さんに対して、女らしい柔らかな美しさと湿り気のあるタイプで、ストリップショーの場面の思い切った色っぽさとか、戦闘服に身を包んで活動家としてうごくときのキビキビした小気味良さとか、すごく魅力的でした。


他のみなさんも凄く格好良かったです♪
女性は黒木さんと渋谷さん二人だけで、少々むさ苦しい舞台ではありましたが(^ ^;ゞ、つかさんらしい作品でした。
彼の作品に特徴的な『自己犠牲』への憧憬、というか……なんだろう、あれは。何かのために自己を犠牲にすることに酔っぱらってしまう人が良く出てくるんですけれども、つか作品の怖いところはその犠牲を受け入れる側の苦しさまで、ちゃんと描くところだと思うんですよね。
その苦しさは、簡単には昇華できないものだから。望んだわけでもない犠牲を、その祈りを引き受けて生きていく存在。彼がゆがんだら犠牲の意味がなくなってしまうから、ただ真直ぐに生きていくしか、ない。
美智子の犠牲によって救われたのは、順一郎ではなく、一平でもなく、運動に関わったすべての人でさえ、なくて。
おそらくは、日本のすべての人々が彼女によって救われたのだ、と。
だから、私たちすべては、彼女の犠牲に黙祷しながら生きていかなくてはならないのだ、と。

……つかさんの芝居はどれもそうですけれども、その「犠牲」の重みを観客が引き受けなくてはならないのが、疲れているときには結構キツいこともありますが。
でも、私は、その苦しさが好きなのかもしれません(←危ない趣味みたいだな…)



つかさん。
願わくば、どうぞ、お元気に快復されて、また新作を作ってくださいますように……(祈)。



明治座にて、「天璋院篤姫」を観劇してまいりました。

……先月の落穂を拾わせていただきます(^ ^)。



普段あまりテレビを視ない猫ですが、ともみんと同じく(^ ^)『歴女』なので、大河だけは結構みておりました(^ ^)。しかし、数年前から録画して視るようになり、、、、、「新撰組!」以降はあんまり視てないな(^ ^;ゞ。
「天璋院篤姫」は、宮尾登美子さんの原作が好きなので始まる前は視る気満々だったのですが、録画したままディスクに溜まっていく日々がつづき、3月頃に諦めてしまった(T T)。なので、結局は数回しかみないで終わってしまったのでした。
なので、ドラマとの違いはあまり語れません(T T)。

今回の舞台は、ドラマとは直接関係なく、原作から脚本を起こしたようですね(脚本:長谷川康夫、演出:西川信廣)。たしかに、原作の香りが色濃く残っていたような気がします。





島津家の一門に連なる今泉家に生まれた少女。利発さを見込まれて本家・島津斉彬公(西岡徳馬)の養女となった彼女こそ、のちの徳川十三代将軍家定の御台所となる篤姫(内山理名)。

今泉の家から本家へ向かう道すがら、母(秋野暢子)に「女の道は前に進むしかない」と諭される彼女は、この時満15歳(多分)。
育ての母ともいうべき乳母・菊本(本山可久子)、若いしの(小林綾子)、島津家から迎えに来た幾島(香寿たつき)。幼い篤姫をとりまく女性4人があれこれとやりあう第1場は、とっつきなのに状況説明がないので、ちょっと判り難いかも。菊本が「身分の低い自分のようなものが仕えていたことが知られたら、姫の出世の妨げになる」と死を選ぶあたりは、舞台しか観ていないとピンとこないんじゃないかな、と思いました。
菊本はただの女中ではなく乳母で、当時の乳母は教育係も兼ねていたわけで、乳母のレベルが姫のレベルに直結していると思われていた。将来姫が将軍家に輿入れしたときに、マスコミ お庭番がこぞってファーストレディの故郷へ取材に来る……なんてことを想定したら、そのときに自分が姫の恥になるくらいなら今のうちに姿を消しておこう、と、そんな風に思うのが当時の忠義だったんでしょうね。
老女が出奔して一人で生きていくなんて不可能な時代だけに、そうなったら死ぬしかない。姫がまだ島津の家に入る前に身を投げて、「姫、ご安心くださいませ」と……そういうことなのでしょうか。そして姫も、「前に進むしかない」という母の教えどおり、幾島に迎えられて島津家に入っていく。


ここまでが第一場。ぜんぶで十場まである一幕の、ほんの一部ではあるのですが、篤姫の性格を語る上で欠かせないエピソードなので、短い時間ながらも皆さん丁寧に演じられていたと思います。
凛とした母君が美しく、二幕、三幕での篤姫を観て、このときの母君を思い出しました。





島津家で幾島の教育を受け、いっぱしの才女となった篤姫。将軍への輿入れが具体的に決まり、準備のために島津の江戸藩邸へあがってきてからが第二場になります。
婚礼支度であわただしい薩摩藩江戸藩邸。中心になっているのは、藩主直々の指名で抜擢され、仕切りを務める西郷吉之助(後の隆盛/吉田智則)。
篤姫に恥をかかせぬため、精一杯調えようとがんばる彼の熱が良かったです。

そして、勉強に勤しむ篤姫のもとを訪れる養父・斉彬。
家定の後継問題を簡単に説明し、閨から慶喜擁立に動くように、との密命を与えて立ち去っていく彼を見送って、決意の表情を浮かべる姫。

……西岡さんがあまりにも色っぽくて、素敵で、格好良くて、絶対この人夜這いに来たに違いない!!と思いました(← 絶対に違うから)(でも、たぶん篤姫は養父に惚れていると思う……だって西岡さん格好良すぎなんだもん!!)




実際の輿入れは1856年。篤姫20歳。将軍の御台になるとあって、あちこちの貴族の養女になるなど手続きも煩雑で時間がかり、すっかり年増になってしまった…はずですが、内山さんの輝くような美しさはさすがでした♪
ちなみに、このとき家定は姫より一回り上の32歳。すでに二人の妻を亡くしており、篤姫は3人目の妻。1858年に亡くなるまで、結局実子は生まれず、後継者問題が激化。利発だが幼い慶福(紀州)と、篤姫より一つ下で、病弱な家定の代わりに将軍になる可能性もあった慶喜(水戸一ツ橋)。それぞれに大名たちの後ろ盾があった二人の争いが、徳川幕府の寿命を縮めたことは間違いなくて。タラレバ言っても仕方がないのですが、このタイミングで将軍となった家定がもう少し健康だったら…というのは、結構面白い“もしも”だと思います。

幾島と重野(薩摩のしの/小林綾子)を連れて輿入れした篤姫。
篤姫の前に立ちはだかる、大奥総取締の滝山(高橋かおり)と、温かく迎え入れる家定の母・本寿院(秋野暢子の二役)、将軍家定(今拓哉)。生母に良く似た(←そりゃそうだ。二役だもの)本寿院に懐いて、輿入れ当初から姑のもとに通っていた篤姫は、そこでお目見え前の将軍に逢ってしまう。

世間で言われている「暗愚」からは程遠い、明晰で優しい将軍と心を通わせていく篤姫。
二人の閨での会話が、ひどくもどかしいのになんだか微笑ましくて、しみじみと聞いてしまいました。なんの動きもない、座って会話を交わすだけの場面なんですが、脚本にリズムがあるんですね。ストレートプレイでの今さんの力量に、今更ながら感心しました。しかも、さかやきの似合うこと(*^ ^*)。今さん、時代劇にもっともっと出るべきだと思います!!絶対人気出るよ!(←でもミュージカルにも出てね)(←わがまま)



この調子で書いていると終わらなくなりそうなので、ちょっと端折ります。

一幕はこのまま、いろんな事件が起こりつつも平和に進むのですが。
最後に、後継者問題について動くために一度実際に顔を見てみたい、と、慶福と慶喜を呼びよせる篤姫。

しかし、斉彬から聞いていた話とは逆に、慶喜は女性蔑視の激しい、後ろ向きのペシミストで、とても幕閣を率いるような器ではなく、逆に幼い慶福の方が器として大きいという印象を受けます。
慶喜については、鳥羽伏見の戦いでの敵前逃亡が有名で、決断力のない弱腰で無能な将軍、kという印象が(特に新撰組ファンの間には)あるんですけど、最近いろいろ見直されてきているんですよね。ただ、篤姫視点にたつと、どうしても慶喜は判りやすい『敵』キャラなので、こういう評価になってしまうんでしょうね。その辺りは「フィクション」として捉えないと、と思います。




二幕は、冒頭で、斉彬からの指示を得るために西郷と打ち合わせをしに大奥から出てきた重野と、通りすがりの勝海舟(国広富之)の会話で始まります。舞台となる1858年の情勢を判りやすく語り、なんとな~く狂言回しっぽい役割も果たしつつ、ちゃんと役として舞台に立っているところはお二人ともさすがでした。綾子ちゃん、相変わらず可愛いなあ。(もう相当なベテランなのに…)


その後、閨での『いつもの会話』で、家定が「後継者は慶福に、と皆に言った」と告白し、しっとりと二人で話をするうちに、急に苦しみだした将軍がなくなるという事件が起こります。
前将軍の御台として髪をおろし、慶福(=家茂)の就任を見守る。

後継者に関する意見が夫と一致したのは嬉しかったでしょうね。自分たちが選んだこの将軍を、ちゃんと護らなくては!と思ったんだろうなあ。あれこれ気にして世話をやいている内山さんが可愛かった♪


しかし。
慶福を支える紀州出身の大老・井伊(由地慶伍)との溝は、次第に深まっていく。万事に倹約を求める井伊は、大奥にも規制をかけようとして大奥の反発をかう。それまで家茂派だった大奥が、南紀派に反発を強め、次第に南紀派の足元が脆くなっていく……。


そんな中で、養女になって以来世話をしてくれた幾島が、「殿(斉彬)の命令を守れなかった(慶喜の将軍就任を実現できなかった)」と篤姫のもとを去っていく。
疎外感に落ち込んだ篤姫の許に、今度は斉彬がやって来る。
……ここの父娘の会話が、すごく良かったです。西岡さんはもちろんだけど、内山さんが、一幕との差(成長)をちゃんと出していて、さすがだな、と思いました。

実際には、この少し前に斉彬は薩摩で没しており、このときの斉彬は亡霊だったことがわかる(西郷が伝令として現れる)のですが、会話を終えて、闇に溶けるように消えていく斉彬の背中が、最高に格好良かったです。猫の視点では、この作品の前半の主役は斉彬様だったかもしれません(汗)。




そして。
お待たせしました!皇女和宮(遠野あすか)の登場です!!


正直、あすかちゃんが宝塚を卒業して最初の出演作だから、という理由でチケットを取った猫は、いくら和宮だって、せめて二幕の最初くらいには出てくるとばかり思っておりました。
でも、実際には慶福・慶喜との対面で一幕が終わり、二幕が始まっても、安政の大獄まではまだまだ道は遠い……。あすかちゃんの出番が10分とかだったらどうしよう!?と思ったのですが。
大丈夫。この作品、実は三幕モノで、あすかちゃんは二幕後半からラストまで相当に出づっぱり。あすかちゃん目当てでも、充分モトが取れました♪



いやあ~~~、あすかちゃんキュートでした!!
ものすごく可愛かったです。見た目の話ではなく、存在そのものがキラキラしていて、きゅんきゅんするくらい可愛かった!!

元々「宝塚娘役」の枠には納まってなかった人なので、女優をやっていても全然違和感ないのは勿論なのですが、現役時代の後半に演じていた「良い女」系のイメージがあったので、あのキラキラ感には思わず圧倒されてしまいました……(^ ^;ゞ。

だって、「シンデレラ」とか「ヘイズ・コード」並みの、圧倒的な可愛らしさだったんですよ!!
わがまま言うのもかわいい。わがまま言うのが可愛い。
そんな女の子。和宮は、『イマドキの』女の子だったんですね。無責任で、気分が不安定で、思いつめやすくて。
高貴な身分をひけらかす割には、帝王学とかを含めた『高貴な』教育を受けている気配がなくて、そういった勉強をしっかりやってきた篤姫から見れば、まるっきり子供だったんでしょうね。


内山さんとあすかちゃん、年齢は同じくらい、というか、多分あすかちゃんの方が少し歳上……ですよね?ちなみに、実在の篤姫と和宮は10歳違い。和宮の方が10歳下です。そうやって考えると、結構無茶なキャスティングだったんだなあ…(汗)。
でもまあ、あすかちゃん、演技でちゃんと篤姫より一回りくらい下に見せていたので、天晴れだと思います。オペラグラスで見るような芝居じゃないから、充分なんじゃないかなあ?

それに、あれはあんまり若い女優さんだと難しい役だと思うし。
最後まで子供のままではなく、ちゃんと途中で成長して、篤姫と並び立てるだけの女性になる役なので。

憂き世離れして高貴でおきゃんでものすごく魅力的な、家茂がコロッと参って大事にするところに説得力がありました。そして、家茂の朴訥な(不器用な)優しさを、ちゃんと受け止めて愛情を返すことができるだけの聡明さはしっかり見せるところが、さすがあすかちゃん!と思いました。本当に、愛することと愛を返すこと、その両方ができる貴重な女優です!


ああああ、「シンデレラ」また再演しないかなあ~~~!!樹里ちゃんはもうすっかり女優さんになっちゃったから無理かもしれませんが、誰か素敵な王子様がいれば、ぜひご検討いただきたいです♪♪ 絶対観にいくから!!(←誰に言ってるの?)



和宮と家茂の交流、家茂の早すぎる死、慶喜の将軍就任と大政奉還。歴史の渦の中で、実家よりも婚家を選び、江戸へ攻めてくる『官軍』を諌める二人の女性を描く三幕の緊迫感は、なかなかのものです。大奥の真ん中に凛と立って徳川を支えんとする篤姫と、その周りをおろおろと歩き回りながら、それでも持ち前の聡明さで、やるべきことの優先順位を間違えず、ひとつづつ片付けていく和宮。
薩摩女と京女のやり方の違いがうまいこと表現されていて、さすがだな、と思いました。この二人が、纏う空気がぜんぜん違うのに、存在感や演技力で拮抗できていたのが舞台の質を底上げしていたと思います。スタッフ陣がいい仕事したんだな、と思いました。



作品的には波瀾万丈の面白さ保証つき、メインキャストは実力派ぞろいで渋い魅力あるイケメン(微妙に平均年齢高め)だらけ。とてもいい公演でした。
ぜひまた再演してほしいです♪ もう一回観たいぞーーっ!!




三浦按針

2009年12月30日 演劇
天王洲の銀が劇場にて、「ANJIN - イングリッシュサムライ」を観劇してまいりました。


これが今年の観劇納めになりましたが、非常に完成度の高い、締めくくりに相応しい作品だったと思います(^ ^)。





関が原の合戦が起こる半年ほど前、豊後(大分県)臼杵の海岸に、一隻のオランダ商船が漂着した。
マゼラン海峡を渡ってはるばる太平洋を越えたあげく、嵐に見舞われて沈没寸前だった船の名は、リーフデ号。その航海士であったウィリアム・アダムズ(オーウェン・ティール)が、この作品の一方の主人公。
彼は、辛い航海で身体を傷めた船長の代理として徳川家康(市村正親)に会い、意気投合する。
西洋には未だ知られぬ「新しい」文明国・日本の支配者と、柔軟な思考をする新教徒の技術者と。

「儂はこの国を出たことがない。太閤秀吉の朝鮮征伐も留守番役だったしな。儂はここで、この国を守るのが仕事じゃ。ゆえに、外国の者に来てもらうよりほかはない。……のうアダムズ、儂に教えよ。西洋の技術をな。砲術、造船術、航海術、鉱山術、金属の精錬、、、何でもよい。思想はいらぬ、ただ、事実を語ればよいのじゃ」

アダムズのもたらした最新式の大砲を使った関が原の合戦に勝利した家康は、リーフデ号の修理は許したが、望郷の念やみがたいアダムズの帰国は許さない。三浦半島(横須賀)に領地を与え、旗本に取り立てて三浦按針という名を与え、、、この『青い目のサムライ』を傍に留めおき、友情を育んでいく。
アダムズ。その傍らで友情を育てるイエズス会の司祭ドメニコ(藤原竜也)。泰平の世を祈願した徳川家康。彼らが守ろうとした、時代というもの。

やがて家康は老い、二代将軍秀忠・三大将軍家光と、時代が下るにつれて厳しくなっていく鎖国政策の中、イギリス人として、そして日本人として生きたアダムズ。
日本と西欧の間に架けられたか細い橋は、すぐに消えてしまう運命でしたけれども、あの時に点された灯は、短い時間とはいえ、たしかに明るく輝いていたのでした。




脚本はマイク・ポウルトン。演出はグレゴリー・ドーラン。どちらもイギリス演劇界の重鎮。
ホリプロ50周年の記念作品の一つとして企画された公演で、「身毒丸」ロンドン公演に始まるホリプロの海外との文化交流の結晶というべきものであったようです。
西欧人の役は西欧人(イギリス人)俳優が、日本人の役は日本人俳優が演じ、台詞はほぼバイリンガル(日本語・英語)。
演出は堅実で、たしかに英国演劇っぽい、ちょっとお堅い感じがありました。シンプルな舞台装置や映像の使い方がイマっぽくて面白いのですが、意外と舞台転換が多くて、そのたびに暗転の間が長かったり、ちょっと間の取り方がいまひとつだったりというのはありましたが(特に、ラストシーンの余韻がちょっと短かったのが残念!!)、全体にはよく噛み合った美しい物語でした。

中でも、月明かりの下で家康とアダムズが語り合う場面の美しさが、強く心に残りました(*^ ^*)。


ちなみに、バイリンガルなので、日本語の会話には英語の字幕、英語の台詞には日本語の字幕がついていました。いやーーー、日本語の台詞に対する英語の字幕は、かなり面白かったです。小難しい武士言葉をシンプルに一言で終わらせたり。ああ、たしかに、相当な意訳だけど、ニュアンスは伝わりそう……(感心)、と。
昔、劇団昴が遠藤周作の「沈黙」を上演したときも、あんな感じだったなあ……。あのときは、最初から海外公演を予定していたのですが、この作品は海外公演の予定はないのでしょうか?非常に面白かったので、英国とかでも受けると思うんですけどねえ。……ウィリアム・アダムズという人物は、日本では有名だけど西欧では無名でしょうから難しいのかなあ。

言葉関係でちょっと気になったのは、もっと前から日本にいて、プロテスタントのアダムズと対立することになるイエズス会宣教師の二人(デヴィット・アクトン、ジェイミー・バラード)が片言の日本語で喋っていたこと、ですね。
家康との会話は仕方ないけど、ドメニコとの会話は英語でよかったと思う。そのほうが自然。ドメニコは英語が喋れるんだし。

あと、ドメニコの通訳がかなり適当なこと(^ ^)。忠実に訳していることになっているんだから、そこはある程度字幕にあわせればいいのに。
字幕を見ながら観ているので、なんか違和感がありました。宣教師たちが通辞を勤めるときは、違うことを言っているのが判りやすくていいのですが、ドメニコの通訳は基本的に忠実なはずなのに…と。
同じ内容を二回(アダムズとドメニコと)言うことになると、長くなりすぎるのかな(^ ^;ゞ





ウィリアム・アダムズ(三浦按針)の数奇な運命を主軸に、徳川と豊臣の闘い、家康と秀忠の親子の相克、そして、旧教国スペイン(イエズス会)と新教国イギリスの諍いなどをも絡めた、壮大な大河ドラマ。

この時代は、ちょうどアルマダの海戦でイギリス海軍がスペイン無敵艦隊を破った少し後。先日観劇した「パイレート・クイーン」と同時代の物語です。
イギリス国内では、エリザベス一世が権力をふるってスコットランドを併合し、アイルランドを手中に収めんと画策していた頃。アダムズは、シェイクスピアと同世代です。ドレイク船長に倣って世界の海をめぐり、東の果ての国で陸に上がった男。



この物語のメインとなる三人は、皆何かに引き裂かれた男なんだな、と思いました。


望郷の念やみがたく、イギリスにいる妻と娘を忘れられず、それでも日本で愛した妻(お雪/桜田聖子)と子供たちへの愛着も棄て難く、望郷の念を棄てきれない自分と、日本を離れられない自分に引き裂かれたアダムズ。

太閤の後継者として今の時代をきちんと守って後継者へ引き渡し、日本という国を守るという使命と、海を渡り、知らない土地・知らないモノを見たいと願う少年の憧れに引き裂かれた徳川家康。

そして。
日本人(北条系の武士の家の出)でありながらカトリックを信仰し、洗礼を受けてイエズス会の司祭にまでなったドメニコの葛藤。
司祭でありながら、闘いの昂揚感を棄てきれない若さと、たとえ「イエズス会」を守るためという目的があったとしても不正を見逃すことのできない潔癖すぎる青さ。
司祭である自分と、武士である自分。二つに引き裂かれたドメニコの情熱は、彼自身を燃やし尽くしてしまうほど熱くて、激しいものだったのだと思います。


引き裂かれた男たちは、同じ疵を抱いた仲間を求めあう。
アダムズを手許に置いておくことを希った家康。
死を目前にした家康の見舞に、地球儀を持ってあらわれるアダムズ。
カトリックではアダムズの心をを救えないことに絶望したドメニコ。
鎖国&キリスト教の禁教が国策として動き出した日本で、囚われたドメニコの消息を求めて家光に面会を求めるアダムズ。

彼らの求めるものが、自分の未来ではなく他人の未来であったことが、とても切なかったです。
争いのない平和な国。
平穏で平らかな、幸せな人生。

そんな、決して手の届かぬ夢のような、モノ。
それを、手に入れようとあがくのが人生なのか、と。


……うーん、言葉って難しいなあ。舞台を観て、すごくたくさんのものを受け取ったのに、それを言葉にあらわすのってすごく難しい……(T T)。






「人形の家」ヘルメルでトニー賞を獲たこともある英国俳優・ティール。
最初の登場(漂流していてボロボロ)が、「海賊」と誤解されても仕方ないほど荒れていたのに、次の場面ではしっかり家康に謁見できるだけの貫禄をもっていたのは、さすが。
後半の袴姿がしっくり似合う姿勢のよさ。約三時間の上演時間をかけて、徐々に日本の生活に慣れていくのがとても良かったと思います。前半は正座ができない設定だったのに、後半は日常正座で過ごしているね、という慣れを感じたところとか、そういう細かいところで。

日本語は片言なので抑揚などはわかりませんが、英語での芝居部分の迫力を見ていると凄いなあ、と思います。字幕がなくても何が言いたいのか顔を見てればわかる!!と驚きました。



