宙組大劇場公演、千秋楽おめでとうございます!
あもたまさん(天羽珠紀)、
珠洲(春希)さん、
綾音らいらさん、
(琴羽)桜子、
(美影)凜ちゃん、
こーまい(光海舞人)、、、
みなさん、ご卒業おめでとうございます!!
CSニュースは明日ですよね。ドキドキ……(朝から泣かないように)
10月11月となんだかんだいろいろあって、宙組公演の感想は最初の週の遠征先でちょこっと書いただけになってしまいましたが、もちろんあの後もちゃんと観ておりまして(さすがに、梅田まで行って花組だけ観て帰ったりしない笑)、観るたびにツボが増えています。
作品自体も佳作なんですが、それを出演者たちが盛り上げて、徐々に「名作」に近づけている、という手応えがあるんじゃないかな。
ゆうひさん・すみ花ちゃんは最初からある程度出来上がっていたし、テルくんも良かったけど、たとえば撮影チームのアシスタント(りく・モンチ)とか、仮面劇団メンバーとか、新公を終えて公演後半に入ったあたりで個性が出てきて、人間関係も見えて面白くなったなあ、と。
特に、帰国が決定した後の撮影チームで、レニーにかなり心酔してるっぽいモンチと、そんな彼を心配そうに見守るカメラマンのかいちゃんのちょっとした小芝居が大好きだったりします。
あああ、東京公演が本当に待ち遠しい!!
ただ、特に「クラシコ・イタリアーノ」については、手放しで「素晴らしい名作!」だと思っているわけではないんですよね。もちろんいい話だし、キャスト含めた「舞台作品」としての完成度は高いと思うし大好きなんですけど、「名作」にカウントするにはちょっと設定に無駄が多いな、と。
……「無駄」という言葉がふさわしいのかどうかわかりませんが。えーっと、初見の時から気になっていたのは、物語の中で「対立軸」がぶれていること、でした。
物語の前半でフィーチャーされるのは、サルヴァトーレが始めた「既製服スーツ」。これは、オートクチュールとプレタポルテの対立ではないんですよね?サルヴァトーレの店ではどうやら分業によって効率化した手縫いの吊るし服を売っているらしいし。レニーが、初日の仕事を終えてから「ナポリ中のテーラーを回っ」て手に入れた服を翌日着てきているってことは、そういうことですよね?
袖丈やズボン丈くらいならすぐ直してくれるかもしれないけど、身頃や肩のラインまで一晩で直すのは無理でしょう。つまり、マリオが中心となったグランチェッロの工房のメンバーは、実際にそのスーツを着る人に逢うことなく型紙を取り、最後まで仕立てているわけです。
そして、そのスーツの製法の開発には、全面的にマリオが協力していたはず。そうでなくては工房を仕切ることなどできませんから。
斬新な色・形・材質による「お洒落なスーツ」の誕生。これは、マーケティングでいう「争点(論点)の移動」です。それまで「格を担保するための制服」だったスーツを、「日常のお洒落着」にした、ということですから。
これが定着すれば、グランチェッロ以外のスーツを着ている人は「野暮」ということになる。「新しいスーツ」は独占販売なわけです。しかも、日常に着るモノとなれば、一人の人間の購入数(在庫可能数)が激増します。「スーツ」の予算を奪い合うのではなく、「衣服費」全体がパイになる。
そして、その「争点の移動」を可能にしたのは、マスコミへの情報提供の一本化によるブランドイメージの確立と、商品品質の担保、そして、分業体制による「圧倒的な生産力」と、それによる売り場の独占……そんなところでしょうか。そして、この「商品品質」と「生産力」のバランスを担保していたのがマリオの存在だった……。
物語の後半、サルヴァトーレとマリオが対立するのは、このバランスを「生産力」側に傾けようとする力に対して、マリオがそれまで抱えてきた不満が爆発した、という展開になるわけですが、、、
ここが、どうしても脚本的に弱くなっているんですよね。
だって、マリオは「既製服スーツ」に不満はなかったはずなんですよ。
