シアターコクーンにて、「雨の夏、30人のジュリエットが還ってきた」を観劇いたしました。



作:清水邦夫、演出:蜷川幸雄。
この二人の巨匠が、現代人劇場~櫻社で共に舞台を創っていた頃のことを、私はまったく知りません。
それでも、私にはまったく想像することもできないような深いモノが、作品の裏に横たわっていることだけは感じられました。

蜷川さんは1935年生まれ(今年74歳)、清水さんが一つ下。…長い人生の中で、現代人劇場~櫻社にいたる1967年から73年という時代は、まさに30代、クリエーターとして脂の乗り切った時期だったはず。
その時代を共に生き、おそらくは全てを賭けてぶつかりあい、共同で“創造”という苦しみを味わった、二人の天才。


そんな二人が袂を分かってから9年後の1982年に初演された「雨の夏・30人のジュリエットが帰ってきた」。
この作品は、作品単体としても非常に興味深くて面白かったのですが、作者二人の深い葛藤が色濃く残っていることが面白みを増しているんだろうな、と思いました。
たぶん、今、私が観て感じることとは全く違うモノを、昔から清水さんや蜷川さんを観てきた人たちは感じることができるんだろうな、と。

プログラムには色々書いてありますが、そんなものをいくら読んでも、二人の真実はさっぱりわかりません。
それは、作品を観て感じるしかないことなのでしょうけれども、同時代で観ていればわかることも、今再演されてもよくわからない……、というのが正直なところです。


ただ、「生きた真似より死んだ真似」という台詞で『真情あふるる軽薄さ』を思い出したり、そういういろんなメタファーの、多分半分も私は解っていないんだろうなあ~、と思いながら観ることはストレスもありました。当時を知る方々がとても羨ましくもあり……でも逆に、「作品と関係ないこと」に左右されることなく作品を楽しむことができて良かったなぁ、とも思いましたね。







舞台は、ある地方のデパートの、巨大な階段と踊り場がある吹き抜けの空間のワンセット。
このセットが素晴らしかったです(美術:中越司)。ちょっと古びたデパートの風情がただよっていて。
開演までは緞帳の前にマネキンを飾ったディスプレイが置いてあって、東急本店がそのまま透けて見えているみたい(シアターコクーンは東急本店と同じ建物の中にあります)。だから、緞帳があがると、そのディスプレイウィンドウを通して巨大な階段のセットが見えてくる。その奥行きの深さが凄いなあ、と。
シアターコクーンの舞台はって幅にくらべて奥が深いと思うのですが、その奥にわだかまる闇が、謎をはらんでいるみたいで印象的でした。



物語の元になったのは、かつて福井市に実在した「だるま屋歌劇団」の物語。

福井県初の百貨店であった「だるま屋」の専属歌劇団で、1931年設立(宝塚少女歌劇団の第一回公演の16年後)、北陸初の“少女歌劇”。百貨店内の180席ほどの“劇場”で公演をしたようで、舞台のように広場の階段でやっていたわけではないようですが(^ ^)。地元の男性ファンを中心に人気を博したものの、時局の悪化に抗しきれず、わずか5年で幕を降ろすことになりました。直接の原因は、盧溝橋事件を目前にした時代の「百貨店内での興行を禁ず」という通達で、人気が落ちたとかそういう理由ではなかったようですが。

それから約20年後、太平洋戦争どころか朝鮮戦争も終わり、高度成長が始まった1958年。福井新聞に、だるま屋少女歌劇のファンに宛てた広告が掲載されました。
元歌劇部員たちの同窓会に、ファンの方々も往年のスターたちに会いにいらっしゃいませんか という誘いの広告。




この広告のエピソードが、物語の構想の最初にあったのでしょうね。
もちろん、内容は違います。
舞台で語られる「広告」は、某地方のデパート専属の“石楠花歌劇団”が解散してから30年後に、「往年の娘役スタァである風吹景子主演で『ロミオとジュリエット』を上演するため、出演者を募集します。元石楠花歌劇団の団員はご連絡ください」という広告。劇団自体も戦中まで存続したことになっていて、「空襲で慰問先が爆撃され、団員は全員散り散りに…」という、現実よりもずっと悲惨な設定になっていました。

その空襲で頭を打ち、ずっと植物人間同然だったのに、突然目覚めた元・娘役スタァの風吹景子(三田和代)。
視力を喪った元・男役スタァ、弥生俊(鳳蘭)。

二人の再会と、その二人が共同で「ロミオとジュリエット」という作品を創るところがクライマックスになるわけですが。



お二人があまりにも巨大な存在すぎて、他のエピソードがすごく瑣末なものに見えました(以下、後ろのほうでネタバレあり)



