僕たちの好きだった革命
2009年6月23日 演劇東京芸術劇場 中ホールにて、KOGAMI@NETWORK「僕たちの好きだった革命」を観てまいりました。
……先月末のことですが(^ ^;ゞ
5月はかなりバタバタと忙しく、観たかった公演をいくつも見逃してしまったのですが、これだけは絶対に観る!と決意していたので、楽の直前になんとか潜り込むことができました。
東京公演が終わった後もあちこち全国ツアーで回るので、その間に書こう~、と思っていたのに、ふと気がつくと、全国ツアーの楽まであと半月もないじゃん!!というわけで、慌てて記憶を掘り出してみましたm(_ _)m。
映画監督の堤幸彦(「20世紀少年」三部作など)が企画原案、第三舞台の鴻上尚史が企画・原作・脚本・演出。2年前の初演はタイミングが合わず観られなかったので、今回の再演は『待ってました!』という感じでした。
プログラムにも書かれていますが、これはもともと堤監督が映画にするつもりで温めていたネタだったそうです。それがいつまでたっても映画にならないものだから、鴻上さんがしびれを切らして舞台化した…のだそうです。
うん、確かに映画向きの題材でした。割と映像っぽい処理も多かったし。
でも、舞台としても実に素晴らしかったです。まだ上半期も終わっていませんが、現時点では、今年観た中で一番好きな芝居になってます★
最初と最後だけが「現在(=2007年)」で、作品全体のメインの舞台は1999年の高等学校。
日比野篤志(塩谷瞬)と小野未来(みく/片瀬那奈)が通う拓明高校に、ある日、復学生がやってくる。
山崎義孝(中村雅俊)、47歳。1969年の学生運動に参加し、拓明高校支部(?)のサブリーダー的な地位にいながら、集会に突入してきた機動隊のガス弾を受けて意識不明となり、そのまま30年が過ぎた、頭だけがオイルショック前の高校生のままの、中年男。
30年ぶりに意識を取り戻した彼は、茫然自失の時を過ごした後、ぽつりと復学を希望する。
彼は知らない。彼を診ていた医者が、「彼はいずれ、再び眠りに戻るだろう。そう長くは無いかもしれないから、今のうちにやりたいことをやらせてあげるように」と彼の保護者に言っていたことなど。
そして、山崎を迎える高校側には、高校側の目論見がある。
校長(安原義人)が狙うのは、「30年間眠っていた学生が復学!」というニュース性と、復学を許可した『寛容な学校』という評判。
「山崎くんが落ち着いたら記者の取材を受けさせる」つもりでいる。
大人たちの思惑が交錯する中で、「革命の指導者」のなりそこないは、どう動くのか…?
実に面白い、興味深い作品でした。
ええ、本当に。
直接は関係ないのですが。
私の母校(高校)は相当にアカな(←たぶん、この表現は厳密には正しくない)学校でして。全共闘時代にも、教師・生徒あわせて何人もしょっぴかれた…という歴史を、誇らかに語り継ぎ、自慢話として語るような、相当にバンカラな学校でした。
ただ、私の知る限りでは、高校で集会を開いたとか機動隊と争いになったとか、そういう話は無かったはずなので、それを思うと、拓明高校はずいぶん最先端を走っていた高校だったんでしょうねぇ…。
いずれにしても、この作品のテーマは、山崎の想いのまっすぐな真摯さ、だと思いました。
決してあの時代を総括しようとか、反省しようとか、見直そうとか、そういう話じゃなくて。ただ、あれは純粋でポジティヴな闘争だったのだ、と、ただその主観的な事実を淡々と語る物語、でした。
闘いがあった。
そこで死んでしまえば「レ・ミゼラブル」になれるわけです。皓いひかりに包まれて、天国へいける。レクイエムの一曲も流れるかもしれない。
だけど、彼らは生き残った。マリウス一人が残されたのではなく、誰も死ななかったわけです。(30年間意識不明だった山崎は、仲間うちでは死亡カウントだったかもしれませんが)
でも、闘いはたしかにあった。
だから。
闘いがあれば、傷が残る。必ず、双方に傷はつくわけです。
それでも生きていかなくてはならない。
30年前に信じていた理想と、30年前に喪った理想。…現実社会を生きていくなかで、拓明高校の教頭におさまり、“学校側”の尖兵として生徒たちを弾圧する兵藤(大高洋夫)が、とても哀れな存在に見えました。
