宝塚雪組バウホール公演「忘れ雪」の原作、「忘れ雪」(新堂冬樹著)を読了いたしました。
カテゴリーを雪組にするか読書にするか迷ったのですが、とりあえず「読書」にしておきます(^ ^)。
想像していたより、児玉さんは原作に忠実に劇化したんだな、と思いました。
表面的には、ですが。
普通に面白かったと思います。もうピュアな心では読めなかったので(ラストも知っているし、そもそも舞台で意味不明だったところは原作ではどうなの?というのが読み始めた動機だったし)、何も知らずに普通の小説として読んで面白い作品なのかどうかはコメントできませんが、とりあえずバウ公演をみて「うーん、あちこち穴があるけど案外面白かった、かも?」という感想をもたれた方にはお勧めします(^ ^)。
ただ、プロローグ(8年前のストーリー。全面的に深雪視点)以外は徹頭徹尾一希の視点で語られるので、予想していたより抜けてたエピソードは少なかったです。
京都の深雪の義父母のエピソードは元々少なかったし、南の出番も、深雪が失踪した後で一希を訪ねてくるところがあるくらいで大した違いはなかったし、鳴海の家族関係に関するエピソードも大きな違いはありませんでした。むしろ、鳴海の父親に関しては舞台の方が扱いが大きかったくらい。
まぁ、抜けてるところが大事だった、っていうのは予想どおりでしたけれども。
以下、舞台と小説、両方ネタバレありなのでご了承ください。
まず、一番印象が違うな、と思ったのは、一希が深雪に再会(一希は初めてだと思っている)したその瞬間に、完全に一目惚れしていること。
舞台では、「クロス!」という深雪の声とヘッドライト、そして急ブレーキの音?だったかな?事故をイメージさせて、流れの中でアクセントになる場面として印象的に演出し、そのまま手術室に持ち込んでいるので、一希と深雪の“出会いの場面”として独立させる余裕がないんですよね。
あの演出、普通は一希自身が事故にあうときに使う演出だから、初めて観たときはちょっとびっくりしたんですが、原作ではクロスは単に道をむりやり渡って一希に飛びついてくるだけで、車にはねられたわけではありません。ガラス片を踏んで怪我をしただけ。
舞台のクロスはぬいぐるみだから、飛びついてくる表現が難しい。だから、深く考えずにクロスが事故ったことにしたんだろうな、と推測はできますし、「出会った瞬間の一目惚れ」の表現ができない分、手術が終わった後の説明の場でいろいろ小細工しているわけですが、なんていうか、この時点のキムちゃんの一希は、普通に医者として患者の飼い主に説明しているだけに見えるんですよね。で、ミミちゃんの深雪だけがあれこれヒントを出すけれども、一希は全然気がつかない、と。
……ここは、大先輩の正塚さんを見習って、「運命を感じていた…」とかモノローグで言わせてしまえ!と思うくらい、結構大事な場面だと思うんですけどねぇ。
なぜ、この一目惚れが大切かというと、一希が深雪の手紙を読んで初めて自分の気持ちに気づいた、という設定であれだけの行動に出る、というのは、ちょっと無理があると思うからです。
音月桂、という役者の熱量は半端ないので、そうは言いつつも結構納得して観ていたわけですが、原作を読んで「おお!」と思ったんですよね。
そうか、そもそも一希は一目惚れしているのか、彼女に。
7年前の思い出なんてなくても、彼女に惚れてしまう。だから、それは結局のところは運命なのだ、と、
…ああ成程、そういう話だったのか、と。
そして。
そうして深雪に一目惚れしてしまった一希は、深雪の行動を深読みして誤解する。
深雪には、忘れられない昔の恋人がいる、そして自分は、彼に似ているらしい、と。
「あなたに似た人を知っていたの」という深雪の話は、そのまま児玉脚本にも使われています。
でも、対する一希のリアクションが違う。原作の一希は、その話を聞いて「その男に似ているから、彼女は俺に興味を持つのか…」と思いこむ。そして、「彼女が過去を忘れてやり直そうと思った男が南なら、彼女は南と幸せになるべきだ」「それが前向きな人生というものだ」と考える。
そのあたりの思考の流れがすごく自然で、やっぱり「地の文」がある小説はこういう繊細な心の動きを表現するのが楽でいいよね、と思うのですが。
でも、演劇でもこれが表現できないはずはないんですよ。モノローグを入れすぎるのはどうかと思いますけど(←Studio Lifeの倉田惇なら、解りやすく地の文をすべてモノローグにいれて、あげく私に『朗読劇かよっ!』と突っ込まれているでしょう)、もっと別の方法があったはず。
鳴海との会話で「お前、惚れたな、深雪ちゃんに」「…そんなことはない。彼女には婚約者がいる。それだけじゃない、俺はただ、彼女の昔の恋人に似てるだけなんだ…」って言わせるだけでいいと思うんです。それがあれば、キムちゃんの演技プランも変わっただろうし。