日本演劇界の重鎮(?)市村正親。
ほどよい軽みと、悪戯っ子めいた雰囲気。観ていて、もしかしたら家康ってこんな人だったのかも?……と思わせる魅力がありました。
この手の、「スクルージ」系の役は本当に素晴らしいですね。大阪夏の陣のあと、息子秀忠と話をした後で、それまでもずっと傍に付き従ってくれていた本多正純(小林勝也)に愚痴ってるときの情けないリアリティとか、死の床で思いの丈をアダムズに伝えるところの迫力など、本当に素晴らしかったです。

その息子、秀忠役は、もと男闘呼組の高橋和也。彼は小早川秀秋もやっているのですが、背が高いので目立っていて、途中で何度か「彼は小早川じゃなくて秀忠」と自分に言い聞かせてました(^ ^)。
淀殿は床嶋佳子、秀頼は鈴木亮平。どちらも過不足無く、良い出来でした。キャラクターとしては割と良くある解釈でしたが、存在感のある芝居で。このあたりのキャスティングも、なかなかに興味深くて面白いな、と思います♪

石田三成と真田幸村の二役を演じた沢田冬樹。同盟軍から全く支持されない三成と、豊臣軍の信頼を一手にうける幸村の二役を同じ役者にふったのは何か不思議な感じでしたが、幸村の死に様が見事で印象に残りました。

……いや、それにしても小林勝也の抜群の間の良さは、さすがだわ(*^ ^*)。本多正純様、素敵(はぁと)



メインキャストの中では唯一の架空の人物、ドメニコの藤原竜也。
鞭のように細い身体を黒い司祭服に包んだ姿は、よく似合っていて可愛かったです。
後半の戦闘服姿もなかなか良かった。彼は動けるので、殺陣も決まってて格好良かったです。

司祭として生きているときの穏やかな笑顔と、それを振り捨てて武士に戻ったときの絶望に満ちた貌。カトリックの教えは棄てられず、けれどもイエズス会という組織には従えない矛盾に苦しむ彼は、宗教に振り回された多くの日本人の象徴のような気がします。
今回の芝居は、アダムズ側(そして徳川側)が主役なだけに、完全にイエズス会を悪役にしていましたが、実際の歴史はそんなものでは無かったんだろうな、と思いました。宗教的情熱に身を焦がして、世界の果てまでやってきた宣教師たち。どんなに自己満足で身勝手な理屈であっても、そこに情熱があったことは間違いないのだと思います。だからこそ、あれだけの追随者が出たのでしょうから。

藤原竜也の二面性、素直な笑顔の可愛らしさと、焼き尽くされるような熱量の激しさが、うまく使われた役だったな、と思います。しかーし竜也くん、髭は生やすか剃るかどちらかにしてくれ!!前半の可愛い司祭さまに、その無精ひげは似合わないよ(涙)。






全体と通して一番印象に残っているのは、家康とアダムズの対話かなー。
上でも書いた月明かりの場面もそうだし、最後の方で、家康の病床にアダムズが訪ねてきたときの場面もすごく感動しました。
アダムズから進呈された地球儀をいとおしそうに撫でながらアダムズと会話を続ける家康が、物凄く良かったです。
国を守る、平和をつくる、という目的意識をはっきりと持って、数十年間を生き抜いてきた男。
太閤秀吉を「友人であり、大切な殿である」、と言い切れる強さ。


歴史というのは誰か一人が目的をもって造るものではなく、
人と人の価値観がぶつかりあい、きしみをあげる中で、偶然できた形状を大切にするもの なのではないか、と。
と、そんなことを思った年の瀬でした。



家康が、最初から「平和」を得るために数十年を待ったのだとは思いません。
それはあくまでも「きれいごと」であり、結果論だと思う。


でも。
いろんな人と価値観がぶつかりあっていく中で、なんとはなく「平和」というものが見えてきたのだろうし、見えてくれば、「これはイイモノ」だ!!という確信も生まれるのでしょう。
そうやって家康は途を択び、戦国の世を終わらせて泰平の世にすることを希う。

アダムズがイギリスへ帰りたいと希う以上に。
ドメニコが正義を貫きたいと希う以上、に。







ちょっと話が飛びますが。
私は、偶然なんですけど、三浦按針の記念地にはだいたい縁があるんですよね。
彼が最初に上陸した大分県臼杵市の海岸にも行ったことがあるし(←びっくりするほど何も無かった)、彼が暮らした日本橋の屋敷跡は、取引先の会社に行く途中なので、何度も通ったことがあるし、イギリス商館のあった長崎県平戸や、彼が家康に命ぜられて船を建造した伊東は、普通に観光で行って、碑文も見ている。
そして、横須賀の按針塚(旗本としての領地)は、童話作家の佐藤さとるが描いた「わんぱく天国」という小説の舞台で、その小説のファンとして(?)遊びに行ったことがあるんです、実は(^ ^)。「わんぱく天国」の中でも按針についてはごく簡単に説明されていて、それが彼を知った最初だったかな?私にとって按針は、“名前くらいは知ってる”というよりも、もう少し身近なイメージの人でした。

こんな形で、彼の人生と、彼が生きた時代を追体験できたことがとても幸せです。



古代高句麗に始まって、江戸時代初頭の日本で終わった2009年。


……さ、大掃除でもしようかな、と(*^ ^*)。



先月末から今月にかけて観劇した、二つのストレートプレイをまとめて書かせていただきます。


ひとつは、天王洲の銀河劇場で上演していた「フロスト×ニクソン」。

もうひとつは、シアターコクーンで上演していた「十二人の怒れる男」。

どちらも非常に面白く、興味深い作品でした(^ ^)。






「フロスト×ニクソン」

イギリスのTVジャーナリストであるデヴィッド・フロストが、ウォーターゲート事件で失脚したニクソン元大統領とのインタビューに挑む。
お互いに自分の存在意義を賭けて闘う二人の男(二つのチーム)。二人のインタビューを中心にすえたこの戯曲は、2006年にイギリスで初演され、2007年にブロードウェイへ進出。ニクソン役のフランク・ランジェラがトニー賞(主演男優賞)を獲得。後に映画化もされた名作です。
……そうかー、この話、「主演男優」はニクソンなのか……


幕開きは、ニクソン(北大路欣也)とその腹心であるブレナン大佐(谷田歩)の会話ではじまります。
ウォーターゲート事件で何もかも喪い、健康さえ害した男と、その男に、退陣後もずっと付き従ってきた男。
彼を、もういちど「用のある男」に戻るために、闘いを始める二人。


イギリスやオーストラリア、アメリカの地方などで人気番組を担当するTVタレントのデヴィッド・フロスト(仲村トオル)。
「TVタレント」ではなく「TVジャーナリスト」として認められ、アメリカの放送業界のど真ん中に返り咲こうと画策する彼は、仕事仲間のジョン・バート(中村まこと)に相談をもちかける。
「ニクソンにインタビューを申し込んだんだ。もし受諾されたら、手伝ってくれるかい?」
「ニクソン、って、あのニクソンかい…?」
目を丸くして問い返すバート。

何か大きなことをしなくては、アメリカのセントラルでスターになることは難しい。
難しいけれども、すべてを賭けてやるだけの価値のあることだ、と。



ニクソンは、「自分の話を国民に聞いてもらういいチャンスだ」という判断のもと、
敏腕エージェントのリザール(中山祐一朗)を交渉役に、インタビューの報酬額や条件について詰めはじめる。

フロストも、執拗にニクソンを追う一匹狼のジャーナリスト、ジム・レストン(佐藤アツヒロ)やベテラン記者のボブ・ゼルニック(安原義人)といったメンバーを集め、金を用意し、撮影場所を決めて、インタビューの準備を進めていく。



2時間×12日という長期にわたるインタビューを行い、それを編集した上で90分×4回という放映時間にまとめる。ウォーターゲート事件が片付けられ(関係者によってしまいこまれ)た後に、ニクソンが初めて口を開いた、この「ザ・ニクソン・インタビュー」が、当時のアメリカ国民の関心をどれだけ呼んでいたのか、今となっては想像するのも難しい、という気がします。


とにかく、このインタビューは今でも記録として残っている視聴率を稼ぎだし、フロストは間違いなく『スター』になった。




演出は鈴木勝秀。総勢7人という少数精鋭の舞台ですが、とにかく、ひとりひとりの実力は傑出しているので、全く不安を感じることなく、どっぷりとその世界に浸ることができました。
この作品は、いわゆる『ワンシチュエーションもの』ではないのですが、やはり息詰まるようなインタビューの模様をメインにしているだけに、ワンシチュエーションっぽいイメージがあったと思います。

アツヒロくんのジムが、「フロスト陣営」と「視聴者」の間に入る形で語り手を務めていました。私は、基本的に「説明役」が必要な芝居に否定的なのですが、このジムは「説明役」ではなく、『ドキュメンタリーの語り手』だったと思います。
なんというか。戯曲全体が、このインタビューから数年後に関係者にインタビューして制作したドキュメンタリー、みたいな構造になっていたんですよね。だから、メンバーの中でも一番若くてエネルギッシュで、「ニクソンの真実を暴く」ことに燃えていたブンヤ魂のかたまりみたいなジムに、語り手が回ってくることがとても自然で。違和感なく納得できました。
アツヒロくんの語り口が、ぼそぼそと素朴な感じだったのも良かったと思います。




なんといっても、この作品の主題は、「主演男優」であるニクソン役の北大路欣也でしょうね。
非常に有能で、外交を得意とし、いくつもの功績をもつ「穏やかで紳士な」大統領。

そんな彼がなぜ、あんなことに関係してしまったのか?それは全く語られることはないのですが。
ただ、「(それは間違ったことだが)大統領がするのであれば、それは違法ではない」と、彼は本気で思ってしまっていたのかな、と……

その認識違いが切なくなる、フロストとの闘いっぷりでした。


私は上手側の前方端席で観ていたので、インタビューの場面では、基本的にニクソンの背中を視ていました。

下手側に座ったフロストの顔は、良く見えました。そして、その向こうには、鋭い眼でニクソンの方を睨むように資料と格闘しているジムとボブが居て、フロストやニクソンが一言言うたびにわたわたと動いている。真ん中での会話に対する彼らの反応を見ているだけでも面白かったです。

手前側にはニクソンが座り、その背中を守る形でブレナンが立つ。インタビュー中の皆の立ち位置はほぼ一定で、ずーっとこういう態勢で撮りつづけたのかな、と思いました。
真ん中の二人の会話に対してずっとリアクションしているフロスト陣営と、どんな危機的な状況に陥ったように見えてもピクリとも動かないブレナンの対比。

それなのに、致命的な一言をニクソンが搾り出そうとした瞬間に、ブレナンは走り出そうとするんですよね。
彼は知っていたはず。ずっと傍に居た彼が、知らなかったはずは無い……すべてを。それでも、そこには触れずに通り抜けられると思っていた。運命の瞬間がおとずれるまで。



印象的だったのは、最後のインタビューに到る前夜の、フロストの苦悩でした。
全てを賭けて挑んだインタビューに敗れたならば、彼にはもう後がない。財産のすべてをニクソンやスタッフへの支払いに宛て、他の仕事を全て断ってこのインタビュー対策一本に絞って。
これが失敗したら、もう二度と這い上がることはできないだろう。
文字通り、人生を賭けて挑んだインタビュー。


そして。
ニクソンもまた、このインタビューに復活を賭けている。
このインタビューを乗り切れば、まあ大統領として返り咲くのは無理でも、アドバイザーくらいの地位には入れるはずだ。自分にはまだ価値がある。外交問題において、自分以上に対応できる者など、この国にはいないのだから。
その、強烈な自負と、プライド。過去の実績に裏付けられた、圧倒的な自信。



一回一回が真剣勝負だ、という言葉に、本気で納得しました。
仲村トオルは、いやフロストは、本気でニクソンが何を言うかを探っていた。
すべての瞬間に。真顔で。本気で。心の底から。
真剣に、ニクソンが何を言おうとしているのかを探り、どの応えがきたらどの台詞を返そうか、と考える。
対峙するニクソンもまた、フロストが何を言い出すか、を、全ての瞬間に固唾をのんで待っているのを感じました。
その、お互いに相手が口を開くのを待っている、長く重たい、真剣な一瞬。

そんな一瞬の積み重ねが、あの舞台の重みになっていたのだと思います。




……凄いなあ。

そんなに長い芝居ではないのに、観ているだけでぐったりと消耗しちゃって。演技している本人たちは、大丈夫なんだろうか……と、ふと心配になったりしました(^ ^)。

いやーーー、それにしても、生で観る北大路欣也は巨きいですね!!







「十二人の怒れる男」

こちらは、ワンシチュエーションもの象徴的な戯曲であり、1957年に後悔された映画を元にした作品。
舞台の演出は、大御所・蜷川幸雄。

「フロスト×ニクソン」の、淡々としたクールでクレバーな会話が続く、というものとは違い、時には熱く、時にはクールに、そして時には野次馬が騒ぎながら、12人の陪審員たちが審理をすすめていく……という作品ではあるのですが。
なんとなく、「論争」をテーマにしたストレートプレイ、というくくりがあるような気がしたので、まとめてみました(^ ^)。

しっかし……ここのところ、外部の作品っていうとG2⇒スズカツ⇒蜷川を繰り返し観ているような(汗)……。




ある少年の裁判。
公判を終え、12人の陪審員たちが部屋に入ってくる。
彼らはこれから、全員一致で結論を出さなくてはならない。
少年は殺人罪で死刑の求刑を受けている。
陪審員たちの回答には、3つの可能性がある。
1.全員一致で「有罪」=> 少年は死刑確定
2.全員一致で「無罪」=> 少年は無罪放免
3.「審議不一致」=> 別の陪審員を集めて、もう一度いちから裁判をやり直す。


この作品も、座長的な意味での「主役」はいない構造の戯曲ですが、当然戯曲的に焦点となるべき登場人物がいます。
12人の陪審員たちのうち、11人が「有罪」と判断し、1人だけが「無罪」と判断する。
その、たった一人の「離反者」、陪審員8号の中井貴一。

8号は、決して「少年は何もしていないと思う」と主張していたわけではないんです。
「有罪であるという証拠が不十分である」と主張している。
つまり、「疑わしきは罰せず」というわけです。

彼は訥々と、一つ一つの証拠について疑問点を呈していきます。
加害者とされている少年の心理。被害者である少年の父親の行動の謎。
目撃者の性格と、身体能力(「目撃」することが果たして可能であったのか?)。
ナイフの入手経路。彼自身の行動の謎。証言と現実の食い違い。


なるほど、なるほど……と思いながら観てはいたのですが。
しかし!

これだけ「名作」の誉れ高く、戯曲としての質が高いといわれている作品でさえ、どうかと思う話がたくさんあってびっくりしました(^ ^;ゞ
なんていうのかな。8号が指摘する点の、半分くらいはそんなん、どうして捜査で気づかへんかったん?と思う話だからけだったんです。
とゆーか、私は裁判員制度についてあまり詳しくないんですが、陪審員には、裁判中に質問する権利は無いんでしょうか?もしかしたら、警察とかが居る場で質問していたら、その場で解決したんじゃないか、っていう話も多かったんですが……。

そんないい加減な審理で裁判が進むこと自体が大きな問題なので、8号はぜひ、「全員一致で無罪」なんていう簡単な結論を出すんじゃなくて、「不一致」で提出して、検察側に疑問点を指摘し、裁判を最初からやり直しさせたほうがよかったのでは?と思っちゃいました。

なーんて、どっかの宝塚作品のようなツッコミをいれつつ。




でも。
この作品のテーマは、審理の内容とは全く違うところにあるんです。

複数の人間が存在すれば、かならず生じる価値観の相違による軋轢
それが、作品全体のテーマだったと思います。


スラム出身の青年に扮した筒井道隆の苦悩をはじめ、12人の登場人物それぞれに国籍があり、過去があり、仕事があり、家族がある。映画が原作だけあって、こういうキャラクターのキメの細かさは「カサブランカ」に通じるものがあるなあ、と思いました。




最後の最後で、完全に場を攫ってしまった西岡德馬が、すばらしかったです。
ああいう父親っているよね、と思う。理解、という言葉から遠い所をさまよっている、哀しい男。
8号の中井さんの『幸福』と、3号の西岡さんの『孤独』。

その運命は、彼の責任ではないのにね。ただ、そう生まれてしまった、というだけで。
たったそれだけのことなのに、彼ひとりだけ、幸せから遠ざかっていく。
胸が、キリキリと痛くなりました。
彼は彼なりに、息子を愛していたのだろうに、それを理解されることは、もう二度とないのだ、と。




この作品を観て、三原順の「はみだしっ子~連れて行って」を思い出したのは私くらいのものなんでしょうか。
あの裁判に関連してグレアムが呟くモノローグの数々を、リフレインしながら観てしまったのですが。

ジャックはきっと8号なんだろうな、とか。
ロナルドと3号がちょっと被るな、とか。…いえあの、す、すみません





他の出演者は、辻萬長、田中要次、斎藤洋介、石井愃一、大石継太、柳憂怜、岡田正、新川將人、大門伍朗、品川徹。
中でも、辻萬長のダンディな落ち着きとクールな格好良さは最高でした♪ いやあん、髭萌えっ!!(←そこ?)


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新国立劇場にて、「ヘンリー六世 第一部~百年戦争」を観劇してまりました。


もともとが三部構成の長大な戯曲で、シェイクスピア作品の中で、日本ではあまり上演される機会のないイギリス史劇。
私も観たことがなかった作品ですが、戯曲どおりの三部作一気上演、ときいて、さすが新国立劇場、思い切ったことをするなあと楽しみにしていたのですが。


まだ第一部しか観ておりませんが、予想以上に面白かったです(^ ^)。
これは、二部・三部も楽しみですわ♪♪ チケットがんばるぞー!(←とりあえず一部だけ、と思っていた)



宝塚でもおなじみの小田島雄志氏の訳本をもとにした脚本で、演出は新国立劇場の芸術監督・鵜山仁さん。

まず目を惹いたのは舞台装置(?)だったのですが、スタッフリストをどう見ればいいのか良く判らない……。「美術」の島次郎さんってことでいいのかしら?
新国立劇場中劇場の広い舞台を、手前は平らで、奥に行くとかなり急角度に持ち上がった八百屋舞台に仕上げていました。舞台奥に人を立たせてスポットで浮かび上がらせると、本当に遠い風景のように見えるのが印象的。
舞台手前側の下手半分には、ごちゃごちゃとゴミ捨て場か何かのように見えるモノを配置し、上手半分には思い切って広い本水の池を設置。なんとなくダイヤ形みたいな形の舞台になっていました。

上手側の池は結構広くて、雨が降ったり中に人が入ったりしていましたが、最前列のお客さんが濡れたりといったことはなかったのかなあ?あの池ごしに観る風景は、本来の舞台鑑賞とはちょっと違う意味で面白そうだなあ、と思いました(^ ^)。
ちなみに本来の舞台鑑賞的には、池のおかげで舞台の中心が本来のセンターより少し下手側になっていたので、少し下手寄りの席の方が観やすいんじゃないかと思います。



基本的にセットらしいセットはなく、椅子(玉座)と池の畔に時々降りてくる物見の塔と、あとは真ん中奥に降りてくる城門、くらいだったんじゃないかな。そうか、そういえばスタッフリストに「装置」という項目が無いわ。あれは「大道具」ってことなのかな。

他には、時々木が生えたり、天幕が吊られたりするくらいで、本当にシンプルな舞台でした。衣装もいかにも当時っぽくみえるけど、とてもシンプル。
物語が非常に複雑で、登場人物も多く、人間関係が実に実に入り組んでいるので、舞台のシンプルさとちょうどバランスがとれているなあと思いました♪



しっかし人間関係がわけわかめだった……。一瞬でも気を逸らすと話がわからなくなる(というか、誰が誰だかさっぱりわからない)ので、かなりの緊張感をもって観たのですが。
あれを一日に三部を一挙上演とか、演る方も大変だろうけど、観るほうも無理そう……と思ってしまった(^ ^;ゞ。まあ、私がイギリス史を知らなすぎるだけで、高校世界史レベルのイギリス史が頭に入っているかたなら問題ないのかもしれませんが。残念ながら日本史選択だった猫は、人物名だけで迷子になりました。えっとえっと、この人誰?が多すぎる(; ;)。プログラムの系図はちらっと見ておいたんだけど、名前と人間関係が元々頭に入っていないから、何を言われてもさっぱりハテナ。
フランス側は基本的に青いマントをつけていたのと、途中からランカスター側は赤薔薇を、ヨーク側は白薔薇を胸につけてくれるようになったので、だいぶわかるようになりましたが…。うーむ。





幕開きは、ヘンリー六世の父・ヘンリー5世の葬式の場面から。
ここで、おじさんたち(←失礼)が入れ替わり立ち替わり、相手の名前を呼びながら色んなことを言うのですが。
まず、ここで一瞬挫けそうになりました。君たち、誰?

