先月末から今月にかけて観劇した、二つのストレートプレイをまとめて書かせていただきます。


ひとつは、天王洲の銀河劇場で上演していた「フロスト×ニクソン」。

もうひとつは、シアターコクーンで上演していた「十二人の怒れる男」。

どちらも非常に面白く、興味深い作品でした(^ ^)。






「フロスト×ニクソン」

イギリスのTVジャーナリストであるデヴィッド・フロストが、ウォーターゲート事件で失脚したニクソン元大統領とのインタビューに挑む。
お互いに自分の存在意義を賭けて闘う二人の男(二つのチーム)。二人のインタビューを中心にすえたこの戯曲は、2006年にイギリスで初演され、2007年にブロードウェイへ進出。ニクソン役のフランク・ランジェラがトニー賞(主演男優賞)を獲得。後に映画化もされた名作です。
……そうかー、この話、「主演男優」はニクソンなのか……


幕開きは、ニクソン(北大路欣也)とその腹心であるブレナン大佐(谷田歩)の会話ではじまります。
ウォーターゲート事件で何もかも喪い、健康さえ害した男と、その男に、退陣後もずっと付き従ってきた男。
彼を、もういちど「用のある男」に戻るために、闘いを始める二人。


イギリスやオーストラリア、アメリカの地方などで人気番組を担当するTVタレントのデヴィッド・フロスト(仲村トオル)。
「TVタレント」ではなく「TVジャーナリスト」として認められ、アメリカの放送業界のど真ん中に返り咲こうと画策する彼は、仕事仲間のジョン・バート(中村まこと)に相談をもちかける。
「ニクソンにインタビューを申し込んだんだ。もし受諾されたら、手伝ってくれるかい?」
「ニクソン、って、あのニクソンかい…?」
目を丸くして問い返すバート。

何か大きなことをしなくては、アメリカのセントラルでスターになることは難しい。
難しいけれども、すべてを賭けてやるだけの価値のあることだ、と。



ニクソンは、「自分の話を国民に聞いてもらういいチャンスだ」という判断のもと、
敏腕エージェントのリザール(中山祐一朗)を交渉役に、インタビューの報酬額や条件について詰めはじめる。

フロストも、執拗にニクソンを追う一匹狼のジャーナリスト、ジム・レストン(佐藤アツヒロ)やベテラン記者のボブ・ゼルニック(安原義人)といったメンバーを集め、金を用意し、撮影場所を決めて、インタビューの準備を進めていく。



2時間×12日という長期にわたるインタビューを行い、それを編集した上で90分×4回という放映時間にまとめる。ウォーターゲート事件が片付けられ(関係者によってしまいこまれ)た後に、ニクソンが初めて口を開いた、この「ザ・ニクソン・インタビュー」が、当時のアメリカ国民の関心をどれだけ呼んでいたのか、今となっては想像するのも難しい、という気がします。


とにかく、このインタビューは今でも記録として残っている視聴率を稼ぎだし、フロストは間違いなく『スター』になった。




演出は鈴木勝秀。総勢7人という少数精鋭の舞台ですが、とにかく、ひとりひとりの実力は傑出しているので、全く不安を感じることなく、どっぷりとその世界に浸ることができました。
この作品は、いわゆる『ワンシチュエーションもの』ではないのですが、やはり息詰まるようなインタビューの模様をメインにしているだけに、ワンシチュエーションっぽいイメージがあったと思います。

アツヒロくんのジムが、「フロスト陣営」と「視聴者」の間に入る形で語り手を務めていました。私は、基本的に「説明役」が必要な芝居に否定的なのですが、このジムは「説明役」ではなく、『ドキュメンタリーの語り手』だったと思います。
なんというか。戯曲全体が、このインタビューから数年後に関係者にインタビューして制作したドキュメンタリー、みたいな構造になっていたんですよね。だから、メンバーの中でも一番若くてエネルギッシュで、「ニクソンの真実を暴く」ことに燃えていたブンヤ魂のかたまりみたいなジムに、語り手が回ってくることがとても自然で。違和感なく納得できました。
アツヒロくんの語り口が、ぼそぼそと素朴な感じだったのも良かったと思います。




