星組青年館公演「ジャン・ルイ・ファージョン~王妃の調香師~」を観劇してまいりました。



作・演出は植田景子さん。「近松・恋の道行き」に続く今年2回目のバウ作品ということで、かなり期待してチケットを取りました。

舞台は18世紀末のフランス。宝塚でも「ベルサイユのばら」「スカーレット・ピンパーネル」などいくつもの名作を出している時代ですが、この激動の時代を、あえてブルジョアの視点で描いたという点は、新鮮に感じられました。
実際、王室御用達の香水商としての日常と、革命後の牢獄の様子を交互に見せる1幕の展開は、とても良かったと思います。ただ、2幕の後半からラストに向けての展開は、ちょっと安易というか、唐突な感じで……うーん、イマイチだなあと思ってしまいましたが(T T)。



タイトルロールのジャン・ルイ・ファージョン(紅)は、王室御用達の香水商。
田舎で香水を売っていた両親のもとで暮らしていた彼は、マリー・アントワネットが14歳でフランスに輿入れしてきたとき、「大きくなったらあのお姫さまに香水をつくって差し上げるんだ!」という夢(野望?)を抱く。長じてその夢に向かって努力し、勉強した彼は、王室御用達の香水商としてヴェルサイユに店を構えるまでになり、ついにプティ・トリアノンで幸せな日々を過ごす王妃に面会が叶う。。。

香水はただの化学薬品ではなく芸術品であるというのは、いつの時代も同じこと。
ただ、それが「芸術品」である以上、創るにはインスピレーションの源たるミューズが必要である、というのは面白い着眼点だなと思いました。

王妃の肖像画家であるルブラン夫人(音花)が、「私たちは絵筆で“美”を映し、香水づくりは香りで世界のさまざまな美しいものを表現しようとする」みたいなことを言っていましたが、、、こういうお題目って景子さんのライフワークなんですよね(- -;ゞ。
ただ、さすがの景子さんも、ここ数作はだいぶ芸術論的なお題目(“芸術は人の生活を豊かにする”的な説明台詞)を減らしてきたと思っていたのですが、今回は「香り」という言葉で説明しにくいものであるせいか、ちょっと理屈っぽい台詞が多かったような気がします(T T)。
「近松…」なんて、主人公が芸術とあまり関係ない人だったのもあって、そのあたりの加減がちょうどよかったのですが。。。ううむ、良くも悪くもライフワークだから仕方ないのかなあ……景子さんの芸術論と、正塚さんの自分探しと。



正塚さんといえば……というわけではありませんが(^ ^;、同じ星組が全国ツアー公演で上演中の「琥珀色の雨に濡れて」との関係もちょっとツボでした。
時代は1世紀以上違いますが、同じフランスを舞台にした二つの物語の、二人のヒロイン。
男に頼らない「自立した女」でありたいシャロンと、「愛される人形」でありたかった王妃。
たった独りで、誇り高く生きようとしたシャロンと、ルイ16世(大輝)という夫とフェルゼン(真風)という恋人、そしてジャン・ルイという“おともだち”を得て、それでも「しあわせ」ではいられなかった王妃。

クロードもジャン・ルイも、最初はただの「ミューズ」として相手を視ていたのも面白いな、と思いました。
それぞれの時代を自分なりに生き抜こうとする美女に対する、憧憬。それが「恋」になるかならないか。それは、もしかしたらごく小さな違いなのかもしれません。

ただ、「琥珀」と「ジャン・ルイ」は、男女の身分の関係が逆なんですよね。「琥珀」は男が貴族で女が職業婦人、「ジャン・ルイ」は男がブルジョワで女が王族。シャロンが最終的にクロードの許を離れる理由と、ジャン・ルイが王妃に対する気持ちをあくまでも「ミューズ」に留める理由は、似ているのかもしれません。

そして。ジャン・ルイが「王室御用達」に辿りつくだけの天与の才能と運とを持っていなかったならば、むしろ、同じ柴田作品でも「あかねさす紫の花」の天比古と額田女王のエピソードと同じラストになったのかもしれない、、、なんてことも思いました。
ミューズであると同時に顧客でもあったジャン・ルイと、「ミューズ」でしかなかった天比子のケースと、若干の違いはありますが、芸術家にとっての「ミューズ」とは何なのか?という論点では同軸で語れるのかな、と(^ ^)。



作品を貫くもう一つの大きなテーマは、「自由・平等・友愛」の意味、、、でしょうか。
貴族や、同じ平民である筈のブルジョワを、「自由」にさせ、「平等」に扱い、「友愛」を捧げるつもりなど全くない、近視眼的で狂信的な民衆。革命の初期にはよくあることです。「革命」の暴力に煽られて、「思いやり」を見失っている。
生まれながらの貴族ではないのに、平民ながら自分の才覚で商売を成功させ、貴族や王家とさえ繋がりをもったブルジョワたち。近代アメリカであれば「アメリカンドリーム」と讃えられたかもしれないけれども、18世紀のフランスでは、貴族たちからは「成り上がり」と蔑まれ、革命で実験を握った「貧しい民衆」たちには「貴族の犬」と唾棄され、大した証拠もなく死刑になってしまう。

ヴァレンヌ逃亡事件への関与を疑われたジャン・ルイは、裁判の席で、ブリュノー(汐月)による激しい尋問を受けます。何の証拠もなく、
ブリュノーの狂気じみた「金持ち」への憎しみに触れて、穏やかだけれども小心者の弁護士クーニエ(美城)の正義心が、少しずつ少しずつ目覚めていくところはとても好きです。革命の熱に煽られた人々も、そうやって早く自分の心を取り戻せばいい。
革命は間違いじゃないけれども、反対派を粛清し、全滅させようとする行為は、大概が間違っているのだから。


……ただ。作品として、2幕後半の裁判の展開は、さすがに唐突というか無理やり感があって、納得はできなかったなあ……。ちょっと、劇団四季の「李香蘭」の終盤の展開を思い出しました。無理やりというか、ご都合主義というか。その事件が起きたのは史実なんですけど、その大コーラスは違うだろう、と。
それまで丁寧に積み上げてきた世界観を、自分たちで突き崩したとしか思えませんでした……。ううむ。じゃあどうしたら良かったのか、というあたりはノンアイディアなんですけどね(- -;ゞ



ジャン・ルイが、最後に王妃への憧憬を昇華させ、妻ヴィクトワール(綺咲)の許に戻る展開は、「恋」の結末としてはシンプルすぎて余韻がないのですが、、、結局、王妃への想いは最後まで「憧れ」であり、「芸術家にとってのミューズ」でしかなかったんだろうな、と思うと、逆に切ない気がしてしまいます。フェルゼンに絶対の信頼を捧げた王妃と、そんな王妃に絶対の友情を与えたジャン・ルイ。きっと王妃にとっては、どちらも本当の意味で“たいせつなひと”だったんだろうな、と、、、
「わたくしのたいせつなおともだち」と繰り返していたわかばちゃんの、ラストの回想での人形めいた笑顔をみながら、そんなことを思いました。


わかばちゃん、バウヒロインは2作続けて不倫する王妃なのね……なんてことも思いつつ。



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