覚悟のある人~項羽とパーシー~
2010年5月15日 宝塚全体・OG宝塚大劇場で上演中の月組公演「スカーレット・ピンパーネル」。
東京宝塚劇場で上演中の花組公演「虞美人」。
かたや18世紀末のイギリスとフランス、かたや紀元前の中国。
時代も地域も全くちがいますが、見比べると面白い共通点、というか、ストーリー展開の基本みたいなものがあるんだな、と思いました。
フランスと中国。どちらも豊かな生産力を擁する「中原」の物語ですが。
「貴族(武人)」たちと、「民衆」、相容れない二つの世界が同じ空間に展開している。
お互いに影響を与えながら、重なり合って、でも混ざり合うことはなく。
まず、面白いな、と思ったのは、「虞美人」の新人公演でした。
項羽(と虞美人)には、覚悟があったんだな、と思ったんです。
項羽にとっては、「世界を手に入れるために必要なことはすべてやりぬいてみせる!」、という「覚悟」であり、虞にとっては「どんなに怖くても恐ろしくても、この人の傍で見守り続けてみせる」、だけど「決して足手まといにはならない」という「覚悟」。
項羽は虞のそんな「覚悟」をいとおしんで傍に置き、虞は項羽の「覚悟」を愛して傍に在ることを希む。共に死ぬことは望まない、「共に生きる」ことだけを望んだ二人の姿が、とても色鮮やかでした。
それに対して、劉邦はそう大した覚悟はしていなかったんだな、と。
新人公演にはラストの高祖になってからの場面がありませんでしたが、本公演のあの場面、すごく好きなんです。溜息をついて、「義兄弟の契り」を交わした手の傷跡を見つめる壮ちゃんの寂しげな瞳が。
こんなことになるとは思わなかった。そこまでの覚悟は、俺にはなかった。
台詞にはないそんな思いが、透けて見えるようで。
ただ、彼には「仲間」がいた、んですよね。
「覚悟」のかわりに「仲間」を持っていた男。それは、「部下」と「虞」しかいなかった項羽とは、全く違う生き方なのだと思いました。
劉邦は、ある面で「仲間」のために生きている。「仲間」が望むことなら、かなえてやりたい、と。
その気持ちが切ない、劉邦でした。
そして、このラストシーンで初めて、心底覚悟を決めた彼が、「高祖」になるのだ、と納得したのでした…(T T)。
新人公演のあきらくんも、あのラストシーンこそないものの、解釈自体はよく似ていたと思います。華やかな美貌と明るくて目を惹くオーラ。ハッタリのきくキャラクターともども、愛されキャラの劉邦にぴったりでした(^ ^)。
あきらくんの劉邦で一番好きだったのは、「第11場 講和」で、戻ってきた韓信と張良に「今すぐに後を追って攻めるべきです!」と責められる場面の迷いようですかね。約束したことは必ず守る、という覚悟さえなく、「仲間の望み」ならば叶えよう、とする劉邦。
真っ直ぐに自分を見凝め、許してくれた義兄弟を裏切ることで、自分がどれほど傷つくか。そのくらいの予想はついただろうに、それでも「仲間の望み」を断りきれない、弱い心。
それでも、そんな弱さが彼の魅力で。
だから、その『優しさ』こそが大国「漢」が200年続く礎えになったことも、間違いではないのです。
彼らの物語を観ていると、信長と秀吉(あるいは家康)の関係を思い出します。
自分のインスピレーションのまま、「天下布武」という旗印を掲げて、ついてこられない部下たちを置きざりに、走って行ってしまった信長。
そんな旗印に遠くから憧れて、憧れて、、、気がついたら前を走る人は誰もいなくなっていた、秀吉(家康)。
結局、乱世の終わりというのはいつの時代にも同じような展開になるものなのかもしれません。
「覚悟」のある人が「俺が中原を平定してみせる!」と立ち上がりながらも、道のりの半ばあたりで裏切られて斃れ、その旗印に憧れていた人が後を継ぐ。
そして、良い男の傍らには、必ず佳い女がいるものなのかも、ね(*^ ^*)
