Missing Boyとなった尾崎豊
2009年4月25日 ミュージカル・舞台数日前、赤坂ACTシアターにて「MISSING BOYS ~僕が僕であるために~」を観劇いたしました。
尾崎豊の音楽を使った、ジュークボックス・ミュージカル。
尾崎の伝記でこそないけれども、“彼”をイメージした、新しい物語。
尾崎豊。
彼の生前、私は決してファンではありませんでした。たぶん、「卒業」と「I LOVE YOU」と「シェリー」くらいしか知らなかったと思う。この三曲は、当時からカラオケで歌ってたくらい好きでしたけど。
でも、大人に(何歳だよ)なってから、彼のファンだった友人の影響で、あのかすれたハスキーヴォイスの魅力にあらためて嵌り、ベストアルバムを買ったりしました。
彼の思想や生き方にカリスマとしての魅力を感じてはいませんが、アーティストとしての彼は好きです。音楽も歌詞も、そして、何よりも声が。なので、今はそれなりにファンなんだろうと思います。信者じゃないけど。
というわけで、本当は命日である今日の公演を観たいような気もしたのですが、それはたぶん熱心なファンの方だけが行くべきだろう、と思いなおして、先週行ってまいりました。
今日の盛り上がりはどうだったのかなー。それとも、実際の観客は尾崎のファンではなくて出演者のファンだから、命日とか関係なかったりするのでしょうか…?
出演者やスタッフ側のほうが盛り上がってたりするのかな、この場合は。
1992年4月25日。
ちょうど17年前の昨日、彼は死んだ。
早朝に泥酔状態で発見され、一度は回復するが、容態が急変。死因は「肺水腫」。享年26歳。
GWまっただなかの護国寺での追悼式に集まったファンは、4万人とも5万人とも言われる。
当時、たまたま護国寺のすぐ近くに毎日通っていた私は、黒い服を着て、色とりどりの傘をさした人々の長い長い列を、おぼろげに覚えています。
喪服は着ても、さすがにこのためだけに黒い傘を買ったりはしないもんなんだなあ、なんてことを考えながら。(←ファンの方ごめんなさい)
『そして彼は伝説になった』という陳腐な表現が陳腐にならない、それが彼の人生だった。
彼の音楽が死後になって認められたのは、それが伝説だったからじゃない。
“オトナたち”が眉をひそめた“不良少年たちのカリスマ”は、落ち着いて歌詞を読んでみれば非常に普遍的なことを平易な言葉で書いていて、ああ、本当に頭のいい、感性の鋭い人だったんだなあ、と思います。
こういう、彼の作品の歌詞をそのまま使ったジュークボックス・ミュージカルに触れると、余計に。
彼は“伝説”になった人だから、彼の伝記的なミュージカルを創るという発想は、遅かれ早かれ出てきただろうと思います。17年目の今年はちょうど良い機会だったし、今回がなくても、たぶん20年目(2012年)には誰かがやっただろう。あるいは、遅くとも生誕50年(2015年)には、きっと。
死後17年たっても、忘れられるどころか新しいファンを増やしているアーティスト。しかも、今ちょうど創り手としてもあぶらが乗りつつある人々の、痛痒い青春時代を象徴する人だもの。
でも、今回の企画は、彼の伝記ではありません。
おそらくは今後も、彼の伝記ミュージカルは創られないでしょう。
それは、尾崎のプロデューサーだった須藤晃氏のコメントにもはっきりとあります。ありていに言えば、尾崎の人生は伝説になりすぎてしまった、ってことなんでしょうね。その“伝説”に自分の人生を投影している人が多いから、あらためて「これが尾崎だ!」っていうものを提供しても、受け入れられない。
だから。