良く判らないけど、たぶん、一人の仕立て職人が型紙からポケットつけまでスーツ製造のすべての工程を一人でやるのが最高峰なんですよね?で、グランチェッロみたいな、型紙もある程度決まっている上、工程ごとに職人をわけて効率をあげるやり方は、スーツの格としては落ちるけど、だけど、技術の無い人間に簡単な仕事を与えて育てつつ、生産量をあげて価格を下げられる(大衆化)というメリットがある。
セルフ市場でのマーケティング理論を物語の中でうまく使ったなーと感心しつつ、結局のところ、景子さんの向かう方向はいつも同じなんだろうな、と思うんですよね。
毎回思いだすのは、「Hollywood Lover」での、ステファーノの台詞。
「『ハリウッド』の娯楽性と、俺の芸術の融合点を見つけるんだ」「大衆受けを狙ったゴージャスな映像を入れたからって、サラ・ベルナールのドラマが描けないってことにはならない。やるからには最高を目指す」っていう、あれです。
サルヴァトーレの一番の拘りを「伝統(クラシコ)」=手縫いでしか実現できない品質におきつつ、それでも、どこを妥協すれば「大衆」に届けることができるのか。それこそ、彼がマリオと徹底的に考えたところのはずですよね。
だったら、そこをもっともっと描いてほしかったと思うのです。
そこを曖昧に「既製服スーツは成功した」っていうところからスタートすると、マリオとサルヴァトーレが対立する意味がわからない。あるいは、最初から対立するしかなくなって、和解する意味がよくわからなくなってしまう。
大衆受けだけで創られたものは、愛されるけれどもすぐに飽きられてしまう。
芸術性だけで作られたものは、興味を持ってくれる「客」との出会いの場が少ない。
その両方の「良いところどり」をするための彼の努力が何だったのか、グランチェッロの「既製服スーツ」が守ろうとしたものが何なのか、、、それを、もっとちゃんと描いてほしかったなあ……と思うんですよね。
そこが「対立軸」であるべきだったと思うし、そこが解決したときに「和解」がある、っていう展開じゃないと、すごく中途半端な印象が残ってしまうな、と。
サルヴァトーレがナポリに帰って伝統の技を伝えて行こうと決意するのは、いい。
でも、そのときに、彼が元々希求していたはずの「大衆に届けられるスーツ」という夢はどうなったのかの結論だけは、きちんと片づけてほしかったなと思うのです。
サルヴァトーレにとって、アメリカに進出するという夢を見ることは必要でした。その夢に破れることも、それで目が覚めることも。
でも、「目が醒めた」結果、ナポリに帰って「サルヴァトーレ・フェリのスーツじゃなきゃ着ない」という目が肥えたお客さんだけを相手にする商売に戻る、っていうのは違うんじゃないか?と思わずにはいられない。グランチェッロの、「大衆の手に届く、着ているだけで幸せになれる軽やかなスーツ」みたいなコンセプトを、ジュリアーノは本当に守ってくれるんでしょうか。マリオもサルヴァトーレもいないのに。
なんて、いろいろ書いていますが、まあその程度なら普通は芝居でカバーできるんですよね。
ちょっと物語後半の無理やりさがあるだけなんだから。
でも、それを芝居でフォローするには、みっちゃんのマリオが残念ながら力不足だったな、と思います。みっちゃんは、技術力が高いだけに「一人の人物としての共感」を得る前に「場面ごとに最適化した芝居」をしてしまう人なので、工房にいるときと酒場にいるときで全くの別人になってしまうんですよね……。
さすがみっちゃんで、酒場の場面の芝居はそこだけ観ると凄く良いんだけど、工房でサルヴァトーレと対立している場面の人物像とは全くつながらない。サルヴァトーレの幼馴染で、仲良くやってきた単なる「良い奴」に見える。声もアクセントも、語尾の切り方さえ違う。場面によってそういうところを変えられるのは技術としてすごいなと思うけど、大した時間が過ぎたわけでもない同じ一人の人物を演じているはずなのに、何故変える必要があるのか、と思うんですよね……。