いやー、たぶんあれですよね。日本で言えば幕末史みたいなものなんでしょうね、きっと。シェイクスピアがこの作品を書いた頃の民衆にとっての、ヘンリー六世の治世っていうのは。
出てくる人たちの名前くらいは皆が知っていて、「沖田」「近藤」「坂本」「桂」などと互いに名前を呼びかければ、それぞれが所属していた集団の名前と簡単な功績と、そして人間関係のおおまかなところがパッと浮かぶ、そのくらいの。


ヘンリー五世は「英雄」だったんですね。
英仏の百年戦争の英雄。アジンコートの勝利者で、フランス王シャルル六世の王位継承権者。彼がもうしばらく生きていたら、フランスの王位を継いでイングランド=フランス連合王国となり、あげくに全ヨーロッパを支配していたかもしれない。

でも、彼は死んだ。
思いもよらぬ病気による急死。後に遺されたのは、わずか9ヶ月の赤児。
こうしてヘンリー六世(浦井健治)は、まだ立って歩くことさえできない時代にランカスター朝の王者となり、さらに二ヵ月後、フランス王シャルルの死に伴ってフランス王位も継ぎ、イングランドとフランス両国の王となった。
喋ることもできない赤児が。叔父のベッドフォード公ジョン(金内喜久夫/フランス王国摂政)とグロスター公ハンフリー(中嶋しゅう)が摂政として立ち、さらに、大叔父であるエクセター公トマス(菅野菜保之)やウィンチェスター司教(勝部演之/後のヘンリー枢機卿)らに見守られて。




第一部では、タイトルロールであるヘンリー六世はほとんど出てきません。
あれっ?というほど、浦井君だけが目当てで観に来ていたらがっくりしたんじゃないか、と思うほど、出てこない。
シェイクスピアの史劇のタイトルは、人物名じゃなくて時代名なんだな、と思いました。
たとえて言うなら「昭和」みたいな感じ?べつに昭和天皇を主人公にしているわけじゃなくて、ある種の『時代』の象徴として昭和天皇の名前を使った、みたいな。

いや、まあ、もしかしたら第二部や第三部では実際にタイトルロールらしい存在になるのかもしれませんが、第一部の物語が始まった時点では生後9ヶ月だし、「百年戦争」という副題が物語るとおり、基本的にはフランスでの戦いが中心の物語になっているので、二幕になってフランスに軍勢と共にあらわれるまでは、彼自身は本当にほとんど出てこないんですよね。

ただ、そんなわずかな出番でも、浦井くんの柔らかくて優しい『少年』の声が、無骨でガサガサした印象の世界の中で、一滴の甘露のように響きました。やさしすぎて乱世の王には向いていなかった、と言われ、ランカスター朝が滅ぶ原因となった王ですが、平時であれば、あるいは成人してから王座に就いたなら名君と呼ばれたのかもしれないな、と思わせる存在感がありました。
ただの駄目な王では「ヘンリー六世」という戯曲にはならないので
短めのマッシュルームカットの金髪鬘で顔の輪郭も隠して、白のシンプルな長衣に身を包んで、誰の助けも求めずに凛と立っている姿は、なんだか憂き世離れした天使みたいに清らかで。
血なまぐさい百年戦争から薔薇戦争へと続く時代の象徴としては、不思議な存在だなーと思いました。



で。
事実上、第一部の主役は、フランスで闘った聖処女ジャンヌ・ダルク(ソニン)と、イングランド軍の英雄トールポット卿(木場勝巳/ジョン・タルボット。のちのシュールズベリー伯)。

とにかく、ジャンヌ・ダルクが面白い役でした。ソニンは、普通なら十分に聞ける日本語なんですが、難解な台詞の多いシェイクスピアの、中でもこの「魔女の弁舌」とまで言われる役をやらせるにはちょっと惜しい感じだったのが残念。前半は、その独特の口調が「神の声が口から奔流となって溢れている娘」の巫女っぽさ(?)を表現しているのかなーと思ったのですが、後半はちょっと気になりました。
個人的に、すみ花ちゃんで観てみたいなーと思いました。いや、宝塚で上演するような作品ではないので、いつかすみ花ちゃんが宝塚を卒業したら…という意味ですが。

トールボット卿はめっちゃ素敵でした(はぁと)。正義の武人で、高貴な魂の持ち主。それでいてちゃんと茶目っ気もあって、可愛いおじさんで。いやー、惚れるわ~(*^ ^*)。
ラストの方で、舞台奥の高くなっているところに立ち尽くしている姿を遠景にしながら、舞台手前(近景)でサマーセット公エドマンド・ボーフォート(水野龍司)とヨーク公リチャード・プランタジネット(渡辺徹)の対立を描き、援軍を得られずに死んでいくトールボット卿を讃える場面につないでいくあたりが凄くドラマティックで、いい場面でした。

ある意味、第一部はトールボット卿の死とジャンヌ・ダルクの刑死でほぼ終わりで、あとは第二部へつなぐための前振りとして、サフォーク公ウィリアム・ド・ラ・ポール(村井国夫)とマーガレット・アンジュー(中嶋朋子/アンジュー公、ナポリ王レニエの娘、後のヘンリー六世妃)との出会いを描いて幕が降りました。
一目でマーガレットと恋に落ちたのに、自分に妻があるばかりに結ばれることを諦め、自分の野心のために美しい姫を主君に捧げようとする男。グロスター公ハンフリーが進めていたアルマニャック伯の娘との縁談を邪魔して彼の権威を失墜させ、自分が王の側近になろうとして……。
第二部ではこのあたりの話が掘り下げられるんだろうな、と思うと、とても楽しみなのですが、こういうヒキがあると、第一部だけ独立して観ても本当に意味がないなあ、と思いますわ(; ;)。





私のイギリス史に関する知識は、事実上ジョセフィン・テイの「時の娘」(リチャード三世の史実を検証した推理小説)のみ、なので。リチャード三世より一世代前の「百年戦争」は、本当に誰一人知っている人がいない状態(←いばるな)。
あらすじを読んだ感じでは、第三部くらいになるとそのあたりの話になるみたいなので、だいぶ知っている話になりそうなんですけどね。うーん、がんばろう……。




この作品、来年の4月には蜷川演出版も上演される(於・彩の国さいたま芸術劇場)ことが発表になっていて、滅多に上演されることのない作品なのに1年間に2チームとは珍しい!!と思っていたんですよね。
タイトルロールのヘンリー六世に上川隆也、ジャンヌ・ダルクと王妃マーガレットに大竹しのぶというキャスティングも魅力的。ちなみに、こちらは松岡和子氏の訳本を河合祥一郎氏がダイジェストにした一本案、ということで、上演時間は6時間だそうですが。

……宙組のドラマシティ&青年館と丸被りなんだよね………(T T)。
あああ、観たかったなあ(←過去形かよ)。



PARCO劇場にて、「印獣 ~ああ言えば女優、こう言えば大女優」を観劇してまいりました。



感動した!!

三田佳子、という驚異の大女優の巨きさに、涙がでました……。




ねずみの三銃士(生瀬勝久・池田成志・古田新太)主催&出演、宮藤官九郎脚本、川原雅彦演出……5年前に「鈍獣」で組んだ5人が、また組む。5年前には宮藤に岸田國士戯曲賞を獲らせたメンバーが、今度は何をしてくれるのか?と愉しみにしていたのですが。

いやはや。やってくれました。
実に興味深かったです。



三田佳子が演じるのは、『大女優』という名の生き物。
その、圧倒されるより他にない、強烈な生き様。ブレのない存在感。

そして、その回りをうろちょろする三銃士の、これまたブレのないキャラクター造形の見事さ。



プロローグは、山道を走る車のセット。
運転席には、編集者の児島(岡田義徳)。
助手席には、最初は携帯作家の飛竜一斗(生瀬)。あれこれ会話をしているうちに、事故みたいな音がして、一瞬の暗転。その一瞬に助手席の人物が入れ替わって、今度は、絵本作家の上原卓也(池田)。今ひとつ流れのつかめない会話を聞いているうちに、またもや事故のような演出があって、一瞬の暗転、次の瞬間には、助手席の人物は風俗ルポライターの浜名大介(古田)に変わっている。
聞いているうちに、児島が三人を仕事場へ連れていこうとしていることがわかってくる。連れて行く先は温泉の近くであるらしい。三人は共同で何かを書くことを依頼されているようだが、詳しい内容はよく知らないらしい。

演出的に、児島が三人をそれぞれ一人ずつ車に乗せて走っているので、児島が三人いるというネタかと思いましたが、全然関係ありませんでした(^ ^;ゞ。コンビニだらけの風景が見えたり、暗転するためにいちいち事故ったときのブレーキ音みたいな効果音をはさむので、実は児島はこのあたりで事故で死んだ亡霊だった…とか?、などといろいろネタを考えたのになー。

走る車に合わせて流れる背景の画像がなかなかよく出来ていて、「山道を走っている車」というリアリティがありました。会話が進むにつれて、だんだん鬱蒼とした雰囲気になっていくのが良かった。それでいて、突然回りにコンビニが立ち並ぶ風景が出てきたりして、どうも「別世界」感を出そうとしたんだろうな、と思います。
……全然関係なかったけどな。



事故(?)で放り出された三人が、山道で出会う。
いつの間にか姿が消えている児島。
いつの間にか現れる、古びた洋館。
開く扉。


吸い込まれるように、洋館の中にはいっていく、三人。

紗幕があがり、洋館の中のセット。これでプロローグが終わって、本編の始まりか?と思ったのに、ちょっと会話をしているうちに、三人とも床の穴に落ちて消えていく。
またもや暗転して、洋館のセットの床が上にあがり、地下室のセットになって、そこからが本番、ということになるのですが。


なんというか。
もう、ここまでのプロローグですでにすっかり引き込まれちゃっているんですよね。基本的に理屈に合わない会話ばっかりなんですけど、なんかよくわかんないけど、面白い。そんな感じ。



地下室に閉じ込められた三人に語りかけてくる天の声。
「あなたたちには、私の自伝を書いていただきます!」
そんな宣言と共に、電飾の椅子に載って現れる大女優・長津田麗子(三田)。



拍手喝采。



誰も知らない大女優、という存在。
「長津田麗子?誰?」という彼らに、彼女は騒ぐことなく嫣然と頬笑んで言う。

「ええ。私こそが長津田麗子」

大女優の貫禄。誰も知らなくても、間違いなく大女優。
こう言えるのは、大女優だからこそ。
こう言えるからこその大女優。
こう言える、という理由で、大女優。
どれも真実で、どれも間違い。



児島の娘を誘拐して言うことをきかせ、
「自叙伝が出版されたら、印税は丸ごとあげるわ。三人で折半なさい」
そして、無名の女優の自叙伝が売れる訳がない!と騒ぐ彼らに
「私が買います」
とキッパリ。

その潔さ。というか貫禄。というか、凄味。
彼女の狂気に巻き込まれて、「娘の命が懸かっている」から、「なんとしても書いてもらう!」とナイフで脅す児島。
悪いのは麗子のはずなのに、書こうとしない作家たちを責め続ける。
「何してるんすか!?早く書いてください!」

狂気、という風が、少しずつ吹き始める。




投げ遣りな雰囲気で第一章を書き上げた浜名に、彼女は言う。
「そんな展開、つまらないわ」
と。
「ボタ山で見た夢が、ボタ山で叶ってしまったら、それで終わりよ。夢も希望もないじゃないの」
その、自信に満ちた穏やかな声。

「でっちあげでもいいから、もっともっとドラマティックに盛り上げて頂戴!」

えっと。
あの。

今、彼らが書いているのは、貴女の自叙伝、ですよね………?

ええ、私の自叙伝なんですから、ドラマティックでなければ!



17歳で女優の付き人を始め、
撮影所の「センセイ」の愛人になり、
それが「センセイ」の奥様にバレて、せっかくの(エキストラだけど)出演場面のフィルムを破棄される。


その後、長い下積みを経て、いわゆる「戦隊モノ」らしい「カイセンジゃー!」の悪役『毒マグロ貴婦人』役を掴んだのも束の間、哀しい事件が起こって役を降ろされてしまう……


そして、拾ってくれた流れの劇団で主役を掴み、ポスターに載ったのも束の間、舞台の最中にツワリで倒れ、団長の娘を産んだけど、そのまま置いて行かれて。


歯を食いしばって娘(ユキエ)を育て、「女優」の夢を娘に賭けるけれども。なかなか思うようにはいかず……



そんな人生を、一つ一つ肯きながら受け入れる麗子。
だんだんと、フィクションであるはずの物語が、現実とリンクしていく。
「フィクション」と「現実」を隔てる壁が、薄く低くなっていく。


撮影所の「センセイ」は、有名な作家だった飛竜の父親。飛竜は、麗子を追い出した「本妻の息子」だった……

毒マグロ貴婦人を追い詰めた子供は、幼い日の上原だった。

そして、ユキエを追い詰めたのは……




次第にフィクションと現実の境目が見えなくなっていく世界の中で、長津田麗子はすっくと立って、宣言する。


「この素晴らしくドラマティックな人生を本にして、映画化するの。それこそが私の、初主演作よ!!」



その、清々しいまでの美しさ。
色濃く劇場を覆うオーラの輝き。
この世のものならぬ大女優の、奇跡。





いやあ、泣きましたよ私。終盤の、長津田麗子の長いモノローグで。
娘と二人で生きてきた人生を語る、モノローグ。女優が女優であるために、棄てたものと、喪ったもの。
わがままで自分勝手な言い訳と責任転嫁と、そして欺瞞。
悔恨も反省もなく、ただただ悲嘆にくれるばかりの、我侭な人生。




ユキエ役の人形を相手に芝居をする長津田麗子の恐ろしさ。
ユキエ役を人形にした宮藤&河原の怖ろしいまでの悪意と、自分を憐れむことのない、麗子の鮮やかすぎる信念。何の賞でもいいから三田佳子に「主演女優賞」を捧げたい、と、心から思いました。ああ、観てよかった。




三田さんのことばかり書いてしまいましたが、もちろん、「ねずみの三銃士」の三人が素晴らしかったことは言うまでもありません。前半から中盤までを支配した池田さん、全体を通して舞台を締めて(占めて?)いた古田さん、そして、ラストに全部持って行った生瀬さん。彼らだからこそ、三田さんがどれだけやりたい放題しても何の問題もなく、安心して観ていられたのだと思います。
ブレのない世界観。人間だから時々ブレたり迷ったりするはずなのに、登場人物の誰一人、悩んだりわかんなくなったりすることはあっても、ブレることはなかった。
それは、ラスト近くの長津田麗子の宣言と、それに対する生瀬さんの「……ブレてねーわ、あんた」という賞賛(?)の呟きに象徴されています。なのに、その感動(?)シーンの直後に、麗子に「書きな○°○っ!」という台詞と独特のポーズをやらせてしまう宮藤さんの、天才というか悪意というか、常人ではない感性が素晴らしい。しかも、一度は削ったのにまた河原さんが復活させたというのが、いかにもそれらしい(^ ^)。

「コンフィダント・絆」のときも思いましたが、この、それぞれに自分の活動拠点のリーダーであり、脚本も演出もしちゃう三人が、それでもあえて呼ばずにはいられない脚本家であり演出家なんだな、と。そんなことを思いました。






この物語のテーマは、たぶん「ストックホルム症候群(拉致監禁された被害者が、監禁者に対して抱く依存感情)ということになると思うのですが。
それも含めて、いろんな狂気が渦巻く芝居の中で、私には、最後まで「女優」という生き物が自分自身に対して抱く愛と、娘に対していだく愛と憎しみ、その相克がとても印象的でした。

母と娘の相克のおそろしさ、というと、有吉佐和子の「母子変容」が浮かぶのですが。
今回、麗子は「大女優」なんだけど、世間的には認められていない「誰も知らない大女優」なので。どちらかといえば、浅田二郎の「プリズンホテル・春(終章)」に出てくる春野ふぶきに近い、かなあ?アチラは娘がデキた子なので幸せな親子でしたが。

いやあ、それにしても三田佳子、本当に恐るべし。ランドセル背負った小学生から、セーラー服の女子高生、旅一座の花形、、、そして、スーツを着た母親。小学生はともかくとして(^ ^)、女子高生もちょっとそのへんに置いといて、鮮烈なオーラを纏う大女優と、娘を抑圧する教育ママ。その両役を、過不足なく演じきれる狂気。
いつか「母子変容」を舞台化してほしい。三田佳子の森江耀子が観てみたい!!(とっくに上演済みかもしれませんが↓↓)




いやー、本当に、興味深いとしか言いようのない作品でした。
何度も大笑いしましたよ。もう、古田さんが口をひらくたびに面白くて面白くて。どこまでが脚本でどこからがアドリブなのか、一回しか観ていないのでさっぱりわかりませんが、初見でもしらけることなく、テンポも乱れず、でも絶対アドリブだろう!?と思わせるあたりはさすがでした。こういうのを観ると、「ロシアンブルー」の呪文の場面はちょっと無理矢理だったな、というか、「アルバートとヘンリーの芝居」じゃなくて「水夏希と彩吹真央の即興」だったんだな、と思ったりはしますね。あれはあれで良かったんですけど、あくまでもファン前提で、リピーター前提だったんだなあ、と、ね。


ねずみの三銃士たちの、次の作品に期待します。
ってゆーか、「鈍獣」も再演してほしいよー! 当時はあまり芝居を観る環境ではなかったので、観れなかったんだもん(T T)。話題作だったし、観たかったのにー。
(映画になってたのは知らなかった……無知ですみません。今度ツタヤで探してみよう)



落穂ひろい。

2009年10月28日 演劇
9月~10月に観た舞台で、まだ書いていないものを二本まとめて書かせていただきます。



●「静かじゃない大地」
 下北沢本多劇場


主演の佐藤アツヒロくん目当てで観に行ったのですが。
……もう、すっかり記憶に遠いわ(涙)。あんなに、あんなに、もの凄く楽しかったのに。


作・演出はG2。
主演は佐藤アツヒロ。他の出演者は、田中美里筆頭に、、久ヶ沢徹、福田転球、辻修、内田慈、浜田信也、諏訪雅、池谷のぶえ、久保耐吉の合計10人。観たことがあるのは、アツヒロくん、田中さん、久ヶ沢さん、池谷さん、久保さん、……そのくらいかなあ?半々ってところか。



物語は、麻薬成分を含まないように品種改良した大麻を医療用に栽培する!というプロジェクトを中心に、それに関わる人々の人間模様……みたいな物語だったのですが。
いやはや。G2さんの発想の面白さにびっくりしました。
あの展開は凄いと思う!しかもラストの余韻も秀逸。幕が降りたあと、ああ、この話を誰かとしたい!!強く思いましたね。いつも一人で見てるし、最近は慣れてきて、あんまりそういう衝動にかられたりしなくなったんだけど。



アツヒロくんの芝居は元々好きなんですが、今回はまたピタッと嵌っていて、とにかく凄かったです。ああいうキャラクターが一番似合うのかもしれないな、と思う。G2さんとの相性が良いんだと思います。本人も楽しそうだったし、また組んでほしいと思いました(^ ^)。


あと印象的だったのは、家出(?)少女とアツヒロくんの妹(幻想)の二役だった内田慈ちゃん。文句なく、アツヒロくんの次に印象的だったのは彼女でした。二役どっちも良かったなあ。家出少女のあっけらかんとした現代っ子ぶりと、アツヒロくんの幻想シーンでの妹役の、怖さと。
多面性のある役者ぶりで、若いのにうまいなあ、と感心しました。


あとは、ヤクザ役の福田さんの嵌りようにも感心。内田さんとのかけあいも息があっていてさすがでした。
久ヶ沢さんのひょうひょうとしたとぼけっぷりも似合っていたし、池谷さんと久保さんの、ラストのオチに納得できる芝居も良かったし。G2さんの演出には隙がないなあ……

理屈抜きに、興味深い題材を面白く料理してくれたと思います。
素材も良かったし、仕上げも良かった。短い公演でしたが、観ることができてよかったです。





●「ラスト・フライト~帰りたい奴ら」
 サンシャイン劇場

こちらは結構最近です。先週末。蘭香レアちゃんが目当て、だったのですが。

脚本は戸次重幸、演出は福島三郎。
出演は川原亜矢子、六角慎司、野仲イサオ、蘭香レア、小松彩夏、福島カツシゲ、川井“J”竜輔、戸次重幸、加藤貴子。


うーーーーん、、、
思いもよらない展開にびっくりしているうちに終わってしまった!(@ @;;;ゞ、って感じだったなー。
なんとなくドタバタ劇であることは予想していたんですが(根拠もないのに/笑)、よもやSFスペースオペラ的ドタバタ劇だとは思いもよらず。細かいネタがいろいろあって、いちいち面白かったんですけど、「んで、作品全体のテーマは何なの?」って思ってしまった瞬間に醒めてしまう、みたいな。


レアちゃんは素敵でした!!あの声が本当に好き。何度聴いても飽きません。
でもでも、たまにはまたシリアスな台詞劇のレアちゃんにも会いたいよーーー……!!
もちろん、シリアスなダンサーレアちゃんならもっと嬉しいんですが。ええ。一度DIAMOND☆DOGSと共演しないかなー。



プログラムを買い損ねてしまったのですが、んーーー、なんとなく、帰り道の気分が、お笑いを観にいった帰り道に似ているような気がしました。なんというのかな。(私は一人で観ていたんですが)、たとえば、友人と二人で観ていて、終演後にお茶したとしても、舞台の話はしないかも?って感じ。

もう一回観れば、いろいろと書きたいことも出てくるのかもしれませんが。とりあえず、戸次さんの作品を観るのも初めてのせいか、本当に「吃驚している間に終わっちゃいましたー」としか書きようがない感じです(涙)。なんだかすみません。。。





とりあえず、以上2題、でした。



10月公演で観たいなーと思っていた公演には、先週末に終わった公演が多くて。いろいろこの週末に観にいくつもりでいたのに、予想もしなかった仕事が金曜日に突然降ってきたため、全部キャンセルになりました。
中でも悔しいのは、座・高円寺で上演されていた「双数姉妹ソビエト マヤコフスキィ生誕116年」が観られなかったこと。メイエルホリド劇団の演出を手がけたこともあるソヴィエトの大衆詩人・マヤコフスキィの闘いを観てみたい、と思ってチケット取ったのになあ………
残業なんてどうせつけられないんだから、チケット代返せ~~~!! 久しぶりに徹夜ですよ。もう若くないのに(自虐)



そして、「組曲・虐殺」もいけずじまい。こちらは、当日券狙いで行くつもりだった日に、ついふらっと雪組を観てしまった…という問題行動の方がに理由があったのですが……はああ。10月はわりと暇だから、いろいろ観ようと思っていたのになあ(↓)。シカゴも観られなかったし、なんだか話題作を全然観ていないような気がする……しょぼん。




岩窟の蛮幽鬼

2009年10月10日 演劇
新橋演舞場にて、劇団☆新感線の「蛮幽鬼」を観劇してまいりました。


中島かずき脚本・いのうえひでのり演出の、いわゆる「いのうえ歌舞伎」の本流。あまり意識はしていなかったのですが、そういえばこのコンビは「朧の森に棲む鬼」以来二年ぶりになるんですね。
いろんな意味で少年漫画チックな世界観が気持ちよくて、壮大で……でも、「朧の…」などに比べるとちょっと大人の世界になっていたような気がします。少年ジャンプからスピリッツになったくらいの感じ?(←適当)



観ながら漠然と「モンテ・クリスト伯みたいだな」と思っていたのですが、プログラムによると、元々「モンテ・クリスト伯」をやろうとしての作品だったようですね。
逆に、そう思って観たら、二幕の展開は全然関係なかった……のですが。




遠い古代。
大陸には強大な華拿国(カダノクニ)があり、その東の沖合いに、小さな島国があった。島国の名は鳳来国(ホウライコク)。文明的に遅れている鳳来国は、若く優秀な若者たちを舟に乗せ、華拿国へ送る。新しい世界を学ばせ、自国の活力とするために。


華拿国のモデルは、モデルは隋……かな?唐という感じはしないんですよね。いや、あんまり根拠はないのですが。鳳来国のモデルはもちろん大和朝廷、ですね。あとは、楼蘭がちらっと名前だけ出てきます。いや、字が違うかもしれませんが。「山の老人」伝説を参考にしたような暗殺集団として出てくるので、実際の楼蘭とは関係無さそうですが。
(「山の老人」の伝説は、「モンテ・クリスト伯」にも出てくる話だから使ったのでしょうか?シチュエーションは全然違いますが…)



