宙組大劇場公演「カサブランカ」。
やっと嵐も収まってきたみたい……かな?今日は、休演者も愛白もあちゃんだけ。あとは、明日の休演日をしっかり休んでいただいて、全員揃って木曜日を迎えてほしいものです。祈。
なので。今日は、ちょっとだけ作品の話を。
まずは、以前自分で書いた日記をちょっと思い出してみたいと思います。
http://80646.diarynote.jp/200906120313401808/
……あはは。
かの名台詞、三回も言ってくれたんですよ祐飛さんったら(^ ^;ゞ
でも、逃げ出したい気分にはならずにすみました!!(←真顔)「大空祐飛」が言ったら、私は絶対逃げたと思うんですけど、あくまでも、その台詞を言ったのは「リック」だったから。
前にも書きましたが、私はこの作品を映画館で観たことはないので、おそらく吹き替えだったと思うんですよね。
ってことは、「君の瞳に乾杯」という言葉だけを知っているってことで。だからこそ、イングリッド・バーグマンの潤んだ瞳とセットで印象に残っているわけですが。
……あれは、原語では「俺は君を見つめているんだぜ、お嬢ちゃん(Here’s looking at you, kid)」と言っているんですよね……
小池さんは、この二つの全く違う日本語(直訳と跳訳)を両方言わせる、という荒業に出て、そして、成功させていました。
三回出てくる同じ台詞の、トーンの違いがすごく面白くて。
いやーーー、世界的に有名な名台詞って、扱いが難しいんだなあ(- -)
で。
観終わって最初に思ったこと。
今までにも、何度も思ったし書いてきたことですが。
小池修一郎は、本当に潤色の天才だ。
吃驚しました。
私、まだまだ小池さんを舐めていたんだなー、と。
一番驚いたのは何か、というと、実は、シュトラッサー少佐(悠未ひろ)の設定だったんですよ。
私、小池さんはもっと勧善懲悪な話にしてしまうんじゃないか、と危惧していたみたいなんです。レジスタンスが善で、ナチスは悪だ、というふうに、ね。そのほうが解りやすいですから。
映画では、シュトラッサーの内実をあらわすような場面はなかったと思うのですが、小池さんが座談会でも言われていたとおり、すごく紳士的な男として描かれていた記憶があります。で、その“礼儀正しさ”が物凄く怖い、というイメージがあったんですね。
でも、小池さんは彼とドイツ兵に「シュトラッサーの屈辱」という場面を与え、「ドイツの栄光」というナンバーを与えた。そうすることで、彼らが闘う動機を明確にし、ナチスを『悪魔』ではなく「敵」として描いてみせたのです。
貧しい北国のドイツ。気候は厳しく、小麦の出来高は悪い。彼らにとって、広い平地があり、気候の良い豊かな農業国フランスは、永遠の憧れです。貧しさの最低ラインが違うし。豊かさの最高ラインの差はもっと大きい。だから、工業国として力を蓄え、軍事的にも力をつけてきたドイツが、最初に狙ったのは当然のようにフランスでした(普仏戦争/19世紀)。
貧しい田舎モノと蔑まれがちだった彼らが、自らを鼓舞し、フランスという豊かな先進国に手をつけるための言い訳に使った「ゲルマン民族の優秀性」という概念。第一次世界大戦の敗戦による未曾有の国難の中で一人歩きをした思想が歪んでいったのは、不運なことだったと思います。でも、党員たちはその「理想」を信じていた。『ドイツの栄光』という「理想」を。
『ドイツ』が栄光を得るために、陰に沈まなくてはならない国や民族があることからは、目を逸らして。
「ラ・マルセイエーズ」VS.「世界に冠たるわがドイツ」の歌合戦で一敗地にまみれたシュトラッサーが、自分自身と部下たちを鼓舞するために歌う歌。その歌に籠められた切なる願い、子供のように純粋で、だからこそ周辺諸国にとっては傍迷惑以外のなにものでもない祈りが、ひどく切ないです。
この映画は、1942年に撮影されました。小池さんもプログラムに書かれているとおり、戦闘状態に入ったアメリカにおける戦意高揚プロパガンダ映画だったのでしょう。
むろん、その時代性を喪ってもこの映画は価値を喪うことはなく、「名作」の誉れ高いまま今に至るわけですけれども。