今回の企画は、尾崎豊という存在を「見守る存在」という象徴的な幻想にはめ込んで、彼と同じように悩み苦しむ若いアーティストたちと、もうそんな悩みを忘れてしまった大人たちを群像で描きだす、という手法をとっています。
尾崎の音楽は、「マンマ・ミーア」のように脚本と一体化することなく、ただ登場人物の心の昂ぶりを表現するためだけに歌われる。前後につながる会話とは、あまり関係ないままに。
若い彼らの“エネルギー”を表現するために使われているのは、尾崎の音楽だけではありません。
熊谷和徳のタップダンス、そして、Song Ridersというグループのストリートバスケ。
この作品が、新生なった赤坂ACTシアターの一周年記念公演だという事実を、観るまで私はまったく気にしていなかったのですが。あのタップダンスやらバスケやらごちゃまぜに放り込んだ「ごった煮」感は、テレビという懐の広いメディアで王座を競うTBSでなくては表現できないものだったんだな、とあらためて気づきました。
映像メディアの雄が、『映像ではできないもの』に殴りこみを賭ける場として創った劇場だったのかもしれない、と。
……だったら、もう少し金をかけて音響設備をなんとかしろよ、と思わないでもないですが(汗)。
プロデューサーは熊谷信也&白石久美(TBS所属)。白石さんは「CHICAGO」を始め、ブロードウェイミュージカルの日本上演をいくつか手がけてきた人。そもそもこの企画の発案は彼女だったようですね。実際にいろいろ動いたのは熊谷さんっぽい感じですが…(プログラムを読んだだけだからよくわからず)
脚本・演出は鈴木勝秀。いかにも彼らしい、なんというか、よくも悪くもぶっ飛んだ物語でしたが。
面白かったです。物語のキーとなる大人二人のキャラクターが実に魅力的でした。やべきょうすけと中村あゆみというキャスティングを決めたのはプロデューサーかもしれませんが、彼が「尾崎」を裏テーマにした作品を作るにあたって、ヨーコとユカワというキャラクターを創ったのが凄いな、と。
ストーリーはごくシンプル。
有名な音楽プロデューサーのユカワ(やべきょうすけ)。
彼が最近目をつけているのは、生まれた街(かなり都会)でロックバンドのヴォーカルをしているコウヘイ(早乙女太一)。ユカワは、コウヘイの歌には次代のスターの輝きがあると考えている。
「MISSING BOYs」の活動拠点となっているライブハウスのオーナー、ヨーコ(中村あゆみ)は、昔のユカワのバンド仲間(たぶん、元恋人)。夢を追って仲間を棄てたユカワ、街に残って若者たちを見守るヨーコ。別れた道は二度と交わることはなく、ユカワの勧誘に心揺れるコウヘイを、ヨーコは必死で諭す。
「あんな男についていって、あんたのやりたいことができると本気で思っているの?」
それでも、コウヘイはユカワを択ぶ。
「俺は、俺の音楽をもっとたくさんの人に聞いてほしい」
そんなコウヘイに与えられたのは、ユカワによって書き換えられた歌詞と、スタジオミュージシャンたちによる丁寧だがパワーのない演奏だった……。
MISSING BOY(藤本涼)
プログラムではトップクレジットですが、舞台のカーテンコールでは結構前のほうで出てきたような…。
今作がデビューのようですが、一幕ラストの長台詞(朗読?)もいい声で滑舌もよく、普通の芝居で観てみたいなあと思いました。透明な存在感があるのが、生来なのか演技なのかわかりませんが、雰囲気をかわれての出演だったんだろうな、と思います。
役どころは、ユカワの幻想……なんだろうな、たぶん。
振り向けばいつもそこに居て、何かを責めるような瞳で見つめている青年。何も言わない、白い服の幻影。
ただ見守ることしかできない、彼。
ユカワが自分の所業を“後ろめたい”と思えばこそ、幻影が彼を責めるわけです。彼自身が“これで良いのか?俺は?”と思っているからこそ、「そんなことしてちゃ駄目だよ!」と言いたげな青年の幻影を見る。