観客は「そうじゃないよ!深雪が言ってるのはあんたのことなんだってば!」って思うんでしょうけどね(^ ^;
こういう伏線があってはじめて、一幕ラストの深雪の手紙の件が意味を持つ。
この伏線が引けてないから、「変な手紙」になっちゃうんです。
そもそも、原作では一幕ラストの深雪の手紙は一希の家に届いたのではありません。
送られてはこなかった。あれは、「送られなかった手紙」なのです。
クロスを喪い、悲しみにくれた深雪は、ついに積極的な行動に出る。
「独りで家に帰りたくない。一緒に来て」と一希を誘い、家に連れて行く。
そこで「抱いて」と迫る深雪。
深雪が愛しているのは自分ではなく、『昔の男』だと思っている一希はそれを拒否する。
「南さんよりも、初恋の彼よりも、先に出会っていたなら…」、そんな台詞で。
怒った深雪は一希を追い出し、そのまま二週間がすぎる。
音沙汰のない深雪が恋しくてならない一希は、ついに決心して深雪の家をもう一度訪なう。
そこで一希が見たものは、
空っぽの部屋と、
イーゼルに架かった一枚の絵(「青年と犬」)、
そして、思い出をつづった一通の手紙。
「送られなかった手紙」だからこそ、綴られた言葉は自分勝手な欲望と虚しい希望に溢れ、思いがけないパワーを持つ。
相手のことを思いやることなく、自分の頭の中で完結した世界にのみ存在する、言葉たち。
…だから、送らない。
『あんな手紙を郵送するような女、やめとけ!』と誰もが思うような手紙。でも、それがそもそも「送られなかった手紙」であったなら。
「早く追いかけろ!」と思うしか、ない。送れなかった女心が、切ないから。
どんな手紙を書くか、そして、その書いた手紙を、送るか送らないか。
そこにこそ、「橘深雪」という人物が出ているわけで。
そこを無視して、切手を貼って出してしまった瞬間に、「橘深雪」というキャラクターが壊れてしまう。
人間、というのは、そういう繊細なものなのだということを、児玉さんは知るべきだと思う。
深雪については。
彼女は特に「絵」に夢を懸けていたわけではなくて、「絵」の存在意義は舞台と同じな感じでした。深雪の受けた衝撃に「絵を描けなくなった」という悲しみがあったのでは??
、、、とゆーのは、私の深読みしすぎでした(T T)。
手紙を送らなかったこと、事件直前に親友(新山初美/舞台版には出てこない)に電話で「一希さんが来ないの。…あとで病院に行ってみるわ」と言っていた、というエピソードがあったのが、一番の違いかな。あとはそんなに人間像としては変わってなかったと思います。
静香(愛原実花)や満(大湖せしる)、中里(蓮城まこと)あたりは、想像していたより原作に近いキャラクターでした。もっと全然違うのかなーと思っていたのですが。
あ、満は…満自身のキャラクターは同じなんですけど、兄との関係はちょっと違ってたかな。ライターの持ち主を探すことを兄に頼まれるような存在ではないし。それどころか、静香に裏切られて「無条件に人を信じる」ことができなくなった一希が最初に疑うのは、実の弟の満だったりするんですから。
ただ、たまたま犯人につながるものを見つけてM.S.の事務所に辿り着き、兄に知らせる…という流れは舞台も同じです。それを鳴海に密告されて、リンチに合うのも。
鳴海はずいぶん違いました。
まず、鳴海が深雪に惚れるのは、深雪が事故で失明して、「一希さんにはもう会えない」と絶望の淵に沈んでから。
高校一年生の時に拾った仔猫と同様、『小さくて傷ついたもの』ものに弱い鳴海。最初は同情から、そして次第に愛へ、と……
……それならわかる!!納得!
いや、別にいいんですよ。鳴海がもっと早く(舞台でソロを歌っていた頃)から深雪を好きでも。でも、それだったらやっぱり、鳴海と深雪の場面を一つ作るべきだと思うんですよね。
それは完全に児玉さんの創作ってことになるわけですが、それはあのソロの前の父親との二度目の場面自体が原作ではありえないし……。
なんであんな中途半端な変更をするのか、それが不思議です。
あとはまぁ、そんなに違わなかったかな。一希を愛しているのも同じ(←おい)だし。
事件の裏が一希にバレた後の言い訳は、やっぱり文字で読んでるせいかわかりやすかったです。
あ。「俺が(笹川に)言ったのは『桜木の弟が見張っているから事務所から出るな』と、それだけだ。まさかこんなことになるとは…」という言い訳はさせてあげてほしかったなあ。一希のキャラを考えたら、まず最初に確認したいところだろうし。
笹川宗光(緒月当麻)は、全然違いましたー。
昌明さんではなく、鳴海義行様LOVE!だった(T T)。
「そんな勝手なことをするなら、お前(昌明)も始末してやるっ!」とか叫んじゃうんですよ、笹川ったら。いやー、ここに関してはナイスな変更でした(^ ^)>児玉さん
まぁ、それはともかく。どうして「鳴海代議士が南に脅迫されていた」なんて原作にないネタを創ったりしたんですか?何のために?