鳳来国の優秀な若者として遣華使(?)として海を渡った4人、伊達土門(上川隆也)、京兼調部(川原正嗣)、稀浮名(山内圭哉)、音津空麿(栗根まこと)。5年の滞在で新しい文明を学び、もうすぐ故郷に帰れるという時に、事件が起きる。流星雨が降る夜に、天文寮で京兼調部が殺されたのだ。直前まで一緒に流星雨を見ていて、死んだときに行き合わせた土門に疑いがかかり、華拿王の前で裁かれる。その場で、「犯人は土門に間違いない」と証言する浮名と空麿。
仲間たちに裏切られ、監獄島に閉じ込められる土門。

ここまでがプロローグで、この後、十年間を監獄島で過ごし、そこで出会ったサジやペナンらと共に監獄島を脱出した土門が、鳳来国に戻り、裏切り者たちへの復讐を果たすまでが本筋になるわけですが。




主演は、伊達土門役の上川隆也と、楼蘭育ちの殺し屋・サジの堺雅人。二枚看板、というか、『表の主役・上川と裏の主役・堺』という感じでした。
復讐を誓い、他には何もいらないと誓う土門。
そんな彼を「守る」と誓うサジ。
サジにはサジの目的があり、土門の知らないところで動いていたりもするのですが。この二人の関係がいかにも複雑微妙で、すごく面白かったです。ずっと、この二人どうなるんだろう、というか、サジはどうするんだろう、と思いながら観ていて、期待に違わぬラストだったので、中島さんはさすがだな、と。

上川さんはもっぱら元婚約者である美古都(稲森いずみ)や、自分を裏切った浮名や空麿の二人と絡むのですが、サジは、とにかく土門へのこだわりがすべてで、あとは美古都の警護を勤める楼蘭人・刀衣(早乙女太一)との関係が深かったかな。


上川さんが骨太で格好良いのは今更書く必要もないことですが。
なかなか複雑な人間像を、実に見事に描き出していたと思います。歌も殺陣も人並み以上で、さすがだなあ、と。しかし汗がすごいなこのヒトは……。ライトの光量も多いんでしょうけれども、それにしてもキラキラというかテラテラというか…(汗)。

堺さんは、「人を殺すときにも笑顔でいる男」。土門に自らの持つ殺人術を伝え、復讐を手伝う男。実に不思議な存在感で、興味深かったです。「モンテ・クリスト伯」にはいないキャラクターなので、どう動かすのかなあと思っていたのですが、なるほど!という感じでした。
「美しき背徳」で、何の前触れもなく突然男同士の愛が出てくることに吃驚したばかりだったので、愛ではないけれども深いサジの感情に、とても素直に納得できました(*^ ^*)。



栗根・山内はシリアスな場面もギャグの場面もしっかり抑えて、とても良かったです。
山内さん演じる浮名の父親は、右大臣の稀道活(橋本じゅん)。朝廷で隠れもない権力を誇る右大臣として、大王(右近健一)をないがしろにし、いずれ取り除いて自分が王の座に座ろうと画策する、典型的な「悪役」(^ ^)。典型的な新感線役者として、ビジュアルの作り込みからギャグの間まで、実に実に見事でした(笑)。
息子の浮名は、ヤル気のない無責任なモラトリアム青年、みたいな役でしたが、なかなかに食えないキャラクターでした。最期は意外とあっさり滅んでしまうので、もう少し裏があってもいいのに……という感じもしましたね。
浮名と共に土門を裏切る空麿は、土門が鳳来国に帰ってきたときには「蛮教」という華拿国の宗教の指導者として権力に近いところにおり、稀家に協力している…という設定でした。架空の国とはいえ、眼鏡をかけているのが胡散臭すぎて、すごく笑えましたが……。
戻ってきた土門が「蛮神教」の教祖・飛頭蛮を名乗り、教義問答を仕掛けるのを受けて、見事に玉砕する…という、これまたお約束どおりの展開なのですが。
ひょうひょうとした栗根さんのキャラクターが生きた、面白い役でした。


華拿国で殺された京兼調部の妹・美古都(稲森いずみ)は、透明感のある美しさが役にあっていたと思います。凛としているところと儚いところが同居しているのが良かった。ちょっと矛盾のある役なので難しかったと思います。揺れる心を、もう少し脚本的な部分でもフォローしてあげたほうが良かったかな、と、ちょっと思いました。


調部と美古都の父親・京兼惜春(千葉哲也)は、堂々たる貫禄のあるオヤジっぷり(*^ ^*)。
「ユーリンタウン」の語り部・ロクスッポ警部の見事さにひけをとらない素晴らしさでした。
自分に仕え、忠誠を誓うくの一・丹色(山本カナコ)との場面の、たまらんほどの色っぽさにちょっとクラッときました。そういえば、「ユーリンタウン」では色っぽい場面はひとっつもなかったな……。
山本カナコさんも大好きなので、この二人の絡みはめっちゃ嬉しかったです♪




華拿国に滅ぼされたハマン国の姫君、ペナン(高田聖子)。
…高田さんがやってるくらいなんで、姫君っつっても……って感じですけど(^ ^;ゞ、監獄島で土門に出会い、助けられて一緒に日本まで来てしまう。密かに財産とかもどっかに隠していたらしく、「蛮神教」の布教活動をすすめる土門の資金源ともなる。土門への愛情は微かに感じられますが、美古都もいるし、土門側は何も気づかないままに終わる、って感じだったような。
二幕の中盤で、いきなり衣装を脱ぎ捨てて踊りだす場面があるんですが。真っ赤なチューブトップ(?)がとても素敵です。ええ。ちょっとテンションあがりました(^ ^;。あと、ハマン語でペラペラ喋りだす場面が何回かあって、それがめちゃめちゃ面白かったです☆




鳳来国の侍隊長、遊日蔵人は、山本亨。
土門とは、土門が遣華使に選ばれるまでは同じ衛士の仲間だった、という設定で、美古都と共に土門を待っていた、気は優しくて力持ち系の男。殺陣も見事で、カッコよかったです。



ああ、でも。
殺陣といえば、この人。
楼蘭一族の一人・刀衣役の早乙女太一。
思えば、私が彼に一番最初に落ちたのは、二年前の「クラブセブン セレクション」の殺陣シーンだったんですよね。あれは日本刀でしたけれども。

新感線の殺陣はいつも格好良いですけれども、彼の殺陣は、また別次元で素晴らしい。
斬られ役の技術ではなく、彼の殺陣そのものが、並みのダンサーのダンスよりも美しいんです。思わず、息を詰めて見入ってしまいます。女装しての舞もありましたし、あれも確かに綺麗なんですが、やっぱり私は、彼は男姿で殺陣をしていえるときが一番美しいと思います。

18歳、でしたっけ。わずか二年で顔立ちもずいぶん大人びて、面長になりましたよね。チラシを観たときは、早乙女くんだということに全然気がつきませんでした(汗)。背も伸びて、体つきがずいぶん変わったなあ……。
声も安定して、だいぶ芝居らしくなってきたような気がします。美古都に忠誠を捧げるようになるまでに何があったのかが語られない脚本で、難しかったと思いますが、今までだったら手も足も出なかったでしょうに、何かとっかかりを掴んだんじゃないかな、と思いました。
この公演の楽の頃には、もっとずっと大きくなっているんだろうなあ……。

魅力のある人なので今後もオファーは絶えないでしょうし、本流である劇団朱雀の活動も大変でしょうけれども、ぜひとも良い仕事を選んで、役者としても一流になってほしいな、と思います(*^ ^*)。




主な登場人物はそんなところでしょうか。
うーん、ネタバレしないのって難しい(涙)。ま、上川さんがカッコよかった!!の一言で終わりといえば終わりなんですけどね(真顔)。

いやー、それにしても面白かったです。さすが中島さん、息をつく暇もない怒涛の展開(^ ^)。
登場人物が多いのに、全員ちゃんと役があって、凄く面白かったです。
「蛮教」という宗教の独占を権力の礎(金銭的にも、人手的にも)におくというアイディアと、それに対抗する飛頭蛮=土門の、「儲からない宗教」の対立。その、非常に政治的なテーマを深く書き込む前に、あっさりと復讐譚として終わらせてしまうあたりがいかにも少年漫画っぽいんですけど(汗)、話としてはわかりやすかったかな、と。
もう少し宗教周りの話の決着をつけると、大人のコミックになるんだけどな。まあ、新感線だからな((^ ^;ゞ


で。
これはぜひ、今の宙組で観てみたい!!
中島さん、いのうえさん、宝塚デビューしませんか~~!?ぜひぜひ★祐飛さんの土門、蘭トムさんのサジ、すみ花ちゃんの美古都。皆がぴったりじゃないですか。みっちゃんにどの役をやらせるかちょっと迷うところなのですが、できれば、京兼惜春を演じてほしいぞ~~!!(^ ^)髭も似合うし♪みっちゃんはああいう、笑いの無い役の方が絶対似合う。あああ、観てみたい!
早乙女太一くんが演じた刀衣は、女装をすれば絶世の美女で、剣の名手という設定なので……うーん、誰がいいかなあ……。




ザ・ダイバー

2009年9月20日 演劇
東京芸術劇場小ホールにて、「ザ・ダイバー」を観劇してまいりました。


野田秀樹が官営劇場である東京芸術劇場の芸術監督に就任した記念プログラムのひとつとして上演された作品。昨夏ロンドンで初演(ロンドンキャスト)され、その後日本でも上演されましたが、そのときはチケットが手に入らず観られなかった作品。
今回は日本キャストということで、大竹しのぶ・渡辺いっけい・北村有起哉+初演から引き続き野田自身、という超豪華キャスト。



放火殺人(子供二人)の容疑で拘束され、尋問を受けている一人の女(大竹しのぶ)。
恐ろしい鬼警部(渡辺いっけい)と、ちょっとチャラ男っぽいが陰湿な雰囲気のある検察官・北村有起哉)の取調べが連日繰り返されている。しかし、女には犯罪を犯した自覚がなく、多重人格(?)の疑いがあるということで、精神科医(野田秀樹)が呼ばれる。
精神科医は彼女の心の奥に潜り、彼女の真実を見つけ出そうとするー。



ヒトの心を「海」と呼ぶ人は多いですが、この物語は、まさに「心の海に潜る」ダイバーの物語、という表向きの設定と、「海女」という謡曲の裏設定の二重構造になっています。
私は「海女」のことは全然知らなかったのですが、パンフレットによると、藤原不比等の物語だそうですね。州崎の沖の龍に宝物(“面向不背の玉”)を奪われた不比等が、州崎の海女と結婚し、三年間共に暮らして子供をそだてる。その上で、彼は海女に「宝物を奪い取ってきてくれないか」と頼む。龍の宝に手を出せば死は免れないと知りながら、海女は夫に問いかける。「身分卑しい自分の息子でも、あなたは藤原家の嫡男として扱ってくれますか?」と。
不比等は肯い、約束を交わして潜る妻を見送る。数日後、海女の死体が揚がり、胸を切り裂いた傷の中から、面向不背の玉が出てくる……。


そして、もう一つ、全体を通したモチーフになっている「源氏物語」。「女」は、会社の同僚(?)の「男」(北村)と恋に落ちる。……彼に家庭があるということを、最初は知らずに。
そんな恋を、彼女は「源氏物語」の中のいろんな女性たちのエピソードとして記憶している。時に夕顔、時に明石、そして、時に六条御息所になりきって語る彼女に、精神科医は溜息をこぼす…。




女を自分の思い通りにしようとする男=源氏(北村)に翻弄され、壊れていく「女」。男に言われるままに子供を堕ろし、その罪悪感に押しつぶされて。
「男」の「妻」(野田秀樹)の罵りの言葉に破壊された「女」は、「男」と「妻」が住まうアパート=「家庭」に火をかける。それはたぶん、彼女にとっては悪魔を滅ぼす浄化の炎、葵の上に取り憑いた悪霊を滅ぼそうとする火。彼女自身が既に生霊になっていることに気づきもせずに。
護摩に焚かれた芥子の香りがしみついた身体を引きずって、否定しようとして。彼女は、次々に源氏物語の女性を名乗ってみせる。

それでも、完全に忘れられたわけではなかった。
「四人、死んだわ…」
そんな呟きに、本名の「女」が覗く。けれども、そんな「女」は、あっという間に精神の海の底に沈んでいくーーーー。





終盤、自分の身体に染み付いた芥子の香りに気づいた「女」と問答に持ち込み、“自分が誰なのか”を思い出させようとする精神科医が、「女」の精神の海の深みに共に潜っていく場面。
それまで血のような朱を基調にしていた照明が、ふいに冷たく澄んだアイスブルーに変わり、すべての音源が消えて。二人は共に、ゆっくりと泳ぐ振り付けでスローモーションで動き……

そして。


探していたものを見つけた女が、それを精神科医に差し出す。
それはたぶん、「海女」が探していた“龍玉”。自分の子供の出世を約するもの。だからこそ、あんなにも大切そうに取り出して、自分の全てと共に、差し出して見せる。
自分の精神の、海の底から。


龍玉を受け取った精神科医は、水面を目指して泳ぎーーーそして、産声をあげる。
生まれなかった「女」の、子供たちの替わりに。

出世の約定を握りしめた、運命の子供の産声が響く。
この世には生まれることのできなかった子供の、産声が。







大竹しのぶ。
声色ひとつ、姿勢ひとつで一瞬にして別人になりきれる彼女にとって、この役はまさに嵌り役。ロンドンキャストの素晴らしさも噂では聞いていますが、大竹さんの「女」を観ることができて、本当によかったです。
「本能的な役者」ってよく言われている人ですが、久々に、“本当に計算してないなー”としみじみ思ってしまう役でした。



渡辺いっけい
鬼警部からバラエティ番組の司会者(頭の中将)役まで、ホント幅広い人だなあ(^ ^)。
いや~素晴らしかったです。警部として「女」を脅しつける迫力も凄かったし、軽妙な場面はとことん軽妙で。舞台で拝見するのは久しぶりだったのですが、さすがだーと感心しきりでした。



北村有起哉
細面に髭がよく似合って、「源氏の君」と呼ばれることに違和感がなかった。素敵でした!
全てはお前が悪いんだよ!という気もするんですけど、男と女ってそう単純なものじゃないからねぇ、とも思うし。「女」がそこまで嵌りこむ魅力がちゃんとあったから、物語に説得力があったと思います。
まあ、傍から見ていたら、本当にしょうのない男って感じですけどね(苦笑)気障でナルで、しかもヘタレなんだもん(- -;



野田秀樹
舞台に立っている姿を拝見するのは久しぶりでしたが、さすがでしたね。物語の主役はもちろん「女」だし大竹さんなんですけど、「ザ・ダイバー」というタイトルのタイトルロールは精神科医だったのかな、と、ラストを視て思いました。産まれなおすのは彼だから。


演出的な面では…、
舞台セットは、ソファと椅子がいくつかあるだけのシンプルなものでした。衣装もほとんど着替えはなく、ただ、現代の普通の服の上に軽いショールみたいなものを巻いたり、オーガンジーの被衣みたいなものを羽織ったり…という程度。印象的だったのは、「女」が堕した子供の象徴(そのときに流した血の象徴)である紅い布、でしょうか。
そして、面白かったのは、ただの回想ではなくて象徴的な意味のある場面になると、登場人物たちがフェースカバーみたいなメッシュの袋を被って演じていたこと。すり替えもすごく巧くて、ちょっとソファの後ろに倒れこんでみて、起きて来たらもう鬼女の面が描かれたフェースカバーを被っている、みたいなのが凄く印象的にでした。
紅い布をはおり、鬼女の面をつけた大竹さんの、崇高なまでの美しさ。このあたりの小物使いは、野田さんらしいなーと思いましたね。

音楽は、謡曲「海女」と「六条」をモチーフにしているだけあって、音楽はお囃子の生演奏。腹に響く鼓の音と空気を切り裂く笛が、物語を進めてくれた印象があります。このほかにも、録音でいろんな音源も使っていましたが、やっぱり生演奏の迫力はいいなあと思いました。




公演の話とは関係ないのですが、野田さん、芸術監督就任、おめでとうございます♪
「天翔かける風に」も野田さんの芸術監督就任記念プログラムの一環だったんですけど、なんか全然そういう意識はなかったんですよね。
でも今回は、なんだかすごく「ああ、野田さんがここのトップ(?)になったんだなあ」と感慨深くて。野田さんみたいなアンダーグラウンド(←定義としては間違っているような気がしますが…)出身の人が、都とはいえ官営の劇場で芸術監督に就任する時代がきたことに、驚きつつもやっぱり嬉しい、と感じました。

また今後も、刺激的な、面白い作品をたくさん上演してほしいです。

ただ、ミュージカルファン的には、ここ数年続いていたミュージカル月間(2月)はどうなるのかなー?と不安だったりするんですけどね(汗)。野田さん、ミュージカルもよろしくお願いしますねー(^ ^;ゞ



紀伊国屋サザンシアターにて、キャラメルボックス オータムツアー「さよならノーチラス号」を観劇してまいりました。



大丈夫。この世に、取り返しのつかないことなんか一つもない。



明解なテーマと、リアルでシンプルなストーリー。キャラメルボックスの芝居はいつだってまっすぐなのですが。
この作品は、さすがに脚本の成井豊が「私の家族の物語」「私戯曲」と言うだけあって、他の作品に輪をかけて、ものすごくシンプルで、そして、“真っ直ぐ”でした。


デビューしたての新進作家と、小学校六年生の過去の自分を行ったり来たりする主人公・タケシに、多田直人。いやー、30歳(だったかな?)の若者と、小学校六年生。なんのきっかけもなく、着替えもせずにそのまま舞台の上で切り替えるのはさぞ難しかっただろうと思うのですが、すごく自然でリアルで、良かったです(ちょっとデカかったけどね)。気弱で優しい少年だと思わせておいて、実は意外な闇を抱いている役でしたが、すんなり納得させてくれました。



小学校六年生の夏休み。
終業式が終わると、タケシはリュックを一つ背負って、所沢から電車に乗った。
夜逃げした家族が待っている、府中の町工場の二階へ。

夏休みが終わったら、また自分ひとり、所沢に戻らなくてはならない。
そのプレッシャーの中で、それでも夏休みの一日、一日を、宝物のように抱きしめて過ごす少年。その切なさと不安と、そして、新しい出会いへの好奇心。その輝きを、ちょっと寂しげな笑顔の多田くんが、過不足なく存在していました。

タケシが欲しかったもの、なのに、欲しがることさえできなかったもの。それはたぶん、家族が揃った普通の日常というものだったんでしょうね。
小学校六年生の子供には、どんなにがんばっても自分の力で手に入れることはできないもの。
……だから彼は、自分の力で手に入るものを、手にいれようとした。
広い海を自由に泳ぎまわる、ノーチラス号を。

ジュール・ヴェルヌの「海底二万マイル」が好きだった彼は、家族が住んでいる部屋の下にある自動車工場の主・根本勇也(岡田達也)に密か「ネモ船長」というあだ名をつけた。
勇也には勇也で、兄(森下亮)との確執とか、色々悩みはあるのですが、とりあえずこの物語の中では、彼はタケシを世の荒波から守る立場にあります。
勇也自身が闘っている、“世間”という名の不条理から。

岡田さんは、「容疑者X…」のガリレオ探偵とはちょっと違うキャラクターでしたが、これもよく似合っていました。ちょっと斜に構えた役が似合いますね。彼自身の物語があまり語られないので、どうしてそこまで兄に対して下手に出なくてはならないのかがよく判らないのですが、でも、一つ一つの行動に説得力があって素敵でした。二枚目だなあ(^ ^)。

子供は天使じゃないし、“天使のような子供”なんてものは、現実にはいない。
勇也にはそれが解っているんですよね。彼自身が、子供だったときの自分を覚えているから。子供にとっての“世界”が、どれほど理不尽で不条理なものに満ちているか、を。

だから彼は、大人の都合に振り回されたタケシに、ノーチラス号を作ってあげたいと思うのでしょう。
自ら閉じこもった檻から、自由になるための翼をあげたい、と。




物語のキーパーソン、いや、キードッグ(?)となるゴールデンレトリーバーのサブリナ(勇也の飼い犬)は、初演と同じ坂口理恵。
いやー、、、、メークも衣装もなんてことないのに、ちゃんと犬に見えるのは何故なんでしょう(汗)。たしかに、ゴールデンレトリーバーって割と人間臭い仕草や顔だとは思うけど、それにしたって。尻尾がついているわけでもなんでもない茶色のつなぎの衣装を着て、普通に立って歩いているのに、ちゃんとサブリナに見える。坂口さん、ブラボー(^ ^)。




タケシを取り巻く家族は、父親(久保貫太郎)、母親(真柴あずき)、兄(筒井俊作)。いろいろ微妙だけど、いい家族だなあと思います。愛情深くて、希望を捨ててなくて、と。

ただ。歳の離れた末っ子っていうのは、親からみると“ただただ可愛い”存在なんですよね。まあ、愛されることが当たり前すぎて、その有難みがわからないんだと言われればその通りなんですけど……いや、私がそうなんですけどね。でも、末っ子の立場から言わせて貰えば、それは結局、愛玩動物に対する可愛がりかたなんですよ。で、愛されているのは解ってるから反抗するきっかけが掴めなくて、いい大人になってから反抗期がきたりする訳なんですが(苦笑)。

ただ。
愛玩動物としてひたすら愛されていると、逆に、家族が大変なときっていうのは、すごく寂しい思いをするんですね。そういう存在に対して、現実の苦労の話をすることって無いじゃないですか。思い出したくないから。
だけど、子供は一応人間なので、何が起こっているのかわからないけど、何か問題が起こっていることはちゃんと知ってて、不安が募っちゃうものなんですよ。このまま家族がバラバラになってしまうんじゃないか、そのうち自分は置いていかれてしまうんじゃないか、、、と。

ちょっと時間がたてば、そんなことあり得ないってわかるんですけどねぇ。
正体がわからない不安だから、渦中にいると自力で払拭できないんでしょうね。



タケシの不安は、そういう不安だと思うんです。
家族は夜逃げした。兄は連れて行ったけど、自分は置いていかれた。根本的には、それが怖くて、そして哀しい。

もちろん、子供といっても六年生なんだから、理屈はわかってます。自分は義務教育で、学校を辞めてしまうことはできない。でも、転校するためには住民票を移さなくてはならない。夜逃げするのに住民票を移すとか、あり得ない。わかってる、ちゃんと。
でも。理屈はわかっても、気持ちは静まらない。だって、事実はたった一つです。お兄ちゃんは父さんたちと一緒なのに、僕は置いていかれた。

子供だから、何もできないから、父さんたちの役に立たないから、いらないから、……邪魔、だから。

夏休みの間は、一緒にいられる。家族でいられる。
でも、夏休みが終わったら?二学期は長い。子供にとっては、気が遠くなるほど長い時間を、自分ひとりで過ごすのです。親戚と言う名の他人の家で。そして、それで全てが解決できるわけじゃない。また冬休みが終われば同じこと。いつになったら終わるの?何週間?何ヶ月?それとも、まだこれから、何年も?