そんな彼は、ユカワにとってだけではなく、もう子供ではなくなってしまったクリエーターたち全てにとっての「尾崎豊」なんだろうな、と想いました。
もう死んでしまったカリスマ。
現実には居ないから、「それでいいんだよ」とうなづいてくれることは決して無い。
彼らが尾崎を思うのは、いつだって迷っているときで。
「これでいいのか?」と思っているとき。
だから、いつだって彼らの見る幻影のカリスマは、どこか悲しそうな、困ったような貌をしている。
プログラムのトップクレジットが彼だということは、この物語の視点は彼である、ということなのでしょう。
すべてを俯瞰した「神の視点」。登場人物の誰の視点でもなく、MBの視点でつづられる物語。
だからこそ、物語的にもテーマ的にもコウヘイが主役になるはずのストーリーが、MBが見守り続けるユカワを主人公に勘案された。それは、彼らが語りたかったのが「尾崎」ではなく、「尾崎を喪った俺たち」だからなのだと想いました。
その象徴が、役者として何の色もついていない、初舞台の藤本さんという配役だったんだろう、と。
藤本さんがこれからどんな道を歩まれるのか判りませんが。
この作品でデビューしたということが、良い方向に転ぶことを祈っています。
コウヘイ(早乙女太一)
ロックバンド「MISSING BOYs」のヴォーカル。ユカワという、多少腹黒いけれども目端のきく(だからこそ、今までいくつもヒットを出してきた)プロデューサーに惚れ込まれて、「お前の歌はやっぱりいいな」とか言われちゃう青年。
………いやー、、、すみません、ありえません。
私は彼のファンだと思うんですけど。それでもなお、ちょっと無理な感じでした……歌も、芝居も(T T)。
「15の夜」も「17歳の地図」も、めちゃくちゃ好きな曲なのにぃ。
……ごめんなさいm(_ _)m。いろいろ書くと悲しくなるので、書きません。才能のある人だし、朱雀座の仕事でお稽古に参加したのも最後のほうだけらしいので、一回一回、舞台を重ねるごとにどんどん良くなっていくだろう、と……信じて(泣)。
ユカワ(やべきょうすけ)
尾崎が歌った“腹黒いオトナ”を、こんなに見事に演技で表現できる人がいたとは(汗)。
「自分のやりたいこと」を、したたかに実現していく、それが大人というものの定義なわけで。
『僕が僕であるために』勝ち続けなきゃならない、という、名曲「僕が僕であるために」の歌詞をテーマにした作品ですが。
ユカワはまさに「俺が俺であるために」他を蹴落として「勝ち続けて」きた男なわけです。
そして、その結果として何一つ確かなものは手に入れられなかった。
何もかも喪ったときに、還るべき故郷さえとっくの昔に手放したつもりだった。
そのときになって初めて気づく。自分が「勝ち続けて」きたのは、「俺が俺であるため」ではなかった、ことに。
ただ自分は、「勝つために」己を棄ててしまったのだ、と。
彼がためらいもなく棄てた「己」が、MBとなって自分を見守っている。
責めているのか?俺を。お前を棄てた、おキレイな部分を棄ててしたたかに生きようとした、俺を。
……そんなことはないのに。彼は勝手に自分を追い詰めていく。もう還るところはないのだ、と思い込んで。
大丈夫。まだ還れる。
今振り返れば、まだちゃんと、手に届くところに「あなた」がいるから。
捕まえて。
あなたがあなたで居るため、に
ヨーコ(中村あゆみ)
ライブハウスのオーナー。
この人がもう40過ぎですか……(@ @)。
マジで信じられない。今でも「Seventeen 初めての朝」とか歌っていそうなイメージなのに。