みっちゃんをマリオに据えるなら、対立軸を整理して、サルヴァトーレとマリオは和解せずに終わらせた方が良かったんじゃないかと思いました。いえ、具体的にどうすればいい、というアイディアがあるわけではないのですが。
んー、初日直後に観た時は、みっちゃんもそこまで違和感なかったんだけどなあ……(; ;)。
本題とは全く関係ない話で恐縮ですが。
明日(11月8日)は、日本青年館公演「血と砂」の千秋楽からちょうど10年の記念日になります。
今年のスケジュールが発表されたときは「おお~」と思ったこの日付。
今となってはごく普通の良作公演の千秋楽で、私自身は普通に働いて過ごしていたし、明日は研修の後「カナリア」観劇だし。あははー、という感じなのですが、やっぱり、いろいろ考えることはありますね。
2001年という年は、大空さんのファンにとっても、そして現代に生きる人間としても、大きな事件のあった濃い一年間で、思い起こせば本当にいろいろなことがありました。
あれから10年目にあたる今年は、何かにつけて「あれから10年……」と思うことがたくさんあるのですが。そんな中でも、11月8日という日付は、やっぱりすごく思い入れがあるんですよね……。
それにしても。バウの初主演から10年間在籍した人って、過去に存在するんだろうか?(←祐飛さんがすべての前例です)
そして、もっと全然関係ないのですが!
「クラシコ」と入力したいのに、何度やっても懲りずに「暮らし粉」と変換してくれる私のパソコン。なんか料理でもしてくれるのか君は!
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あもたまさん(天羽珠紀)、
珠洲(春希)さん、
綾音らいらさん、
(琴羽)桜子、
(美影)凜ちゃん、
こーまい(光海舞人)、、、
みなさん、ご卒業おめでとうございます!!
CSニュースは明日ですよね。ドキドキ……(朝から泣かないように)
10月11月となんだかんだいろいろあって、宙組公演の感想は最初の週の遠征先でちょこっと書いただけになってしまいましたが、もちろんあの後もちゃんと観ておりまして(さすがに、梅田まで行って花組だけ観て帰ったりしない笑)、観るたびにツボが増えています。
作品自体も佳作なんですが、それを出演者たちが盛り上げて、徐々に「名作」に近づけている、という手応えがあるんじゃないかな。
ゆうひさん・すみ花ちゃんは最初からある程度出来上がっていたし、テルくんも良かったけど、たとえば撮影チームのアシスタント(りく・モンチ)とか、仮面劇団メンバーとか、新公を終えて公演後半に入ったあたりで個性が出てきて、人間関係も見えて面白くなったなあ、と。
特に、帰国が決定した後の撮影チームで、レニーにかなり心酔してるっぽいモンチと、そんな彼を心配そうに見守るカメラマンのかいちゃんのちょっとした小芝居が大好きだったりします。
あああ、東京公演が本当に待ち遠しい!!
ただ、特に「クラシコ・イタリアーノ」については、手放しで「素晴らしい名作!」だと思っているわけではないんですよね。もちろんいい話だし、キャスト含めた「舞台作品」としての完成度は高いと思うし大好きなんですけど、「名作」にカウントするにはちょっと設定に無駄が多いな、と。
……「無駄」という言葉がふさわしいのかどうかわかりませんが。えーっと、初見の時から気になっていたのは、物語の中で「対立軸」がぶれていること、でした。
物語の前半でフィーチャーされるのは、サルヴァトーレが始めた「既製服スーツ」。これは、オートクチュールとプレタポルテの対立ではないんですよね?サルヴァトーレの店ではどうやら分業によって効率化した手縫いの吊るし服を売っているらしいし。レニーが、初日の仕事を終えてから「ナポリ中のテーラーを回っ」て手に入れた服を翌日着てきているってことは、そういうことですよね?