あらためて考えてみると、映画の舞台となったのは、1941年12月1日から3日の深夜まで、なんですよね。
舞台で、「1941年12月1日」という日付を字幕で観たとき、ちょっと心が震えました。
このわずか一週間後に、アメリカは参戦します。
勿論、ラズロの演説のためではなく、日本の真珠湾攻撃のため、に。
そして。アメリカは、それよりもずっと前から参戦のチャンスを伺っていた という説もありますよね。国内で反戦感情が高まっていた合衆国は、自ら参戦することはできず、敵国(日本)が先制攻撃を仕掛けてくれるのを待っていた…そのために、劇団四季の「李香蘭」などでも語られている経済封鎖などの、いろいろな仕掛けをしていたのだ、と。
でも、この映画では、そんなことはおくびにも出されない。
まるで、ラズロが渡米して、それで初めてアメリカが立ったかのような時間関係になっている。
そしてリックは、アメリカ人でありながらイタリアに侵攻されたエチオピアに武器を流し、スペイン内戦では人民政府側に立って反ファシズムの戦闘に参加した、立派な男だ、と説明される。
すべてが、正義の戦争にアメリカは参加するべきだ、というプロパガンダなんですよね。
でも、一言もそんな話は出てこない。ラズロが渡米の目的として「彼らに真実を訴えて、立ち上がらせたい」と言うくらいで。なのに、観終わるころには、観客はちゃんと「立ち上がって彼らを助けなきゃ!」と思っていると思うんです。
何もわからずにテレビで観ていた私と、同じように。
私が映画を観たのはもう随分前で、細かいところは全く覚えていない、というのが正直なところ。いかに映画のとおりに良くできているか、という話を熱く語る友人の話を聴きながら、ふむふむ、と肯きながら、思っていたことは。
細かいことは覚えてないけど、とにかく、見終わった後の印象が全く同じだなあ…でした。
違うのは、ラズロが格好良いことくらい(^ ^)、かな。映画のラズロは、端正な二枚目だけど、どちらかというと理論(弁論)家の優男っぽい感じで、蘭トムさんみたいな骨太な格好良さは無かったような気がするんですよね。実際、ラズロのモデルはクーデンホーフ男爵だと言われていて、ってことは貴族なんですよ。レジスタンスの闘士じゃないんです。レジスタンスの闘士だったのは、むしろリックの方、なので。
でも、とにかく、映画のファンの方は、絶対見て損はないと思います!
イルザが「絶世の美女」ではなかったり(でも超絶可愛い)(自分でちゃんと「ご冗談を」って言ってる)、ラズロが理論家じゃなく革命家だったり、リックが二枚目(←贔屓目?)だったり、ルノーが若くて腹芸ができなかったり、、、いろいろ違うんですけどね。
ただ、世界観が非常に近いことに感心します。
モロッコ、という古代からの交通の要衝の、カサブランカという都市。人種の坩堝で、さまざまなところからの道が集まってまた別れていく、街。
同じモロッコを舞台にした「マラケシュー紅の墓標」にあった「砂漠」が、この「カサブランカ」には感じられない。
そこにあるのは、ただ、街と、地下と、空。
人生の在り処と、隠れ潜む闇と、交通路と。
「この世の果て」という名前の乾いた風が、吹きすぎる街。
今回は、映画が原作、ということもあって、比較的視点を固定した演出だったと思います。
一階席からの視線を基本に創っている。
それは、映像を多用するせいもあると思います。
偶然なんでしょうけれども、祐飛さんに宛書していただいた作品は、映画を題材にしたものが多いんですよね。「Hollywood Lover」と「銀ちゃんの恋」は映画撮影のバックグラウンドものだし、「カサブランカ」は映画が原作だし。
で、この三作とも、実にうまく映像を使っているな、と思ったんですよね。
私は舞台至上主義なので、舞台における映像使用はよほど巧いことやらないと感心しないんですが、「Hollywood Lover」の、撮影された映像を流す遣り方といい、「銀ちゃんの恋」の、リアルタイムにビデオを流す演出といい、感心しっぱなしでした。
そして、この「カサブランカ」。
オープニングでの、カサブランカの街の鳥瞰図から始まって、
ラストの空港での飛行機の表現まで、実に実に映画らしくて、本当に素晴らしかった!!