尾崎とはソウルメイトだという言葉どおり、素晴らしい歌でした。彼女の歌う尾崎を聴くだけで、チケットの元は取れた感じ。尾崎の歌をなぞるのではなく、きちんと自分の歌にして歌いこなしたのはさすがプロの歌手だと感心しました。ここまで来ると、彼女自身の歌も1,2曲入っていてもよかったのになあ、と思わずにはいられません。
歌だけでなく、芝居も良かったです。演技らしい演技をするのは今回が初めてなはずだけど、本質的にああいうキャラクターなんでしょうかねぇ。本当に凄く良かった!温かみがあって頼りになる、優しい姐御。心弱い人のことはちゃんと支配(コントロール)してあげて、硬い人にはそっと寄り添ってあげるやわらかさもある。
いつでも真剣に「自分」と向き合ってきた人の、「自分」を棄てたことの無い人の、たわまない美しさがありました。
今後はまた、歌だけに絞るのかな……。ちょっと舞台も面白いな、と思ってもらえたら嬉しいんだけど。
Song Riders
ストリートバスケットボールチーム「大阪籠球会」で活動していたメンバーで、今は音楽活動をしているグループ。
面白い来歴ですが、舞台での居方もすごく興味深かった。
こういう、何か発散しきれないエネルギーを抱えた若者たちを表現するのに、バスケットっていうのは良い素材なんだなあ、と感心しました。ぶつかりあい、一つのボールを獲りあう中で生まれる感情。パワー。プロなみの技術を持つ彼らの動きは、平凡な振付で踊る並みのダンサーなんかよりもずっと流麗で美しく、軽やかで人間ばなれしています。その裏づけにあるのが、確かな技術と競技に賭ける想いの強さのパワーであることが、とても気持ちよくて。
今まで考えたこともなかったけど(^ ^;ゞ、案外と舞台パフォーマンス向きな競技なんですね、バスケって。
手具の扱い(ボールさばき)の技術が重要になるので、あんまり宝塚とかで安易に使ってもらいたくはないけど。
バスケばかりではなく、歌もなかなかでした。尾崎の歌をラップにアレンジしていたのには吃驚しましたが、「今」を尾崎が生きていたら、もしかしたらラップをやっていたかもね、と思ったりして、感慨深かったです。もともとは編曲のために呼ばれたというのもわかる感じ。
芝居はまぁ…別に芝居らしい芝居をしたわけではなく、ただ彼ららしく立っているだけだったのですが。
それでも、物語の最後にコウヘイを導き、ユカワを連れ戻すのは彼らなわけで。面白い素材をきちんと使って、良い料理を創ったな、と思いました。
この作品をきっかけに、いろいろ変わっていくこともあるでしょうけれども、今後のご活躍を楽しみにしています。
キジマ(コング桑田)
ヨーコの店に入り浸る、酔っ払いの「元アーティスト」。
ユカワの言動に批判的で、怪しげな人物。なんとなく、最後になって彼がなんらかの教えみたいなのを言うのかなーと思っていたのですが、特にそういうこともなく、若い連中の間で話が解決したのがちょっと拍子抜けでした。
彼だけじゃなくて、あとユカワにプロデュースしてほしい新人歌手(デレアヌ悟仁)とその社長とか、SongRidersのメンバーの恋人とか、脇筋のキャラクターがあまり魅力も見せ場もなくてちょっと残念でした。なんだか無駄なエピソードに見えてしまって。
デレアヌは「卒業」をワンコーラス歌うんですけど、これがまた、オペラチックな美声で朗々と歌う「卒業」のつまらないこと!せめて、それが詰まらない、ということに意味があればまだしも、なんだか名曲も歌い手も無駄遣いされた気がして、ちょっと嫌な気持ちになりました。
タップダンサー(熊谷和徳)
いやもう。説明は何もないです。
タップって、ただのダンスじゃないんですね。楽器としてのタップ、「音楽」としての美しさに感動しました。
素晴らしかった!!
