全国ツアーの銀ちゃん【2】
2010年9月25日 宝塚(宙)グリーンホール相模大野にて、宙組全国ツアー「銀ちゃんの恋」を観劇してまいりました♪
えーっと。まず何から書きましょうか。
先日疑問を投げた、池田屋の撮影直前の監督の各部署への確認に対する返事を真剣に聞いてみました。(そこから?)
iさまからコメントをいただきましたが、
光海→天風→松風→月映→星吹→星月、かな?と思いました(違ったらすみません)。
松風~星吹はたぶん確実。星月さんも、香盤順だというのが本当なら、多分。
こーまいと天風さんは今一つ確信ないけど、ちや姉とさっつんは違うような気がするので、この二人なのかな、と。
あと、声つながりでもう一つ。任侠の場面のラストにもスタッフの声が入りますが、これはさっつんで合っているでしょうか……?
全国ツアーらしいアドリブは……
ヤスは、グリーンホールの天辺から隣の立体駐車場に飛び降りるそうです。
助監督のカチンコは「中華街で逢いましょう」。休憩の飯は中華街で食うそうです。橘の次の出演は「神奈川テレビ」。あと何があったっけ。相変わらずアドリブは満載ですが、東京に近いだけにちょっとネタが難しそうでした。
梅田から始まった全国ツアーも、20日が過ぎて、明日で千秋楽。
中京からでも二週間たっていて、その間にもいろいろな公演地で、いろいろな劇場で演じてこられたせいか、随分いろんな化学変化が起きたなあ、としみじみと思いました。
作品世界は同じなんだけど、役者同士の生の感情がちゃんとぶつかりあっていて、リアルタイムで物語が動いているのを肌身で感じます。
銀ちゃんと小夏がさらに進化して、
ヤスも専務も、纏う空気がずいぶん変って、、、
中京で「変わった!」と思った橘が、もう一化けしていたのも印象的。
そして。
「銀ちゃんの恋」は、やっぱり名作なんだなあ、と、あらためて思いました。
宝塚らしくない作品だと言われていますけれども、もしかしたらこんなに「宝塚」が愛おしくなる作品も無いのかもしれません。
映画に命を懸けた男たちの生き様は、宝塚に命を懸けたジェンヌたちの生き様につながる、と、観ていてしみじみと思うんですよね。祐飛さんが卒業しても、またいつか、ふさわしい人が出てきたら上演してほしいな、と思います。
いや、現時点で、祐飛さん以外に銀ちゃんを演じてほしい人を見つけてはいませんが(^ ^)。
で。
ヤスのみっちゃん(北翔海莉)については、今まであまり書かずにきたので、今回ちょっとまとめて書いてみたいと思います。
……どうしてもみつるくん(華形ひかる)や汐風幸ちゃんと比べた表現が多くなってしまうと思いますので、不愉快に感じる方がいらっしゃるかもしれません。ごめんなさい。(あらかじめ)
あ、でも、その前にどうでもいいことをひとつ(^ ^)。
ヤスが小夏を罵る場面で、花組版にはカマボコの食べ方に関するコメントがあったのですが、あれってどうして無くなったんでしょう?みつるくんが言うのを聞くたびに、「……はいぃ?」と思っていたので、無くても全然問題はないのですが(^ ^)、こうあっさりと無くなってみると拍子抜けしてしまいます(苦笑)。
さて。
今回、みっちゃんのヤスを観ていて思ったことは、
このヤスは、銀ちゃんを超えたいと思っているんだろうか……?、ということでした。
みつるは(そして、たぶん幸ちゃんも)、銀ちゃんを超えようなんて考えもしないヤスだったと思うんですよね。…あ、いえ、幸ちゃんは生で観ていないので違うかもしれません(汗)が、少なくともみつるはそうだったと思うんです。
小夏が自分を選んだことを信じることができないのも同じ理由。銀ちゃんを超えることが自分にとってどれだけの負荷になるか判っているから、そんなこと認められる筈もない、って感じ。
芝居としての違いが印象的だったのは、池田屋階段落ちの撮影を始めるぞ、という段になって、散開するときの銀ちゃんとヤスの無言のやり取りでした。
花組版では、立ちあがった銀ちゃんと二階にスタンバイするために階段に向かうヤスが視線を合わせる瞬間に、ヤスは銀ちゃんに何か言葉を言いかけるんですよね。でも、声になる前に銀ちゃんは眼を逸らして行ってしまい、ヤスは遣る瀬無くそれを見送って、ちょっとうなだれて、そして、貌をあげて階段を駆け上がり、振り返らずに障子の向こうに消えていく。
今回の宙組版では、ヤスのリアクションは大きくない。二人は落ち着いて視線を交わし、言葉を交わさずに銀ちゃんは背をむける。
そして。梅田で観たとき一番驚いたのは、階段を駆け上がったヤスが、部屋に入る前に立ち止まって振り向いた(階段を見下ろした)ことでした。
うっわーーー、全然ちがーーーう!