原作どおり、南と争って飛び出してきた深雪を通りすがりに撥ねてしまって(←過失)、それを隠そうとして喧嘩になって、つい…でいいと思うんですけど。
事件に代議士を巻き込みたかったのかな?それにしては舞台上でも中途半端な扱いでしたけどねぇ>飛鳥組長。
ラストで、清一郎の元に戻って桜木動物病院を支えようとする満と、事件直後に亡くなった義行を最期まで「父さん」と呼んであげられなかった鳴海の対比を、もう少し舞台ではクローズアップしても良かったのではないか、と思いました。
原作はとにかく一希視点なので、そういうところが描かれないかわりに、一希や深雪の心理を丁寧に追っているわけですが、舞台なら、逆に細かい心理を追うよりも、そういうエピソードで話を膨らませたほうがおもしろくなると思うんです。
まぁ、児玉さんの力量を考えると、無謀なことはやめておけ、って気もしますけどね。
何はともあれ、なかなか面白く読ませていただきました。
原作は原作で、舞台とは無関係に突っ込みどころ満載な作品ではあるのですけれども(^ ^;ゞ
……最近、突っ込みどころがないと面白くない、とか思ってないか?>自分
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カテゴリーを雪組にするか読書にするか迷ったのですが、とりあえず「読書」にしておきます(^ ^)。
想像していたより、児玉さんは原作に忠実に劇化したんだな、と思いました。
表面的には、ですが。
普通に面白かったと思います。もうピュアな心では読めなかったので(ラストも知っているし、そもそも舞台で意味不明だったところは原作ではどうなの?というのが読み始めた動機だったし)、何も知らずに普通の小説として読んで面白い作品なのかどうかはコメントできませんが、とりあえずバウ公演をみて「うーん、あちこち穴があるけど案外面白かった、かも?」という感想をもたれた方にはお勧めします(^ ^)。
ただ、プロローグ(8年前のストーリー。全面的に深雪視点)以外は徹頭徹尾一希の視点で語られるので、予想していたより抜けてたエピソードは少なかったです。
京都の深雪の義父母のエピソードは元々少なかったし、南の出番も、深雪が失踪した後で一希を訪ねてくるところがあるくらいで大した違いはなかったし、鳴海の家族関係に関するエピソードも大きな違いはありませんでした。むしろ、鳴海の父親に関しては舞台の方が扱いが大きかったくらい。
まぁ、抜けてるところが大事だった、っていうのは予想どおりでしたけれども。
以下、舞台と小説、両方ネタバレありなのでご了承ください。
まず、一番印象が違うな、と思ったのは、一希が深雪に再会(一希は初めてだと思っている)したその瞬間に、完全に一目惚れしていること。
舞台では、「クロス!」という深雪の声とヘッドライト、そして急ブレーキの音?だったかな?事故をイメージさせて、流れの中でアクセントになる場面として印象的に演出し、そのまま手術室に持ち込んでいるので、一希と深雪の“出会いの場面”として独立させる余裕がないんですよね。
あの演出、普通は一希自身が事故にあうときに使う演出だから、初めて観たときはちょっとびっくりしたんですが、原作ではクロスは単に道をむりやり渡って一希に飛びついてくるだけで、車にはねられたわけではありません。ガラス片を踏んで怪我をしただけ。
舞台のクロスはぬいぐるみだから、飛びついてくる表現が難しい。だから、深く考えずにクロスが事故ったことにしたんだろうな、と推測はできますし、「出会った瞬間の一目惚れ」の表現ができない分、手術が終わった後の説明の場でいろいろ小細工しているわけですが、なんていうか、この時点のキムちゃんの一希は、普通に医者として患者の飼い主に説明しているだけに見えるんですよね。で、ミミちゃんの深雪だけがあれこれヒントを出すけれども、一希は全然気がつかない、と。
……ここは、大先輩の正塚さんを見習って、「運命を感じていた…」とかモノローグで言わせてしまえ!と思うくらい、結構大事な場面だと思うんですけどねぇ。
なぜ、この一目惚れが大切かというと、一希が深雪の手紙を読んで初めて自分の気持ちに気づいた、という設定であれだけの行動に出る、というのは、ちょっと無理があると思うからです。
音月桂、という役者の熱量は半端ないので、そうは言いつつも結構納得して観ていたわけですが、原作を読んで「おお!」と思ったんですよね。
