宙組博多座公演「大江山花伝」。




やっと物語の本筋が動き始めたところですが、ちょっと原作との違いとかを語ってみたくなっております。
……原作・舞台共にネタバレしておりますので、どうぞご注意くださいませ。




■第八場 綱と藤の葉、捕わる

月光の中、主題歌「うす紫の恋」を口ずさみながら、山道(客席)を歩く茨木。
この作品において、通奏低音のようにずっと心の中に流れている主題歌。何度も何度も、繰り返しいろんな人が歌う。茨木が歌い、藤の葉が歌い、また茨木が歌い、、、、

♪とけてはかなきうす紫の
♪夢の狭間にたゆたいて
♪あとに残るは風ばかり 風ばかり

……そういう物語なんですよね、真実に。





原作は中篇で、基本的に綱(=倭人)側の視点で描かれています。
そんなに長い話じゃないので、鬼たちの生活なんて全く描かれていません。ところどころに茨木と藤子の追憶と幻想が混ざるくらいで、それ以外は、ほぼ語り手は綱。徹頭徹尾、鬼は人間の敵として描かれるのです。

鬼側のキャラクターは、悪役カウントの酒呑童子と、それに付き従う鬼丸くらい。
胡蝶もいないし、千年杉もいない。可愛い子鬼たちも、暴れん坊の少年たちも、誰もいない。

そして。
当たり前のように、茨木以外の鬼と人間とのエピソードは全くありません。
京の女たちと鬼たちのエピソードも一切なく、酒呑童子は、茨木の母について「お前が生まれてから……時どきはわしにも笑いかけてくれるようになっていたのに」と語る。
そのくらい、隔絶された人間関係。とてもとても、「わしはお前の母をこよなく愛おしんだ。二人は幸せであった」どころの騒ぎじゃない。いや、酒呑童子が茨木の母をこよなく愛したことは事実だったのでしょう。でも、『二人が幸せであった』かどうかは、今となっては誰にもわからない。

鬼側の理屈(自分たちはヴァイキングの末裔で、黄色い髪や白い肌を懼れた倭人たちに山奥へ追われ、悲惨な生活のうちに姿が変わっていった云々)は述べられますが、要するに「鬼にとっては人間(倭人)は敵」で、「人間(倭人)にとって鬼どもは敵」でしかないのですから。
彼らがどう望もうと、あくまでも。



その間を繋ぐものとして、鬼と人間の混血である茨木というキャラクターを設定したのが、木原さんの慧眼であったとするならば。

大空祐飛は、この、鬼と人間が完全に敵対する世界の中で、そのどちらにも属さない茨木というキャラクターを、生きられる稀有な人だった、と、思っていたのです。
だから。
……そんな茨木を観ることができなかったのは、彼女が属する世界は宝塚歌劇なんだから絶対に無理だと判った上で、でも、やっぱり残念だった、と思ってしまいます。


もしも、柴田さんのお目がまだ無事でいらっしゃったなら。
彼は、祐飛さんにどんな茨木を創ってくれたのだろうか。
実際にイタに載ったものと、そんなに大きく変わらない……の、かなあ…?





二十数年前。

柴田さんは、宝塚作品としてこの物語を換骨奪胎する中で、「愛するべき鬼たち」という新たな設定を作り上げました。

乱暴ものだけれども、身勝手でわがままだけれども、でも、愛されるべき子供たち。
そう、柴田作品となった「大江山花伝」の中で、鬼たちはほぼ全員、『子供たち』になっていた。
乱暴もので、短気で、身勝手で、欲しいと思ったら攫ってきてしまう、抑えのきかない子供たち。
子供でないのは、長である酒呑童子と、千年杉の二人くらいで。胡蝶と茨木は、混血ゆえに子供で居続けることもできず、大人になってしまった孤独な二人…なのだ、と。




二十数年前に、自ら酒呑童子を殺し、鬼族を滅ぼして自らも滅ぶ茨木童子の話など、宝塚で受け入れられたとは考えられません。

だから、柴田さんの改変は、正しい方向でした。いえ、今だってそんなのは難しいだろうと思います。第一、鬼たちのエピソードを全部削ることになるから、全然役がなくなってしまうし。




でも。


……「どうして山攻めなんてするんだよ!?」「彼らは子供だってだけで、姫君も殺してないし、悪いことしてないじゃん!」と頼光四天王たちを恨んでしまう私の心は、どうしたらいいんだよーーーーー。
(←千秋楽を過ぎた今でも、この切なさは鮮明に胸に残っていたりします)






…余談が長くなりました。

夜歩きの果てに朝を迎えた茨木は、“岩屋御殿”の前で胡蝶に出会います。っていうか、胡蝶は帰ってこない茨木(「後でな」って言ってたのにー!)を待って、あの扉を出たり入ったりしてたんだろうな……。まんじりともせずに。
哀れな娘心。そうとしか表現のしようもない思いの深さに、絶望的な気分になります。