30年前には拓明高校支部(?)のリーダーとして皆をひっぱり、機動隊に負けずにアジ演説をしていた彼が。30年の空白を経て、過去から蘇ったミイラのような山崎の前で見せる、とまどいと恐れ。過去の自分を捨てたこと、いや、捨てた事実を忘れようとした自分に対する罪悪感に苛まれて苦しむ彼、が。
「自分のせいだと思っているのか?」
30年前とまったく同じ、真っ直ぐな瞳で兵藤を見つめながら、山崎は尋ねる。
「自分のせいで、仲間たちの人生を狂わせた、と?」
ただただ真っ直ぐな、皓い光に包まれて。
「…俺は、兵藤さんに感謝してる」
青春のすべてを寝ているうちに喪ってしまった男が、微笑んで言う。
「あんたの演説を聞いて、俺は俺の意思で飛び込んだんだ。…後悔なんて、」
自分で択んだ道なんだから、その結果について、誰にも嘆いたり悔やんだりしてもらいたくない。
「後悔なんて、するつもりは無いんだ」
すべてを喪った男が、世界を掌に載せて、兵藤に差し出す。
「俺はあんたに、感謝している」
そしてもう一人、哀れな男。
兵藤や山崎の仲間だった文香(田島令子/未来の母親)の夫、小野忠義(藤井びん)。
山崎が斃れた騒ぎの後、大学に進学して運動を続けた文香は、内部闘争の渦の中で、仲間だったはずの連中に恋人を惨殺され、精神的に不安定なところを抱えている。
そんな女を妻に得た、学生運動には参加していなかった男。その時代の話はタブーとなった家庭。
ときおり、記憶がフラッシュバックして発作を起こす母親を心配しながら、「何故?」と思い続けて育った未来(みく)。彼女が山崎の始めた運動に積極的に参加するのは、母親を理解したいという気持ちがどこかにあったからだった。
「パパ、教えて。ママに昔、何があったの?」
年頃になった娘の真っ直ぐな問いに、目を逸らすしかない父親。
「…俺もずっと待っているんだ。文香がちゃんと教えてくれるのを…」
口の中で、ぼそりと呟く。
「俺には、お前には教えられない。…俺にだってわからないんだ」
愛する妻との間にある深い溝、決して埋められない溝を、切なく見やって。
「俺には、理解、できないんだよ…」
肩を落として歩み去る、力ない中年男。見送る娘の、昏い瞳。
文化祭にラッパーを呼んでコンサートをしたい!という、未来たちの純粋な思い。
それが純粋であればあるだけ、学校側、あるいは大人側の理屈は考慮されません。
抗議は学生(=弱者)の、正当な権利なのだから。
民主主義なのだから、政治の不満は自分たちの手で解決しなくてはならない。
自分たちが立ち上がらなければ、代わりにやってくれる人はどこにもいない。
…そう教えられた戦後世代。
しかし、彼らを教えた戦前世代は、そんなことひとっかけらも想っちゃいなかった……。
だから。
二つの正義が真っ向から対立する以上、それがどんなに純粋な願いから生じたものであっても、最終的には、闘争で解決するしかないのだから。
未来たちの、「文化祭は生徒のものだ!」という主張と、
兵藤や山崎が30年前に掲げた主張とは、おそらく内容としては全く違うものであったはず。
それでも、それはどちらも等しく 権力者による抑圧を撥ね退け、自分らしく生きるために必要な闘争 であった、という点では同じものだった。
それが解っているからこそ、兵藤はその無謀な夢を否定する側に回る。若さゆえの無謀な夢を力づくで叶えることが、彼らのためになるとは思えないから。
それは、教育者として決して間違った考え方ではないのです。彼らが自分で躓くまで待つのではなく、転ぶ前に、ひっかかりそうな石はどけておいてあげよう、という思想は、むしろ必要なものかもしれない。
でも、結局のところ、重要なのはバランスなんですよね。教育は、極端に走ってはいけないのです。
教師側の主張が、「ラップなんぞ聞いていたら莫迦になるぞ」という低レベルなものではどうしようもない。結果、山崎の「僕らの頃は、ビートルズなんて聴いたら不良になると言われたのに、今は教科書に載っている!」という驚きが、闘争の後押しとなる。
ラップが本当に30年後に教科書に載るのかどうか、それは誰にもわからないのに。
……なんだか、感情が走りすぎちゃって、あんまり巧く語れません…観てから一ヶ月近くたってるのに、おかしいなあ(^ ^;ゞ
こんなぐだぐだな文章で、すみません。
キャストは、若者たちも含めて、みなさん素晴らしかった。中でもやはり、主役として全ての物語を動かした中村雅俊の、のんびりとししているのに強烈な存在感が、印象的でした。
