東京宝塚劇場にて、雪組公演「ソルフェリーノの夜明け/カルネヴァーレ(睡夢)」を観劇して参りました。



悪くない公演でした。
あともう一回、来週も観る予定なので、詳細はまたその時に書きたいと思いますが、とりあえず、芝居も予想していたよりずっと良かったし、ショーはすごく好きかもしれません。


ただ。


どこが「アンリ・デュナンの生涯」なの?

某「高潔なアラブの戦士となったイギリス人」以来の大嘘サブタイトルだと思うんですが…?



………とか、そういう細かい(←いや、細かくないだろう)突っ込みは、大劇場からご覧になっている雪組ファンのみなさまが散々なさっていると思うんですよね、たぶん。

でも。
それでも、どうしても一つだけ言いたいことがあります。


この時代の思想を語るうえで、「安っぽいヒューマニズム」なんて言葉を簡単に使うな!!



「トーマの心臓」に出てくる「ルネッサンスとヒューマニズム」の「ヒューマニズム(人間主義)」とは違う、もっと近代的な「人道主義」「博愛主義」的な意味合いの言葉として使われてますよね?この作品では。だったら、それはまさにこの時代(19世紀末)に発達した思想だったはず。
当時は手垢もついてなければ安っぽくも無い、最新の思想だったと思うんですけど?

捕虜は勝利者側の財産であり、奴隷にしようと身代金を請求しようと自由だった時代は、そう古いものではありません。
そして。その時代だったら、敵軍だろうとなんだろうと、自分たちの財産なんだから大切に治療もしたはずなんですよ。死んでしまえば労働力にもならないし、身代金も取れないんだから。

でも。
フランス革命による「国は国民のもの」という認識の浸透と、ナポレオンの軍制改革によって、近代徴兵制というものが始まってから、半世紀が過ぎたこの時代はもう、戦いの前線に出てくるのは、身代金の取れる騎士階級ではなく、徴兵による国民兵なんですよね。
身代金が取れないんだから、それまでの価値観のままでいれば、当然ながら治療の優先順位は下がります。戦争、というこの世でもっとも効率が重視される価値観の中では、仕方のないこと。



そんな時代に、それでも同じ人間じゃないか!と叫ぶことが、どれほど新しかったことか。
ハマコさんやキムちゃんたち、イタリア指揮官たちの言うことも、全然間違ってない……当時としては、ですが。
古い価値観だけれども、まだ新しい価値観が成立していない段階なんですから。



その『新しさ』が、……この脚本からは、全く感じられません(T T)


せっかくいい題材で、重たいけれども演劇として良いテーマだと思うのに、あまりにも脚本が通り一遍すぎる、と、思うんです。
まるっきり「現代」の思想で語られているから、わかりやすいっちゃわかりやすいんですけど、結局「安っぽいヒューマニズム」以上のものになれてない。

そうじゃない。赤十字思想っていうのは、そんな手垢のついた「ヒューマニズム」とは対極にあるものだったはず。
デュナンが語ったのは、もっと具体的で、実行力のある、そして実効力のある発想だったはずなのに。



あまりにも反戦思想が前面に出すぎているのもどうなの?、と思いました。
……それとも、赤十字って、設立当初は反戦団体だったんでしょうか……?

そりゃ、戦争が無くなればそれに越したことはないとは思っているでしょうけれども、
根本的に、あれは互助組織みたいなものですよね?大きな災いがあったとき(←戦争も災いの一つ)に、国に囚われず、中立の立場で人道的支援を行うための。そのために、平時から加盟国が支援し、積み立てておくという。

なんか、赤十字思想そのものを植田さんが大きく勘違いしているような気がするのは、気のせい?……なんですよね、きっと……?




いや、あの。

役者はすごく良かったんです(真顔)。

若干理想主義的な面はあるけれども、誠実で行動力もあるデュナン(水)。
ひたすら優しい人道的な医師エクトール(彩吹)。
過去の哀しい傷から逃れられない看護婦アンリエット(愛原)。
高圧的なイタリア軍指導者(未来・音月)。
そして、必死に生きようとする両軍兵士たちも。

……みんな、すごく良かった。

だからこそ、脚本の乱暴さが、惜しいなあ、と(涙)。





それに。今回、ユミコさんのサヨナラ公演、ということを相当に意識して、後付けでそれらしい場面(銀橋でのソロとか)を与えてくれたのは植田さんらしい思いやりなんだろうな、と微笑ましく思うんですけども。
でも、それゆえに壊れた部分も大きい、と思いました。

