宝塚大劇場にて、宙組公演「誰がために鐘は鳴る」を観劇してまいりました。
三度目の遠征にして、やっと見えてきたものもあり、……東宝公演がとても楽しみになりました!(^ ^)



何が見えてきたか、というと……ですね、
これが言葉で説明するのがすごく難しいのですが(^ ^;、
「やっと鐘の音が聞こえてきた」…というのが一番近いのかな…?
物語の最初から最後まで、可聴域外の音で鳴り続ける、通奏低音のような鐘の音、が。

ロベルトが聴いている鐘の音と、パブロが聴いている鐘の音、そして、アグスティンが、フェルナンドが、エラディオが聴いている鐘の音……それらすべてが、それぞれに違う音だということがわかったような気がしました。
マリアの聴いている音も、ピラールが聴いている音も違う。ローサに聴こえる音も、カシュキンが聴いていたであろう音も、全く違う音だったんだろうな、と。
もちろん、参謀本部のメンバーが聴いている音はまた全然違うものなのでしょうね。見えている「世界」も全然違うものなのだから。


誰のために鳴るのか、鐘は。
誰のために戦うのか、俺たちは。

誰のために死んでいくのか、ひとびとは。


その「Who」あるいは「Whom」の答えを持って舞台に立っている人と、答えを持っていない人。
公演も終盤に入って、その差が大きくなってきたような気がしました。




スペイン内戦。
ドイツ・イタリアのファシズムとロシア共産主義の代理戦争に、「資本主義国家」の知識人たちが横槍を入れた、第二次世界大戦の前哨戦。
あの山中にいるゲリラたちは、本来は共産ゲリラなんですよね。まあ、学生運動と違って教育を受けてゲリラになった訳じゃないから、思想的には大したことないんでしょうけれども、彼らが夢見る「自由スペイン」は、共産主義をベースにしていたはずなんですよね。
あんまりそういう会話が出てこないから気がつかないけど、ロベルトがイメージするアメリカ式・資本主義の「自由」とは違うものを想像しているのかもしれない。「自由競争」なんて、彼らはそんなこと、全然考えていなかったのかもしれない。

パブロが叫ぶ「インテリさんの自己満足か」という台詞が、だいぶ重たくなってきたな、と思いました。

参謀本部のメンバーとロベルト、ロベルトとパブロ、ロベルトとゲリラたち、パブロとゲリラたち。
彼らの、それぞれの政治的な立場、思想的な立ち位置、そして、視えている世界と聴こえている音。
違う世界に生きている彼らが、一つの任務をきっかけに出会い、そしてすれ違う、
その一瞬の、重み。

彼らの聴いた鐘の音は、いったいどんな音だったんでしょうね。
彼らが護ろうとしたものは。彼らが夢見た未来、は?

「戦争なんてくだらねぇ!」
ロバート・ジョーダンが決して口にしないこの一言が、やっぱりこの作品のテーマだったのかな、と、3回目の遠征にしてやっと思いました。




そして、もうひとつ。
……やっと、『野々すみ花』と『マリア』が、少しづつ重なってきたような気が、しました。

具体的に何が変った、何が前と違う、とか具体的には言えないんですけどね。すみ花ちゃんのマリアが変ったな、というのと、それを受ける祐飛さんのロベルトも変った、どちらが先に変ったのか判らないけれども、確かに両方ともが一週間前とは違う…そんな気がしました。

うーん。なんだか全然わからないですよね。……すみません。



正直に言えば、私はもともと、マリアという人物にはあまり共感できていなかったんです。
原作は昔々に読んだっきりで、すっからかんと忘れていたのですが(^ ^;ゞ、、、ものすごーーーーく即物的な、『男目線の物語』だ、という印象だけは残っていたんですよね。
これは、「誰がために~」がどうこう、というよりは、ヘミングウェイ全般に対する印象だと思うのですが。

それを、ロマンティストでフェミニストな柴田さんがどう脚色したんだろう…?というのは、観劇するまでずっと疑問に思っていたんですよ。
で、実際に観劇してみて、「あれっ?」と思って。
やっぱり、「マリア」がどういう女性なのか、良く分からない。類型的で男にとって都合のいい女、男の本能によって傷つけられたにも関わらず、それに対する嫌悪感を持たない女。原作の中の「マリア」のままに描かれていて。やっぱり、この作品の中で必要とされる「マリア」の要素はそれなのか、と。それって、女性の目で見てあまり気持ちのいいものじゃないんだけどなあ、と思っていたんですよね。(映画は未見のため、バーグマンがどんなマリアだったのか判ってません。すみません)


なのに。

……何が違ったんでしょうねえ……(あれ?)

