宙組中日劇場公演「仮面のロマネスク」。



この作品を観て一番最初に思ったことは、
やっぱり私は、柴田さんの話術がすごく好きなんだな、ということでした(^ ^)。
だって!言葉の選び方がいちいちエレガントで素敵なんですもの!!あの脚本を喋れる役者はどんどん減ってきていますけれども、なんとか絶滅危惧種を大切にしてあげてほしいです……。



以前にも何度か書いたことがあるような気がするんですが、柴田さんの脚本って、「地の文」が無いんですよね。
冒頭でダンスニー(北翔)がちょっと状況を説明しますけど、もう本当にそれだけで、あとはすべてを会話で処理していく。
人間関係も、時代背景も、何もかも。

「地の文」が無いってことは、説明(解説)役がいないということ。
つまり、登場人物の心情を説明する人が存在しない。だから、みんな嘘を吐き放題になるんですよね。

登場人物がでてくるたびに嘘をつく。もう、「嘘」が主役と言ってもいいくらい、見事なお芝居だなあ、と本当に感心しました。宝塚作品って、特に大劇場公演はわりと単純明解が正義!みたいなところがあって、主要登場人物に嘘を吐かせるのは柴田さんと石田さんくらい……という印象があるのですが、このお芝居はその真骨頂かも、と思いました。



そして、そのめくるめくような「嘘で塗り固められた世界」こそ、まさに終焉に向かう19世紀の貴族社会そのもので。
意味もなく嘘を吐いているのではなく、そういう時代で、そういう世界であったのだ、ということが説明抜きで伝わってくるその脚本と、それを100%表現してのけた役者たちが、本当に素晴らしかった!!



舞台は、1830年のフランス・パリ。
1789年のバスチーユ陥落から、第一共和政(スカーレット・ピンパーネル)⇒第一帝政(トラファルガー)を経た、王政復古の時代。

1815年に王位についたルイ18世は、ルイ16世の弟。「ベルサイユのばら」でいうプロヴァンス伯ですね。そして、彼の死によって1824年に王位についた弟シャルル10世は、アルトワ伯。彼がこの「仮面のロマネスク」という時代のフランス国王ということになります。
彼ら二代は革命以来の「市民」たちの進化を無視し、ブルジョアのもつ財力を無視して貴族や聖職者を優遇する反動政治を執りました。
それでも、そんな政府がナポレオンの百日天下をしのいで15年も続いたのですから、やはり、革命後の混乱とナポレオン戦争で、フランス社会は疲弊しきっていたのでしょうね。

その、混乱した幼い市民社会の上に薄い板を敷いて、その上で優雅に貴族たちがワルツを踊っていた時代……それがこの、『ブルボン家による王政復古期』でした。
劇中でブルジョアのガボット(月映樹茉)が指摘しているとおり、シャルル6世とその近臣たちの失政によってこの時代は終わってしまうのですが、反動政治という「波」にのった貴族たちは、「革命」で喪ったなにもかもを取り返そうとがんばるあまり、「市民」たちの反感を買いまくってしまうんですよね。

「尊敬」の対象が何かのきっかけで「軽蔑」の対象に堕ちたとき、
そして、「軽蔑」していた者たちによって虐待を受けたときに、人はどこまで残酷になれるのか。
その怖さがリアルに伝わってくる作品でした。



革命によって零落したヴァルモン子爵家を復興した、28歳の青年貴族・ジャンピエール(大空祐飛)。

美しく艶やかな社交界の華、フランソワーズ・メルトゥイユ侯爵未亡人(野々すみ花)。

敬虔なカトリックで貞淑な法院長夫人、マリアンヌ・トゥールベル(藤咲えり)。

武術に秀でた体育会系のウブな22歳のお坊ちゃん、フレデリック・ダンスニー男爵(北翔海莉)。

メルトゥイユ夫人の元愛人でフランス軍の将軍、ジェルクール伯爵(悠未ひろ)。

修道院を出たばかりの金髪の美少女、セシル・ブランシャール(すみれ乃麗)。

メルトゥイユ夫人の現在の愛人・ベルロッシュ(鳳翔大)。


ジャンピエールとフレデリックの年齢はナウオンか何かで出ていましたが、他の登場人物の年齢(関係)はどうなっているんでしょうね。
私は原作を読んでいないのでかなり適当ですが、公演を観て、フランソワーズはジャンピエールよりちょっと年上設定かな?と思いました。ってことはちょうど30くらい?……まあ、個人的な印象ですが。
セシルは修道院を出たての14~15歳あたり。
マリアンヌは18前後くらいでしょうか。
ジェルクールは30前後か、もっと思い切って上でもいいかもしれませんね。
法院長(寿)は、40以上……もしかしたら50代なのかも?、という感じ。