たったそれだけの仕草の違いで、「銀ちゃんのため」ではなく、「映画のため」あるいは「自分自身のため」に命を懸けたヤスになったな、と思いました。
みっちゃんのヤスは、小夏が、銀ちゃんじゃなくて自分を選んだことを理解しているんだな、と。
そんなことを望んでいたわけではないのだけれども、結果的に銀ちゃんから小夏を奪った自分に罰を与えようとする。もちろん、その罰は階段落ちをすることなんかじゃない。その罰こそが、「銀ちゃんを超えること」だったのではないでしょうか。
それが銀ちゃんの希みなのだから。
銀ちゃんは、自分を超えてくれる人を待っている。
いや、正確には超えてほしくはないのかもしれないけど(- -;)、ただ独りで道なき道を歩くことに厭いて、一緒に歩いてくれる人が欲しい。それは小夏でも良かったし、ヤスでもいいし、たぶん橘でもいいんですよ。誰でも良いの。自分をこの孤独から救ってくれるなら。
でも、孤独じゃない銀ちゃんは、もう銀ちゃんではいられない。
だから、ヤスも銀ちゃんを超えた瞬間に壊れてしまうだろう。自分が銀ちゃんを壊したと知ったときに。
銀ちゃんを超えようとするヤス。
超えてしまえば自ら壊れるしかないのに、脇目も振らずに超えようとする、その短絡的な怖さ。
みっちゃんは、その怖さ、ヤスというキャラクターにとって銀ちゃんを超えるということがどういうことなのか、それを認識した上で役づくりしているのだろうか、と思いました。
いやー、怖いひとだなあ……(^ ^;
みっちゃんは、今の宝塚で一、二を争うハイレベルなパフォーマーだと思うんですよね。テクニカルな面でみっちゃんを超える人って何人もいないし、声のバリエーションも豊富で、仕草一つとっても、すごくしっかり考えて役を創る人だと思う。
ただ、それがどうしても「頭で構成した」っぽく見えてしまいがちな部分があって、損なタイプだなあと思っています。なまじテクニカルに優れていて、色んな声が出せたり姿勢や仕草を場面ごとに変えられたり、いろんなことができるだけに、ひとつ間違うと通し役に見えないときがあったりとか。
ヤスはやっぱり、声にしても仕草にしてもタカラヅカの男役的には極端な芝居を必要とする役なので、みっちゃんみたいな器用なタイプが演じる場合には要注意……というか、危険な役なのかもね、と思いました。
そして。
興味深いのは、階段落ち直前の夕方(?)、階段で釘を見つけて怒りだしてから、銀ちゃんに殴られるまでの芝居の解釈、でしょうか。
宙組版のみっちゃんは、この場面、解釈としては『銀ちゃんを立ち直らせるために(?)』わざと怒らせようと画策している って感じに見えて仕方がありませんでした。
花組版のみつるは、銀ちゃんが振り向いてくれない苛立ちをぶつけているように見えたのですが、みっちゃんにはもっとずっと作為的なものを感じたんですよね。
銀ちゃんのために、っていう。
それは、銀ちゃんを超えようと(あるいは、超えたと)思っている人にしか持ちえない感情で、そういうところまで含めて、一環した役づくりなんだろうか、と。
そんなヤスの思惑を、平気で踏みつけて、飛び去っていく銀ちゃん。
「上がってこい、ヤス、上がってこい!……ここまで!!」
手を差し伸べてそう叫ぶ銀ちゃんの纏う、真っ白い光。
たぶんヤスは、階段の中ほどで銀ちゃんを見上げたときに思ったんじゃないかと思う。
俺が超えようとしたのは、超えたいと願ったのは、この光なのか?、と。
皓いひかりに包まれて、ヤスは夢を視る。
銀ちゃんが傍に居て、微笑ってくれる夢、を。
人吉の盆踊りの後、並んで敷かれた布団を引き寄せながらイヤラシイ感じにオヤジ臭く笑ってみたり、
小夏さんを大切にしますから!で泣きすぎだったり、
……ただの“普通の”日常でも、『芝居がかった生活を送っている人』みたいに見えた、みっちゃんのヤス。
ある意味、とっても興味深い人物だなと思いました。
みっちゃん、やっぱり面白いなあ。
.