無神経な父親、優しいけれども忙しすぎる母親、そして、独りよがりで短気な兄。
愛情は深いけれども、皆が末っ子を心から愛しているのは間違いないけれども、でも、タケシにとってはどこか遠い存在だった家族。

だからタケシは、自分だけのノーチラス号を探し求める。置いていかれる不安と闘いながら。





勇也が巻き込まれる事件や、怪我をした少女(美香)の物語は、作品全体からみれば、最後の河原の場面にもっていくためのネタにすぎません。美香役の稲野杏那の透明感と明るさ、可愛らしさはすごく貴重な存在感でしたけど、物語のテーマには全然関係なかった(^ ^;
すべてのエピソードが、タケシと勇也を多摩川の河原に連れて行く。


ノーチラス号が欲しかった。

大人になりかけた子供が、世界を否定しようとする叫びの純粋さ。

自由に世界を泳ぎ回るために、僕だけのノーチラス号が。


子供だった自分を忘れられない勇也には、タケシに何も言ってやれない。
ただ、無責任な慰めを繰り返すだけで。

大丈夫。この世に、取り返しのつかないことなんか一つもない。


……だいじょうぶ、
そんな単純な言葉で、それでも慰められてしまうのが子供というものなのでしょう。
だいじょうぶ、と、そう大人に言ってもらうだけで、納得してしまうところが。




多田さんの笑顔は、とても優しい。
優しくて、柔らかくて、そして、すごく寂しい。


坂口さんがゴールデンレトリーバーなら、多田さんは柴犬だな、と、


……すべての犬種の中で、柴犬が一番好きな私は、思ったりしました(^ ^)。






17日(木)からは、シアタードラマシティで上演されます。
数あるキャラメルボックス作品の中でも、成井さん自身が色濃く映し出されたこの作品、
ぜひぜひ観てあげてください(はぁと)

と、カーテンコールで岡田さんに言われたとおりにお伝えする、子供のように素直な私でした(^ ^)。




風を継ぐもの

2009年7月27日 演劇
サンシャイン劇場にて、キャラメル・ボックス2009サマーツアー「風を継ぐ者」を観劇してまいりました。



一つの時代を走り抜けた集団「新撰組」の、下っ端たちの物語。


新撰組が京に落ち着いてしばらく後、池田屋事件よりちょっと(?)前。
壬生狼たちの詰め所では、入隊試験が行われている。受験者は立川迅助(佐東広之)と小金井兵庫(大内厚雄)の二人。剣の試験で相手をするのは沖田総司(畑中智行)、立会は土方歳三(三浦剛)と、勘定方の三鷹銀太夫(阿部丈二)。
剣の腕は素人同然だが、一生懸命でひたむきな迅助と、腕前は一級品だがヤル気がなくて集中力を欠いた小金井。土方は両名とも合格として沖田の隊につけて鍛えるよう命じ、浅黄の羽織を用意させる。


合格した迅助が向かった先は、叔父・桃山鳩斎(西川浩幸)の診療所。身内であるはずの彼らとの会話の中で、京の人々がどれだけ新撰組を憎んでいたかを端的に説明し、さらに迅助の“優しくて気の弱い”キャラクターを浮かび上がらせる手腕はさすがだな、と思いました。

彼(迅助)は足がとっても速い、という設定なんですが、この“足”は、あくまでも“逃げ足”なんですね。闘うためではなく、闘いを回避するための、足。けれども彼は、気の弱い自己を改革しようと新撰組という世界を選び、その中で、人を守ろうとするなら、逃げることはできない(正面から闘うしかないこともある)ということを、日々の訓練や活動の中で学んでいく。




物語は、基本的には歴史に沿って進んでいくかに見えるのですが、途中から長州秋吉家の仇討ち話というエピソードが入り込み、物語全体が私怨に堕していってしまうのですが。
……幕末って、そういう時代だったんだろうな、という説得力があって、私にはとても面白い構成でした。



そもそも、幕末の争いっていうのは本当に私怨に毛が生えたくらいのものなんですよね。
高邁な理想を語っていたのはほんの一握り。実際には、たくさんの人々がただひたすらに右往左往して、あちらで一押し、こちらで一休み、そっちで一喧嘩しているうちに時代が変わってしまった!というのが実情なんじゃないかと思うんです。

そこに必要なのは、理屈を超えた熱気。
勤皇の志士たちが『新しい時代』を渇望したのと同じ熱量で、新撰組の隊士たちもまた、『新しい時代』を求めていたのです。彼ら郷士や農民の子が、武士として認めてもらえる下克上の時代、を。
だからこそ、既に身分有る武士であった浪人たちとの戦いは熾烈を極めた。薩長の志士たちは、志士である前に武士であり、武士でありながら今の世の中を壊そうとする悪人だったわけです。
素朴で真面目な、農民出身の隊士たちにとっては。

もちろん、志士たちには志士たちの理想があり、立場がある。
だからこそ、彼らはお互いの正義を賭けて闘った。死力を尽くして。
……どちらが勝利したのかは、歴史の教えるところですが。



物語は後半、蛤御門の変に巻き込まれて怪我をした長州の女性・秋吉美弥を中心に動き、ただただ誠実に、仲間たちを守るために走り続ける迅助と、そんな彼らをただ凝っと見つめている小金井を描きだしていくのですが。


……彼らと行動を共にする沖田総司と、そして、彼を診察する女医者(鳩斎の娘)・つぐみ(實川貴美子)との交流が、とても良かったです(*^ ^*)。
つぐみは、「星影の人」の早苗にあたる役ですが、非常に聡明で落ち着いた女性として描かれていて、沖田の心が自分のところに留まれないことをよく理解している女性でした。
近藤や土方や、新撰組の隊士たちのモノでしかない、沖田の心。
沖田個人のものでもなく、ましてや、つぐみにあげられるものでは、ない。

そんなことはよく判っていて、だからこそ、生きていてほしいと願う女心が切ないです。
具体的な言葉は何一つ交わさぬままに、ただ、離れていく二人が。



そして、そんな二人を多分完全には理解できずにいるのであろう迅助が、可愛いです(^ ^)。



畑中さんの総司が、“小兵で愛嬌のある顔”という総司のイメージにぴったりで、とてもハマっていました(*^ ^*)。無駄に美形じゃないのが嬉しい♪小柄な身体をいっぱいに伸ばしての殺陣、特にジャンプして上から振りかぶっての上段斬りは、あまり実戦には向かないような気がしつつも、あまりにも格好良くて見惚れてしまいました(汗)。


作品としての主人公は迅助、
物語の中心に居るのは沖田、
そして、彼らと共に生き、走り、そして、彼らを語る小金井。

小金井は、当事者として思い出を語り、並んで走った友の思い出を語る。
幕府に、時代に裏切られた新撰組のメンバーとして、明治初期はさぞ苦労をしただろうに、なんとか身一つで新聞社に潜り込んだ彼は、ホンモノの『視る人』だったんでしょうね。
走る人でも、闘う人でもなくて。

彼が視つづけた、『走る人』『闘う人』の真実を、ちゃんと受け止められる観客でありたい、と思いました。そういう意味では、ラストを観た上で、もう一度最初から見直してみたい気がします。



キャラメルボックスの作品は、いつだって正直です。シンプルでストレートで、役者の真実が見えてくる物語。そんな作品世界を描き出す、誠実なひとたち。

これだけ動く人数も活動内容も大掛かりなものになっていながら、いつまでも家族的な集団であり続けようとする特異な劇団は、来年25周年を迎えるのだそうです。
上川隆也がついに独立する、ということを、嬉しそうにプログラムで報告しているプロデューサーの加藤氏が、いかにもキャラメルらしいなあ、と思う。この“ファミリー”を離れて、新しい一歩を歩き出した上川さんの、さらなるご活躍を祈ります。




作・演出は成井豊+真柴あずき。
なんちゃって新撰組マニアな猫には、とても面白い作品でした♪
あーあ、8月2日の、渡辺多恵子さんとのトークショーにも行きたかったなあ~~~(涙)。どんな話が出るのでしょうか~~?


架空の人物(迅助)を主人公にした物語ですが、キャラメルボックスは、この作品を世に出した後、「裏切り御免!」という、同じく迅助を主人公にしたアナザーストーリーを発表しているんですね。こちらは坂本竜馬が出てくるみたいですが。
うーん、面白そうだなあ。再演されたら観に行きたいぞ☆



東京芸術劇場にて、「TEACHERS ~職員室より愛をこめて~」を観劇してまいりました。



“東京郊外の、どこにでもある普通の中学校”である楓中学校の、職員室を舞台にしたワンシチュエーションもの。
作・演出は吉村ゆう、制作は東映と梅田芸術劇場。2007年に初演されたようですが、キャストはかなり変わったようですね。初演のキャストが知りたいなあ。北岡ひろしさんの役とか、樹里ちゃんの役とか(^ ^)。

私の目当ては、宝塚OGの樹里咲穂さんと星奈優里さん。同期のお二人ですが、不思議と卒業後の方が縁が深くて、同じ作品に出ることが多いんですよね。なんとなく“お似合い”の二人なので、毎回嬉しく観ています♪



ちょっとネタバレが混ざっているかもしれませんが、ご容赦くださいませ。


物語の中心は、冴えない中年の国語の先生(高梨/モト冬樹)。
10年前に教え子を自殺で喪ってから、すっかり教育への情熱(自信?)を喪って、「いるのかいないのかわからない空気のような」先生、と言われている男。
10年前からこの学校にいるのは、この高梨と、学年主任の森田(夏樹陽子)の二人だけ。森田は高梨に、10年前の情熱を取り戻して欲しいと願っている。

そして10年前に自殺した少女は、“あの世”の「門番」(北岡ひろし)に許されて、2時間だけ、という約束で、楓中学校の職員室に戻ってくる。
誰の目にも見えない、天使として。




天使の羽をつけて、あちこち走り回り、飛び回っている高井空(尾崎由衣)のキュートな可愛らしさが、とても印象的でした。
この天使と、「門番」としてふらふらと歩き回る北岡ひろしの独特の存在感が、確かに“いかにも”この世のものではない、という感じで、すごく面白かった。この二人が居る所だけ、ちゃんと隔り世に見えるんですよね……不思議なものです。なまじ、セットや何かがすごく現実味のある“職員室”という空間なので、余計この二人が浮き上がって見えました。





天使の眼に映る職員室。
大好きだった(でも、最後に残念な行き違いがあった)高梨先生は、自分の死をきっかけに心を閉ざし、若い先生の無意識の暴力を受け流しながら、ただ日が過ぎていくのを待っている。

あたしが悪いの。あたしが考えなしだったから。
ごめんなさい、先生。あたし、……本当に後悔してるの。
大好きよ、先生。だから、許して。

その一言(いや、三行か)を伝えたくて。二時間という制限時間の中、天使は必死で高梨の周りを駆け回る。
無力な自分をかみ締めながら。




その職員室にいる、魑魅魍魎たち。

無気力で無責任な副校長(宮内洋)。
無駄に熱血で相手の話を聞かない体育教師、山崎(曽世海司)。
美人でおとなしくて優しい、英語教師の中村(星奈優里)。
クールで冷たい、権力志向の数学教師、永山(樹里咲穂)。
チャラくてKYな社会科教師、風間(齋藤ヤスカ)。
常識的で信頼感のある理科教師の嶋野(盛岡豊)。
イマドキの女の子みたいなイケイケな服装で皆を当惑させる、英語教師の下山(真由子)。
そして、厳しくて硬い学年主任の森田。



高梨先生みたいに、中学生の気持ちをリアルに聞こうとしてくれる人は、他にいないの。
だから先生?前みたいに、笑って?
……あたしを、許して?





そんなときに、事件が起こる。

「今日、合唱コンクールが始まる3時までに、大空へ向かって飛び立つ」

自殺することをほのめかす、怪メールが届く。



校長は出張で飛行機の中。
教育委員会に連絡するかどうか、校長になんとか連絡を取れないか、と悩む副校長と永山。
それに対して、森田は敢然と「そんなことより、生徒の所在確認を!」と主張する森田。

果たして、この怪メールは悪戯なのか?誰かの心の悲鳴なのか?





事件を解決しようと大人たちが右往左往する中、ついに高梨が心を開き、ふたたび教師として子供たちの前に立つことを決心する……
と、丸めちゃっていいのかな?
舞台のメインは、右往左往する“大人たち”の面白さなんですが。

中学校をメインにしながら、子供たちが一切出てこない(天使が一人と、あと、回想の中で作文を読む生徒が一人出てくるだけ)。そう、学校っていうのは子供たちだけのものじゃないんです。職員室っていうのは、子供が主役であるはずの学校の中で唯一の大人の牙城で、子供たちは原則立ち入り禁止。一朝コトあれば、大人たちが立て篭もる要塞にもなる空間。
ここを舞台に“学校”を描こう、というのは面白い試みだったなと思います。ちょっと説教節くさいところはありましたが、よくできた脚本だったと思います。



キャスティングについては……
モト冬樹さんは、そもそものキャスティングだったんでしょうし、イメージぴったりで当たり前なのですが……
贅沢を言うなら、途中で目覚めた高梨がキレて怒鳴り散らすところ、声がもう少し強いと格好良く決まるのになあ、と思いました。ちょっとひっくり返り気味だったのが残念。やっぱり、怒鳴り声っていうのは低音が響いてないと効かないんですよ。ええ。甲高い叱り声は、耳に痛いだけで心には響かないので。


森田先生の夏樹陽子さんは素晴らしかった。こういう先生居たなあ、と、懐かしく思いました。
厳しいばかりに見えて、意外と熱血で優しいっていうギャップが良かったです。


その森田先生と対等に戦わなくてはならない樹里ちゃん(永山)……私は樹里ファンなのでとても残念なのですが、ミスキャストなんじゃないかなあ、と思ってしまいました(T T)。声が軽いのが、こういうときは不利だなあ、と。夏樹さんが、いかにも年配の教師らしいハスキーな声なので、勝負にならない感じでしたね。……いっそ男役声でやったら良かったんじゃないかしらん?
薄いグレーのスーツがよく似合って、クールでシャープな感じはよく出ていたんですが、何というか、根本的なところでキャラ違い柄違いなんですよねえ。
……その割には、よくやっていたと思うんですけどぉ(凹)。


樹里ちゃんとは対照的なくらい、優里ちゃんの中村センセは素晴らしかったです。優里ちゃん、こういう役(ぶっ飛んだ少女みたいな大人の女性)多いなあ……そして、似合うなあ(^ ^)。
嶋野先生(盛岡豊)とのやり取りも、とても自然でした。さすが元トップ娘役、恋愛を語るのは慣れているんだなあ(^ ^)。


生活指導の山崎役の曽世さんは、STUDIO LIFEの重鎮。いやー、カッコいいです(惚)。素晴らしいKYっぷりにうっとりしてしまいました(←誉めてます)
あまりにも類型化されすぎているきらいはありますが、キャラ立ちがはっきりしているので観ていて解りやすかったですね。頭が悪い 思い込みが激しくて人(生徒)の気持ちを聴く気がないところが欠点なのだ、ということを、ちゃんと言葉で説明されてしまったところが切ない。
彼自身がどこまでわかったことになっているのか、この作品を観に来た山崎タイプの人がどこまで自覚しているのかはわかりませんが、現代社会で一番困りものなのは、こういう「わかったつもりでいる熱血漢」なんですよね……。そこに一本釘を刺したのは、ご両親が教師だったという作・演出の吉井さんの意思なんだろうな、と思いました。


チャラ男な風間先生は、「テニスの王子様」で人気の(らしい)齋藤ヤスカさん。
いやー、最近イケメンだなあと思う若い役者さんがほぼ100%「テニスの王子様」出身なので、一度観てみたほうがいいのかなあ、と思ってみたりしてしまいますね(^ ^;ゞ
彼だけは、“先生”というより、ありがちなオフィスものドラマの生意気な新入社員っぽいキャラづくりでしたが、、あれはあれで良いのかなあ。どちらにしても、「イマドキの先生ってこんななん?」と観客を不安にさせる役だと思うので、ちゃんと役割は果たしていたのかな。
ラストの成長がもう少しわかりやすく表現されていると良かったのにな、と思いました。本来はすごく良い役だと思うんですけど、ちょっと物足りなかったかなー。




なんとなく、展開としてもっと大勢が自分の傷を曝け出しあって、解決に向かうのかな、思っていたのですが、あまりそんなことはなく、過去の傷を掘り返したのは高梨先生と中村先生だけ。
あ、あとは副校長と下山先生か。傷じゃないけど、自分の過ちを認める発言をしてましたね。
永山先生と山崎先生、そして風間先生に、そういう場面が無かったのはちょっと残念です。休憩なしの2時間で、そんなに全員の回想やら告白やらをさせていたらとても時間が足りなかっただろうというのは解るんですが。
…まあ、今回のテーマは教師たちの成長物語ではなく、高梨と天使の心の交流だから、脇筋は抑えておいて正解だったのかな(^ ^)。





ところで。
一番最後に、メインテーマを歌いに出てこられたコーラス隊の皆様はどなただったのでしょうか?
プログラムにも何も書かれておらず……あれえ??



今回は、18日も19日も所用があってトークショー付きの公演にいけず、大変残念です。
樹里ちゃん、舞台でお堅い感じ(?)だった分を取り戻すかのように吹っ飛んでいたらしいんですが。観たかった……。



新橋演舞場にて「ガブリエル・シャネル」を、そして
ル・テアトル銀座にて、ミュージカル「COCO」を観劇して参りました♪


ガブリエル・ココ・シャネル。シャネルの創始者にして、モードの女王の人生を描いた二つの舞台が、ほぼ同時に、しかもどちらも宝塚OGをタイトルロールに迎えて上演される。これって、ただの偶然なんでしょうか?それとも何か仕掛け人がいたんでしょうか。
巴里のカンボン通りに最初の帽子店「シャネル・モード」を開店したのが1909年。今年は「シャネル」ブランドの誕生百周年だということで、彼女に関するいろんな企画が出るのは当然かもしれませんが、それにしても、日本だけでも舞台が二つに映画が三つ!!すごいなあ……。




新橋演舞場の「ガブリエル・シャネル」は、タイトルロールを大地真央、相手役として若くして亡くなった恋人アーサー・カペル(今井翼)を設定して、彼女の一生(20代から70代にしてモード界に復活する直前まで)を回想録の形で上演。制作は松竹。

ル・テアトルの「COCO」は、タイトルロールを鳳蘭、相手役は特におかず、70代でモード界への復活を目指すところから始まって、アメリカで受け入れられるまでのごく短い期間を濃密な人間関係と共に描き出す。
アンドレ・プレヴィン作曲、アラン・ジェイ・ラーナー(「マイ・フェア・レイディ」)脚本、主演キャサリン・ヘップバーンで、1969年に初演されたブロードウェイミュージカル「COCO」。
今回の翻訳・演出は、G2。




「ガブリエル・シャネル」が、若い頃から70代までの彼女の外面を割と淡々と描き出すのに対して、「COCO」は、「ガブリエル・シャネル」のラストにあたる、復活コレクションの準備から始まって、時折思い出話をはさみつつ、若いモデル(湖月わたる)との心の交流を中心に描かれていて、内面に踏み込んだ面白いテーマだったと思います。
私は先に「ガブリエル…」を見て、彼女の生涯のだいたいを頭にいれてから「COCO」を観たので、すごく面白かったです。彼女の生涯についてはほとんど知識が無かった(ココ・シャネルとガブリエル・シャネルは別人だと思ってたよ……恥)ので、この順番がとっても正解でした(^ ^)。「COCO」を先にご覧になる方は、もしかしたらあらかじめプログラムを読んでおいたほうがいいかもしれません。



どちらも興味深い作品でしたが、個人的には「COCO」が非常に印象的で、面白かったです。
まだご本人が生きている時代(1969年)に、これだけの作品を創ったブロードウェイってすごいなあ、と思いました(^ ^)。





それでは、簡単に、出演者について。まずは、新橋演舞場「ガブリエル・シャネル」


■大地真央(ガブリエル・シャネル)
いやーーーー、若い!!
1973年初舞台の59期。えーっと、えーっと、祐飛さんが78期だから、、、、
いえあの、タカラジェンヌはフェアリーだなあ、と、とっくに卒業された真央さんを見るたびに思います。どうして年をとらないんだろう……(謎)

最初が70代、そこから20代に戻って、さらにいったん少女時代まで戻ってから、30歳でドーヴィルに新しい店を開いたところまで飛んで、一幕が終了。
二幕はほぼ時系列に沿って、第一次世界大戦終結とアーサー・カペルの死 ⇒ 30代から40代の女盛りでの、芸術家たちのサロンでの華やかな活躍ぶり ⇒ お針子たちのストライキで店をたたんだ50代 ⇒ 冒頭のスイスの別荘に戻り、モード界への復活を力強く誓う70代のココを描いて、幕。

この華やかな人生の中で、もしかしたら一番似合っていたのは、一番最初の20代のときかもしれない……妖怪め(^ ^; 
とにかく、「70代」が似合わないことにもびっくりしました。この人は、本当に60歳70歳になってもまだハタチの小娘ができてしまいそうな怖さがありますね(汗)。
美しさ華やかさは文句無く、二幕の芸術家たちのサロンでの美しさは圧倒的でした♪


■今井翼(アーサー・カペル)
舞台の彼は、「SHOCK!」くらいしか観たことなかったのですが、思っていたよりずっと包容力があって、紳士的で魅力的な男でした。うん、すごく良かったです。私生児だという事実をきちんと受け入れて、それでも諦めずに、夢をかなえるために正面から闘っていく強さをもった男。ガブリエルの強さは、彼から受け継いだものもあったんだろうなあ、と思わせてくれる“ボーイ”でした(^ ^)。
それにしても、この人と並んで恋を語っても違和感の無い真央さんは、やっぱり妖怪なんじゃないか?と思う……。


■高橋恵子(ガブリエルの親友ミシア/20代のガブリエルが働くカフェのマダム)
美しく年を重ねた女優、そのものでしたね。美しいわ華やかだわ、素晴らしかったです。「自分では何も創らずに、才能のある人を見出して引き合わせては、そこで何かが生まれるのを愉しんでいるような人」とご自身がプログラムでミシア役について語っていらっしゃいますが、舞台上のミシアの、掴みどころの無いふわふわした存在感が面白かったです。根っからの貴族で、芸術の庇護者にして導き手、という、本来の意味での“パトロン気質”を持った美女でした。
実在のミシアとガブリエルの年齢関係はどうだったんでしょうか。真央さんと高橋さんだと、……親友、というより、養母と養女みたいな印象もありましたが……(^ ^;ゞ。



■彩輝なお(ガブリエルの年下の叔母、アドリエンヌ)
美しい!!そして歌も良かった!!
サエコさんは、女優の音域ならそこそこ歌えるんだなあと思いました♪男役時代から声は好きだったんですよね♪
しっかし、美女だなあ……。最初の登場が、20代でカフェの女給なんですけれども、あの時代のパリの服装、マキシ丈のスカートにフリルのブラウスみたいな格好が異常に似合う。しかも、お下げですよアナタ!!
可愛かったーーーー(壊)。
ガブリエルと常に行動を共にし、店が大きくなってからは事務方の長みたいな立場であれこれを取り仕切っている姿もカッコよかったんですが、なんたって私が感動したのは、2幕ラスト近くで、ガブリエルを訪ねてくる場面。
ほとんど外見年齢の変わらないガブリエルに対して、思い切った老けメイクと仕草で、可愛らしいおばあちゃんを演じていたのですが。すごい、本当に可愛いんですよ~っ! 声もきちんと芝居を作っていて、実にいい芝居をしていました。……ガブリエルよりいつのまに歳上になったの?っつー気はしましたが(苦笑)。

卒業してからのサエコさんは、観るたびにいい仕事をしていて感心します。美人だし芝居できるし、歌もなんとかなりそうだし、これからのご活躍を楽しみにしています!!