尾崎豊の伝記ではないけれども、尾崎をイメージした幻影のキャラを前面に出した作品。
いろいろ乱暴な部分はありましたけれども、
キャスティングも一部疑問はありますけれども、
バスケやタップとのコラボレーションとか、いろんな意味で面白い試みがたくさんあって、意欲作だったと思います。
造り手側の思い入れが強すぎるほど強いのに、かろうじて声高な主張になる寸前で留めていたのはさすがでした。楽にむけて、作品としてもどんどん磨かれていくであろうことを期待しています。
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尾崎豊の音楽を使った、ジュークボックス・ミュージカル。
尾崎の伝記でこそないけれども、“彼”をイメージした、新しい物語。
尾崎豊。
彼の生前、私は決してファンではありませんでした。たぶん、「卒業」と「I LOVE YOU」と「シェリー」くらいしか知らなかったと思う。この三曲は、当時からカラオケで歌ってたくらい好きでしたけど。
でも、大人に(何歳だよ)なってから、彼のファンだった友人の影響で、あのかすれたハスキーヴォイスの魅力にあらためて嵌り、ベストアルバムを買ったりしました。
彼の思想や生き方にカリスマとしての魅力を感じてはいませんが、アーティストとしての彼は好きです。音楽も歌詞も、そして、何よりも声が。なので、今はそれなりにファンなんだろうと思います。信者じゃないけど。
というわけで、本当は命日である今日の公演を観たいような気もしたのですが、それはたぶん熱心なファンの方だけが行くべきだろう、と思いなおして、先週行ってまいりました。
今日の盛り上がりはどうだったのかなー。それとも、実際の観客は尾崎のファンではなくて出演者のファンだから、命日とか関係なかったりするのでしょうか…?
出演者やスタッフ側のほうが盛り上がってたりするのかな、この場合は。
1992年4月25日。
ちょうど17年前の昨日、彼は死んだ。
早朝に泥酔状態で発見され、一度は回復するが、容態が急変。死因は「肺水腫」。享年26歳。
GWまっただなかの護国寺での追悼式に集まったファンは、4万人とも5万人とも言われる。
当時、たまたま護国寺のすぐ近くに毎日通っていた私は、黒い服を着て、色とりどりの傘をさした人々の長い長い列を、おぼろげに覚えています。
喪服は着ても、さすがにこのためだけに黒い傘を買ったりはしないもんなんだなあ、なんてことを考えながら。(←ファンの方ごめんなさい)
『そして彼は伝説になった』という陳腐な表現が陳腐にならない、それが彼の人生だった。
彼の音楽が死後になって認められたのは、それが伝説だったからじゃない。
“オトナたち”が眉をひそめた“不良少年たちのカリスマ”は、落ち着いて歌詞を読んでみれば非常に普遍的なことを平易な言葉で書いていて、ああ、本当に頭のいい、感性の鋭い人だったんだなあ、と思います。
こういう、彼の作品の歌詞をそのまま使ったジュークボックス・ミュージカルに触れると、余計に。
彼は“伝説”になった人だから、彼の伝記的なミュージカルを創るという発想は、遅かれ早かれ出てきただろうと思います。17年目の今年はちょうど良い機会だったし、今回がなくても、たぶん20年目(2012年)には誰かがやっただろう。あるいは、遅くとも生誕50年(2015年)には、きっと。
死後17年たっても、忘れられるどころか新しいファンを増やしているアーティスト。しかも、今ちょうど創り手としてもあぶらが乗りつつある人々の、痛痒い青春時代を象徴する人だもの。
でも、今回の企画は、彼の伝記ではありません。
おそらくは今後も、彼の伝記ミュージカルは創られないでしょう。
それは、尾崎のプロデューサーだった須藤晃氏のコメントにもはっきりとあります。ありていに言えば、尾崎の人生は伝説になりすぎてしまった、ってことなんでしょうね。その“伝説”に自分の人生を投影している人が多いから、あらためて「これが尾崎だ!」っていうものを提供しても、受け入れられない。