袖丈やズボン丈くらいならすぐ直してくれるかもしれないけど、身頃や肩のラインまで一晩で直すのは無理でしょう。つまり、マリオが中心となったグランチェッロの工房のメンバーは、実際にそのスーツを着る人に逢うことなく型紙を取り、最後まで仕立てているわけです。
そして、そのスーツの製法の開発には、全面的にマリオが協力していたはず。そうでなくては工房を仕切ることなどできませんから。
斬新な色・形・材質による「お洒落なスーツ」の誕生。これは、マーケティングでいう「争点(論点)の移動」です。それまで「格を担保するための制服」だったスーツを、「日常のお洒落着」にした、ということですから。
これが定着すれば、グランチェッロ以外のスーツを着ている人は「野暮」ということになる。「新しいスーツ」は独占販売なわけです。しかも、日常に着るモノとなれば、一人の人間の購入数(在庫可能数)が激増します。「スーツ」の予算を奪い合うのではなく、「衣服費」全体がパイになる。
そして、その「争点の移動」を可能にしたのは、マスコミへの情報提供の一本化によるブランドイメージの確立と、商品品質の担保、そして、分業体制による「圧倒的な生産力」と、それによる売り場の独占……そんなところでしょうか。そして、この「商品品質」と「生産力」のバランスを担保していたのがマリオの存在だった……。
物語の後半、サルヴァトーレとマリオが対立するのは、このバランスを「生産力」側に傾けようとする力に対して、マリオがそれまで抱えてきた不満が爆発した、という展開になるわけですが、、、
ここが、どうしても脚本的に弱くなっているんですよね。
だって、マリオは「既製服スーツ」に不満はなかったはずなんですよ。
良く判らないけど、たぶん、一人の仕立て職人が型紙からポケットつけまでスーツ製造のすべての工程を一人でやるのが最高峰なんですよね?で、グランチェッロみたいな、型紙もある程度決まっている上、工程ごとに職人をわけて効率をあげるやり方は、スーツの格としては落ちるけど、だけど、技術の無い人間に簡単な仕事を与えて育てつつ、生産量をあげて価格を下げられる(大衆化)というメリットがある。
セルフ市場でのマーケティング理論を物語の中でうまく使ったなーと感心しつつ、結局のところ、景子さんの向かう方向はいつも同じなんだろうな、と思うんですよね。
毎回思いだすのは、「Hollywood Lover」での、ステファーノの台詞。
「『ハリウッド』の娯楽性と、俺の芸術の融合点を見つけるんだ」「大衆受けを狙ったゴージャスな映像を入れたからって、サラ・ベルナールのドラマが描けないってことにはならない。やるからには最高を目指す」っていう、あれです。
サルヴァトーレの一番の拘りを「伝統(クラシコ)」=手縫いでしか実現できない品質におきつつ、それでも、どこを妥協すれば「大衆」に届けることができるのか。それこそ、彼がマリオと徹底的に考えたところのはずですよね。
だったら、そこをもっともっと描いてほしかったと思うのです。
そこを曖昧に「既製服スーツは成功した」っていうところからスタートすると、マリオとサルヴァトーレが対立する意味がわからない。あるいは、最初から対立するしかなくなって、和解する意味がよくわからなくなってしまう。
大衆受けだけで創られたものは、愛されるけれどもすぐに飽きられてしまう。
芸術性だけで作られたものは、興味を持ってくれる「客」との出会いの場が少ない。
その両方の「良いところどり」をするための彼の努力が何だったのか、グランチェッロの「既製服スーツ」が守ろうとしたものが何なのか、、、それを、もっとちゃんと描いてほしかったなあ……と思うんですよね。
そこが「対立軸」であるべきだったと思うし、そこが解決したときに「和解」がある、っていう展開じゃないと、すごく中途半端な印象が残ってしまうな、と。
サルヴァトーレがナポリに帰って伝統の技を伝えて行こうと決意するのは、いい。
でも、そのときに、彼が元々希求していたはずの「大衆に届けられるスーツ」という夢はどうなったのかの結論だけは、きちんと片づけてほしかったなと思うのです。
