東京宝塚劇場にて、花組公演「アンドレア・シェニエ」を観劇してまいりました。
大劇場で観てから2カ月。東宝公演が開幕してからでも1ヶ月。今回は長期公演だからあと一週間ありますが、通常ならもう公演も終わりなんですよね。客席も満席で、凄い熱気でした……観客がみんな、一瞬たりとも見のがすまいと舞台にまっすぐ向き合っていたような気がしました。
大劇場で観た時は、「民衆」たちの迫力はすごいけど、肝心の主筋がちょっと弱いような気がしたのと、植田景子さんらしい語り過ぎな脚本と組子たちの過剰な芝居がかみあわずに、全体にメリハリのない芝居になってしまっているな……、なんて思ったのですが、、、いまは、そんな風に思ったことが嘘のように圧倒されっぱなしです。さすが、いま絶好調の蘭寿とむ率いる花組の底力!!(真顔)
蘭寿さんも、蘭ちゃん(蘭乃)も、他のみんなも、本当に素晴らしかったです(^ ^)。
物語の中心となるのは、1789年7月14日の、いわゆる「フランス革命」=バスティーユ陥落当日の朝から、テルミドール(1794年7月28日)の3日前(ってことは7月25日か)までの5年間。フランスはその後も混乱が続き……ナポレオンの戴冠と失脚、王政復古、ナポレオンの100日天下、、、そして、騒乱が一段落して、ルイ18世による第二復古王政の4年目である1819年に、パンジュ侯爵(望海)が、かつて共に生きた革命詩人を回想する、という構成。
アンドレアの遺した詩を読み、彼の生き様を聞くメンバーの中にヴィクトル・ユゴー(真輝)が居ることは、植田景子さんの中ではきっと大きな意味があったのだろうな、と思いました。お隣の帝国劇場で上演中のミュージカル「レ・ミゼラブル」のジャヴェール警部と、「アンドレア・シェニエ」のモラン(春風)の類似と相違 が印象的だったので。
……しかし、パンジュ侯爵は物語の前半のアンドレアのことは何も知らないはずなので、彼を語り手にするのは無理があると思うんですけどね(^ ^)。
さて、何から書きましょう……まずは、全体の構成というか「構造」について。
ぶっちゃけ、この物語におけるアンドレア・シェニエとは「何」なのか、と。
実際、大劇場で観た時は、「アンドレア本人は何もしていない」という批判(?)に若干首肯するところがあったんですよね。植田景子さんの作品には、主人公の芸術家(あるいは職人)が、自分のやっていることや意義、あるいは世間の評価に悩んで行き詰まり、どん底に墜ちたところで、何かをきっかけに立ち直る……というゴールデンパターンがあり、この作品もその流れだろうという先入観があったのかもしれない、と、今では思います。
でも、先入観をとっぱらって、そういうものだと思って観た東宝公演。一番感銘をうけたのは、蘭寿さん演じるアンドレア・シェニエのゆるぎなさでした。
立っているだけで、この醜い現実ではなく、『理想』の世界だけを見て、『ミューズの聲』だけに耳を傾ける詩人。 こういう存在は、良く言えば「高潔な詩人」だけれども、悪く言えば「現実から目をそむけた無責任な男」にもなりうるわけです。主体的に物語を動かすのはジェラール(明日海)であり、モラン(春風)であり……なによりも、民衆たちの「幸せになりたい!」というひたむきなエネルギーであって、ひたすらに真理を追い求めるだけの『高潔な魂』は、歴史を動かす主体にはなれないのだけれども、それが芸術家の本質であり、そういう存在が鏡になって、一人ひとりが自らが生きる“現実”と向き合うことこそが、景子さんの語りたかった本当のテーマだったのかな、と。
結局のところ、この物語における「アンドレア・シェニエ」は、あくまでもタイトルロールであって、物語を動かす主体ではないということなんですよね。「ジュリアス・シーザー」におけるシーザー、あるいは「銀ちゃんの恋」における銀ちゃんのような、、、彼の存在によって物語は動き、時代をも変えていく。彼(アンドレア)は彼の物語を語っているだけなのだけれども、ジェラールは『理想』と出会ったことで革命の理想を思い出し、マリー・ジョゼフ(華形)は身近すぎる『高潔』に対する羨望と憎悪に苛まれ、、、そして、モランは詩人のみる『夢』の毒に身を灼かれる。
アンドレア自身が何をしたかではなく、彼の存在によって回りがどういう影響を受けたがが主筋なんだな、と納得させられたのでした。
いろいろ書きたいことはたくさんあるのですが、今日はとりあえずここまで。
続きはいつ書けるかなー?