「また、森の泉に行ってきたの…?」
そっと尋ねる胡蝶。

これ、なんの説明もなく尋ねられ、茨木も何のフォローもせずに無視してのける、あまり意味があるとも思えぬ会話なのですが。
……“鬼の泉”のことを言ってるんですよね?
到底忘れられるはずもない記憶、どんなに辛くても忘れたくはない記憶を映しだす、凍らぬ泉の水鏡。

♪ひとでなしの明け暮れに 指の間からこぼれて散った
♪夢のむかしを拾い集めて 温めて
♪ひそかにそっと 水に映し 飽きもせず見つめる

この歌を歌うのは、この場からずいぶん先の話ですし、そのときには、直前のドラマティックな場面に心を奪われて、このささやかな会話は忘れられているのですけれども。
取り戻せない過去の罪を、自分自身の過ちを、それであってさえも懐かしく、慕わしく、何度でも繰り返し視ずにはおれぬ、茨木の絶望の深さ。その真実の痛みを知ることも許されずに、ただ茨木の纏う月光の眩さに手を触れることもできずにいる胡蝶が。

『三年前』の事件について、何も知らないはずの胡蝶。宴での歌といい、この意味深な台詞といい、知らずに言っているのだとしたら随分と残酷なことよ、と思います。…いや、たぶん、泉のほとりで何時間でも過ごす茨木のことを、今で言うひきこもりくらいに思っているのかな(汗)。そして、宴での歌は、へたをすれば茨木自身が歌って聞かせたのかも、とも思う。
それは、彼の絶望を呼び出す召還の呪文、だから。

くらき瞳の君知るや そも、悪しかり鬼とは茨の木よ、と






茨木を心配する胡蝶は、子鬼たちを呼び寄せて、上衣と履物、そして薬湯を持ってこさせます。
まぁ過保護な姐さんですな(^ ^)。
無邪気なひなげしの、「まだ残ってるわ!お薬は残しちゃ駄目よ!」という台詞に、ちょっと目を白黒させて、仕方なさそうに苦そうな薬湯を飲み干す茨木が、なんとも言えず可愛らしいです。
ひなげしの「はい、おりこうさん♪」という台詞がすごい好き。茨木がさっきまで纏っていた月光の鎧が、子鬼たちのキラキラに射込まれて、すっかり外れてしまった感じ。胡蝶の口許もすっかり綻んで、朝が来たんだなあ、という気がするのが不思議です。

「幼いものは可愛いな。鬼とはいえぬ」

そんな、すっかり寛いだ雰囲気の中、ふと茨木の口からもれた呟き。
ここぞ、とばかりに三年前のことを聞き出そうとする胡蝶の必死さが、すごく可愛い。ここで黙って、そのままの茨木を丸ごと受け入れてあげるだけの懐があれば、茨木も胡蝶を愛したかもしれないのに。
なのに、胡蝶は尋ねてしまう。三年前のこと、を。

……なぜ鬼になったのか、を。





そんな危なっかしい会話をしているところに、春風が駆け込んでくる。
「見張りが、人間を二人、捕まえました」と。

興味なさげに立ち去る茨木。
春風・秋風に指示を与えて、皆を連れてくるように言う千年杉。千年杉に「春風は長の童子に、秋は四天王の誰かに知らせてこい」と指示されるのを、姿勢を小さくして見上げながら聞いているりくちゃんとモンチがかなりツボでした(*^ ^*)。


五蔵を先頭に、山伏の格好をした綱(北翔海莉)と、侍女姿のままの藤の葉(野々すみ花)を連れて現れる、三田から九呂までの面々。三田と六歩と八飛が綱を抑えて、七曲と九呂が藤の葉を連れて……いたような(?)。
普通にじさまに報告する五蔵の美声が毎回ツボでした。そして、「人間にしちゃ滅法つえぇ野郎だぁ〜!」という、六歩の特徴のある喋り方が、巧いなあ、と、これまた毎回感心していました(^ ^)。

上手から登場した羽黒が綱に質問をしているうちに、いったん引っ込んだ茨木が再び音も無く出てきます。……あの引っ込みは、どうやら衣装を調えていただけだったらしく、肩からひっかけただけだった上衣が、ちゃんと帯に入ってる(^ ^)。
で、山伏に変装していても、茨木童子には綱だとわかるらしい。綱の方は、行者に変装した茨木に全く気がつかなかったのに!(←字の大きさに、たいした意味はありません)

あっさりと綱の正体をバラし、窮地に陥れておきながら。
藤の葉の懇願で、一瞬の躊躇を見せつつも豹変する茨木を、冷たい目で見ている父上が、結構怖い……と思うんですけど。まさこちゃんだからあんまり思わないけど(^ ^;ゞ、あそこは結構、父子的には怖い場面ですよねえ?
原作では、この時はたまたま酒呑童子が留守だったから、茨木の好きなように差配できた、ということになっているんですよね。舞台も、四天王の羽黒や天竜が来ているんだし、ここであえて酒呑童子まで出さなくても良いような気がするんだけどな。

……ここであっさり「父上」と呼ばれて丸め込まれている酒呑童子を見ていると、ついつい、息子にベタ甘なただのダメ父に見えてくるんですが……(涙)、私だけ?



うー、一日一場でやっていたら、マジで終わらないのでは(溜息)。



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