いつも白衣で、あまり身なりに構わなそうなエクトールさんが、愛するアンリエット(愛原)を見送るために一張羅を着て登場するところまでは、まあ、許すとして。
その後、銀橋に出て歌う一曲が、恋人の無事を祈る歌とかではなくて、思い出にふける「ユミコさんの」テーマソングなのは……どうなんでしょうか。私は、あの場面ではエクトールさんの心情を語るような歌が聴きたかったんですけど。


いや、ユミコさんご自身は、ちゃんと「エクトール」として、エクトール自身の気持ちを歌っていらっしゃると思います。でも、どうしたってあの歌詞を聴いたら、ねぇ……。




宝塚のお約束的な、「トップ娘役=トップスターの役の恋人役」という前提を崩した芝居も、ユミコさんのサヨナラだから、花を持たせて…という発想があったんじゃないかと思うんですが。
でも、脚本的にあまり書き込まれていないのと、水さんがあまりに愛情にあふれすぎているし、ユミコさんは優し過ぎるし、みなこちゃんは不器用なタイプだし、、、というわけで、若干微妙なバランスのまま終わってしまった印象でした。

やっぱり宝塚のお約束を破る場合は、脚本的なフォローが必要だと思うんですよね。じゃないと、いろんなところに無駄な負担がかかってしまう。今回は特に、ヒロインに対してその負担を感じました。
そう。みなこちゃん、今回はあらゆるところで物凄く苦労していましたね~。
外観はすごく磨かれて、ドキっとするほど可愛かったんですけど(^ ^;ゞ。

本質的に不得手な役なんだと思うんですよね。みなこちゃんが得意なのはもっと非現実的な役で、ああいうリアルな普通の女性なら、たぶん、さゆちゃんの方が巧いと思う。
前回の「ロシアン・ブルー」と同様、ツンデレな女性なら得意だろう、という発想で役を振られたような気がするのですが、イリーナとアンリエットはまったく違う!!同じツンデレでも、萌えがあるかないか、というのは凄く大事な違いなんです。(真顔で力説)


ただ。みなこちゃんが見事だな、と思ったのは、両親を殺したオーストリー兵に対する気持ちを、憎しみや恨みで表現するのではなく、心の傷として表現しようとしたところ。
そういう微妙な表現をしにくい脚本なので余計に苦戦していましたけれども、私はやっぱり、みなこちゃんの芝居は好きなんだなあ、と思いました。

……今日のみなこちゃんにはカミカミの神様が取り付いていたみたいで、すごく大事なところで何度も噛んでましたけどね(T T)。あれさえなければ……。





親を殺した仇、、、といえば。

話はぜんぜん違うのですが、最近観たばかりの「シャングリラ」と比較して、面白いな、と思ったのは、ヒロインの心の傷の意味、でした。

「シャングリラ」のヒロインは、十年前に父親を殺された、ミウ(野々すみ花)。
その軍の指揮を執っていたはずの、ソラ(大空祐飛)。
そして、ソラの顔を覚えていた、ミウの幼馴染であるラン(蘭寿とむ)。

ソラは、記憶を取り戻すと同時に、彼女の父親の仇が自分である(手を降したのは部下であるにせよ、責任をとるべき立場にあった)ことを思い出す。

ミウは、そのときの記憶がないらしい。
でも、ランによってその「仇」がソラであることを暴かれても、あまり動揺を見せないんですよね。父親が死ぬ現場に居合わせたわけではなかったのかな、と納得しようとしたほどに。



「シャングリラ」は、テーマとしてはむしろソラたちの傷、『汚れたこの手にこびりつく血』というフレーズに象徴される「奪った側の傷」を重視しているので、ミウの傷にはあまり深入りしようとしません。
いや、ミウどころか、ソラの顔を覚えていたランでさえ、父親に言われてあっさりソラを受け入れてしまったりするんですよね。まあ、あの脚本なので、深く考えるだけ無駄なのかもしれませんが……(^ ^;ゞ



でも。「ソルフェリーノの夜明け」という作品のテーマは、「奪われた側の傷」なんですよね。
アンリエットの傷は、ミウよりずっと深い。それは、その死の現場に居合わせた、というのもあるかもしれませんが、説明的なことを言うならば、それは、その傷こそがテーマに関わるから、だと思うのです。
ハーベルマン医師(未沙のえる)も同じ傷を抱えているし、他にも、脚本には書かれていませんが、似た傷をもつ人は何人もいるんでしょう、きっと。

デュナンには、そういう傷は無かった。
でも彼は、傷病者をそのままにして立ち去ることが出来なかった。それは、そんなことをすれば自分の心に傷として残ることがわかっていたから、だと思うのです。
凄惨な戦場のありさまを見てしまったことが彼の傷で、おそらく、そのまま立ち去ったならトラウマとして残ったことでしょう。
その治療行為の一環として、彼は献身的に治療に協力する。彼らが快癒するまで、デュナン自身がこの悪夢から逃れられないから。