だから。
今回の企画は、尾崎豊という存在を「見守る存在」という象徴的な幻想にはめ込んで、彼と同じように悩み苦しむ若いアーティストたちと、もうそんな悩みを忘れてしまった大人たちを群像で描きだす、という手法をとっています。
尾崎の音楽は、「マンマ・ミーア」のように脚本と一体化することなく、ただ登場人物の心の昂ぶりを表現するためだけに歌われる。前後につながる会話とは、あまり関係ないままに。
若い彼らの“エネルギー”を表現するために使われているのは、尾崎の音楽だけではありません。
熊谷和徳のタップダンス、そして、Song Ridersというグループのストリートバスケ。
この作品が、新生なった赤坂ACTシアターの一周年記念公演だという事実を、観るまで私はまったく気にしていなかったのですが。あのタップダンスやらバスケやらごちゃまぜに放り込んだ「ごった煮」感は、テレビという懐の広いメディアで王座を競うTBSでなくては表現できないものだったんだな、とあらためて気づきました。
映像メディアの雄が、『映像ではできないもの』に殴りこみを賭ける場として創った劇場だったのかもしれない、と。
……だったら、もう少し金をかけて音響設備をなんとかしろよ、と思わないでもないですが(汗)。
プロデューサーは熊谷信也&白石久美(TBS所属)。白石さんは「CHICAGO」を始め、ブロードウェイミュージカルの日本上演をいくつか手がけてきた人。そもそもこの企画の発案は彼女だったようですね。実際にいろいろ動いたのは熊谷さんっぽい感じですが…(プログラムを読んだだけだからよくわからず)
脚本・演出は鈴木勝秀。いかにも彼らしい、なんというか、よくも悪くもぶっ飛んだ物語でしたが。
面白かったです。物語のキーとなる大人二人のキャラクターが実に魅力的でした。やべきょうすけと中村あゆみというキャスティングを決めたのはプロデューサーかもしれませんが、彼が「尾崎」を裏テーマにした作品を作るにあたって、ヨーコとユカワというキャラクターを創ったのが凄いな、と。
ストーリーはごくシンプル。
有名な音楽プロデューサーのユカワ(やべきょうすけ)。
彼が最近目をつけているのは、生まれた街(かなり都会)でロックバンドのヴォーカルをしているコウヘイ(早乙女太一)。ユカワは、コウヘイの歌には次代のスターの輝きがあると考えている。
「MISSING BOYs」の活動拠点となっているライブハウスのオーナー、ヨーコ(中村あゆみ)は、昔のユカワのバンド仲間(たぶん、元恋人)。夢を追って仲間を棄てたユカワ、街に残って若者たちを見守るヨーコ。別れた道は二度と交わることはなく、ユカワの勧誘に心揺れるコウヘイを、ヨーコは必死で諭す。
「あんな男についていって、あんたのやりたいことができると本気で思っているの?」
それでも、コウヘイはユカワを択ぶ。
「俺は、俺の音楽をもっとたくさんの人に聞いてほしい」
そんなコウヘイに与えられたのは、ユカワによって書き換えられた歌詞と、スタジオミュージシャンたちによる丁寧だがパワーのない演奏だった……。
MISSING BOY(藤本涼)
プログラムではトップクレジットですが、舞台のカーテンコールでは結構前のほうで出てきたような…。
今作がデビューのようですが、一幕ラストの長台詞(朗読?)もいい声で滑舌もよく、普通の芝居で観てみたいなあと思いました。透明な存在感があるのが、生来なのか演技なのかわかりませんが、雰囲気をかわれての出演だったんだろうな、と思います。
役どころは、ユカワの幻想……なんだろうな、たぶん。
振り向けばいつもそこに居て、何かを責めるような瞳で見つめている青年。何も言わない、白い服の幻影。
ただ見守ることしかできない、彼。
ユカワが自分の所業を“後ろめたい”と思えばこそ、幻影が彼を責めるわけです。彼自身が“これで良いのか?俺は?”と思っているからこそ、「そんなことしてちゃ駄目だよ!」と言いたげな青年の幻影を見る。
