宙組公演「美しき生涯」について、続き。

このあたりから、私的には本題に入った感があります(^ ^)。



■第七場 大阪城(天正16年?)(←初が嫁いだのは天正15年。鶴松が生まれたのが17年)

江も初もそれぞれに嫁ぎ、大阪城に一人残された茶々。
「我が父は猿ではないっ!」と言い捨てた時から数年が過ぎ、「筑前」と呼び捨てていた頃から数えても2年ほどが過ぎて。

「茶々は上様にお願いがございます」

楚々と手をついて、頭を下げる姫君。

誇り高い茶々が、三成が欲しいと秀吉に頼む。気持ちは通じているはずなのに、いくら待っても何も言ってくれない三成への恋心、隠しきれない切ない女心。恋をしているからこそ女はより美しくなり、その美しさが権力者の所有欲を刺激する。

このとき茶々は満19歳。数えで20歳、そろそろ「薹がたった」と言われる年頃?
このまま放っておかれては、尼にでもなるしかない。そう思って、精一杯の勇気を出して、「猿」と蔑んできた男に頭を下げる。
三成を、愛しているから。

「三成には許嫁がおります。……宇多頼忠の娘、あやと申す者…」

前場で三成本人に問うたときには、許嫁などいないと言っていたのに。
そう思うそばから、三成の言葉が耳に蘇る。

「上様からご命があった場合には…」

どこか自信無さげな、あやふやな口調。それでも、嘘がつけない三成が言っていたことだから、たぶん、そういうことなのだろう、と、茶々にはわかる。
それ以上のことは、わからないにしても。

「姫様はもっと巨きな男をお望みなさいませ」

猫なで声で囁きながら、秀吉が茶々の手に触れる。
嫌そうに顔をそむけながら、それでも手を振り払うことのできない茶々にスポットが残って、暗転。



ふすまが一枚動いただけで、別室で秀吉と三成の会話が始まる。
この作品最大の見せ場の一つ!

いやはや。この場面は、一挙手一投足どころか、三成が身じろぐたびに揺れる髪の先の動きまで、なにもかも完璧だ!と叫びたくなるほど大好きです!!
って、あはははは。



……あまりにも萌え萌えすぎて止まらないので、ちょっと割愛させていただきます(^ ^)。



「愛と忠義 どちらを選べばいいのか……!!」

呻く三成。
懊悩する三成を囲んで、心配そうに見守る女童たち。

「名もなき少年 拾い上げ育ててくれた」
「今では立派なもののふ」
「上様への恩義、三成さまは忘れまじ」
「忘れまじ……」

繰り返される無邪気なコーラス。
邪気の無いのが一番おそろしい、と思ったりします。4人ともめっちゃ可愛いんですけど、ね!



■第八場 大阪城

隠し部屋(物置)で逢引している疾風とさぎり。
……逢引というか、さぎりを誘い込んだという意識なんでしょうか。疾風的には。

三成と茶々を監視する寧々の「耳」を、その場に留めようとする疾風。
「茶々を護る」という疾風の意志と、そんな疾風を愛してしまった さぎりの気持ち。

「今夜、お前に動かれては困るのだ…」

うすうす疾風の気持ちに気付いていながら、進んでその手に囚われようとする女。
さぎりの本心に気付いていながら、見ないふりで茶々を護ろうとする疾風。

新人公演の疾風は、護りたいのが茶々なのか三成なのか途中からわからなくなっていたような気がしますが、本公演の疾風は、すべての関心があくまでも茶々に向いていたと思います。

考えれば考えるほど、根本的に設定の違う演出になっていたんですねえ……(しみじみ納得)。



同じ頃、茶々の部屋での三成と茶々。
いやー、ここに至る一連の場面の流れは素晴らしい!と、観るたびに感心しています。

愛する女を犠牲に捧げて社会的正義(「民の平安」)を実現しようとする三成と、彼の理想を受け容れて、共に生きようと決意する女。
「きれいごと」と片づけられがちなテーマだと思うんですが、二人の芝居が、ちゃんと「人間としての実感」を伴って伝わってくるところが、とても好きです。

思想的な背景は、かなりキリスト教的なものに近いと思うんですよね。
愛する女=一番大切なものを犠牲に捧げて、社会的正義(「民の平安」)を実現しようとする三成。これってあんまり日本の思想風土には無い考え方だと思うんですよ。毎夜の祈りの時間に、一番大切なもの(クリスチャンであればイエス・キリスト)を心の祭壇に捧げて、自分の心の平安を祈るのがキリスト教の本質であるとするならば、それにかなり近い思想だと思うのです。

愛する女だからこそ、心から大切に思っているものだからこそ、躊躇なく犠牲に捧げる。神に命じられて息子を捧げようとするアブラハムのように。
でも、その捧げものに価値があるから、神が望みを叶えてくれる、、、っていうのとはちょっと違うんですよね。自分が大切に思うものだからこそ、それを神にお返しする、それだけです。お返しすることによって、代わりに得られるのは、神の守護。利益そのものじゃないんですよね。「神が自分を見ていてくださる」という確信。あるいは、「神が見ているのだから、自分は間違っていない(間違うはずがない)」という確信。

「自分は間違っていない」という確信を得たときに、人は思いもよらない力を発揮します。とくに、それが社会的正義(と自分が信じるもの)の実現に向いた時のパワーは、十字軍にせよイエズス会による宣教活動にせよ、半端ないものがあります。勘違いでも何でも、それこそが西洋社会の発展を支えた原動力であり、近代文明への扉を開くきっかけでもあったのですから。


三成がキリシタンであったという事実はありませんが、この時代、経済に関係のする人間なら誰だって宣教師とはある程度の交流があったはずで、こういう思想が出てきても違和感はないんですよね。考え方自体は、宗教とは無関係な人間の心理として、ありな考え方だと思うし。
ただ、脚本的に直接表現が全くないので、どうなんだろう?とは思いますが。大石さんが三成をキリシタンだと解釈しているとも思えないし。どういう思想的背景をもってここの場面を描いたのか?というのは、是非とも聞いてみたいポイントではありますが。


ま、でも。
いずれにしても、茶々は三成の懇請を受け容れ、秀吉の側室となることを肯います。
それと引き換えに彼女が望むのは、初恋の男との一夜。

「ただ一度、義を棄てて、愛に生きておくれ……」

女には、思想もへったくれもない。
ただ、絶対に自分からは求めてくれない恋しい男が欲しい一心で、願いを口にしてしまう。
彼を苦しめてしまうことは判っている。でも、自分だって苦しい。だから、愛していると言っておくれ。たとえ一夜の夢であっても、夢を見せて慰めておくれ。

こんなことでもなければ、三成は決して行動してはくれなかったでしょう。
だから。もしかしたら、茶々にとっても渡りに船だったのかもしれません。だってほら、三成がこの躯を抱きしめてくれる。

今この時だけは、この男は妾のもの。
明日はまた関白のものになってしまうとしても、今夜だけは。



愛する女の「一生に一度の願い」を、三成は断れない。
だから、すべての罪を自分で背負っていこうとする。

柴田攻めの時などには結構謀略的なことも担当していたはずの三成が、夜討ちもできないほど莫迦正直な「義」一本の男になってしまったのは、この、たった一夜に棄ててしまった「義」を拾い集めるためだったんじゃないか?と思っています。
彼なりに、主君を裏切ってしまったことを償おうとして、戦国の世を生き抜いた武将としてはあり得ないほど、杓子定規に「義に生きる」男になりきろうとしたのではないか、と。

……ただ一度の過ちを、覆い隠すために。




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