なんといっても、この作品の主題は、「主演男優」であるニクソン役の北大路欣也でしょうね。
非常に有能で、外交を得意とし、いくつもの功績をもつ「穏やかで紳士な」大統領。

そんな彼がなぜ、あんなことに関係してしまったのか?それは全く語られることはないのですが。
ただ、「(それは間違ったことだが)大統領がするのであれば、それは違法ではない」と、彼は本気で思ってしまっていたのかな、と……

その認識違いが切なくなる、フロストとの闘いっぷりでした。


私は上手側の前方端席で観ていたので、インタビューの場面では、基本的にニクソンの背中を視ていました。

下手側に座ったフロストの顔は、良く見えました。そして、その向こうには、鋭い眼でニクソンの方を睨むように資料と格闘しているジムとボブが居て、フロストやニクソンが一言言うたびにわたわたと動いている。真ん中での会話に対する彼らの反応を見ているだけでも面白かったです。

手前側にはニクソンが座り、その背中を守る形でブレナンが立つ。インタビュー中の皆の立ち位置はほぼ一定で、ずーっとこういう態勢で撮りつづけたのかな、と思いました。
真ん中の二人の会話に対してずっとリアクションしているフロスト陣営と、どんな危機的な状況に陥ったように見えてもピクリとも動かないブレナンの対比。

それなのに、致命的な一言をニクソンが搾り出そうとした瞬間に、ブレナンは走り出そうとするんですよね。
彼は知っていたはず。ずっと傍に居た彼が、知らなかったはずは無い……すべてを。それでも、そこには触れずに通り抜けられると思っていた。運命の瞬間がおとずれるまで。



印象的だったのは、最後のインタビューに到る前夜の、フロストの苦悩でした。
全てを賭けて挑んだインタビューに敗れたならば、彼にはもう後がない。財産のすべてをニクソンやスタッフへの支払いに宛て、他の仕事を全て断ってこのインタビュー対策一本に絞って。
これが失敗したら、もう二度と這い上がることはできないだろう。
文字通り、人生を賭けて挑んだインタビュー。


そして。
ニクソンもまた、このインタビューに復活を賭けている。
このインタビューを乗り切れば、まあ大統領として返り咲くのは無理でも、アドバイザーくらいの地位には入れるはずだ。自分にはまだ価値がある。外交問題において、自分以上に対応できる者など、この国にはいないのだから。
その、強烈な自負と、プライド。過去の実績に裏付けられた、圧倒的な自信。



一回一回が真剣勝負だ、という言葉に、本気で納得しました。
仲村トオルは、いやフロストは、本気でニクソンが何を言うかを探っていた。
すべての瞬間に。真顔で。本気で。心の底から。
真剣に、ニクソンが何を言おうとしているのかを探り、どの応えがきたらどの台詞を返そうか、と考える。
対峙するニクソンもまた、フロストが何を言い出すか、を、全ての瞬間に固唾をのんで待っているのを感じました。
その、お互いに相手が口を開くのを待っている、長く重たい、真剣な一瞬。

そんな一瞬の積み重ねが、あの舞台の重みになっていたのだと思います。




……凄いなあ。

そんなに長い芝居ではないのに、観ているだけでぐったりと消耗しちゃって。演技している本人たちは、大丈夫なんだろうか……と、ふと心配になったりしました(^ ^)。

いやーーー、それにしても、生で観る北大路欣也は巨きいですね!!







「十二人の怒れる男」

こちらは、ワンシチュエーションもの象徴的な戯曲であり、1957年に後悔された映画を元にした作品。
舞台の演出は、大御所・蜷川幸雄。

「フロスト×ニクソン」の、淡々としたクールでクレバーな会話が続く、というものとは違い、時には熱く、時にはクールに、そして時には野次馬が騒ぎながら、12人の陪審員たちが審理をすすめていく……という作品ではあるのですが。
なんとなく、「論争」をテーマにしたストレートプレイ、というくくりがあるような気がしたので、まとめてみました(^ ^)。