そんな彼は、ユカワにとってだけではなく、もう子供ではなくなってしまったクリエーターたち全てにとっての「尾崎豊」なんだろうな、と想いました。
もう死んでしまったカリスマ。
現実には居ないから、「それでいいんだよ」とうなづいてくれることは決して無い。
彼らが尾崎を思うのは、いつだって迷っているときで。
「これでいいのか?」と思っているとき。
だから、いつだって彼らの見る幻影のカリスマは、どこか悲しそうな、困ったような貌をしている。
プログラムのトップクレジットが彼だということは、この物語の視点は彼である、ということなのでしょう。
すべてを俯瞰した「神の視点」。登場人物の誰の視点でもなく、MBの視点でつづられる物語。
だからこそ、物語的にもテーマ的にもコウヘイが主役になるはずのストーリーが、MBが見守り続けるユカワを主人公に勘案された。それは、彼らが語りたかったのが「尾崎」ではなく、「尾崎を喪った俺たち」だからなのだと想いました。
その象徴が、役者として何の色もついていない、初舞台の藤本さんという配役だったんだろう、と。
藤本さんがこれからどんな道を歩まれるのか判りませんが。
この作品でデビューしたということが、良い方向に転ぶことを祈っています。
コウヘイ(早乙女太一)
ロックバンド「MISSING BOYs」のヴォーカル。ユカワという、多少腹黒いけれども目端のきく(だからこそ、今までいくつもヒットを出してきた)プロデューサーに惚れ込まれて、「お前の歌はやっぱりいいな」とか言われちゃう青年。
………いやー、、、すみません、ありえません。
私は彼のファンだと思うんですけど。それでもなお、ちょっと無理な感じでした……歌も、芝居も(T T)。
「15の夜」も「17歳の地図」も、めちゃくちゃ好きな曲なのにぃ。
……ごめんなさいm(_ _)m。いろいろ書くと悲しくなるので、書きません。才能のある人だし、朱雀座の仕事でお稽古に参加したのも最後のほうだけらしいので、一回一回、舞台を重ねるごとにどんどん良くなっていくだろう、と……信じて(泣)。
ユカワ(やべきょうすけ)
尾崎が歌った“腹黒いオトナ”を、こんなに見事に演技で表現できる人がいたとは(汗)。
「自分のやりたいこと」を、したたかに実現していく、それが大人というものの定義なわけで。
『僕が僕であるために』勝ち続けなきゃならない、という、名曲「僕が僕であるために」の歌詞をテーマにした作品ですが。
ユカワはまさに「俺が俺であるために」他を蹴落として「勝ち続けて」きた男なわけです。
そして、その結果として何一つ確かなものは手に入れられなかった。
何もかも喪ったときに、還るべき故郷さえとっくの昔に手放したつもりだった。
そのときになって初めて気づく。自分が「勝ち続けて」きたのは、「俺が俺であるため」ではなかった、ことに。
ただ自分は、「勝つために」己を棄ててしまったのだ、と。
彼がためらいもなく棄てた「己」が、MBとなって自分を見守っている。
責めているのか?俺を。お前を棄てた、おキレイな部分を棄ててしたたかに生きようとした、俺を。
……そんなことはないのに。彼は勝手に自分を追い詰めていく。もう還るところはないのだ、と思い込んで。
大丈夫。まだ還れる。
今振り返れば、まだちゃんと、手に届くところに「あなた」がいるから。
捕まえて。
あなたがあなたで居るため、に
ヨーコ(中村あゆみ)
ライブハウスのオーナー。
この人がもう40過ぎですか……(@ @)。
マジで信じられない。今でも「Seventeen 初めての朝」とか歌っていそうなイメージなのに。
尾崎とはソウルメイトだという言葉どおり、素晴らしい歌でした。彼女の歌う尾崎を聴くだけで、チケットの元は取れた感じ。尾崎の歌をなぞるのではなく、きちんと自分の歌にして歌いこなしたのはさすがプロの歌手だと感心しました。ここまで来ると、彼女自身の歌も1,2曲入っていてもよかったのになあ、と思わずにはいられません。