もうひとつは「スカーレット・ピンパーネル」。
こちらにも覚悟のあるひとと無い人がいる。
まあ、作品自体がコメディだし、霧矢さんのキャラクターもあって(^ ^)あまり深刻な物語にはならないんですけどね。
でも、パーシーの「覚悟」っていうのは結構重たいものだと思うんです。
現実にギロチンに次々犠牲者が送り込まれているときに、革命政府の掌中の珠を盗み出そう!だなんて。
それがあんなにも軽やかに見えるのは、彼が思いつめていないからなのかしら?、と。
これは月組版を観ていて強く思ったのですが、霧矢さんの、やんちゃで明るくて子供っぽくて、元気な正義漢っぷりは素晴らしい。
彼の行動原理は、本質的に「noblesse oblige」なんですよね。これは元々フランスの言葉ですが、「貴族として生きる」ことの意味でもある(←ちょっと意訳だけど)。
パーシーは(仲間たちも)ちゃんと命を懸けているし、そういう覚悟もある。まあ、若干『「やっちゃおやっちゃお!」で革命を始めた連中』(←by 新井素子)に近いノリもありますけど(^ ^;ゞ、やっぱり後から参加したオジー以下のメンバーも、ちゃんと命は懸けているんですよね。
イギリス貴族が、「無実の人々(=貴族)」を救うために命を懸ける。
……これは明らかに、他国への内政干渉です。
実際、曲がりなりにも「市民政府」となったフランス政府には、革命の拡散を恐れた各国からの干渉が集中していたわけで。ジロンド派とジャコバン派の争いからナポレオンの帝政、王政復古……混迷を極めていた当時の政治情勢の中で、「貴族」たちは、本質的に「覚悟」があって当たり前。「覚悟」がない貴族なんていないんですよ。江戸時代と違って、この当時のヨーロッパは泰平の世でもなかったんだから。
「自分たちは闘う者だ」という自覚があったはずだろう、と。
だけど、ショーヴランやマルグリットたちは違うんですよね、たぶん。
彼らは平民で、革命を起こす時にはいろんなことを覚悟していたかもしれないけれども、それはたぶん、いかにも青い理想像にすぎなかった。何もかもが思ったとおりにいかなかった時に、現実と折り合いをつけることはできなかったのは、そこに問題があったのではないか、と。
リーダーとして理想を語っていたはずのロベスピエールが変節しようとしたときに、止めることができなかったショーヴラン。
女優として民心の掌握につとめるうちに、革命から心を離してしまったマルグリット。
ショーヴランが求めたものは貴族たちへの復讐であり、マルグリットが求めたものは人々の幸せと安寧、そしておそらく、目の肥えた観客たちだった。
求めるもののずれは理想のずれ。つまり、、最初から違う途を歩いていた二人。
「あなたを愛したことはない」というのは嘘ではないけれども、真実でもない。
それは、劉邦が呂を「愛したことはない」というのと同じ。
かつては愛していた。少なくとも、愛していると思ったことはあったはず。
それが真実の愛かどうか、それは、生涯が終わる時まで待たねば判らないことなのかもしれないけれども。
「スカーレット・ピンパーネル」と「虞美人」。
脚本のレベルも音楽のレベルも、何もかもがまったく違う二作品ですが、不可思議な共通点があるものなんだな、と思ったので、いろいろと書いてみたのですが……あまりうまくまとめられなかった……長いばっかりで、わかりにくくてすみませんm(_ _)m。
すごくどうでも良いことなんですが。
「スカーレットピンパーネル」と「虞美人」。東西どちらも一本ものだから、現時点で「宝塚のショー」を上演しているのは全国ツアー中の星組さんだけなんですね(^ ^)。なんか珍しいような気がします。
やっぱり宝塚はショーあってこそ!だと思うので、一本ものは「ここぞ」とゆーときだけにしてほしいな(^ ^)。
ま、とりあえずは来週から始まる宙組公演が楽しみです!