三田さんは、見た目のグロテスクさと声や芝居の可愛らしさ、純粋な透明感のギャップが素晴らしくて、本当に素晴らしかった。いかにも四季出身らしい、滑舌のはっきりした明快で朗らかな台詞術が、膨大な台詞を詰め込まれた“風吹景子(ふうこ)”を軽やかに見せます。まさに、重力にも他の何ものにも捕らえることのできない、人外の存在の輝き。


転じて鳳蘭さんの、しっかりと地に脚のついた重厚さが素晴らしかった。大地を踏みしめて歩く巨人のようなたくましさと、圧迫感のある実在性。まさに「伝説の男役」なんだな、と納得させてくれました。
芝居のお稽古中の、ふうことの侃侃諤諤の言い争いの迫力は物凄く、しかもそこにこめられた演劇論の二律背反さも物凄くて。清水・蜷川のコンビは、この議論にどう決着をつけて活動を続けたのだろうか、と興味がわいたくらい、ものすごい名場面でした。

そして。
その言い争いに続く、「ロミオとジュリエット」のラストシーンで。

毒を飲もうとする鳳さんの迫力の物凄さに、本気で鳥肌が立ちました。
三田さんは、よく平然とすぐ前で横たわっていられるな、と思ったほどに、ものすごい空気で……

この後に続く展開がほぼ完全に読めた、一瞬の閃光のような、お芝居。





あまりの迫力に、『鳳さん、このまま階段を登ったら、一番上で息絶えるに違いない!!』と確信した私……、
鳳さんが自分の脚で袖に消えていって、それから“階段落ち”の音響が入ったときには微妙に拍子抜けしてしまいました(汗)。



そして。
弥生俊と、彼女の後を追ったふうこの遺体を、“墓場”のセットに、ラストシーンどおりに横たえて、“30人のジュリエット”たちの慟哭のコーラスが響き渡る。

「ロミオは死んだ、ジュリエットも死んだ!!」



この場面を視ながら。
泣きながら。




なんとなく、この物語は死者の物語なのかもしれない、なんてことを思いました。




生きているのは、男たちとふうこ、それだけだったのかもしれない。
弥生俊も、30人の“ジュリエット”たちも、全員が遠い昔に爆撃で死んでいて、
ふうこも、植物状態から快復することは無かったのかもしれない、と。



すべては風吹景子の夢だったのではないか。
起き上がって「ロミオとジュリエット」を練習する自分。
還ってくる弥生俊と、かつての仲間たち。

……つきつめていけば、「ばら戦士の会」の男たちの妄想。


ラストシーンの「ロミオは死んだ。ジュリエットも死んだ!!」の絶叫を聞きながら、
思い出していたのは「キサラギ」でした。

全てを賭けて愛し、憧れ、夢を見た“アイドル”への手向けに、オフ会をひらくメンバーたち。
「キサラギ」は、ご存知の通り、思い出話に浸ったあと、妄想に走る前に推理モードになりましたが、
普通だったら、思い出話がひと段落したら、“もし○○が生きていたら…”という妄想を話し合いますよね?

もしふうこが元気だったら。
もし弥生俊が生きていたら。

きっとこんなふうに大喧嘩しながら役作りをして。
きっとこんなふうに、
……きっと。



「ロミオは死んだ。ジュリエットも死んだ」のリフレインが、野辺送りの嘆き女のように聞こえてきて。




……最初から、すべては夢だったのかもしれない、と。
清水&蜷川の交友も、政治活動と密接に結びついた“アンダーグラウンド”としての演劇活動も。







最後に、出演者について簡単に。

男優陣は、『石楠花歌劇団』ファンのリーダー的な役割を果たした古谷一行、その仲間の石井けん一、磯部勉、山本龍二、そして、ファンだった父親の後を継いだばかりの“一世代下”北村英二を演じた横田英二、その弟のウェンツ瑛士の6人。
古谷さんの格好良さに惚れ惚れ(はぁと)


女優陣は、弥生俊の妹を名乗る真琴つばさ、古谷さんの義妹で振り付け家の中川安奈以外は全員“石楠花少女歌劇団”のOGという設定でした。歌劇団の歌姫役の毬谷友子さんが、ソロも多く、一番目立っていました。本当に美しいわ……。

そして、マミさん(真琴つばさ)の男前ぶりに惚れ直しました(*^ ^*)もともとファンなので嬉しかったです☆脚本的には中途半端で意味不明な役ではありましたが、芝居自体も良かったな、と。
中川安奈さんも魅力的な美人で、芝居がとても印象的でした。「振付家」という設定ならば、もう少し踊れる方が良かったような気もしつつ、それ以外は良かったです!