えーっと。まず何から書きましょうか。
先日疑問を投げた、池田屋の撮影直前の監督の各部署への確認に対する返事を真剣に聞いてみました。(そこから?)
iさまからコメントをいただきましたが、
光海→天風→松風→月映→星吹→星月、かな?と思いました(違ったらすみません)。
松風~星吹はたぶん確実。星月さんも、香盤順だというのが本当なら、多分。
こーまいと天風さんは今一つ確信ないけど、ちや姉とさっつんは違うような気がするので、この二人なのかな、と。
あと、声つながりでもう一つ。任侠の場面のラストにもスタッフの声が入りますが、これはさっつんで合っているでしょうか……?
全国ツアーらしいアドリブは……
ヤスは、グリーンホールの天辺から隣の立体駐車場に飛び降りるそうです。
助監督のカチンコは「中華街で逢いましょう」。休憩の飯は中華街で食うそうです。橘の次の出演は「神奈川テレビ」。あと何があったっけ。相変わらずアドリブは満載ですが、東京に近いだけにちょっとネタが難しそうでした。
梅田から始まった全国ツアーも、20日が過ぎて、明日で千秋楽。
中京からでも二週間たっていて、その間にもいろいろな公演地で、いろいろな劇場で演じてこられたせいか、随分いろんな化学変化が起きたなあ、としみじみと思いました。
作品世界は同じなんだけど、役者同士の生の感情がちゃんとぶつかりあっていて、リアルタイムで物語が動いているのを肌身で感じます。
銀ちゃんと小夏がさらに進化して、
ヤスも専務も、纏う空気がずいぶん変って、、、
中京で「変わった!」と思った橘が、もう一化けしていたのも印象的。
そして。
「銀ちゃんの恋」は、やっぱり名作なんだなあ、と、あらためて思いました。
宝塚らしくない作品だと言われていますけれども、もしかしたらこんなに「宝塚」が愛おしくなる作品も無いのかもしれません。
映画に命を懸けた男たちの生き様は、宝塚に命を懸けたジェンヌたちの生き様につながる、と、観ていてしみじみと思うんですよね。祐飛さんが卒業しても、またいつか、ふさわしい人が出てきたら上演してほしいな、と思います。
いや、現時点で、祐飛さん以外に銀ちゃんを演じてほしい人を見つけてはいませんが(^ ^)。
で。
ヤスのみっちゃん(北翔海莉)については、今まであまり書かずにきたので、今回ちょっとまとめて書いてみたいと思います。
……どうしてもみつるくん(華形ひかる)や汐風幸ちゃんと比べた表現が多くなってしまうと思いますので、不愉快に感じる方がいらっしゃるかもしれません。ごめんなさい。(あらかじめ)
あ、でも、その前にどうでもいいことをひとつ(^ ^)。
ヤスが小夏を罵る場面で、花組版にはカマボコの食べ方に関するコメントがあったのですが、あれってどうして無くなったんでしょう?みつるくんが言うのを聞くたびに、「……はいぃ?」と思っていたので、無くても全然問題はないのですが(^ ^)、こうあっさりと無くなってみると拍子抜けしてしまいます(苦笑)。
さて。
今回、みっちゃんのヤスを観ていて思ったことは、
このヤスは、銀ちゃんを超えたいと思っているんだろうか……?、ということでした。
みつるは(そして、たぶん幸ちゃんも)、銀ちゃんを超えようなんて考えもしないヤスだったと思うんですよね。…あ、いえ、幸ちゃんは生で観ていないので違うかもしれません(汗)が、少なくともみつるはそうだったと思うんです。
小夏が自分を選んだことを信じることができないのも同じ理由。銀ちゃんを超えることが自分にとってどれだけの負荷になるか判っているから、そんなこと認められる筈もない、って感じ。
芝居としての違いが印象的だったのは、池田屋階段落ちの撮影を始めるぞ、という段になって、散開するときの銀ちゃんとヤスの無言のやり取りでした。
花組版では、立ちあがった銀ちゃんと二階にスタンバイするために階段に向かうヤスが視線を合わせる瞬間に、ヤスは銀ちゃんに何か言葉を言いかけるんですよね。でも、声になる前に銀ちゃんは眼を逸らして行ってしまい、ヤスは遣る瀬無くそれを見送って、ちょっとうなだれて、そして、貌をあげて階段を駆け上がり、振り返らずに障子の向こうに消えていく。
今回の宙組版では、ヤスのリアクションは大きくない。二人は落ち着いて視線を交わし、言葉を交わさずに銀ちゃんは背をむける。
そして。梅田で観たとき一番驚いたのは、階段を駆け上がったヤスが、部屋に入る前に立ち止まって振り向いた(階段を見下ろした)ことでした。
うっわーーー、全然ちがーーーう!