うーん、なんとなく、なんですが。
……すみ花ちゃん、吹っ切れたのかな、と思いました(^ ^;。



マリアって矛盾の塊だと思うんですよ。
思い出したくもない体験を語りたがり(語ることは思い出すことです)、好きな男にそれを聞いてもらいたがるあたりとか、すっごい自虐的だなあ、と。
ただ、キスの件りは、そっか、キスは初めてなのかと思ったらすごく切なくなったんですけどね……(T T)でも、物語全体として俯瞰すると、そういう面ばかりじゃないんだあ、と思う。

でも。
すみ花ちゃんって、あんまり「自虐的」な闇は無い人だと思うのです。
だから、「ずれ」を感じていたのかな、という気がして。

だけど今回観劇して、なんとなく、マリアの「光」が明るくなって、その分「闇」も濃くなったような気がしたんです。
そのコントラストで、「マリア」という存在が立体的になって、「ロベルトの視るマリア」が、私にも視えてきた……のかな?と。

……やっぱり、うまく説明できないですね。すみません。




マリアが微笑って、恐れ気もなくロベルトに触れることができるのは、ピラール(京)が彼女を護っていたから、なんでしょうね。
「シャングリラ」の美雨が、両親を殺したソラを許すことができたように、愛を与えられた若木の立ち直りは案外早いのでしょう。
たった3ヶ月、されども3ヶ月。傷が完全に癒えたわけではないにせよ、人と触れ合うことくらいはできるようになっていたのは、とにかくピラールの存在が大きかったことでしょう。
もちろん、パブロ(星原)のぶっきらぼうな愛情は感じていたでしょうし、アグスティン(蘭寿)が見守っているのを無意識に感じ取っていたのかもしれないし、ホアキン(凪七)の優しさに救われたりもしていたでしょうけれども。

でも、両親を奪われたマリアを救ったのは「母親代わり」のピラールであり、彼女は同時に、「父親」代わりにマリアを護ってもいたはず。
そんなピラールにとって、マリアを奪っていくロベルトという存在は、もう少し微妙な存在だったんじゃないかと思うんですけどね。そこでそういう素振りをさせないのが、ヘミングウェイらしい(^ ^)。

そういえば。
ピラールがマリアを愛したのは、「娘みたい」だから、というだけなのか、もっと違う感情があったのか?、……という疑問を、原作を読んだときに思ったなあ……。
どうなんでしょうね。そこんところは。ピラールにそれ以外の感情があったとすると、ピラールとロベルトの関係も結構面白いことになるような気がするのですが。

……考えすぎかな、やっぱ(^ ^;



コメント

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hanihani
2010年12月8日11:21

深くなってきましたね、ふふ

これで、32年前なら東宝3Fで30回観ることも可能なんですが
今はチケット代金が高すぎて無理。
そういう点でもディープなファンを拒否の姿勢が見えますよね・・・

あと、裏の大劇場が雪組「ロミジュリ」なので、財政的にも破綻しそうで
絶対に通い倒せないのが辛い。
今年の1月の「カサブランカ」の無理が5月くらいまでたたったのよね(涙)

しかも1月に組織改正で色々とまずい方向に進んでいる模様だし
お休みが取り難くなりそうです。

みつきねこ
2010年12月9日0:00

hanihaniさま、いつもありがとうございます♪
見えないものも多い三階席でしたが、やっぱり楽しかったですよね。
たしかに、宙組と雪組が「あなたと私は裏表~」になる来年早々は、かなり厳しいですよね(^ ^;
っていうか、私にとっては、いずれ東宝に来てくれる雪組さんよりも、月組のバウの方が厳しいかもしれませんが(涙)。

> しかも1月に組織改正で色々とまずい方向に進んでいる模様だしお休みが取り難くなりそうです。

あららー。
私も今年異動してから色々あって、平日の観劇はことごとく飛ばしているかも(汗)。
hanihaniさんもがんばってくださいね!

nophoto
そら猫
2010年12月9日0:57

はじめまして。いつも楽しく読ませていただいてます。初日に見ただけなので感想が上がるのが楽しみでした。小説、映画、初演(全く記憶にない 笑)と辿るとパパヘミングウェイの作品は、男性的であらねばという意識が強すぎて、日本人の草食女子にはど-なんだという感じがします。マリアは難役ですね。柴田先生の意図はわからないのですが、マリアはファシストに傷つけられたスペイン、ロベルトは憧れの自由主義のそれぞれ象徴ではないかと思ったりしました。スペインを愛していたヘミングウェイにとってこの構図が根底かなと思うのです。考えすぎですか?
東宝で何度か見るつもりなので、初日からの変化を楽しみに。また感想を待っております。

みつきねこ
2010年12月9日4:00

そら猫さま、コメントありがとうございます!

> パパヘミングウェイの作品は、男性的であらねばという意識が強すぎて

そうなんですよね。物語が男性原理で動いているので、特に女性の描き方がなんか納得しがたかったりすることが多い気がします。

> マリアはファシストに傷つけられたスペイン、ロベルトは憧れの自由主義のそれぞれ象徴ではないかと思ったりしました。

そういう解釈はあるみたいですね(^ ^)ヘミングウェイはそういう視点で世界をみていた人なんだろうな、と思うと、いろんなことが腑に落ちるような気がします。「The Last Party」で描かれたフィッツジェラルドとの確執も、必然だったんだな、……とか。
ただ、祐飛さんとすみ花ちゃんは、「象徴」ではなく生身の人間として役を創っているし、柴田さんも彼らを象徴だとは考えていらっしゃらないような気がしますが、どうなんでしょうね。……あ。木村さんのイマジネーションは、私にはよく判りません(^ ^;ゞ。