ふうこの「あたしを信じさせて。あたしは今、13歳のうら若くて美しい乙女なのだと、そうあなたの瞳には映っていると信じさせて!!」という血を吐くような叫びに深く疵付いた横顔。
「どうしたらいいの?あたしにちゃんとインプットしてよ、義兄さん!」「だってあたしは、弥生俊の代役なんかじゃないんだわ。義兄さんたちの代わりにあのひとの相手をしているのよ!?」と古谷さんの腕にすがりつく、細い指。
一番かわいそうな人は、この人なんだ、と、心の底から想います。“ばら戦士”たちの、そしてふうこや俊の妄想に巻き込まれて、何もかも奪われてしまったひと。
事件が終わったあと、日常生活に戻ったのかどうかが心配になったのは、彼女だけ。それだけ、切羽詰った激しさが印象に残りました。




「歌劇団」=宝塚、と思う宝塚ファンですが、今作品、残念ながらOGは鳳さん、マミさん、毬谷さん、衣通真由美さんと、あとはタラちゃん(祐輝薫)…だけだったような。少なっ!(@ @)。初演(1982年)は全員宝塚OGだったそうなのですが…今回は幅広くいろんな人が参加していたようです。

タラちゃん、白燕尾にシルクハットで階段を下りてくる冒頭のレビューシーンなんかでは、彼女にだけ光が当たっているかのように美しく、目立ってました。本当に着こなしから姿勢から化粧から、何から何まで違うのねぇ(実感)。
ただ、歌劇団が消滅してから30年って設定なんだから、いくらなんでも若すぎてヘンだよ?と思ってしまい……。横田さんみたいに「母が亡くなりましたので娘の私が替わりに」みたいな設定だと思えば良いのか?(汗)





何はともあれ、大変に面白く、興味深い作品でした。
1960年代、70年代の演劇界について、勉強してみたくなりました(^ ^)どなたか詳しい方、いらっしゃったら講義していただけませんか?m(_ _)m。



コメント

nophoto
hanihani
2009年6月2日17:02

初演を観ました。

でも当時は宝塚云々よりも蜷川VS清水の話題が大きく取り上げられたと思う。
袖を分かってから初の共演というのか、仕事をするということで。

OGの皆さんだけで、客席は親戚とか友達とか昔のファンが沢山きて
新劇の世界のお客様とは空気が違ったように思います。

宝塚ファン的んは、久慈あさみさんと淡島千景さんのコンビが復活
というほうが価値があったのかな。
まみちゃんのところは、汀さん(じゅんこさん)でして退団後久しぶりにみた
んだと思う。
とんちゃんのところは加茂さくらさんで・・・
でも私には、何だかわけがわからないというのか、ヅカ的にも新劇方向にも
熱くなれずに、つまらなかったという印象しか残っていません。
それで今回も行く気にならなかったのですが
友人のOGが観てきて、涙が止まらなかったといわれ全然違ってるらしいと思ったのでした。
まぁ、5月に関しては実際は現役をおっかけるだけで忙しくて、手が廻らなかったのですが。

みつきねこ
2009年6月3日2:37

はにはにさま、コメントありがとうございます(はぁと)

プログラムを読むと、蜷川氏は以下のように語っておられます。

「(初演では)ぼくは『自分は昔(=清水と一緒にやってきたころ)と変質していない』ということを立証しようとしていた気がする」
(中略)
「清水には『俺たちがやってきたことを検証しよう』って言ったんだよね。そして清水から出てきたのが、少女歌劇で30人のジュリエットが還ってくるというものだった。僕が商業演劇で
『ロミオとジュリエット』をやったことで集団が崩壊したわけだから、幻の劇団員が戻ってくることも含めて、この戯曲は自分たちのことを描いていると感じましたよ」

…ちょっと引用が長くなってしまい、すみません。今回のプログラムは、久々に読み応えがあって面白かったです♪


初演当時は、お二人の間にあったいろんな感情が熱すぎて、舞台の端々から漏れ出てしまっていたんじゃないかなあ、と、プログラムを読むと思うんですよね。
でも、舞台を観ているときは、そういうのは無かったんです。表に見えている台詞や演出の裏側に、膨大な感情が隠されているのはなんとなく感じましたが、それはもう表に飛び出してくるほどのエネルギーは無くて。
それでこそ、「舞台作品」としてちゃんと納まっていたような気がします。


というか、そもそも新劇界の大事件を検証するのに、新劇とは遠く離れた宝塚のOGを全面的に使ったところが間違いだったのかもしれませんね。

新劇ファンから見れば、清水&蜷川が久々にコンビを組んだ作品だけど、
宝塚ファンから見れば、久慈あさみさんと淡島千景さんのコンビ復活の作品だったり、、、
そういう、客席側の空気の違いもあったことでしょうし。

ちなみに、蜷川さんは「初演は失敗したしね」とも語ってます。自覚はあったらしい(^ ^)。


まぁ、5月は忙しかったですよね(涙)。私も結局、コクーン(これ)かクリエ(この森で、天使はバスを降りた)、どちらか一つを選ばなくてはならなくなって、泣く泣くうたこさんを諦めました……(涙)。あっちも面白かったみたいなのに、残念だー!!
クリエもたまには再演してくれるといいのですが…。