そしておそらく、エクトール医師も同じなのではないか、と、書かれてもいないことを想像してみたりする。



奪った側の傷と、奪われた側の傷。
奪った側の傷は、自然に治癒するものではありません。基本的に、『許される』ことによってしか治らない。自分でどうにかできるものではないのです。
でも、奪われた側の傷は、忘却という『神の恩寵』によって癒すことができるのです。『幸せ』という特効薬によって。

だから。ミウがソラを赦すことが出来たのは、蛇の目一座で幸せだったことの証かな、なんて思ったんですよね。フォン(十輝いりす)に守られて、ランに、そして一座の仲間たちに愛されて。神の恩寵によって『奪われた傷』が癒されることによって、『奪った傷』を癒してあげることができる。そういう連環があるのかな、と。

ならばなぜ、アンリエットはあんなにも深く傷ついたままだったのか?
……それは、(逆説的に)彼女が戦場に身をおいたからなのではないか、と。

悲惨な戦争の悪夢が、両親の死という悪夢を呼び醒ます。彼女が忘れようとしても忘れさせてくれない。死体をみるたびに、負傷者の血糊を見るたびに、フラッシュバックする、その苦しみ。
高圧的な態度の裏に、いつも何かに怯えきった、小さな子供の姿が見える。

そんな怯えた小さな子供の、背中を押してくれたデュナン。
ただ盲目的に彼女を守ろうとしたエクトール。



アンリエットは、デュナンによってエクトールの腕の中という檻を脱し、「行かせてください」と訴えることができた。
「必ず帰ってきます」と。

そんな彼女の手を離してあげることができたエクトールもまた、何かの傷から自由になれたのかもしれない、と。
それもまた、デュナンのおかげなのだ、と。

そんなことを思いながら、ユミコさんの美声に聴き入っていました。






なんだか、どうでもいいことを書いているうちに時間切れしたような気が(^ ^;すみません。

えっと、
ポポリーノの真那春人くんがあまりにも良い役で(短いけどソロフレーズ歌っちゃうんですよ!)驚愕したこととか、
さゆちゃんの看護婦姿があまりにも嵌っていて惚れ直したこととか、
ヘルディーおじさんの奏乃はるとさんがとってもいい味を出していたこととか、
マンドリン持って歌っているコマちゃんを観ながら、コマファン継続中な自分に気づいたこととか、
ショーの楽師対決で、ひろみちゃんとあゆちゃん(と、キタロウと花帆杏奈ちゃん)の様子が面白くてツボりまくりだったのに、楽師さんたちもステキすぎて何を観たらいいのかわからずパニックになりかけたこととか、
フィナーレ前で、青い中国服で踊っていた小雀の笙乃茅桜ちゃんがメッチャ可愛かったこととか、

……また後日、まとめて書かせていただきます。



あ、そうそう。
稲葉さん、大劇デビュー、おめでとうございます!!
次作も期待しています♪



コメント

nophoto
hanihani
2010年4月27日19:22

コメントつけて、早くも1時間・・・

ほんと遡ってよんでいますが、すごい分析ですね

シャングリラも観たんだったなぁ~
楽しかったなぁ~
もっと観たかったなぁ~

という感じですごく過去の話みたいなのですが、
ミウは一座ですごく充実していたんだと思う。
お父さん、お母さんとか泣くことが無いようにしてくれていたんですよね。

みなこちゃんはきっと修道院で暮らして
毎日殺された両親に関して祈り、そこから看護学校に行き戦地に派遣
だからあんなに固まってしまった人だったんじゃないかと思う。

デュナンさん、何もしてないみたいな気がしてましたが
良いことしてましたね。

みつきねこ
2010年4月28日1:42

>ミウは一座ですごく充実していたんだと思う。
>お父さん、お母さんとか泣くことが無いようにしてくれていたんですよね。

そう思います。だって、まさこちゃんと鈴奈さんだもん(はぁと)、めちゃくちゃ溺愛して、風にも当たらないように育てていたに違いない!

>みなこちゃんはきっと修道院で暮らして
>毎日殺された両親に関して祈り、そこから看護学校に行き戦地に派遣

厳しい孤児院だったのかな(ジェーン・エアみたいな)とか想像してみたりしました(^ ^)。
エクトールさんとも、正式に恋人だとか婚約者だとかいう感じではなかったですものね、
いろいろ辛かったんじゃないかなあ。

>デュナンさん、何もしてないみたいな気がしてましたが
>良いことしてましたね。

水さんは優しくて素敵なトップさんですから(はぁと)(←いや、そういう話じゃなくて)