ヒロイン・未来の片瀬那奈の強烈な存在感と、彼女に片思いする気弱な優等生、日比野のさりげない空気感がすごく良かった。そして、彼女たちを徹底的に排除しようとする生徒会のメンバーがまた秀逸でした。
文香を演じた田島令子(←もちろん、あのオスカル様の声です)は、他に、文化祭当日をヘリコプターで取材するキャスターを、それも二役で演じていたのですが、生徒たちの命が懸かったシリアスな場面の直前(最中も)に、あれだけ爆笑させられるとは思いませんでした。…声優ってすごいなあ。
ちょっとネタバレっぽいのですが。
この物語で一番驚いた仕掛けは、「僕たちの好きだった革命!」というこのタイトル台詞を語るのが、30年前の拓明高校に突入した機動隊の隊長(藤井びん)だった、ということだったような気がしています。
この台詞を語る主体が、山崎でも、兵藤でも、文香でもなく、彼であったことが。
自分の主義主張のために闘いを選び、闘争に身を投げた彼らではなく、職業軍人に近い存在であったことが。
「僕たちの好きだった革命」
このタイトルに籠められた、深い想いと皮肉が、強く胸に響きました。
そして。
とにかく、全共闘世代の「フォーク」と、1999年の「ラップ」のコラボが、素晴らしいアイディアでした。
ラッパーとして登場し、物語のキーパーソンを勤めるGAKU-MC の存在なくして、この作品は成り立たなかっただろう、と心から思います。
…ああ、本当に、観ながらいろんなことを考えさせられた作品でした。
ホントにうまくまとめられなくてすみません。観られて良かった!!
舞台もまた観たいけど、映画もぜひ!観てみたい!!です。
堤監督、今度こそスケジュールをきちんと確保して、お願いします~!!(一度は決まりかけたのに、「20世紀少年」三部作にかまけているうちにおじゃんになったらしいので…)
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……先月末のことですが(^ ^;ゞ
5月はかなりバタバタと忙しく、観たかった公演をいくつも見逃してしまったのですが、これだけは絶対に観る!と決意していたので、楽の直前になんとか潜り込むことができました。
東京公演が終わった後もあちこち全国ツアーで回るので、その間に書こう~、と思っていたのに、ふと気がつくと、全国ツアーの楽まであと半月もないじゃん!!というわけで、慌てて記憶を掘り出してみましたm(_ _)m。
映画監督の堤幸彦(「20世紀少年」三部作など)が企画原案、第三舞台の鴻上尚史が企画・原作・脚本・演出。2年前の初演はタイミングが合わず観られなかったので、今回の再演は『待ってました!』という感じでした。
プログラムにも書かれていますが、これはもともと堤監督が映画にするつもりで温めていたネタだったそうです。それがいつまでたっても映画にならないものだから、鴻上さんがしびれを切らして舞台化した…のだそうです。
うん、確かに映画向きの題材でした。割と映像っぽい処理も多かったし。
でも、舞台としても実に素晴らしかったです。まだ上半期も終わっていませんが、現時点では、今年観た中で一番好きな芝居になってます★
最初と最後だけが「現在(=2007年)」で、作品全体のメインの舞台は1999年の高等学校。
日比野篤志(塩谷瞬)と小野未来(みく/片瀬那奈)が通う拓明高校に、ある日、復学生がやってくる。
山崎義孝(中村雅俊)、47歳。1969年の学生運動に参加し、拓明高校支部(?)のサブリーダー的な地位にいながら、集会に突入してきた機動隊のガス弾を受けて意識不明となり、そのまま30年が過ぎた、頭だけがオイルショック前の高校生のままの、中年男。
30年ぶりに意識を取り戻した彼は、茫然自失の時を過ごした後、ぽつりと復学を希望する。
彼は知らない。彼を診ていた医者が、「彼はいずれ、再び眠りに戻るだろう。そう長くは無いかもしれないから、今のうちにやりたいことをやらせてあげるように」と彼の保護者に言っていたことなど。
そして、山崎を迎える高校側には、高校側の目論見がある。
校長(安原義人)が狙うのは、「30年間眠っていた学生が復学!」というニュース性と、復学を許可した『寛容な学校』という評判。
「山崎くんが落ち着いたら記者の取材を受けさせる」つもりでいる。
大人たちの思惑が交錯する中で、「革命の指導者」のなりそこないは、どう動くのか…?