■葛山信吾(スイスの山荘で、70代のガブリエルの回想を聞いている作家)
語り手というか説明役として、ちょこちょこと舞台に出てくるのですが、語り口調といい声といい、ホントに素敵でした(*^ ^*)。


■升毅(ガブリエルの最初の恋人、エティエンヌ・バルサン)
典型的なルネッサンスの男……ってことになるんでしょうか。女が外に出て自己表現することをよしとせず、自分の隣で「自慢の美人」として微笑んでいてほしいと願うタイプ。
尊大だけれども嫌味のない、率直な、でも“時代遅れの”男でしたね。真央さんとの丁々発止ぶりは、さすがの迫力でした。翼くんには、真央さんの恋人はできても、対向者を演じるのはちょっと無理だよなあ、、、と、“役者の格”みたいなものについて考えさせられましたね。
ドーヴィルに最初の店を出したのはエティエンヌの援助だったわけで、彼は非協力的だったわけではないんですよね。ただ、彼が許したラインが、ガブリエルにとっては物足りなかっただけで。
そういう意味で、分不相応な恋人を持ってしまって可哀相な男だなあと思いました(汗)。

……調香師のポーが升さんなことは、プログラムを見て初めて知りました。全然気がつかなかったよーーー(↓)


■華城季帆(ガブリエルの妹、アントワネット/シャネルの店の店員)
ちゃきちゃきした勢いの良さが、役によくあっていたと思います。それにしても、大地・彩輝とひけを取らないスタイルの良さはさすがですね♪
「タイタニック」でも思いましたが、こういう癖の有る女役だと、こんなに良い芝居をする人だったんですねぇ……。“娘役芝居”っていうのは難しいものなんだなあ、と、なるちゃんを観ているとしみじみと思います(^ ^)。





なんだかだいぶ長くなってきましたが(汗)、続けて「COCO」です。


■鳳蘭(ココ・シャネル)
そんなに長い期間の物語ではないので、年齢は変わらず。こちらは1964年初舞台の50期。真央さんとは9年違うんですね。70代には勿論全然見えませんが、よくも悪くも、現実社会の中で遣り手のビジネスウーマンとしてやってきた誇りと自信を感じさせる、貫禄と現実感のあるココでした。
スケールの大きさや迫力、目力の強さが、「ココ・シャネル」という、時代を変えた、いえ、時代を超えた天才的な美女にマッチしていて、アタリ役だったと思います。うん。すごく格好良い女で、素敵だったなあ~!


■湖月わたる(モデル志望の女の子、ノエル)
登場時の垢抜けない田舎娘から、後半の、ココによって洗練されたショートボブの現代的美女までの変化感がすごく良かったです。ココに憧れ、ココの生き方に憧れて、でも自分はそんなふうには生きられない……という切なさがもう少しあると、良かったのになあと思ったのですが、逆に、ノエルが能天気だからこそ、ココの切なさが生きるのかもしれない、と思ったりもしました。

この二人のドラマのラストは、ネタバレになるので伏せておきますが、個人的にはすごく感動しました(*^ ^*)。鳳さんが本当に素晴らしかった!!


■鈴木綜馬(シャネルの会計士、グレフ)
カッコイイです(←当たり前です)
“マドモアゼル”ココを、あるいは「シャネル」ブランドを守ろうと、あれこれ手を尽くすグレフ。彼は彼なりにココを愛しているんだろうなあ、と思わせてくれたのが面白かったです。愛人の話を語り、妻へのプレゼントを抱えたままココの話を聞く、彼。年齢的にはココよりだいぶ(?)若い設定だったかと思うのですが、いかにもフランス男らしい伊達っぷりが素晴らしかったです。
ああ、この人は本当に、なにをしても素敵なんだなあ……(*^ ^*)

個人的に、わたるさんが現役時代に外部出演した「フォーチュン・クッキー」がすごく楽しくて大好きだったので、わたるさんと総馬さんの絡みが少なかったのが残念でした。そういえば、あの時のわたるさんの、「元気でめげない」キャラクターは、今回のノエルともかなり近いかも(^ ^)。


■今陽子(シャネルの事務方の長)
「ガブリエル・シャネル」ではサエコさんが後半やっていた役…のような気がします。全然違いましたけどね。長年ココのそばで働いてきた彼女は、ココが沈黙を守った15年間、何をしていたんでしょうね。家庭に戻って娘を育てていたのかな?(^ ^)
歌が凄いのはもちろん良く存じ上げていましたが、芝居もさすがですね。老女の役でしたが、実に自然に、「数十年間働き続けてきた」女性で、すごく良かったです。
綜馬さんともども、歌が少なかったのがちょっと残念(↓)


■岡幸二郎(シャネルの店に雇われた若いデザイナー、セバスチャン)
相変わらずぶっ飛んでて素敵でした(^ ^)。服も、髪も。
二幕の冒頭に丸々一曲ソロがあるのですが、もう私は、この人の歌を聴けるだけで幸せなので(笑)。どんなにぶっ飛んだ役でもOKです♪っていうか、ご本人がすっげ幸せそうでした(*^ ^*)
実際、作品にとって必要な役割はしっかり果たしてくれたと思います。さすがだ…。


■大澄賢也(ノエルの恋人、新聞記者のジョルジュ)
「ガブリエル・シャネル」のエティエンヌと同じタイプの男。ココの恋人ではなくノエルの恋人ですが、そもそもこの話はココとノエルが同じような境遇で、ココはノエルを“昔の自分を見ているような”気分で眺めているという設定なので、これはたぶん、ココにとってのエティエンヌなんだろうと思うんですよね。
で、そういう目で観ると、大澄さんっていうキャスティングは、ちょっと微妙だったのかなあ、と。大澄さんって、不思議とまともな男には見えないタイプなので……。
役者としての大澄さんは素晴らしいですし、この役も実に彼らしく演じていて面白かったんですが、彼を愛していることでノエルの格も下がってしまうように見えるのがちょっとマイナスかな、と。……なら誰が良いんだ?と言われると困ってしまうんですけどね(^ ^;ゞ


■小野妃香里(シャネルの店のモデル/ココの秘書、ドゥガトン)
長身美形で踊れるアンサンブルスターといえばピカリさん。声が個性的なので、一言喋るとすぐ判るんですが、ドゥガトンは咳払いしかしないんだもんなあ……(; ;)


■初嶺麿世(シャネルの店のモデル)
アンサンブルのモデル役の一人で、特に目立つ場面とかは無かったのですが、とにかく可愛かった!「A/L」で卒業されたときは「かっこいい男役になって…」と思ったものですが、やっぱり可愛いなあ(*^ ^*)。
モデルが皆長身ぞろいだったので、まよちゃんはやっぱり小柄でした(苦笑)。そんなところも可愛い♪



単品でも面白かったんですが、二本とも観ると、その視点の違いように驚きます。
ガブリエル・ココ・シャネル。毀誉褒貶の中を敢然と泳ぎきった、エネルギッシュでパワフルな女性。今自分たちが着ている服も、基本を作ったのはシャネルだと言っても間違いではないんすよね。素材的にも、デザイン的にも。

一人の女性について、これだけ違うテーマでドラマが作れる。
まずそれが、凄いことなんだと思いました。ココ・シャネル、万歳★


.
シアタークリエにて、「異人たちとの夏」を観劇してまいりました。



原作は山田太一氏の小説。演出は最近ひっぱりだこの鈴木勝秀。いやー、私は彼の演出好きなんですけど、それにしても多いなあ。演出ってこんなに次から次と手がけられるものなのか、と驚くほどです。

登場人物は7人。
主人公のドラマ作家(椎名桔平)、同じビルに暮らす女(内田有紀)、主人公の父親(甲本雅裕)と母親(池脇千鶴)、主人公に仕事を依頼するプロデューサー(羽場裕一)、主人公の元妻と、すき焼きやの仲居(二役で白神直子)。




緊張感のある、いい舞台でした。
椎名さんもよかったけど、なんといっても、とうに亡くなったはずの主人公の両親が素晴らしかったです。亡くなった当時の姿のまま、自分が死んだことを知らないかのように、あたりまえに浅草の片隅に暮らしている二人。

ただただ仲が良くて、幸せそうで、愛に溢れた、温かな空間。
そんなものを、何のセットもはったりがましい演出もなく、ただ台詞と表情と仕草の間だけで表現してくれました。
主人公が、自分の不調を自覚し、その原因(←異界との交流)にもうすうす気づいていたにも関わらず、逢いにいかずにはいられないほどの、温かさ。


人間というのは、親というのは、ここまで盲目に子供を愛することができるのだ、と。
なんのみかえりも求めることなく、ただただ、無尽蔵に愛を与えることができるいきものなのか、と。

主人公が後半に呟く、「彼らが生きていたなら、こんなに大切に思ったかどうかわからない」という台詞が、あまりにも真実で。
いつかきっと、今の自分の親に対する気持ちを悔やむんだろうなあ、と、そんなことを考えながら。
(とりあえず、家に帰って電話してみたりしましたけど/苦笑)





原作では、『浅草』という猥雑で生暖かい空間のイメージを媒介に使って、異界につながるドアの雰囲気を出していたのですが。
舞台では浅草のイメージはあまり使わず、むしろ、そこにあるのは「昭和」っぽさ、だったような気がします。ちゃぶ台に座布団とか、メニューの択び方とか。団扇の使い方とか、「ご馳走といえばすき焼き」なところとか。

そして。
愛に満ちた『異界』とは完全に対照的な、主人公が普段暮らす建物の、無機質な冷たさ。
オフィスビルっぽい生活感のなさが、同じ建物に住まうヒロインの寂しげな佇まいやファンタジックな存在感とともに、コントラストとして強く印象的でした。




ヒロイン格の内田有紀の美しさと不安定さも良かったし、羽場裕一や白鳥直子の確実な現実感も良いバランスでした。いい脚本とスタッフをそろえて、キャラのあった良い役者をそろえて、しっかり仕上げた佳作だったと思います。

唯一不満を言うなら、「胸元のひどい火傷の痕」をトラウマにしているはずのヒロインの衣装が、すべて大きく胸元のあいた衣装だったことでしょうか。疵痕の位置にもよりますが、トラウマになって「絶対に視ないで」と言うほどだったら、屈んだら丸見えになっちゃいそうなあんな服、着ないとおもうんだけどなあ……。
……まぁ確かに、隠したら勿体無いようなラインではありましたが(眼福、眼福♪)。



映画は観ていないので、そちらを先に観ていたときにどう思うかはわかりませんが。
作品として良く出来た、おもしろい舞台だったと思います。役者としての椎名さんも、さすがの貫禄で素晴らしかったです♪



青山劇場にて、「女信長」を観劇いたしました。



他に、先月観て、まだ日記に書いてないものを、忘れないようにメモさせてください(^ ^;ゞ
①音楽座ミュージカル「シャボン玉とんだ 宇宙(ソラ)までとんだ」(赤坂ACT)
②「桜姫」(シアターコクーン)

観たいなあと思ったものすべては観られませんでしたが、5月に続き、なかなかに実りの多い一ヶ月でした。うん。ミーマイも観たかったんですが。。。残念。





普通の歴史オタクとして、当然あの時代には詳しいんですが……佐藤賢一の原作は読んでおりません。
ただ、“織田信長は女性だった”というネタで、黒木メイサさんが信長を演じるってことと、中川晃教くんが明智光秀を演じるってことだけで観にいったのですが、大正解でした♪ 実に面白かったです!


プログラムの冒頭で、佐藤賢一氏が書いています。
「織田信長という人間は、『女信長』でしか描ききれない」
と。
言われてみれば、織田信長という日本史上最大の謎に対する回答として、「実は女だった」というのは、、、、ある意味、すごく納得できるのかも。

実際、織田軍というのは軍隊としてもの凄く弱いんですね。局地戦において、戦術的に勝利したことはほとんどない。情報戦の挙句、奇襲で勝利を収めた今川攻め(桶狭間)くらいなんですよね。
あとはすべて、装備と情報による勝利。金にモノを言わせて鉄砲を集め、事前の懐柔策で圧倒的な兵力を集めてからじゃないと闘いをはじめなかった。桶狭間だって、実際には戦う前に勝利は決まっていたわけで、情報戦の勝利だったという考え方もあるくらい、軍隊、あるいは軍人としては弱っちい集団だった。
騎馬兵による槍や刀の一騎討ちがまだまだ基本だった戦いを、歩兵による鉄砲戦にした。それは、日本史における大きな事件でした。

刀より鉄砲、腕力より情報。英雄より人数。土地より金。名より実。
そういう行動原理を、佐藤氏は「女ならではの考え方」だ、と言う。
“力弱い”ことが罪にならない女性でないと、思いつかないだろう、と。


そして、信長が最終的な目標にしたものが、『泰平の世』であった、という事実。
言われてみれば。
泰平の世を希むのは、次代を産み育てる女性だけなのかもしれません。男性が『泰平の世』を本気で目指すことなどないのかもしれない。『自分が頂点に立つ』こと、そうなることで結果的に戦いが無くなることを希むことはあっても、戦いの無い世の中、それ自体を目指すというのは考えにくい。

……なるほどね、と。
そういう考え方もあるかも、と思ってしまうくらい、信長というのは巨大な謎なんだなあ、ということをすごくヒシヒシと感じたのでした……。



黒木メイサの、圧倒的な迫力と美貌、そして身体能力の素晴らしさに、惚れ惚れしました。
伸びやかな肢体をいっぱいに伸ばしての、迫力満点の殺陣。斬られ役のうまさも今の宝塚の比ではありませんが、それにしても格好良かった(*^ ^*)。刀を振るった後の、止めの美しさとか、鞘に納めるときの鮮やかさとか。

台詞量も圧倒的で、私が観たとき(楽の直前)にはもうだいぶ喉をやられていた感じでしたが、男として信長として語るときと、女として御長(おちょう)として、愛する男に囁きかけるときとで、がんばって声色を変えようとしていたのが可愛かったです。
万全の時に観て(聞いて)みたかったなあ…。




明智光秀の中川晃教。
「スーパーモンキー」の上演中止でちょっとオアズケになっていた中川君の美声を、思ったよりたっぷりと聴くことができて幸せでした(*^ ^*)。せいぜい一曲かと思っていたのに、三曲はあった!!(幸)。
流浪の将軍・足利義昭の使いとして、織田に上洛の供を依頼しにくる男。
共に『泰平の世』を目指そう、と言ってくれる、底知れないけれども有能な男。この男を、自分が使いきれるのか、いや、使いきらねばならぬ!と決意する信長の気概が、とても良いです。
この頃が、いろんな意味で“織田信長”の絶頂期だったのだなあ、としみじみ思うので。

後半、“女”でありながら“ただの女”で居られない自分に壊れていく信長を、痛々しく見守る光秀が、凄く優しくてびっくりしました。中川くん、いつの間にか大人になったんだなあ……
この数年、いろんな活動をしてみて、また一つ階段を上がられたような気がしました。
ちゃんと“愛”があって、すごくカッコよかった~♪




徳川家康の山崎銀之丞
いやはや。相変わらずカッコいいなあ~!(惚)
物語の冒頭が、大阪夏の陣を終えて、“信長様、あなたの目指した泰平の世が、やっと今…”、と述懐する場面なので、ホント違和感無くて、カッコよかったです。
ただ。本題に入って今川軍の一員として出てきたときに、“……あれっ?”と(^ ^;ゞ
家康って信長より若造のはずなんだけどなあ……。ま、素敵だから良いんですけど。

終始、密かに信長(お長)を愛し、忠誠を誓った家康。
彼は実際、愚直なまでに信長に忠義を尽くすんですよね。織田軍の中で、唯一の強兵が三河兵、って感じだったから、あらゆる戦いに連れて行かれていたし。
とにかく、ちょっと貫禄ありすぎだけど格好良かったです(*^ ^*)。お元気そうで嬉しかった★



斉藤道三の石田純一
これがまた、嵌り役でした。信長(お長)が初めて愛した男。
彼女の才能を、能力を初めて認め、その理想の実現に手を貸してくれた男。女であるお長の、はじめての男。
色っぽくて男前で、なのにどうしようもないほど優しくて。
お長は、彼に愛されて幸せだったんでしょうね。でも、彼はあっという間に息子に裏切られ、死んでしまう。空っぽなお長に、その正室となったお濃(有森也実)を遺して。

後半、自分の中の女を持て余して苦しむ信長が、繰り返し見る幻が、蝮だったのがとても面白いと思いました。彼女が望んでいたのは、いわゆる“男”ではなく、自分を疎んだ信秀とは違う“父親”だったのかもしれない、と。
石田さんの器の大きさが、実によく生きた役だったと思います。




浅井長政の河井龍之介
お長の恋人。ラブラブで色好みのベタ甘で、……そして、とんだ野心家。
信長の彼に向ける絶対的な信頼と、それに対するシニカルな笑い、
「最初から、お長を愛してなどいなかった」と言ってのける、非情さ。

あそこまでしてやられたら、そりゃあ彼の髑髏を盃にするくらいのことやりたくもなるだろうなあ……。そういう感情の積み重ねに無理がなくて、すんなりと納得できたのは、やっぱりこの「信長は女だった」という設定に納得してしまっているからでしょうか?(^ ^)。


お市(松山メアリ)のキャラもなかなか良かったです。激しくて可愛かった!
有名な小豆の差し入れのエピソードが、「お兄様、そこは危険です!」という伝言ではなく、「ほほほ、うちの旦那はあたしを選んだの。もう姉さまは袋のネズミよ!」という妹からの勝利宣言であるという解釈が実に新鮮でした。
あの解釈のお市で、本能寺後の彼女の苦闘を観てみたくなりました♪



羽柴秀吉(Bugs Under GrooveのTETSU)も、なかなかに一癖あるキャラで面白かったです。
二幕後半の、信長を襲う気満々の野心溢れる様子が新鮮でした。あんまりそういう風に描かれることないですもんね。(信長に心酔している設定が多い)
でも、実行に移す前に明智光秀に先を越されて…というのが、本能寺の変の後の彼の対応の早さにつながっているのが構成として巧いなあと思いました。実際、早すぎるんですよね、彼の動きは…。



信長を救うために、余人の手にかけさせないために、兵を挙げる明智光秀。
ある意味、これが二人の愛の成就だった、というトンデモな展開に、まったく違和感を感じさせない展開が見事でした。
中川くんの独特のキャラクターと歌声が、ファンタジー性を加えていたのが成功の要因だったと思います。

ただ、男性側の登場人物はみな興味深かったし、信長や光秀の実像に新しい光を当てたような気もするのですが、お市とお長の言い争いに見られる女性に対する侮蔑的な考え方はちょっといただけないなーと思いました。……いいトシをした女として、「女は若いことだけが価値なのよ」という台詞がとっても痛かったりとか、いろいろ(汗)
展開やキャラクターは、原作どおりなんでしょうか。どうしようかな、読んでみようかな…。
女という性に対する差別意識の強さは気になりますが、舞台だからこそ前面に出てしまっているのか、もともとそういう考え方なのか……「傭兵ピエール」の時は原作を読みたいとか全然思わなかったのですが(すみません)、今回はちょっと興味を持ちました(^ ^;ゞ



演出的には、割とショーっぽい構成も多く、目に楽しい舞台でした。たまたまスピーカーのすぐ傍の席だったので、耳はちょっと辛かったけど(涙)。
とにかく黒木さんが格好良かった!!もっといろんな役を観てみたいなあ、と思いました(はぁと)。



銀河劇場にて、「炎の人~ゴッホ評伝」を観てまいりました。




…の前に、CSニュースの話を。
星組初日、流れましたね。テルくん、普通に歩いてましたよね?ああ、本当に良かった良かった。
最初の二人の場面が屋根(塀?)の上なのがかっこいいなあ~♪♪ホゲが凱旋将軍であることもさりげなく説明していて、小池さん巧いなあ。…あの様子だと、近衛隊士たちとの剣の稽古のエピソードはカットされているんですよね、きっと。カクダンとチョク・ファンの見せ場だったのに残念だ。
二幕がほとんど飛ばされて、いきなり青龍が始まったので驚きました。フィナーレは基本的に同じなんですね。白虎の衣装が、花組の時にいつかさんが仰っていた(2月5日の日記)とおり、『ホワイトタイガーっぽい虎縞』になっていたことに超受けました。小池さん、コメントまで読んでくれてる?(←違う)


最近総集編しか観ていなかったのですが。
……もしかして、お稽古場風景のともみんホゲは全部カットされてしまったのでしょうか。最後のフィナーレで礼音くんの隣にいる姿がちらっと映っただけだった(T T)。それとも、最初から映ってなかったの…?ううう、ちょっとだけでいいから観たかったのにー。いいじゃないか、稽古場風景くらい放送してくれても~(涙)。