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東京宝塚劇場で上演中の花組公演「虞美人」。
かたや18世紀末のイギリスとフランス、かたや紀元前の中国。
時代も地域も全くちがいますが、見比べると面白い共通点、というか、ストーリー展開の基本みたいなものがあるんだな、と思いました。
フランスと中国。どちらも豊かな生産力を擁する「中原」の物語ですが。
「貴族(武人)」たちと、「民衆」、相容れない二つの世界が同じ空間に展開している。
お互いに影響を与えながら、重なり合って、でも混ざり合うことはなく。
まず、面白いな、と思ったのは、「虞美人」の新人公演でした。
項羽(と虞美人)には、覚悟があったんだな、と思ったんです。
項羽にとっては、「世界を手に入れるために必要なことはすべてやりぬいてみせる!」、という「覚悟」であり、虞にとっては「どんなに怖くても恐ろしくても、この人の傍で見守り続けてみせる」、だけど「決して足手まといにはならない」という「覚悟」。
項羽は虞のそんな「覚悟」をいとおしんで傍に置き、虞は項羽の「覚悟」を愛して傍に在ることを希む。共に死ぬことは望まない、「共に生きる」ことだけを望んだ二人の姿が、とても色鮮やかでした。
それに対して、劉邦はそう大した覚悟はしていなかったんだな、と。
新人公演にはラストの高祖になってからの場面がありませんでしたが、本公演のあの場面、すごく好きなんです。溜息をついて、「義兄弟の契り」を交わした手の傷跡を見つめる壮ちゃんの寂しげな瞳が。
こんなことになるとは思わなかった。そこまでの覚悟は、俺にはなかった。
台詞にはないそんな思いが、透けて見えるようで。
ただ、彼には「仲間」がいた、んですよね。
「覚悟」のかわりに「仲間」を持っていた男。それは、「部下」と「虞」しかいなかった項羽とは、全く違う生き方なのだと思いました。
劉邦は、ある面で「仲間」のために生きている。「仲間」が望むことなら、かなえてやりたい、と。
その気持ちが切ない、劉邦でした。
そして、このラストシーンで初めて、心底覚悟を決めた彼が、「高祖」になるのだ、と納得したのでした…(T T)。
新人公演のあきらくんも、あのラストシーンこそないものの、解釈自体はよく似ていたと思います。華やかな美貌と明るくて目を惹くオーラ。ハッタリのきくキャラクターともども、愛されキャラの劉邦にぴったりでした(^ ^)。
あきらくんの劉邦で一番好きだったのは、「第11場 講和」で、戻ってきた韓信と張良に「今すぐに後を追って攻めるべきです!」と責められる場面の迷いようですかね。約束したことは必ず守る、という覚悟さえなく、「仲間の望み」ならば叶えよう、とする劉邦。
真っ直ぐに自分を見凝め、許してくれた義兄弟を裏切ることで、自分がどれほど傷つくか。そのくらいの予想はついただろうに、それでも「仲間の望み」を断りきれない、弱い心。
それでも、そんな弱さが彼の魅力で。
だから、その『優しさ』こそが大国「漢」が200年続く礎えになったことも、間違いではないのです。
彼らの物語を観ていると、信長と秀吉(あるいは家康)の関係を思い出します。
自分のインスピレーションのまま、「天下布武」という旗印を掲げて、ついてこられない部下たちを置きざりに、走って行ってしまった信長。
そんな旗印に遠くから憧れて、憧れて、、、気がついたら前を走る人は誰もいなくなっていた、秀吉(家康)。
結局、乱世の終わりというのはいつの時代にも同じような展開になるものなのかもしれません。
「覚悟」のある人が「俺が中原を平定してみせる!」と立ち上がりながらも、道のりの半ばあたりで裏切られて斃れ、その旗印に憧れていた人が後を継ぐ。
そして、良い男の傍らには、必ず佳い女がいるものなのかも、ね(*^ ^*)
もうひとつは「スカーレット・ピンパーネル」。