実に面白い、興味深い作品でした。
ええ、本当に。
直接は関係ないのですが。
私の母校(高校)は相当にアカな(←たぶん、この表現は厳密には正しくない)学校でして。全共闘時代にも、教師・生徒あわせて何人もしょっぴかれた…という歴史を、誇らかに語り継ぎ、自慢話として語るような、相当にバンカラな学校でした。
ただ、私の知る限りでは、高校で集会を開いたとか機動隊と争いになったとか、そういう話は無かったはずなので、それを思うと、拓明高校はずいぶん最先端を走っていた高校だったんでしょうねぇ…。
いずれにしても、この作品のテーマは、山崎の想いのまっすぐな真摯さ、だと思いました。
決してあの時代を総括しようとか、反省しようとか、見直そうとか、そういう話じゃなくて。ただ、あれは純粋でポジティヴな闘争だったのだ、と、ただその主観的な事実を淡々と語る物語、でした。
闘いがあった。
そこで死んでしまえば「レ・ミゼラブル」になれるわけです。皓いひかりに包まれて、天国へいける。レクイエムの一曲も流れるかもしれない。
だけど、彼らは生き残った。マリウス一人が残されたのではなく、誰も死ななかったわけです。(30年間意識不明だった山崎は、仲間うちでは死亡カウントだったかもしれませんが)
でも、闘いはたしかにあった。
だから。
闘いがあれば、傷が残る。必ず、双方に傷はつくわけです。
それでも生きていかなくてはならない。
30年前に信じていた理想と、30年前に喪った理想。…現実社会を生きていくなかで、拓明高校の教頭におさまり、“学校側”の尖兵として生徒たちを弾圧する兵藤(大高洋夫)が、とても哀れな存在に見えました。
30年前には拓明高校支部(?)のリーダーとして皆をひっぱり、機動隊に負けずにアジ演説をしていた彼が。30年の空白を経て、過去から蘇ったミイラのような山崎の前で見せる、とまどいと恐れ。過去の自分を捨てたこと、いや、捨てた事実を忘れようとした自分に対する罪悪感に苛まれて苦しむ彼、が。
「自分のせいだと思っているのか?」
30年前とまったく同じ、真っ直ぐな瞳で兵藤を見つめながら、山崎は尋ねる。
「自分のせいで、仲間たちの人生を狂わせた、と?」
ただただ真っ直ぐな、皓い光に包まれて。
「…俺は、兵藤さんに感謝してる」
青春のすべてを寝ているうちに喪ってしまった男が、微笑んで言う。
「あんたの演説を聞いて、俺は俺の意思で飛び込んだんだ。…後悔なんて、」
自分で択んだ道なんだから、その結果について、誰にも嘆いたり悔やんだりしてもらいたくない。
「後悔なんて、するつもりは無いんだ」
すべてを喪った男が、世界を掌に載せて、兵藤に差し出す。
「俺はあんたに、感謝している」
そしてもう一人、哀れな男。
兵藤や山崎の仲間だった文香(田島令子/未来の母親)の夫、小野忠義(藤井びん)。
山崎が斃れた騒ぎの後、大学に進学して運動を続けた文香は、内部闘争の渦の中で、仲間だったはずの連中に恋人を惨殺され、精神的に不安定なところを抱えている。
そんな女を妻に得た、学生運動には参加していなかった男。その時代の話はタブーとなった家庭。
ときおり、記憶がフラッシュバックして発作を起こす母親を心配しながら、「何故?」と思い続けて育った未来(みく)。彼女が山崎の始めた運動に積極的に参加するのは、母親を理解したいという気持ちがどこかにあったからだった。
「パパ、教えて。ママに昔、何があったの?」
年頃になった娘の真っ直ぐな問いに、目を逸らすしかない父親。
「…俺もずっと待っているんだ。文香がちゃんと教えてくれるのを…」
口の中で、ぼそりと呟く。
「俺には、お前には教えられない。…俺にだってわからないんだ」
愛する妻との間にある深い溝、決して埋められない溝を、切なく見やって。
「俺には、理解、できないんだよ…」
肩を落として歩み去る、力ない中年男。見送る娘の、昏い瞳。
文化祭にラッパーを呼んでコンサートをしたい!という、未来たちの純粋な思い。
それが純粋であればあるだけ、学校側、あるいは大人側の理屈は考慮されません。