……すみません。


話を戻しまして、「炎の人」について。

ゴッホとゴーギャンの葛藤をメインにした三好十郎の傑作のひとつで、劇団民藝の代表作の一つ。
演出は栗山民也。今回はホリプロ単独での制作で、民藝とは無関係のようですね。
銀河劇場が28日まで、その後は新潟・名古屋・大阪。市村さん、りゅーとぴあ(新潟)に行くこと多いなあ…。





この夏は、7月にジョルジュ・スーラを主人公にしたミュージカル(サンデー・イン・ザ・パーク・ウィズ・ジョージ)も上演されますが。

これを機会に、三谷幸喜の「Confidents -絆-」を再演しませんか? >誰に




もとい。
難しい作品ですが、珠玉のキャストをそろえたなあ、と思いました。

ゴッホ(市村正親)とゴーギャン(益岡徹)。
お互いの才能を認め合った、同格の芸術家同士として、南フランスのアルルで共同生活をはじめる二人。
ゴーギャンに傾倒しすぎて、その一挙手一投足を気にする……ほとんど、恋人の仕草の一つ一つ反応する繊細な乙女とやってることは一緒です。市村さんは、こういう“女の血が入った”男を演じさせると本当に抜群ですね。ザザ(ラ・カージュ・オ・フォール)でも思いましたが、単純に女っぽいんじゃないんです。でも、思考の動きがすごく女性的。女性的な思考の、しかも悪いところ(勝手に深読みして落ち込んだり、ヤツアタリしたり、、、)が典型的な感じで表現されるのが怖いくらいで。
別段、市村さんのゴッホは全然女性的じゃないし、作品的にもそっち系のイメージは全く無いんですけどね。不思議な感覚でした。



私はどうしても「Confidents」のイメージが抜けなくて、ついついゴッホが一番の天才で、ゴーギャンはその才能に打ちのめされている……と思ってしまいがちだったのですが、この作品はそういう話では全然無かったですね。
逆に、ゴッホがゴーギャンの才能に打ちのめされて、彼の評価の一言一言に本当に一喜一憂する、そのジェットコースターのような高低差の激しい感情の動きが、ある意味可愛かったです(^ ^)。
ゴーギャンのイメージは、男臭くて本能的な、粗野な感じ。生活能力のあるインテリ系の優男だった寺脇康文さんとは随分違いました。ゴッホの才能に打ちのめされた感はなく、ただ、彼の才能は認めて、信じていた感じ。ただ、揺れ動きがちで不安定なゴッホを歯がゆく思っていて、粗野なりに、ゴッホの精神状態を支えようという思いも感じられました。
ただ、そんなことよりも何よりも自分自身が大事で、自分自身の芸術を大成させることの方が重要だと思っているのが、とてもリアルに伝わってきて、その迫力がとても怖かったです。


芸術の神様は残酷で、彼らの精神的な安定には決して心を配らない。
芸術の神様に愛された人は、幸せにはなれない。
ゴーギャンの安定は社会的に一度破滅した後に与えられた安定だったし、
ゴッホは最後まで安定を知ることなく、どん底からどん底を渡り歩いた。

彼の心から去ることのなかった炭坑での経験。貧しさに縛り付けられ、生涯そこから抜け出すことのできなかったゴッホ。哀れだ、と思うことは簡単なのですが。
……でも、彼はその生活の中で、美しい数々のひまわりを遺した。
美しい数々の芸術作品を。蜉蝣のように儚い人の命よりもずっと永い寿命を持つ、“究極の美”のひとつのかたちを。

彼が生み出したいくつもの“美”は、今もなお、ひとびとの心の中に生きている。
彼が画布に篭めた、多大なエネルギーと共に。







市村正親(フィンセント・ヴァン・ゴッホ)
市村さんのベストアクトは、私の中では「ラ・カージュ・オ・フォール」のザザと「スクルージ」のタイトルロールだったんですが、この役もかなりのアタリ役でした。
…ただ、あまりにリアルすぎて、観ていて辛かったですけどね……。あまりにも、最初から最後まで心理的に悲惨なままなので。
あと、もう少し若い時代に演じてみてほしかったような気がします。ベルギーの炭坑での、若き日のエピソードが重要なので。

出炭量が減って閉山寸前の炭坑で、労働者たちの苦しみを目の当たりにし、「神が本当に居るのかわからなくなった…」と述懐するほど悩んでいながら。それなのに、死んだ息子のために一心に祈りを捧げる老婆を視て、絵を描かずにはいられなくなるまでの描写が、とにかく印象的で素晴らしかったです。
戯曲的に、ゴッホの生涯を描く作品にしては、この悲惨な炭坑でのエピソードが長すぎるよ……なんて思いながら観ていたのですが(社会問題を描きたがるタイプの作家なのかと思ったんです)、この場のラストの、床に這い蹲り、パンを包んでいた紙を破らんばかりの勢いでスケッチをする若き日の(←あんまり若くないけど/諦)ゴッホの姿を観て、すごく納得しました。
心に抱いていた理想や正義感、使命感の全てを擲ってでも“美”を捕えようとする彼の、その気持ちの純粋さが彼の芸術の原動力なんだなあ、と……。



益岡徹(ポール・ゴーギャン)
ゴッホに、その全身を賭けて憧れを捧げられるゴーギャン。
上にも書きましたが、実に男臭くてカッコいい、色っぽい男前。本能のままに生きているようで、自分の歩くべき途がはっきり見えているタイプでした。
かっこいいーーーー(*^ ^*)



荻野目慶子(シィヌ、ラシェル、看護婦)
美しくあだっぽく、だらしのない、身持ちの良くない、だけどものすごく母性的な女。
ゴッホみたいなタイプの男が執着しがちな女だなあ、と思いました。…彼女たちの実像は、どの程度わかっているんでしょうね。そんなに詳しく解っているってことは無いんでしょうけれども、すごくリアルな実在感があって、とても良かったです。

ラストシーンで静かに祈る看護婦が、「ジーザス・クライスト・スーパースター」のラストで十字架に祈るマリア(マグダラのマリア)を彷彿とさせて、その演出効果に感動しました。



今井朋彦(テオドール・ヴァン・ゴッホ)
気の弱いゴッホの弟。ひたすらに兄の才能を信じていながら、一緒に生活することはできない、哀れな男。ある意味、彼の存在と献身こそがフィンセントの精神を壊す一因でもあったという解釈があるので、なんだかひどく気の毒でした。
彼はただ、兄のために良かれと思って捧げただけなのに。……すべて、を。

ちょっと市村さんとは歳が離れすぎているような気もしましたが(汗)、私の抱いていたテオのイメージにぴったりで、いい人選だったと思います。気弱で常識人で、兄を愛しているけれどもそんなに我慢強いほうではない。そんな普通の、“弱い”人間。そんな彼が、とても愛おしく思えました。



銀粉蝶(炭坑の老婆、マダム・ルノウ、タンギイの妻)
私がコメントするなんておこがましい(汗)ベテラン女優の貫禄、とっくりと見せていただきました♪
炭坑の老婆は、ゴッホが道を歩き出すきっかけになる役なので、すごく印象に残りました。ハーグの港町の遣り手婆であるマダム・ルノウの嫌らしさも良かったし、タンギイの妻の、一見おとなしくみえるのに、強烈な存在感も素晴らしかった。
こういう人がいるから、芝居が面白くなるんですよね。うん、さすがでした。



大鷹明良(牧師、ワイセンブルーフ、画具屋のタンギイ)
この三役の中では、ハーグでゴッホを訪なうワイセンブルーフが面白い存在でした。ゴッホの才能を認めていながら、彼を守ろうとはしない常識人ぶり。
炭坑でのゴッホの苦しみを真っ向から否定する牧師とも、パリで貧しい画家たちを支援するタンギイとも違う、芸術を生み出す見者としての冷徹な意見。そんな一言一言に振り回されるゴッホの弱さが、ひどく可哀相に見えました。



原康義(モーヴ、シニャック)
ゴッホの従兄で、彼を支援していたモーヴ。パリ画壇で、スーラに続く点描画法の推進者の一人だったシニャック。どちらも、裕福で嫌味な人物として描かれていましたが、ゴッホとの対比が良く出ていて、面白い存在感でした。



さとうこうじ(ロートレック)
貴族の身でありながら、足の障害(小児麻痺?)によって社会的には抹殺され、芸術に生きたロートレック。「Confidents」といい、彼は当時から『偉大だけれども嫌味な芸術家』といわれていたんでしょうか?まぁ、家が家なので、金に困ったことはなさそうですが、絵そのものは認められていたのかなあ。
うーん、私、絵を見るのは好きなんですけど、当時の社会情勢とか彼らの社会的立場とかを知らなすぎですね(汗)。



渚あき(モリソウ)
美しかった!!滑舌もよく、裕福で権高い女芸術家が良く似合ってました。
娘役よりも、こういうどっしりと地に足のついた女役の方が似合いますね!宝塚時代よりもずっと格好良くて、素敵でした♪



斉藤直樹(炭坑のアンリ、ベルナール)
もともとダンサーさんなんですよね。動きがキレイで、ハンサムで声もいい。アンリの芝居も良かったです♪



荒木健太朗(学生)
「Studio Life」では小柄なせいか少年役が多いですけど、男っぽいゴツゴツした美貌なので、こういう“普通の青年”役の方が似合うなあ、と思いました。台詞回しとかもっと浮くかと思いましたけど、全然違和感無く、良かったです。思ったより出番は少なかったけど、カッコ良かった(はぁと)。



野口俊丞(炭坑夫、夫婦の客)
保可南(炭坑の女、夫婦の客)
二人とも、なんというか、しっかりした存在感がありましたね。タンギイの店に入ってきて「この絵の中のりんごを、一つだけ売ってくださる?」っていう夫婦が超おかしかった!!
…ゴッホたちが相手にしているのは、こういう人たちだったのか!?という驚きが新鮮(^ ^)。



「Confidents」を観た後、この時代の画壇については多少勉強したつもりだったのですが、またちょっと違う視点の物語だったので興味深かったです。

でも。

何はともあれ、「コンフィダント・絆」再演切望!…ってことで(^ ^;ゞ



東京芸術劇場 中ホールにて、KOGAMI@NETWORK「僕たちの好きだった革命」を観てまいりました。
……先月末のことですが(^ ^;ゞ



5月はかなりバタバタと忙しく、観たかった公演をいくつも見逃してしまったのですが、これだけは絶対に観る!と決意していたので、楽の直前になんとか潜り込むことができました。

東京公演が終わった後もあちこち全国ツアーで回るので、その間に書こう~、と思っていたのに、ふと気がつくと、全国ツアーの楽まであと半月もないじゃん!!というわけで、慌てて記憶を掘り出してみましたm(_ _)m。



映画監督の堤幸彦(「20世紀少年」三部作など)が企画原案、第三舞台の鴻上尚史が企画・原作・脚本・演出。2年前の初演はタイミングが合わず観られなかったので、今回の再演は『待ってました!』という感じでした。

プログラムにも書かれていますが、これはもともと堤監督が映画にするつもりで温めていたネタだったそうです。それがいつまでたっても映画にならないものだから、鴻上さんがしびれを切らして舞台化した…のだそうです。
うん、確かに映画向きの題材でした。割と映像っぽい処理も多かったし。
でも、舞台としても実に素晴らしかったです。まだ上半期も終わっていませんが、現時点では、今年観た中で一番好きな芝居になってます★





最初と最後だけが「現在(=2007年)」で、作品全体のメインの舞台は1999年の高等学校。

日比野篤志(塩谷瞬)と小野未来(みく/片瀬那奈)が通う拓明高校に、ある日、復学生がやってくる。
山崎義孝(中村雅俊)、47歳。1969年の学生運動に参加し、拓明高校支部(?)のサブリーダー的な地位にいながら、集会に突入してきた機動隊のガス弾を受けて意識不明となり、そのまま30年が過ぎた、頭だけがオイルショック前の高校生のままの、中年男。

30年ぶりに意識を取り戻した彼は、茫然自失の時を過ごした後、ぽつりと復学を希望する。
彼は知らない。彼を診ていた医者が、「彼はいずれ、再び眠りに戻るだろう。そう長くは無いかもしれないから、今のうちにやりたいことをやらせてあげるように」と彼の保護者に言っていたことなど。

そして、山崎を迎える高校側には、高校側の目論見がある。
校長(安原義人)が狙うのは、「30年間眠っていた学生が復学!」というニュース性と、復学を許可した『寛容な学校』という評判。
「山崎くんが落ち着いたら記者の取材を受けさせる」つもりでいる。



大人たちの思惑が交錯する中で、「革命の指導者」のなりそこないは、どう動くのか…?






実に面白い、興味深い作品でした。
ええ、本当に。



直接は関係ないのですが。
私の母校(高校)は相当にアカな(←たぶん、この表現は厳密には正しくない)学校でして。全共闘時代にも、教師・生徒あわせて何人もしょっぴかれた…という歴史を、誇らかに語り継ぎ、自慢話として語るような、相当にバンカラな学校でした。
ただ、私の知る限りでは、高校で集会を開いたとか機動隊と争いになったとか、そういう話は無かったはずなので、それを思うと、拓明高校はずいぶん最先端を走っていた高校だったんでしょうねぇ…。




いずれにしても、この作品のテーマは、山崎の想いのまっすぐな真摯さ、だと思いました。
決してあの時代を総括しようとか、反省しようとか、見直そうとか、そういう話じゃなくて。ただ、あれは純粋でポジティヴな闘争だったのだ、と、ただその主観的な事実を淡々と語る物語、でした。



闘いがあった。
そこで死んでしまえば「レ・ミゼラブル」になれるわけです。皓いひかりに包まれて、天国へいける。レクイエムの一曲も流れるかもしれない。
だけど、彼らは生き残った。マリウス一人が残されたのではなく、誰も死ななかったわけです。(30年間意識不明だった山崎は、仲間うちでは死亡カウントだったかもしれませんが)


でも、闘いはたしかにあった。
だから。

闘いがあれば、傷が残る。必ず、双方に傷はつくわけです。
それでも生きていかなくてはならない。
30年前に信じていた理想と、30年前に喪った理想。…現実社会を生きていくなかで、拓明高校の教頭におさまり、“学校側”の尖兵として生徒たちを弾圧する兵藤(大高洋夫)が、とても哀れな存在に見えました。
30年前には拓明高校支部(?)のリーダーとして皆をひっぱり、機動隊に負けずにアジ演説をしていた彼が。30年の空白を経て、過去から蘇ったミイラのような山崎の前で見せる、とまどいと恐れ。過去の自分を捨てたこと、いや、捨てた事実を忘れようとした自分に対する罪悪感に苛まれて苦しむ彼、が。

「自分のせいだと思っているのか?」

30年前とまったく同じ、真っ直ぐな瞳で兵藤を見つめながら、山崎は尋ねる。

「自分のせいで、仲間たちの人生を狂わせた、と?」

ただただ真っ直ぐな、皓い光に包まれて。

「…俺は、兵藤さんに感謝してる」

青春のすべてを寝ているうちに喪ってしまった男が、微笑んで言う。

「あんたの演説を聞いて、俺は俺の意思で飛び込んだんだ。…後悔なんて、」

自分で択んだ道なんだから、その結果について、誰にも嘆いたり悔やんだりしてもらいたくない。

「後悔なんて、するつもりは無いんだ」

すべてを喪った男が、世界を掌に載せて、兵藤に差し出す。

「俺はあんたに、感謝している」





そしてもう一人、哀れな男。
兵藤や山崎の仲間だった文香(田島令子/未来の母親)の夫、小野忠義(藤井びん)。

山崎が斃れた騒ぎの後、大学に進学して運動を続けた文香は、内部闘争の渦の中で、仲間だったはずの連中に恋人を惨殺され、精神的に不安定なところを抱えている。
そんな女を妻に得た、学生運動には参加していなかった男。その時代の話はタブーとなった家庭。

ときおり、記憶がフラッシュバックして発作を起こす母親を心配しながら、「何故?」と思い続けて育った未来(みく)。彼女が山崎の始めた運動に積極的に参加するのは、母親を理解したいという気持ちがどこかにあったからだった。

「パパ、教えて。ママに昔、何があったの?」

年頃になった娘の真っ直ぐな問いに、目を逸らすしかない父親。

「…俺もずっと待っているんだ。文香がちゃんと教えてくれるのを…」

口の中で、ぼそりと呟く。

「俺には、お前には教えられない。…俺にだってわからないんだ」

愛する妻との間にある深い溝、決して埋められない溝を、切なく見やって。

「俺には、理解、できないんだよ…」

肩を落として歩み去る、力ない中年男。見送る娘の、昏い瞳。






文化祭にラッパーを呼んでコンサートをしたい!という、未来たちの純粋な思い。
それが純粋であればあるだけ、学校側、あるいは大人側の理屈は考慮されません
抗議は学生(=弱者)の、正当な権利なのだから。

民主主義なのだから、政治の不満は自分たちの手で解決しなくてはならない。
自分たちが立ち上がらなければ、代わりにやってくれる人はどこにもいない。
…そう教えられた戦後世代。
しかし、彼らを教えた戦前世代は、そんなことひとっかけらも想っちゃいなかった……。


だから。
二つの正義が真っ向から対立する以上、それがどんなに純粋な願いから生じたものであっても、最終的には、闘争で解決するしかないのだから。





未来たちの、「文化祭は生徒のものだ!」という主張と、
兵藤や山崎が30年前に掲げた主張とは、おそらく内容としては全く違うものであったはず。
それでも、それはどちらも等しく 権力者による抑圧を撥ね退け、自分らしく生きるために必要な闘争 であった、という点では同じものだった。

それが解っているからこそ、兵藤はその無謀な夢を否定する側に回る。若さゆえの無謀な夢を力づくで叶えることが、彼らのためになるとは思えないから。
それは、教育者として決して間違った考え方ではないのです。彼らが自分で躓くまで待つのではなく、転ぶ前に、ひっかかりそうな石はどけておいてあげよう、という思想は、むしろ必要なものかもしれない。

でも、結局のところ、重要なのはバランスなんですよね。教育は、極端に走ってはいけないのです。
教師側の主張が、「ラップなんぞ聞いていたら莫迦になるぞ」という低レベルなものではどうしようもない。結果、山崎の「僕らの頃は、ビートルズなんて聴いたら不良になると言われたのに、今は教科書に載っている!」という驚きが、闘争の後押しとなる。
ラップが本当に30年後に教科書に載るのかどうか、それは誰にもわからないのに。







……なんだか、感情が走りすぎちゃって、あんまり巧く語れません…観てから一ヶ月近くたってるのに、おかしいなあ(^ ^;ゞ
こんなぐだぐだな文章で、すみません。





キャストは、若者たちも含めて、みなさん素晴らしかった。中でもやはり、主役として全ての物語を動かした中村雅俊の、のんびりとししているのに強烈な存在感が、印象的でした。

ヒロイン・未来の片瀬那奈の強烈な存在感と、彼女に片思いする気弱な優等生、日比野のさりげない空気感がすごく良かった。そして、彼女たちを徹底的に排除しようとする生徒会のメンバーがまた秀逸でした。

文香を演じた田島令子(←もちろん、あのオスカル様の声です)は、他に、文化祭当日をヘリコプターで取材するキャスターを、それも二役で演じていたのですが、生徒たちの命が懸かったシリアスな場面の直前(最中も)に、あれだけ爆笑させられるとは思いませんでした。…声優ってすごいなあ。





ちょっとネタバレっぽいのですが。

この物語で一番驚いた仕掛けは、「僕たちの好きだった革命!」というこのタイトル台詞を語るのが、30年前の拓明高校に突入した機動隊の隊長(藤井びん)だった、ということだったような気がしています。

この台詞を語る主体が、山崎でも、兵藤でも、文香でもなく、彼であったことが。
自分の主義主張のために闘いを選び、闘争に身を投げた彼らではなく、職業軍人に近い存在であったことが。

「僕たちの好きだった革命」
このタイトルに籠められた、深い想いと皮肉が、強く胸に響きました。





そして。
とにかく、全共闘世代の「フォーク」と、1999年の「ラップ」のコラボが、素晴らしいアイディアでした。
ラッパーとして登場し、物語のキーパーソンを勤めるGAKU-MC の存在なくして、この作品は成り立たなかっただろう、と心から思います。




…ああ、本当に、観ながらいろんなことを考えさせられた作品でした。
ホントにうまくまとめられなくてすみません。観られて良かった!!

舞台もまた観たいけど、映画もぜひ!観てみたい!!です。
堤監督、今度こそスケジュールをきちんと確保して、お願いします~!!(一度は決まりかけたのに、「20世紀少年」三部作にかまけているうちにおじゃんになったらしいので…)



青空を探して

2009年6月6日 演劇
世田谷パブリックシアターにて、「江戸の青空」を観劇してまいりました。


この作品は、去年の「A MIDSUNNER NIGHT’S DREAM」~THEじゃなくてAなのが素敵~」と同じく、北九州芸術劇場プロデュース、G2演出。ちょうど今、新国立劇場ではジョン・ケアード演出の夏の夜の夢」をやっていたりするのが面白いなあと思ったりします(^ ^)。



「江戸の青空」は、江戸落語を元にした作品。元ネタになった落語は、「井戸の茶碗」「厩火事」「お神酒徳利」「火焔太鼓」「笠碁」「三軒長屋」「芝浜」「たらちね」「文七元結」「柳田格之進」「らくだ」「和歌三神」。谷さんの一連の落語モノと共通のものもありながら、料理の仕方が違うのが興味深かったです。
まぁ、個人的には『なんで北九州芸術劇場プロデュースなのに“江戸”なんだろう?』とか、『格之進は彦根の人なのに何故標準語なんだろう?』とか、素朴な疑問を抱きつつ(^ ^)。



柳田格之進(西岡徳馬)
元彦根藩士。生真面目すぎるほど真面目な男。四角四面すぎて同僚に疎まれ、浪人する羽目に。心機一転、江戸へ出てくるが、昔を思い出しても先を考えても落ち込むばかり…。

主役らしい主役はいない構成でしたが、基本的に彼を中心に物語は動いていました。なんといっても、ラストに「江戸の青空」を見上げるのは彼だしね。
いやーーー、それにしても西岡さんは格好良いです♪♪♪渋くて素敵(はぁと)。いやもう、声がすばらしいの。ぼそっと喋るたびにドキッとします(*^ ^*)。立ち回りの姿勢の良さとか、本当にしびれるほど素敵で。
西岡さんなら彦根弁(どんなのか知りませんが)で喋ることも余裕で出来ただろうと思うのですが、あえて標準語で演じたのはどうしてなんでしょうね?言葉が違うと、異邦人感がより高まったと思うのですが……実際の高座では、登場人物がどこの出身でも、全部江戸言葉でやるものなのでしょうか…?