こちらにも覚悟のあるひとと無い人がいる。
まあ、作品自体がコメディだし、霧矢さんのキャラクターもあって(^ ^)あまり深刻な物語にはならないんですけどね。
でも、パーシーの「覚悟」っていうのは結構重たいものだと思うんです。
現実にギロチンに次々犠牲者が送り込まれているときに、革命政府の掌中の珠を盗み出そう!だなんて。
それがあんなにも軽やかに見えるのは、彼が思いつめていないからなのかしら?、と。
これは月組版を観ていて強く思ったのですが、霧矢さんの、やんちゃで明るくて子供っぽくて、元気な正義漢っぷりは素晴らしい。
彼の行動原理は、本質的に「noblesse oblige」なんですよね。これは元々フランスの言葉ですが、「貴族として生きる」ことの意味でもある(←ちょっと意訳だけど)。
パーシーは(仲間たちも)ちゃんと命を懸けているし、そういう覚悟もある。まあ、若干『「やっちゃおやっちゃお!」で革命を始めた連中』(←by 新井素子)に近いノリもありますけど(^ ^;ゞ、やっぱり後から参加したオジー以下のメンバーも、ちゃんと命は懸けているんですよね。
イギリス貴族が、「無実の人々(=貴族)」を救うために命を懸ける。
……これは明らかに、他国への内政干渉です。
実際、曲がりなりにも「市民政府」となったフランス政府には、革命の拡散を恐れた各国からの干渉が集中していたわけで。ジロンド派とジャコバン派の争いからナポレオンの帝政、王政復古……混迷を極めていた当時の政治情勢の中で、「貴族」たちは、本質的に「覚悟」があって当たり前。「覚悟」がない貴族なんていないんですよ。江戸時代と違って、この当時のヨーロッパは泰平の世でもなかったんだから。
「自分たちは闘う者だ」という自覚があったはずだろう、と。
だけど、ショーヴランやマルグリットたちは違うんですよね、たぶん。
彼らは平民で、革命を起こす時にはいろんなことを覚悟していたかもしれないけれども、それはたぶん、いかにも青い理想像にすぎなかった。何もかもが思ったとおりにいかなかった時に、現実と折り合いをつけることはできなかったのは、そこに問題があったのではないか、と。
リーダーとして理想を語っていたはずのロベスピエールが変節しようとしたときに、止めることができなかったショーヴラン。
女優として民心の掌握につとめるうちに、革命から心を離してしまったマルグリット。
ショーヴランが求めたものは貴族たちへの復讐であり、マルグリットが求めたものは人々の幸せと安寧、そしておそらく、目の肥えた観客たちだった。
求めるもののずれは理想のずれ。つまり、、最初から違う途を歩いていた二人。
「あなたを愛したことはない」というのは嘘ではないけれども、真実でもない。
それは、劉邦が呂を「愛したことはない」というのと同じ。
かつては愛していた。少なくとも、愛していると思ったことはあったはず。
それが真実の愛かどうか、それは、生涯が終わる時まで待たねば判らないことなのかもしれないけれども。
「スカーレット・ピンパーネル」と「虞美人」。
脚本のレベルも音楽のレベルも、何もかもがまったく違う二作品ですが、不可思議な共通点があるものなんだな、と思ったので、いろいろと書いてみたのですが……あまりうまくまとめられなかった……長いばっかりで、わかりにくくてすみませんm(_ _)m。
すごくどうでも良いことなんですが。
「スカーレットピンパーネル」と「虞美人」。東西どちらも一本ものだから、現時点で「宝塚のショー」を上演しているのは全国ツアー中の星組さんだけなんですね(^ ^)。なんか珍しいような気がします。
やっぱり宝塚はショーあってこそ!だと思うので、一本ものは「ここぞ」とゆーときだけにしてほしいな(^ ^)。
ま、とりあえずは来週から始まる宙組公演が楽しみです!
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