基本的に、貴族の娘は修道院を出たばかりで年上の男性貴族に嫁がされ、その夫が亡くなって未亡人となったときに初めて自由の身になる……という時代だと思うので、そんな年齢設定かな?と思いました。
仲間内では、ジャンピエールとフランソワーズが幼馴染の初恋同士、という意見もありましたが、、、うーん、そんな齋藤作品みたいな設定はあまり感じなかったなあ(- -;)。ジャンピエール自身も、ヴァルモン子爵家を再興するために、、、年上の高貴な女性に取り入るのは得意だったんでしょうし、「人に知られない数々の艶話」の中には、そういうのも多かったのでしょうし、ね。



私は、初演を観ていないのみならず、ラクロの原作「危険な関係」も読んでいないのですが、原作は書簡形式の作品なのだそうですね。舞台を観ていて、手紙を読む場面が多いなあとは思っていたのですが、なるほどー!(^ ^)
電話のない時代の物語ですが、手紙を読んでいるところからスムーズに直接の言い争いにつながる演出はお見事の一言。演出は今回、植田景子さんがなさっていらっしゃいますが、そのあたりは初演どおりだと聴いて納得しました。内面世界なのか現実世界なのか、それがはっきりしないところがいい。内面世界なら作劇的に嘘はつけないけど、現実なら脚本的に嘘が吐ける。そして、観客には内面なのか現実なのかはっきりしない……というか、そこが騙し絵になっている。
表を辿っていたはずなのに、いつの間にか裏になってしまうメビウスの輪のように、


そもそも、原作は1789年の革命前夜の物語だそうですが、柴田さんはあえて1830年の7月革命直前に設定したそうですね。そして、物語自体にフランソワーズとジャンピエールの秘めた恋という軸を通して、「タカラヅカ」らしい恋愛譚に仕上げた。

この二つの変更点は、すごく効果的だったと思います。
あんなに嘘だらけの脚本なのに、登場人物の誰ひとり矛盾のある行動を取らないところがすごい。フランソワーズとジャンピエールの間に恋愛感情が色濃くあるから、それを軸にすべてのエピソードがつながるんですよね。マリアンヌを落す寸前でとまどったときの葛藤と、「フランソワーズ……!」という呼びかけの意味。フランソワーズとダンスニーの関係。
仮面をつけなければ生きていけなかった女の哀しさ。純粋であるには傷つきすぎて、生きるために強くならざるを得なかった女の、たったひとつの「欲しかったもの」。

この世にただひとつの「愛」を得るために生きている男と、
この世にただひとつしかない「欲しいもの」を得てしまったら、生きる理由がなくなる女。



ジャンピエールは、侯爵夫人である恋人に釣り合う男になろうと成り振り構わずにヴァルモン家を再興し、
フランソワーズは、若く美しい恋人の関心を惹く女でいつづけるために、その手を拒否する。


足許には市民たちの不満が渦巻いているのに。
運命の時が、すぐそこまで来ているのに、観ない振りして恋愛ゲームにいそしむ彼ら。


結局、この時代の「貴族」たちには、「政治」は無理なのだと。
反動王政を敷いたブルボン家と、その近臣たちは、滅びなくてはならないのだ、と。



「市民社会」の蓋となって「貴族社会」を支える板は、市民たちが腕を振り上げれば簡単に壊れてしまうような、非常に脆いものでした。
物語のラストは、いわゆる7月革命……1830年7月29日、なんですよね、たぶん。
その前夜だから、7月28日かな?

この後は、1848年の2月革命まで続くオルレアン家の王政がはじまります。
もはや貴族は実権をもたず、ブルジョアたちの指導者が権力を握った、フランス最後の王政時代のはじまり。

「仮面のロマネスク」とは無関係ですが、「レ・ミゼラブル」で語られる学生たちの暴動は、1832年のラマルク将軍の死をきっかけにしたものです。テナルディエはワーテルローで死者の懐をあさっていたという話があったりするし、まさにこの時代の物語なんですよね。
マリウスがコゼットと親しくなりたくて毎日公演を散歩して彼女が来るのを待っていたというエピソードは、ほぼダンスニーとセシルのエピソードと同じなので、観るたびについ笑ってしまいます(^ ^)。

さらにちなみに、7月革命で王位についたオルレアン家のフィリップは、ルイ14世の弟フィリップ(「薔薇の封印」で祐飛さんが演じたフィリップ王子)の後裔ですよね(^ ^)。そんな細かいエピソードを探しはじめたらキリがないくらい、この時代の作品は宝塚には多いです。20世紀のはじめと並ぶ、ドラマティックな時代なんでしょうね、きっと。




観ながらものすごく頭をつかうお芝居と、
頭をカラッポにして熱さに浸るラテンショー。

この宙組公演は、何度観ても面白いです!


この作品をやらせてくださったスタッフのみなさまと、その期待に応えて面白い芝居に仕上げてくれた宙組っ子のみなさまに、心からの感謝を(^ ^)。


【7月1日まで、あと139日】

コメント