くず屋清兵衛(中村まこと)
落語によく出てくるくず屋。格之進の伝家の仏像を預かったばかりに面倒に巻き込まれる彼ですが、最後にちょっと逆襲もしたりして(^ ^)、つくづくと脚本の千葉さん……というか、多分“原案構成”となっている4人(東野ひろあき、千葉雅子、松尾貴史、G2)の凄さを感じさせる役でした★
猫のホテルの看板役者ですが、私が観たのは「NODA・MAP」くらいかな…
いやー、達者な人ですよね。合いの手が実にいい呼吸ではいって、気持ちが良い。西岡さんの格好良さをさりげなーくフォローしつつ、ちゃんと江戸の空気に変えていくところが良かったです。



勝五郎(戸次重幸)
博打好きで飲んだくれの魚屋。ひさしぶりに仕事に出たが、浜辺で五十両の入った財布を拾う。コレ幸いと仲間たちと椀飯振舞のドンチャン騒ぎをするが、翌朝、その拾い物は夢だと女房に言われ、心を入れ替えて真面目に働き始める。

お久(須藤理彩)
勝五郎の女房。たぶん髪結い(?)
冒頭から碁会所で仕事をサボっている勝五郎と大喧嘩をし、家に帰って「厩火事」のネタで勝五郎を試そうとし、彼の大事なのチンチロリンの椀を壊してしまう。
咄嗟に茶碗よりもお久を気遣う勝五郎を見直しかけるが、すぐに「お前がいなくなったら食えねえじゃねえか」と言われてだいぶ拗ねるが、次の日に久しぶりに仕事に向かった亭主にホッと一息…なのも束の間、五十両拾ってドンチャン騒ぎをはじめた夫を懲らしめるため(?)に、その五十両をくず屋の持っていた仏像の中に隠してしまう。

……なんだかすごーく良いコンビでした!舞台の立ち上がりが碁会所での二人の喧嘩なんですが、実に掛け合いのテンポがいい。迫力のある言い争いで、回りで逃げ惑う昼行燈たちがなんだか可愛らしくみえました(^ ^)。
ぽんぽんと文句を言い立てながら、その実、亭主に惚れきっているお久が超可愛い。二枚目ですもんねぇ~~。なんだかんだ言いながら亭主の方も女房に惚れきっているあたり、江戸落語のお約束のような気もしますが、息の合ったよいコンビでした♪



おさき(松永玲子)
お久の妹。しっかり者で口が達者だが、姉のことは結構心配しているらしい。
この姉妹の父親が易者だったことが物語の鍵になるんですが、頭の回転の早いこの女房の方が、亭主の善六より番頭として有能そうに見えるのは私だけでしょうか?(^ ^;ゞ



善六(柳屋花緑)
質・両替の萬屋の番頭で、おさきの亭主。騒ぎに巻き込まれて右往左往する。

出てくるたびに「地味な奴」みたいなことを言われていました(^ ^)が、結構男前だと思うんだけどなあ。
落語が本職の真打ですが、この作品で使われているようなネタは得意なんでしょうかねぇ。私は「宝塚BOYS」くらいしか観ていませんが、台詞がなめらかで声がよくて、高座をきいてみたいなあと思いました。できれば、善六が主役の「お神酒徳利」を♪



文七(小西遼生)
萬屋の手代。碁好きな若者で、舞台最初の碁会所(勝五郎とお久の喧嘩の場)で格之進と知り合い、主人の碁の相手を頼む。
集金の帰り、浜辺でハマナスを摘んでいて五十両を落としてしまい、落ち込む。

「若い」「二枚目」「ハンサム」と言われまくる役でしたが、そ、そんなに…?と思ってしまった……(^ ^;ゞ せっかくの美形も、オペラグラスを忘れると見つけられないものなのね(涙)。
ちょっと生意気な感じがよく出ていて可愛かったです。でも、所作はまだまだだなあ…。



萬屋源兵衛(松尾貴史)
萬屋の主。善六や文七の主人。商いについては堅物で真面目らしいが、大変なケチンボで口喧しい。主人の機嫌が悪いと番頭たちはさぁ大変!ストレスで掃除をしまくり、家の中がピカピカになってしまうほど(^ ^;ゞ
べた惚れの妾・お兼を長屋に囲っていて、日々スケベ親父ぶりを発揮しているが、その両隣が勝五郎・お久の鉄火な夫婦と、反対側は千代田朴齋の道場。この両隣を追い出して、三軒長屋をぶち抜きたいと思っている……。

原案構成のメンバーに入っているだけあって、難しい役を引き受けたな、と思いました(^ ^)。いろんな作品を組み合わせたストーリーの要になっているというか、いろんなストーリーの矛盾を一手に引き受けたような役でしたね。プログラムでも書いておられましたが、碁への熱中ぶりと、お金への執着と、お兼への執着(色好み)、どれが上なのかなあ、と思いながら観てました。あれだけのケチンボ設定なら、碁に夢中になるあまり五十両の大金をチェックもせずに棚にしまわせるとかあり得ないし、そんなお宝と客人を置いてはばかりに行ったりもしそうにないし…。物語の要の部分なのにちょっと疑問、だったのがすこーし残念でした。

…今頃気づきましたが、善六も文七も違う作品(善六は「お神酒徳利」文七は「文七元結」)の主人公なのに、こうやって並べると六→七と順番がそろうんですねぇ(感心)。っていうか、偶然…?



お兼(蘭香レア)
源兵衛の妾。

仇っぽい美女、という設定があまりにもぴったりすぎて、うっとりしてしまいました。なんども書いているような気がしますが、とにかくあの声が好きだ!!あの声と、抜いた襟元にしどけない所作、そして、何と言ってもあの気怠げな喋り方!!
いやあん、レアちゃん本当に素敵~~~♪
朴齋にコナをかけるところでサービスしてくれる脚が、白くてとってもキレイだけど、筋肉質であんまり色っぽくないところはご愛嬌(笑)。



お絹(いとうあいこ)
格之進の娘。
生真面目で損をしがちな父親にそっと寄り添いながらも、武士の娘らしい気丈さ、何かコトがあれば一歩も引かない気迫もあって、実に良い役でした。

いとうさんははじめて拝見しましたが、可愛い人ですね(はぁと)。文七に淡い恋心を抱いていたのか、ぜーんぜん気づいていないのか、どっちともとれる演技でしたが、あまりに可愛いのでどっちでもいーや、という気分になりました(*^ ^*)。



千代田朴齋(吉田鋼太郎)
勝五郎・お久夫婦と同じ長屋で剣術道場をやっている。女好き。
…本来は講釈師らしい(笑)。

いやーーー、胡散臭さ、インチキ臭さがダダ漏れしていて、実に素敵でした(はぁと)。「ムサシ」の柳生宗矩も良かったけど、今回は最初からインチキだから(笑)。きっと、格之進みたいなお侍さんに憧れて、「あんなふうになりたいなあ…」と思って、役者気分で道場はじめたんだろうな、みたいな(爆)、そういう子供みたいに素直な胡散臭さ。
明るくて、いい加減で、めげなくて、太っ腹で、子供っぽくて。いいキャラクターだなあ、と思います。格之進も、この人をみていたら“生真面目”とか“四角四面”でない自分を考え始めちゃうよねえ、と納得してしまいました(笑)。



山坂転太(植本潤)
花組芝居の植本さん。去年のパックも素晴らしかったけど、今回もさすが!!G2演出とは相性がいいのかも。テンポがよくて、出てくるだけでふっと空気が変わるのが凄いなー。




ストーリーは、登場人物が複雑に絡み合って込み入っているけれども、解りやすくてとても楽しかったです。因果はめぐる五十両。いい加減でてきとーな江戸の町民たちの中にまざった、たった独りの異邦人が、新しい生き方を見つけてふたたび故郷に向かって旅立つまでの物語。

それはただの“帰郷”ではなく、やはり“旅立ち”なのだ、と、江戸の青空を見ながら思う、
……そんな物語。





渋くてカッコいい西岡さんが、最後にふと見せる微かな笑顔が、とても優しげでよかったです。
素敵な物語をありがとう(^ ^)/。

世田谷PT公演は明日で終わりですが、これから北九州をはじめ、各地を回るみたいなので、お近くの方はぜひ足をお運びください♪♪



シアターコクーンにて、「雨の夏、30人のジュリエットが還ってきた」を観劇いたしました。



作:清水邦夫、演出:蜷川幸雄。
この二人の巨匠が、現代人劇場~櫻社で共に舞台を創っていた頃のことを、私はまったく知りません。
それでも、私にはまったく想像することもできないような深いモノが、作品の裏に横たわっていることだけは感じられました。

蜷川さんは1935年生まれ(今年74歳)、清水さんが一つ下。…長い人生の中で、現代人劇場~櫻社にいたる1967年から73年という時代は、まさに30代、クリエーターとして脂の乗り切った時期だったはず。
その時代を共に生き、おそらくは全てを賭けてぶつかりあい、共同で“創造”という苦しみを味わった、二人の天才。


そんな二人が袂を分かってから9年後の1982年に初演された「雨の夏・30人のジュリエットが帰ってきた」。
この作品は、作品単体としても非常に興味深くて面白かったのですが、作者二人の深い葛藤が色濃く残っていることが面白みを増しているんだろうな、と思いました。
たぶん、今、私が観て感じることとは全く違うモノを、昔から清水さんや蜷川さんを観てきた人たちは感じることができるんだろうな、と。

プログラムには色々書いてありますが、そんなものをいくら読んでも、二人の真実はさっぱりわかりません。
それは、作品を観て感じるしかないことなのでしょうけれども、同時代で観ていればわかることも、今再演されてもよくわからない……、というのが正直なところです。


ただ、「生きた真似より死んだ真似」という台詞で『真情あふるる軽薄さ』を思い出したり、そういういろんなメタファーの、多分半分も私は解っていないんだろうなあ~、と思いながら観ることはストレスもありました。当時を知る方々がとても羨ましくもあり……でも逆に、「作品と関係ないこと」に左右されることなく作品を楽しむことができて良かったなぁ、とも思いましたね。







舞台は、ある地方のデパートの、巨大な階段と踊り場がある吹き抜けの空間のワンセット。
このセットが素晴らしかったです(美術:中越司)。ちょっと古びたデパートの風情がただよっていて。
開演までは緞帳の前にマネキンを飾ったディスプレイが置いてあって、東急本店がそのまま透けて見えているみたい(シアターコクーンは東急本店と同じ建物の中にあります)。だから、緞帳があがると、そのディスプレイウィンドウを通して巨大な階段のセットが見えてくる。その奥行きの深さが凄いなあ、と。
シアターコクーンの舞台はって幅にくらべて奥が深いと思うのですが、その奥にわだかまる闇が、謎をはらんでいるみたいで印象的でした。



物語の元になったのは、かつて福井市に実在した「だるま屋歌劇団」の物語。

福井県初の百貨店であった「だるま屋」の専属歌劇団で、1931年設立(宝塚少女歌劇団の第一回公演の16年後)、北陸初の“少女歌劇”。百貨店内の180席ほどの“劇場”で公演をしたようで、舞台のように広場の階段でやっていたわけではないようですが(^ ^)。地元の男性ファンを中心に人気を博したものの、時局の悪化に抗しきれず、わずか5年で幕を降ろすことになりました。直接の原因は、盧溝橋事件を目前にした時代の「百貨店内での興行を禁ず」という通達で、人気が落ちたとかそういう理由ではなかったようですが。

それから約20年後、太平洋戦争どころか朝鮮戦争も終わり、高度成長が始まった1958年。福井新聞に、だるま屋少女歌劇のファンに宛てた広告が掲載されました。
元歌劇部員たちの同窓会に、ファンの方々も往年のスターたちに会いにいらっしゃいませんか という誘いの広告。




この広告のエピソードが、物語の構想の最初にあったのでしょうね。
もちろん、内容は違います。
舞台で語られる「広告」は、某地方のデパート専属の“石楠花歌劇団”が解散してから30年後に、「往年の娘役スタァである風吹景子主演で『ロミオとジュリエット』を上演するため、出演者を募集します。元石楠花歌劇団の団員はご連絡ください」という広告。劇団自体も戦中まで存続したことになっていて、「空襲で慰問先が爆撃され、団員は全員散り散りに…」という、現実よりもずっと悲惨な設定になっていました。

その空襲で頭を打ち、ずっと植物人間同然だったのに、突然目覚めた元・娘役スタァの風吹景子(三田和代)。
視力を喪った元・男役スタァ、弥生俊(鳳蘭)。

二人の再会と、その二人が共同で「ロミオとジュリエット」という作品を創るところがクライマックスになるわけですが。



お二人があまりにも巨大な存在すぎて、他のエピソードがすごく瑣末なものに見えました(以下、後ろのほうでネタバレあり)



三田さんは、見た目のグロテスクさと声や芝居の可愛らしさ、純粋な透明感のギャップが素晴らしくて、本当に素晴らしかった。いかにも四季出身らしい、滑舌のはっきりした明快で朗らかな台詞術が、膨大な台詞を詰め込まれた“風吹景子(ふうこ)”を軽やかに見せます。まさに、重力にも他の何ものにも捕らえることのできない、人外の存在の輝き。


転じて鳳蘭さんの、しっかりと地に脚のついた重厚さが素晴らしかった。大地を踏みしめて歩く巨人のようなたくましさと、圧迫感のある実在性。まさに「伝説の男役」なんだな、と納得させてくれました。
芝居のお稽古中の、ふうことの侃侃諤諤の言い争いの迫力は物凄く、しかもそこにこめられた演劇論の二律背反さも物凄くて。清水・蜷川のコンビは、この議論にどう決着をつけて活動を続けたのだろうか、と興味がわいたくらい、ものすごい名場面でした。

そして。
その言い争いに続く、「ロミオとジュリエット」のラストシーンで。

毒を飲もうとする鳳さんの迫力の物凄さに、本気で鳥肌が立ちました。
三田さんは、よく平然とすぐ前で横たわっていられるな、と思ったほどに、ものすごい空気で……

この後に続く展開がほぼ完全に読めた、一瞬の閃光のような、お芝居。





あまりの迫力に、『鳳さん、このまま階段を登ったら、一番上で息絶えるに違いない!!』と確信した私……、
鳳さんが自分の脚で袖に消えていって、それから“階段落ち”の音響が入ったときには微妙に拍子抜けしてしまいました(汗)。



そして。
弥生俊と、彼女の後を追ったふうこの遺体を、“墓場”のセットに、ラストシーンどおりに横たえて、“30人のジュリエット”たちの慟哭のコーラスが響き渡る。

「ロミオは死んだ、ジュリエットも死んだ!!」



この場面を視ながら。
泣きながら。




なんとなく、この物語は死者の物語なのかもしれない、なんてことを思いました。




生きているのは、男たちとふうこ、それだけだったのかもしれない。
弥生俊も、30人の“ジュリエット”たちも、全員が遠い昔に爆撃で死んでいて、
ふうこも、植物状態から快復することは無かったのかもしれない、と。



すべては風吹景子の夢だったのではないか。
起き上がって「ロミオとジュリエット」を練習する自分。
還ってくる弥生俊と、かつての仲間たち。

……つきつめていけば、「ばら戦士の会」の男たちの妄想。


ラストシーンの「ロミオは死んだ。ジュリエットも死んだ!!」の絶叫を聞きながら、
思い出していたのは「キサラギ」でした。

全てを賭けて愛し、憧れ、夢を見た“アイドル”への手向けに、オフ会をひらくメンバーたち。
「キサラギ」は、ご存知の通り、思い出話に浸ったあと、妄想に走る前に推理モードになりましたが、
普通だったら、思い出話がひと段落したら、“もし○○が生きていたら…”という妄想を話し合いますよね?

もしふうこが元気だったら。
もし弥生俊が生きていたら。

きっとこんなふうに大喧嘩しながら役作りをして。
きっとこんなふうに、
……きっと。



「ロミオは死んだ。ジュリエットも死んだ」のリフレインが、野辺送りの嘆き女のように聞こえてきて。




……最初から、すべては夢だったのかもしれない、と。
清水&蜷川の交友も、政治活動と密接に結びついた“アンダーグラウンド”としての演劇活動も。







最後に、出演者について簡単に。

男優陣は、『石楠花歌劇団』ファンのリーダー的な役割を果たした古谷一行、その仲間の石井けん一、磯部勉、山本龍二、そして、ファンだった父親の後を継いだばかりの“一世代下”北村英二を演じた横田英二、その弟のウェンツ瑛士の6人。
古谷さんの格好良さに惚れ惚れ(はぁと)


女優陣は、弥生俊の妹を名乗る真琴つばさ、古谷さんの義妹で振り付け家の中川安奈以外は全員“石楠花少女歌劇団”のOGという設定でした。歌劇団の歌姫役の毬谷友子さんが、ソロも多く、一番目立っていました。本当に美しいわ……。

そして、マミさん(真琴つばさ)の男前ぶりに惚れ直しました(*^ ^*)もともとファンなので嬉しかったです☆脚本的には中途半端で意味不明な役ではありましたが、芝居自体も良かったな、と。
中川安奈さんも魅力的な美人で、芝居がとても印象的でした。「振付家」という設定ならば、もう少し踊れる方が良かったような気もしつつ、それ以外は良かったです!

ふうこの「あたしを信じさせて。あたしは今、13歳のうら若くて美しい乙女なのだと、そうあなたの瞳には映っていると信じさせて!!」という血を吐くような叫びに深く疵付いた横顔。
「どうしたらいいの?あたしにちゃんとインプットしてよ、義兄さん!」「だってあたしは、弥生俊の代役なんかじゃないんだわ。義兄さんたちの代わりにあのひとの相手をしているのよ!?」と古谷さんの腕にすがりつく、細い指。
一番かわいそうな人は、この人なんだ、と、心の底から想います。“ばら戦士”たちの、そしてふうこや俊の妄想に巻き込まれて、何もかも奪われてしまったひと。
事件が終わったあと、日常生活に戻ったのかどうかが心配になったのは、彼女だけ。それだけ、切羽詰った激しさが印象に残りました。




「歌劇団」=宝塚、と思う宝塚ファンですが、今作品、残念ながらOGは鳳さん、マミさん、毬谷さん、衣通真由美さんと、あとはタラちゃん(祐輝薫)…だけだったような。少なっ!(@ @)。初演(1982年)は全員宝塚OGだったそうなのですが…今回は幅広くいろんな人が参加していたようです。

タラちゃん、白燕尾にシルクハットで階段を下りてくる冒頭のレビューシーンなんかでは、彼女にだけ光が当たっているかのように美しく、目立ってました。本当に着こなしから姿勢から化粧から、何から何まで違うのねぇ(実感)。
ただ、歌劇団が消滅してから30年って設定なんだから、いくらなんでも若すぎてヘンだよ?と思ってしまい……。横田さんみたいに「母が亡くなりましたので娘の私が替わりに」みたいな設定だと思えば良いのか?(汗)





何はともあれ、大変に面白く、興味深い作品でした。
1960年代、70年代の演劇界について、勉強してみたくなりました(^ ^)どなたか詳しい方、いらっしゃったら講義していただけませんか?m(_ _)m。



サンシャイン劇場にて、キャラメルボックス「容疑者Xの献身」を観てまいりました。




いやーーーー、泣いた。
泣きすぎて、まだ頭が痛いです。




原作は、推理作家・東野圭吾の「ガリレオ探偵」シリーズの初の長編にして、大評判をとった「容疑者Xの献身」。映画にもなったんですよね、たしか。相変わらず映像に興味のない猫は、原作は読んだけど(デビュー当初からの東野ファンなので)まだ見ていないのですが……。
あの純粋な心理戦を、映像で表現できるとは思えなかったんですよね。


でも、キャラメルボックスが舞台化すると聞いたとき、なにはともあれ観に行くことが決定しました。
だって、西川さんの石神って、それ宛書でしょ!?って思ったんですもん(涙)。


そして、舞台を観終わった今、強烈に映画を観てみたいです。興味津々(^ ^;。っていうか、その前に原作を読み直したいのに今手許にない(泣)。


それにしても。
キャラメルボックスは、今までにもいろんな作品をやっていますが。
東野圭吾の「ガリレオ探偵」シリーズの中でも、あえてこの「容疑者Xの献身」を持ってきたのは、主役が西川さんにぴったりだからなんだろうなあ。
たぶん、西川さんのファンで原作を知らなければ、普通に「今の」西川さんに宛書の作品だと思っちゃうんじゃないかな。っていうか、原作知ってても西川さんに宛書だとしか思えなかったしな(汗)。


プログラムのプロデューサー言を読むと、脚本・演出の成井豊さんも石神タイプなんだそうですが。類友…?



いやぁ、本当に良かったです。
石神の西川さんも勿論素晴らしかったけど、湯川(ガリレオ探偵)の岡田達也さんも、靖子の西牟田恵さんも。なにより美里(靖子の娘)の實川貴美子さんがめっちゃ可愛くて、リアル高校生に見えました(^ ^)。可愛い~!
工藤警察トリオの川原和之(間宮)、齋藤歩(草薙)、筒井俊作(岸谷)のトリオも良かった!原作とは若干イメージの違う人もいましたけど、舞台空間の中では皆さん嵌り役でした♪



基本的に原作に忠実に進むので、推理小説としてのトリック自体は大したことはないのですが(東野作品において、重要なのはトリックではなくそこに到る過程)、心理戦としての湯川と石神のやりとりが秀逸なんですよねー。
原作本のモノローグや地の文章を役者たちが素に戻って読み上げる演出って、本来なら、私はあまり好きではない手法のはずなのに、今回だけはぐっときました。役者があれだけ完璧に嵌っていると、ああいう演出がただの“説明”ではなく、“本人の心の声(モノローグ)”にちゃんと見えるからなんでしょうね。





……何を書いてもネタバレしてしまうので今は自重しますが、とにかくチケット代以上の価値があったと思います!キャラメルは当日券も必ず出すので、ぜひぜひご覧になってくださいませ!
原作既読の私がこれだけ嵌りましたが、たぶん、原作を未読の方はもっと楽しめる……ん、じゃ、ないかしら(^ ^)。



カーテンコールで、岡田さんが「珍しく二公演も追加公演を入れたら、平日昼の分がちょっと大変なことになっていて…」という話をしたあと、「では、12日の14時にお会いしましょう!」 と挨拶をシメていたので、ぜひぜひ12日(火)14時公演 を観てあげて下さいね★ と最後に付け加えつつ(笑)。


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