抗議は学生(=弱者)の、正当な権利なのだから。
民主主義なのだから、政治の不満は自分たちの手で解決しなくてはならない。
自分たちが立ち上がらなければ、代わりにやってくれる人はどこにもいない。
…そう教えられた戦後世代。
しかし、彼らを教えた戦前世代は、そんなことひとっかけらも想っちゃいなかった……。
だから。
二つの正義が真っ向から対立する以上、それがどんなに純粋な願いから生じたものであっても、最終的には、闘争で解決するしかないのだから。
未来たちの、「文化祭は生徒のものだ!」という主張と、
兵藤や山崎が30年前に掲げた主張とは、おそらく内容としては全く違うものであったはず。
それでも、それはどちらも等しく 権力者による抑圧を撥ね退け、自分らしく生きるために必要な闘争 であった、という点では同じものだった。
それが解っているからこそ、兵藤はその無謀な夢を否定する側に回る。若さゆえの無謀な夢を力づくで叶えることが、彼らのためになるとは思えないから。
それは、教育者として決して間違った考え方ではないのです。彼らが自分で躓くまで待つのではなく、転ぶ前に、ひっかかりそうな石はどけておいてあげよう、という思想は、むしろ必要なものかもしれない。
でも、結局のところ、重要なのはバランスなんですよね。教育は、極端に走ってはいけないのです。
教師側の主張が、「ラップなんぞ聞いていたら莫迦になるぞ」という低レベルなものではどうしようもない。結果、山崎の「僕らの頃は、ビートルズなんて聴いたら不良になると言われたのに、今は教科書に載っている!」という驚きが、闘争の後押しとなる。
ラップが本当に30年後に教科書に載るのかどうか、それは誰にもわからないのに。
……なんだか、感情が走りすぎちゃって、あんまり巧く語れません…観てから一ヶ月近くたってるのに、おかしいなあ(^ ^;ゞ
こんなぐだぐだな文章で、すみません。
キャストは、若者たちも含めて、みなさん素晴らしかった。中でもやはり、主役として全ての物語を動かした中村雅俊の、のんびりとししているのに強烈な存在感が、印象的でした。
ヒロイン・未来の片瀬那奈の強烈な存在感と、彼女に片思いする気弱な優等生、日比野のさりげない空気感がすごく良かった。そして、彼女たちを徹底的に排除しようとする生徒会のメンバーがまた秀逸でした。
文香を演じた田島令子(←もちろん、あのオスカル様の声です)は、他に、文化祭当日をヘリコプターで取材するキャスターを、それも二役で演じていたのですが、生徒たちの命が懸かったシリアスな場面の直前(最中も)に、あれだけ爆笑させられるとは思いませんでした。…声優ってすごいなあ。
ちょっとネタバレっぽいのですが。
この物語で一番驚いた仕掛けは、「僕たちの好きだった革命!」というこのタイトル台詞を語るのが、30年前の拓明高校に突入した機動隊の隊長(藤井びん)だった、ということだったような気がしています。
この台詞を語る主体が、山崎でも、兵藤でも、文香でもなく、彼であったことが。
自分の主義主張のために闘いを選び、闘争に身を投げた彼らではなく、職業軍人に近い存在であったことが。
「僕たちの好きだった革命」
このタイトルに籠められた、深い想いと皮肉が、強く胸に響きました。
そして。
とにかく、全共闘世代の「フォーク」と、1999年の「ラップ」のコラボが、素晴らしいアイディアでした。
ラッパーとして登場し、物語のキーパーソンを勤めるGAKU-MC の存在なくして、この作品は成り立たなかっただろう、と心から思います。
…ああ、本当に、観ながらいろんなことを考えさせられた作品でした。
ホントにうまくまとめられなくてすみません。観られて良かった!!
舞台もまた観たいけど、映画もぜひ!観てみたい!!です。
堤監督、今度こそスケジュールをきちんと確保して、お願いします~!!(一度は決まりかけたのに、「20世紀少年」三部作にかまけているうちにおじゃんになったらしいので…)
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