中でも「凄い」と思ったのは、回想シーンへ移るときの走馬灯のような映像。
リックの心の奥に潜っていくような、不思議な錯覚に陥りました。
ただの「安価で転換のカンタンな舞台装置」としてではなく、映像でなければできない表現をするためになら、いくらでも映像を使ってくれて構わない。
そして、この三つの作品における映像の使い方は、たしかに映像でなければできない表現だった、と思うのです。
そして。
一階席からの視線を中心に考えて、創られたセットが、あの「リックの店」の見事なセット。
大セリを真ん中に、下手側に外へのドア、上手側にカジノへのドア。
外へのドアの外にはちゃんと「カフェの外」のセットがあり、カジノのドアの向こう、セリの裏側には、ちゃんとカジノのセットがある。「二階(リックの住居)はセリの上で表現し、盆を回すだけで、カジノとカフェと店の外をスムーズに転換できる。
アイディア自体はそんなに珍しくはないのですが、セットとしての完成度と、真ん中にセリがあるのが宝塚らしいな、と思いました。
「カサブランカ」という作品を楽しみたいなら、この公演は、一階席がお勧めです。
演出家が見せたいものを、彼の意図通りに鑑賞することができるのは一階席なので。
何度も観るなら、二階席も楽しいですけどね。二階からだと、カジノの場面でもセリの裏になったカフェで芝居が続いているのが微かに見えたり、カフェの外に出たあと、カフェのテーブルを皆が必死で片付けているのがよく見えたりするので(^ ^)。
うううう、なんだか全然まとまっていなくてすみません。とりとめ無さすぎ…(T T)。
頭がかなり沸騰しているみたいです。
あ。
……そういえば、忘れてたような気がする(←おい)
すごく今更のような気がしてしまうのですが、
「祐飛さん、すみ花ちゃん、宙組トップコンビお披露目おめでとうございます」
なんだか、そんなこと(←おーーいっ!)はどうでも良くなってしまったくらい、よくできた作品で、いい公演になりそうで、そのことで幸せです。
小池さん。
宙組のために、こんなに素敵な作品を創ってくださって、本当にありがとうございましたm(_ _)m。
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やっと嵐も収まってきたみたい……かな?今日は、休演者も愛白もあちゃんだけ。あとは、明日の休演日をしっかり休んでいただいて、全員揃って木曜日を迎えてほしいものです。祈。
なので。今日は、ちょっとだけ作品の話を。
まずは、以前自分で書いた日記をちょっと思い出してみたいと思います。
http://80646.diarynote.jp/200906120313401808/
……あはは。
かの名台詞、三回も言ってくれたんですよ祐飛さんったら(^ ^;ゞ
でも、逃げ出したい気分にはならずにすみました!!(←真顔)「大空祐飛」が言ったら、私は絶対逃げたと思うんですけど、あくまでも、その台詞を言ったのは「リック」だったから。
前にも書きましたが、私はこの作品を映画館で観たことはないので、おそらく吹き替えだったと思うんですよね。
ってことは、「君の瞳に乾杯」という言葉だけを知っているってことで。だからこそ、イングリッド・バーグマンの潤んだ瞳とセットで印象に残っているわけですが。
……あれは、原語では「俺は君を見つめているんだぜ、お嬢ちゃん(Here’s looking at you, kid)」と言っているんですよね……
小池さんは、この二つの全く違う日本語(直訳と跳訳)を両方言わせる、という荒業に出て、そして、成功させていました。
三回出てくる同じ台詞の、トーンの違いがすごく面白くて。
いやーーー、世界的に有名な名台詞って、扱いが難しいんだなあ(- -)
で。
観終わって最初に思ったこと。
今までにも、何度も思ったし書いてきたことですが。
小池修一郎は、本当に潤色の天才だ。
吃驚しました。
私、まだまだ小池さんを舐めていたんだなー、と。
一番驚いたのは何か、というと、実は、シュトラッサー少佐(悠未ひろ)の設定だったんですよ。
私、小池さんはもっと勧善懲悪な話にしてしまうんじゃないか、と危惧していたみたいなんです。レジスタンスが善で、ナチスは悪だ、というふうに、ね。そのほうが解りやすいですから。