しっかし……ここのところ、外部の作品っていうとG2⇒スズカツ⇒蜷川を繰り返し観ているような(汗)……。




ある少年の裁判。
公判を終え、12人の陪審員たちが部屋に入ってくる。
彼らはこれから、全員一致で結論を出さなくてはならない。
少年は殺人罪で死刑の求刑を受けている。
陪審員たちの回答には、3つの可能性がある。
1.全員一致で「有罪」=> 少年は死刑確定
2.全員一致で「無罪」=> 少年は無罪放免
3.「審議不一致」=> 別の陪審員を集めて、もう一度いちから裁判をやり直す。


この作品も、座長的な意味での「主役」はいない構造の戯曲ですが、当然戯曲的に焦点となるべき登場人物がいます。
12人の陪審員たちのうち、11人が「有罪」と判断し、1人だけが「無罪」と判断する。
その、たった一人の「離反者」、陪審員8号の中井貴一。

8号は、決して「少年は何もしていないと思う」と主張していたわけではないんです。
「有罪であるという証拠が不十分である」と主張している。
つまり、「疑わしきは罰せず」というわけです。

彼は訥々と、一つ一つの証拠について疑問点を呈していきます。
加害者とされている少年の心理。被害者である少年の父親の行動の謎。
目撃者の性格と、身体能力(「目撃」することが果たして可能であったのか?)。
ナイフの入手経路。彼自身の行動の謎。証言と現実の食い違い。


なるほど、なるほど……と思いながら観てはいたのですが。
しかし!

これだけ「名作」の誉れ高く、戯曲としての質が高いといわれている作品でさえ、どうかと思う話がたくさんあってびっくりしました(^ ^;ゞ
なんていうのかな。8号が指摘する点の、半分くらいはそんなん、どうして捜査で気づかへんかったん?と思う話だからけだったんです。
とゆーか、私は裁判員制度についてあまり詳しくないんですが、陪審員には、裁判中に質問する権利は無いんでしょうか?もしかしたら、警察とかが居る場で質問していたら、その場で解決したんじゃないか、っていう話も多かったんですが……。

そんないい加減な審理で裁判が進むこと自体が大きな問題なので、8号はぜひ、「全員一致で無罪」なんていう簡単な結論を出すんじゃなくて、「不一致」で提出して、検察側に疑問点を指摘し、裁判を最初からやり直しさせたほうがよかったのでは?と思っちゃいました。

なーんて、どっかの宝塚作品のようなツッコミをいれつつ。




でも。
この作品のテーマは、審理の内容とは全く違うところにあるんです。

複数の人間が存在すれば、かならず生じる価値観の相違による軋轢
それが、作品全体のテーマだったと思います。


スラム出身の青年に扮した筒井道隆の苦悩をはじめ、12人の登場人物それぞれに国籍があり、過去があり、仕事があり、家族がある。映画が原作だけあって、こういうキャラクターのキメの細かさは「カサブランカ」に通じるものがあるなあ、と思いました。




最後の最後で、完全に場を攫ってしまった西岡德馬が、すばらしかったです。
ああいう父親っているよね、と思う。理解、という言葉から遠い所をさまよっている、哀しい男。
8号の中井さんの『幸福』と、3号の西岡さんの『孤独』。

その運命は、彼の責任ではないのにね。ただ、そう生まれてしまった、というだけで。
たったそれだけのことなのに、彼ひとりだけ、幸せから遠ざかっていく。
胸が、キリキリと痛くなりました。
彼は彼なりに、息子を愛していたのだろうに、それを理解されることは、もう二度とないのだ、と。




この作品を観て、三原順の「はみだしっ子~連れて行って」を思い出したのは私くらいのものなんでしょうか。
あの裁判に関連してグレアムが呟くモノローグの数々を、リフレインしながら観てしまったのですが。

ジャックはきっと8号なんだろうな、とか。
ロナルドと3号がちょっと被るな、とか。…いえあの、す、すみません





他の出演者は、辻萬長、田中要次、斎藤洋介、石井愃一、大石継太、柳憂怜、岡田正、新川將人、大門伍朗、品川徹。
中でも、辻萬長のダンディな落ち着きとクールな格好良さは最高でした♪ いやあん、髭萌えっ!!(←そこ?)


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