たったそれだけの仕草の違いで、「銀ちゃんのため」ではなく、「映画のため」あるいは「自分自身のため」に命を懸けたヤスになったな、と思いました。
みっちゃんのヤスは、小夏が、銀ちゃんじゃなくて自分を選んだことを理解しているんだな、と。
そんなことを望んでいたわけではないのだけれども、結果的に銀ちゃんから小夏を奪った自分に罰を与えようとする。もちろん、その罰は階段落ちをすることなんかじゃない。その罰こそが、「銀ちゃんを超えること」だったのではないでしょうか。
それが銀ちゃんの希みなのだから。
銀ちゃんは、自分を超えてくれる人を待っている。
いや、正確には超えてほしくはないのかもしれないけど(- -;)、ただ独りで道なき道を歩くことに厭いて、一緒に歩いてくれる人が欲しい。それは小夏でも良かったし、ヤスでもいいし、たぶん橘でもいいんですよ。誰でも良いの。自分をこの孤独から救ってくれるなら。
でも、孤独じゃない銀ちゃんは、もう銀ちゃんではいられない。
だから、ヤスも銀ちゃんを超えた瞬間に壊れてしまうだろう。自分が銀ちゃんを壊したと知ったときに。
銀ちゃんを超えようとするヤス。
超えてしまえば自ら壊れるしかないのに、脇目も振らずに超えようとする、その短絡的な怖さ。
みっちゃんは、その怖さ、ヤスというキャラクターにとって銀ちゃんを超えるということがどういうことなのか、それを認識した上で役づくりしているのだろうか、と思いました。
いやー、怖いひとだなあ……(^ ^;
みっちゃんは、今の宝塚で一、二を争うハイレベルなパフォーマーだと思うんですよね。テクニカルな面でみっちゃんを超える人って何人もいないし、声のバリエーションも豊富で、仕草一つとっても、すごくしっかり考えて役を創る人だと思う。
ただ、それがどうしても「頭で構成した」っぽく見えてしまいがちな部分があって、損なタイプだなあと思っています。なまじテクニカルに優れていて、色んな声が出せたり姿勢や仕草を場面ごとに変えられたり、いろんなことができるだけに、ひとつ間違うと通し役に見えないときがあったりとか。
ヤスはやっぱり、声にしても仕草にしてもタカラヅカの男役的には極端な芝居を必要とする役なので、みっちゃんみたいな器用なタイプが演じる場合には要注意……というか、危険な役なのかもね、と思いました。
そして。
興味深いのは、階段落ち直前の夕方(?)、階段で釘を見つけて怒りだしてから、銀ちゃんに殴られるまでの芝居の解釈、でしょうか。
宙組版のみっちゃんは、この場面、解釈としては『銀ちゃんを立ち直らせるために(?)』わざと怒らせようと画策している って感じに見えて仕方がありませんでした。
花組版のみつるは、銀ちゃんが振り向いてくれない苛立ちをぶつけているように見えたのですが、みっちゃんにはもっとずっと作為的なものを感じたんですよね。
銀ちゃんのために、っていう。
それは、銀ちゃんを超えようと(あるいは、超えたと)思っている人にしか持ちえない感情で、そういうところまで含めて、一環した役づくりなんだろうか、と。
そんなヤスの思惑を、平気で踏みつけて、飛び去っていく銀ちゃん。
「上がってこい、ヤス、上がってこい!……ここまで!!」
手を差し伸べてそう叫ぶ銀ちゃんの纏う、真っ白い光。
たぶんヤスは、階段の中ほどで銀ちゃんを見上げたときに思ったんじゃないかと思う。
俺が超えようとしたのは、超えたいと願ったのは、この光なのか?、と。
皓いひかりに包まれて、ヤスは夢を視る。
銀ちゃんが傍に居て、微笑ってくれる夢、を。
人吉の盆踊りの後、並んで敷かれた布団を引き寄せながらイヤラシイ感じにオヤジ臭く笑ってみたり、
小夏さんを大切にしますから!で泣きすぎだったり、
……ただの“普通の”日常でも、『芝居がかった生活を送っている人』みたいに見えた、みっちゃんのヤス。
ある意味、とっても興味深い人物だなと思いました。
みっちゃん、やっぱり面白いなあ。
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