映画では、シュトラッサーの内実をあらわすような場面はなかったと思うのですが、小池さんが座談会でも言われていたとおり、すごく紳士的な男として描かれていた記憶があります。で、その“礼儀正しさ”が物凄く怖い、というイメージがあったんですね。
でも、小池さんは彼とドイツ兵に「シュトラッサーの屈辱」という場面を与え、「ドイツの栄光」というナンバーを与えた。そうすることで、彼らが闘う動機を明確にし、ナチスを『悪魔』ではなく「敵」として描いてみせたのです。
貧しい北国のドイツ。気候は厳しく、小麦の出来高は悪い。彼らにとって、広い平地があり、気候の良い豊かな農業国フランスは、永遠の憧れです。貧しさの最低ラインが違うし。豊かさの最高ラインの差はもっと大きい。だから、工業国として力を蓄え、軍事的にも力をつけてきたドイツが、最初に狙ったのは当然のようにフランスでした(普仏戦争/19世紀)。
貧しい田舎モノと蔑まれがちだった彼らが、自らを鼓舞し、フランスという豊かな先進国に手をつけるための言い訳に使った「ゲルマン民族の優秀性」という概念。第一次世界大戦の敗戦による未曾有の国難の中で一人歩きをした思想が歪んでいったのは、不運なことだったと思います。でも、党員たちはその「理想」を信じていた。『ドイツの栄光』という「理想」を。
『ドイツ』が栄光を得るために、陰に沈まなくてはならない国や民族があることからは、目を逸らして。
「ラ・マルセイエーズ」VS.「世界に冠たるわがドイツ」の歌合戦で一敗地にまみれたシュトラッサーが、自分自身と部下たちを鼓舞するために歌う歌。その歌に籠められた切なる願い、子供のように純粋で、だからこそ周辺諸国にとっては傍迷惑以外のなにものでもない祈りが、ひどく切ないです。
この映画は、1942年に撮影されました。小池さんもプログラムに書かれているとおり、戦闘状態に入ったアメリカにおける戦意高揚プロパガンダ映画だったのでしょう。
むろん、その時代性を喪ってもこの映画は価値を喪うことはなく、「名作」の誉れ高いまま今に至るわけですけれども。
あらためて考えてみると、映画の舞台となったのは、1941年12月1日から3日の深夜まで、なんですよね。
舞台で、「1941年12月1日」という日付を字幕で観たとき、ちょっと心が震えました。
このわずか一週間後に、アメリカは参戦します。
勿論、ラズロの演説のためではなく、日本の真珠湾攻撃のため、に。
そして。アメリカは、それよりもずっと前から参戦のチャンスを伺っていた という説もありますよね。国内で反戦感情が高まっていた合衆国は、自ら参戦することはできず、敵国(日本)が先制攻撃を仕掛けてくれるのを待っていた…そのために、劇団四季の「李香蘭」などでも語られている経済封鎖などの、いろいろな仕掛けをしていたのだ、と。
でも、この映画では、そんなことはおくびにも出されない。
まるで、ラズロが渡米して、それで初めてアメリカが立ったかのような時間関係になっている。
そしてリックは、アメリカ人でありながらイタリアに侵攻されたエチオピアに武器を流し、スペイン内戦では人民政府側に立って反ファシズムの戦闘に参加した、立派な男だ、と説明される。
すべてが、正義の戦争にアメリカは参加するべきだ、というプロパガンダなんですよね。
でも、一言もそんな話は出てこない。ラズロが渡米の目的として「彼らに真実を訴えて、立ち上がらせたい」と言うくらいで。なのに、観終わるころには、観客はちゃんと「立ち上がって彼らを助けなきゃ!」と思っていると思うんです。
何もわからずにテレビで観ていた私と、同じように。
私が映画を観たのはもう随分前で、細かいところは全く覚えていない、というのが正直なところ。いかに映画のとおりに良くできているか、という話を熱く語る友人の話を聴きながら、ふむふむ、と肯きながら、思っていたことは。
細かいことは覚えてないけど、とにかく、見終わった後の印象が全く同じだなあ…でした。
違うのは、ラズロが格好良いことくらい(^ ^)、かな。映画のラズロは、端正な二枚目だけど、どちらかというと理論(弁論)家の優男っぽい感じで、蘭トムさんみたいな骨太な格好良さは無かったような気がするんですよね。実際、ラズロのモデルはクーデンホーフ男爵だと言われていて、ってことは貴族なんですよ。レジスタンスの闘士じゃないんです。レジスタンスの闘士だったのは、むしろリックの方、なので。
でも、とにかく、映画のファンの方は、絶対見て損はないと思います!