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大劇場で観てから2カ月。東宝公演が開幕してからでも1ヶ月。今回は長期公演だからあと一週間ありますが、通常ならもう公演も終わりなんですよね。客席も満席で、凄い熱気でした……観客がみんな、一瞬たりとも見のがすまいと舞台にまっすぐ向き合っていたような気がしました。
大劇場で観た時は、「民衆」たちの迫力はすごいけど、肝心の主筋がちょっと弱いような気がしたのと、植田景子さんらしい語り過ぎな脚本と組子たちの過剰な芝居がかみあわずに、全体にメリハリのない芝居になってしまっているな……、なんて思ったのですが、、、いまは、そんな風に思ったことが嘘のように圧倒されっぱなしです。さすが、いま絶好調の蘭寿とむ率いる花組の底力!!(真顔)
蘭寿さんも、蘭ちゃん(蘭乃)も、他のみんなも、本当に素晴らしかったです(^ ^)。
物語の中心となるのは、1789年7月14日の、いわゆる「フランス革命」=バスティーユ陥落当日の朝から、テルミドール(1794年7月28日)の3日前(ってことは7月25日か)までの5年間。フランスはその後も混乱が続き……ナポレオンの戴冠と失脚、王政復古、ナポレオンの100日天下、、、そして、騒乱が一段落して、ルイ18世による第二復古王政の4年目である1819年に、パンジュ侯爵(望海)が、かつて共に生きた革命詩人を回想する、という構成。
アンドレアの遺した詩を読み、彼の生き様を聞くメンバーの中にヴィクトル・ユゴー(真輝)が居ることは、植田景子さんの中ではきっと大きな意味があったのだろうな、と思いました。お隣の帝国劇場で上演中のミュージカル「レ・ミゼラブル」のジャヴェール警部と、「アンドレア・シェニエ」のモラン(春風)の類似と相違 が印象的だったので。
……しかし、パンジュ侯爵は物語の前半のアンドレアのことは何も知らないはずなので、彼を語り手にするのは無理があると思うんですけどね(^ ^)。
さて、何から書きましょう……まずは、全体の構成というか「構造」について。
ぶっちゃけ、この物語におけるアンドレア・シェニエとは「何」なのか、と。
実際、大劇場で観た時は、「アンドレア本人は何もしていない」という批判(?)に若干首肯するところがあったんですよね。植田景子さんの作品には、主人公の芸術家(あるいは職人)が、自分のやっていることや意義、あるいは世間の評価に悩んで行き詰まり、どん底に墜ちたところで、何かをきっかけに立ち直る……というゴールデンパターンがあり、この作品もその流れだろうという先入観があったのかもしれない、と、今では思います。
でも、先入観をとっぱらって、そういうものだと思って観た東宝公演。一番感銘をうけたのは、蘭寿さん演じるアンドレア・シェニエのゆるぎなさでした。
立っているだけで、この醜い現実ではなく、『理想』の世界だけを見て、『ミューズの聲』だけに耳を傾ける詩人。 こういう存在は、良く言えば「高潔な詩人」だけれども、悪く言えば「現実から目をそむけた無責任な男」にもなりうるわけです。主体的に物語を動かすのはジェラール(明日海)であり、モラン(春風)であり……なによりも、民衆たちの「幸せになりたい!」というひたむきなエネルギーであって、ひたすらに真理を追い求めるだけの『高潔な魂』は、歴史を動かす主体にはなれないのだけれども、それが芸術家の本質であり、そういう存在が鏡になって、一人ひとりが自らが生きる“現実”と向き合うことこそが、景子さんの語りたかった本当のテーマだったのかな、と。
結局のところ、この物語における「アンドレア・シェニエ」は、あくまでもタイトルロールであって、物語を動かす主体ではないということなんですよね。「ジュリアス・シーザー」におけるシーザー、あるいは「銀ちゃんの恋」における銀ちゃんのような、、、彼の存在によって物語は動き、時代をも変えていく。彼(アンドレア)は彼の物語を語っているだけなのだけれども、ジェラールは『理想』と出会ったことで革命の理想を思い出し、マリー・ジョゼフ(華形)は身近すぎる『高潔』に対する羨望と憎悪に苛まれ、、、そして、モランは詩人のみる『夢』の毒に身を灼かれる。
アンドレア自身が何をしたかではなく、彼の存在によって回りがどういう影響を受けたがが主筋なんだな、と納得させられたのでした。
いろいろ書きたいことはたくさんあるのですが、今日はとりあえずここまで。
続きはいつ書けるかなー?
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