サルヴァトーレにとって、アメリカに進出するという夢を見ることは必要でした。その夢に破れることも、それで目が覚めることも。
でも、「目が醒めた」結果、ナポリに帰って「サルヴァトーレ・フェリのスーツじゃなきゃ着ない」という目が肥えたお客さんだけを相手にする商売に戻る、っていうのは違うんじゃないか?と思わずにはいられない。グランチェッロの、「大衆の手に届く、着ているだけで幸せになれる軽やかなスーツ」みたいなコンセプトを、ジュリアーノは本当に守ってくれるんでしょうか。マリオもサルヴァトーレもいないのに。
なんて、いろいろ書いていますが、まあその程度なら普通は芝居でカバーできるんですよね。
ちょっと物語後半の無理やりさがあるだけなんだから。
でも、それを芝居でフォローするには、みっちゃんのマリオが残念ながら力不足だったな、と思います。みっちゃんは、技術力が高いだけに「一人の人物としての共感」を得る前に「場面ごとに最適化した芝居」をしてしまう人なので、工房にいるときと酒場にいるときで全くの別人になってしまうんですよね……。
さすがみっちゃんで、酒場の場面の芝居はそこだけ観ると凄く良いんだけど、工房でサルヴァトーレと対立している場面の人物像とは全くつながらない。サルヴァトーレの幼馴染で、仲良くやってきた単なる「良い奴」に見える。声もアクセントも、語尾の切り方さえ違う。場面によってそういうところを変えられるのは技術としてすごいなと思うけど、大した時間が過ぎたわけでもない同じ一人の人物を演じているはずなのに、何故変える必要があるのか、と思うんですよね……。
みっちゃんをマリオに据えるなら、対立軸を整理して、サルヴァトーレとマリオは和解せずに終わらせた方が良かったんじゃないかと思いました。いえ、具体的にどうすればいい、というアイディアがあるわけではないのですが。
んー、初日直後に観た時は、みっちゃんもそこまで違和感なかったんだけどなあ……(; ;)。
本題とは全く関係ない話で恐縮ですが。
明日(11月8日)は、日本青年館公演「血と砂」の千秋楽からちょうど10年の記念日になります。
今年のスケジュールが発表されたときは「おお~」と思ったこの日付。
今となってはごく普通の良作公演の千秋楽で、私自身は普通に働いて過ごしていたし、明日は研修の後「カナリア」観劇だし。あははー、という感じなのですが、やっぱり、いろいろ考えることはありますね。
2001年という年は、大空さんのファンにとっても、そして現代に生きる人間としても、大きな事件のあった濃い一年間で、思い起こせば本当にいろいろなことがありました。
あれから10年目にあたる今年は、何かにつけて「あれから10年……」と思うことがたくさんあるのですが。そんな中でも、11月8日という日付は、やっぱりすごく思い入れがあるんですよね……。
それにしても。バウの初主演から10年間在籍した人って、過去に存在するんだろうか?(←祐飛さんがすべての前例です)
そして、もっと全然関係ないのですが!
「クラシコ」と入力したいのに、何度やっても懲りずに「暮らし粉」と変換してくれる私のパソコン。なんか料理でもしてくれるのか君は!
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コメント
何時も拭いきれなかった違和感が、腑に落ちました。
ありがとうございます。
「血と砂」から10年なのですね。
10年前には、今の状況を想像すらしていなかった。。。
この時をこの夢を、今しばし魅させて欲しいと思うのは、エゴとは知りつつ願ってしまします。
通りすがりの一人語り失礼致しました。
そうなんですよ。あれから10年なんですよ。
「血と砂」の時は、こんなことになるとは思わなかったどころか
あれが餞別だと思いこんでいたっけなあ……
今となっては懐かしいばかりです。
>この時をこの夢を、今しばし魅させて欲しいと
いま、あらためて「トラファルガー」を見ると、ちょっと挙動不審になります。
ラストシーンの「もう少しだけ……」とか(- -;