イルザが「絶世の美女」ではなかったり(でも超絶可愛い)(自分でちゃんと「ご冗談を」って言ってる)、ラズロが理論家じゃなく革命家だったり、リックが二枚目(←贔屓目?)だったり、ルノーが若くて腹芸ができなかったり、、、いろいろ違うんですけどね。
ただ、世界観が非常に近いことに感心します。
モロッコ、という古代からの交通の要衝の、カサブランカという都市。人種の坩堝で、さまざまなところからの道が集まってまた別れていく、街。
同じモロッコを舞台にした「マラケシュー紅の墓標」にあった「砂漠」が、この「カサブランカ」には感じられない。
そこにあるのは、ただ、街と、地下と、空。
人生の在り処と、隠れ潜む闇と、交通路と。
「この世の果て」という名前の乾いた風が、吹きすぎる街。
今回は、映画が原作、ということもあって、比較的視点を固定した演出だったと思います。
一階席からの視線を基本に創っている。
それは、映像を多用するせいもあると思います。
偶然なんでしょうけれども、祐飛さんに宛書していただいた作品は、映画を題材にしたものが多いんですよね。「Hollywood Lover」と「銀ちゃんの恋」は映画撮影のバックグラウンドものだし、「カサブランカ」は映画が原作だし。
で、この三作とも、実にうまく映像を使っているな、と思ったんですよね。
私は舞台至上主義なので、舞台における映像使用はよほど巧いことやらないと感心しないんですが、「Hollywood Lover」の、撮影された映像を流す遣り方といい、「銀ちゃんの恋」の、リアルタイムにビデオを流す演出といい、感心しっぱなしでした。
そして、この「カサブランカ」。
オープニングでの、カサブランカの街の鳥瞰図から始まって、
ラストの空港での飛行機の表現まで、実に実に映画らしくて、本当に素晴らしかった!!
中でも「凄い」と思ったのは、回想シーンへ移るときの走馬灯のような映像。
リックの心の奥に潜っていくような、不思議な錯覚に陥りました。
ただの「安価で転換のカンタンな舞台装置」としてではなく、映像でなければできない表現をするためになら、いくらでも映像を使ってくれて構わない。
そして、この三つの作品における映像の使い方は、たしかに映像でなければできない表現だった、と思うのです。
そして。
一階席からの視線を中心に考えて、創られたセットが、あの「リックの店」の見事なセット。
大セリを真ん中に、下手側に外へのドア、上手側にカジノへのドア。
外へのドアの外にはちゃんと「カフェの外」のセットがあり、カジノのドアの向こう、セリの裏側には、ちゃんとカジノのセットがある。「二階(リックの住居)はセリの上で表現し、盆を回すだけで、カジノとカフェと店の外をスムーズに転換できる。
アイディア自体はそんなに珍しくはないのですが、セットとしての完成度と、真ん中にセリがあるのが宝塚らしいな、と思いました。
「カサブランカ」という作品を楽しみたいなら、この公演は、一階席がお勧めです。
演出家が見せたいものを、彼の意図通りに鑑賞することができるのは一階席なので。
何度も観るなら、二階席も楽しいですけどね。二階からだと、カジノの場面でもセリの裏になったカフェで芝居が続いているのが微かに見えたり、カフェの外に出たあと、カフェのテーブルを皆が必死で片付けているのがよく見えたりするので(^ ^)。
うううう、なんだか全然まとまっていなくてすみません。とりとめ無さすぎ…(T T)。
頭がかなり沸騰しているみたいです。
あ。
……そういえば、忘れてたような気がする(←おい)
すごく今更のような気がしてしまうのですが、
「祐飛さん、すみ花ちゃん、宙組トップコンビお披露目おめでとうございます」
なんだか、そんなこと(←おーーいっ!)はどうでも良くなってしまったくらい、よくできた作品で、いい公演になりそうで、そのことで幸せです。
小池さん。
宙組のために、こんなに素敵な作品を創ってくださって、本当にありがとうございましたm(_ _)m。
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コメント
もう早く観たくてたまりません!
雪、宙と最近お金を費やして、ボーナスがまたも吹っ飛びそうです。
何しろ花組ファンが「カサブランカ」みちゃったら、「ベルバラ」みてる場合じゃないよとチケットさばいてましたもん(笑)
1月のためにお金ためるそうです。
で、せりの使い方が見事だそうですね、せりが全く使われてない植田先生に
ちょっと教えてあげてくれって言ってました!
やっぱり違う演出家でベルバラやるべきだよね~
植田先生って引退しようとかそういう考えは無いのかなぁ
す、すみません………m(_ _)m。
日本語で書けよ、って感じですよね(滝汗)
> すごく良さそうなので初日のチケットを一応押さえました。
それは間違いなく正解です(はぁと)正月早々お会いできますね♪
> 何しろ花組ファンが「カサブランカ」みちゃったら、「ベルバラ」みてる場合じゃないよとチケットさばいてましたもん(笑)
……気持ちはわかるかも(^ ^)
> で、せりの使い方が見事だそうですね、せりが全く使われてない植田先生に
> ちょっと教えてあげてくれって言ってました!
セリっていうか、盆の使い方との組み合わせが素晴らしいです。時代ですかねぇ……。
> やっぱり違う演出家でベルバラやるべきだよね~
ですね!!誰がやっても、外伝みたいなことにはならないだろう……(あ、酒井さんは除く)
> 植田先生って引退しようとかそういう考えは無いのかなぁ
心の底から祈ります……。