歌だけでなく、芝居も良かったです。演技らしい演技をするのは今回が初めてなはずだけど、本質的にああいうキャラクターなんでしょうかねぇ。本当に凄く良かった!温かみがあって頼りになる、優しい姐御。心弱い人のことはちゃんと支配(コントロール)してあげて、硬い人にはそっと寄り添ってあげるやわらかさもある。
いつでも真剣に「自分」と向き合ってきた人の、「自分」を棄てたことの無い人の、たわまない美しさがありました。
今後はまた、歌だけに絞るのかな……。ちょっと舞台も面白いな、と思ってもらえたら嬉しいんだけど。
Song Riders
ストリートバスケットボールチーム「大阪籠球会」で活動していたメンバーで、今は音楽活動をしているグループ。
面白い来歴ですが、舞台での居方もすごく興味深かった。
こういう、何か発散しきれないエネルギーを抱えた若者たちを表現するのに、バスケットっていうのは良い素材なんだなあ、と感心しました。ぶつかりあい、一つのボールを獲りあう中で生まれる感情。パワー。プロなみの技術を持つ彼らの動きは、平凡な振付で踊る並みのダンサーなんかよりもずっと流麗で美しく、軽やかで人間ばなれしています。その裏づけにあるのが、確かな技術と競技に賭ける想いの強さのパワーであることが、とても気持ちよくて。
今まで考えたこともなかったけど(^ ^;ゞ、案外と舞台パフォーマンス向きな競技なんですね、バスケって。
手具の扱い(ボールさばき)の技術が重要になるので、あんまり宝塚とかで安易に使ってもらいたくはないけど。
バスケばかりではなく、歌もなかなかでした。尾崎の歌をラップにアレンジしていたのには吃驚しましたが、「今」を尾崎が生きていたら、もしかしたらラップをやっていたかもね、と思ったりして、感慨深かったです。もともとは編曲のために呼ばれたというのもわかる感じ。
芝居はまぁ…別に芝居らしい芝居をしたわけではなく、ただ彼ららしく立っているだけだったのですが。
それでも、物語の最後にコウヘイを導き、ユカワを連れ戻すのは彼らなわけで。面白い素材をきちんと使って、良い料理を創ったな、と思いました。
この作品をきっかけに、いろいろ変わっていくこともあるでしょうけれども、今後のご活躍を楽しみにしています。
キジマ(コング桑田)
ヨーコの店に入り浸る、酔っ払いの「元アーティスト」。
ユカワの言動に批判的で、怪しげな人物。なんとなく、最後になって彼がなんらかの教えみたいなのを言うのかなーと思っていたのですが、特にそういうこともなく、若い連中の間で話が解決したのがちょっと拍子抜けでした。
彼だけじゃなくて、あとユカワにプロデュースしてほしい新人歌手(デレアヌ悟仁)とその社長とか、SongRidersのメンバーの恋人とか、脇筋のキャラクターがあまり魅力も見せ場もなくてちょっと残念でした。なんだか無駄なエピソードに見えてしまって。
デレアヌは「卒業」をワンコーラス歌うんですけど、これがまた、オペラチックな美声で朗々と歌う「卒業」のつまらないこと!せめて、それが詰まらない、ということに意味があればまだしも、なんだか名曲も歌い手も無駄遣いされた気がして、ちょっと嫌な気持ちになりました。
タップダンサー(熊谷和徳)
いやもう。説明は何もないです。
タップって、ただのダンスじゃないんですね。楽器としてのタップ、「音楽」としての美しさに感動しました。
素晴らしかった!!
尾崎豊の伝記ではないけれども、尾崎をイメージした幻影のキャラを前面に出した作品。
いろいろ乱暴な部分はありましたけれども、
キャスティングも一部疑問はありますけれども、
バスケやタップとのコラボレーションとか、いろんな意味で面白い試みがたくさんあって、意欲作だったと思います。
造り手側の思い入れが強すぎるほど強いのに、かろうじて声高な主張になる寸前で留めていたのはさすがでした。楽にむけて、作品としてもどんどん磨かれていくであろうことを期待しています。
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