そうか、そもそも一希は一目惚れしているのか、彼女に。
7年前の思い出なんてなくても、彼女に惚れてしまう。だから、それは結局のところは運命なのだ、と、
…ああ成程、そういう話だったのか、と。
そして。
そうして深雪に一目惚れしてしまった一希は、深雪の行動を深読みして誤解する。
深雪には、忘れられない昔の恋人がいる、そして自分は、彼に似ているらしい、と。
「あなたに似た人を知っていたの」という深雪の話は、そのまま児玉脚本にも使われています。
でも、対する一希のリアクションが違う。原作の一希は、その話を聞いて「その男に似ているから、彼女は俺に興味を持つのか…」と思いこむ。そして、「彼女が過去を忘れてやり直そうと思った男が南なら、彼女は南と幸せになるべきだ」「それが前向きな人生というものだ」と考える。
そのあたりの思考の流れがすごく自然で、やっぱり「地の文」がある小説はこういう繊細な心の動きを表現するのが楽でいいよね、と思うのですが。
でも、演劇でもこれが表現できないはずはないんですよ。モノローグを入れすぎるのはどうかと思いますけど(←Studio Lifeの倉田惇なら、解りやすく地の文をすべてモノローグにいれて、あげく私に『朗読劇かよっ!』と突っ込まれているでしょう)、もっと別の方法があったはず。
鳴海との会話で「お前、惚れたな、深雪ちゃんに」「…そんなことはない。彼女には婚約者がいる。それだけじゃない、俺はただ、彼女の昔の恋人に似てるだけなんだ…」って言わせるだけでいいと思うんです。それがあれば、キムちゃんの演技プランも変わっただろうし。
観客は「そうじゃないよ!深雪が言ってるのはあんたのことなんだってば!」って思うんでしょうけどね(^ ^;
こういう伏線があってはじめて、一幕ラストの深雪の手紙の件が意味を持つ。
この伏線が引けてないから、「変な手紙」になっちゃうんです。
そもそも、原作では一幕ラストの深雪の手紙は一希の家に届いたのではありません。
送られてはこなかった。あれは、「送られなかった手紙」なのです。
クロスを喪い、悲しみにくれた深雪は、ついに積極的な行動に出る。
「独りで家に帰りたくない。一緒に来て」と一希を誘い、家に連れて行く。
そこで「抱いて」と迫る深雪。
深雪が愛しているのは自分ではなく、『昔の男』だと思っている一希はそれを拒否する。
「南さんよりも、初恋の彼よりも、先に出会っていたなら…」、そんな台詞で。
怒った深雪は一希を追い出し、そのまま二週間がすぎる。
音沙汰のない深雪が恋しくてならない一希は、ついに決心して深雪の家をもう一度訪なう。
そこで一希が見たものは、
空っぽの部屋と、
イーゼルに架かった一枚の絵(「青年と犬」)、
そして、思い出をつづった一通の手紙。
「送られなかった手紙」だからこそ、綴られた言葉は自分勝手な欲望と虚しい希望に溢れ、思いがけないパワーを持つ。
相手のことを思いやることなく、自分の頭の中で完結した世界にのみ存在する、言葉たち。
…だから、送らない。
『あんな手紙を郵送するような女、やめとけ!』と誰もが思うような手紙。でも、それがそもそも「送られなかった手紙」であったなら。
「早く追いかけろ!」と思うしか、ない。送れなかった女心が、切ないから。
どんな手紙を書くか、そして、その書いた手紙を、送るか送らないか。
そこにこそ、「橘深雪」という人物が出ているわけで。
そこを無視して、切手を貼って出してしまった瞬間に、「橘深雪」というキャラクターが壊れてしまう。
人間、というのは、そういう繊細なものなのだということを、児玉さんは知るべきだと思う。
深雪については。
彼女は特に「絵」に夢を懸けていたわけではなくて、「絵」の存在意義は舞台と同じな感じでした。深雪の受けた衝撃に「絵を描けなくなった」という悲しみがあったのでは??
、、、とゆーのは、私の深読みしすぎでした(T T)。
手紙を送らなかったこと、事件直前に親友(新山初美/舞台版には出てこない)に電話で「一希さんが来ないの。…あとで病院に行ってみるわ」と言っていた、というエピソードがあったのが、一番の違いかな。あとはそんなに人間像としては変わってなかったと思います。
静香(愛原実花)や満(大湖せしる)、中里(蓮城まこと)あたりは、想像していたより原作に近いキャラクターでした。もっと全然違うのかなーと思っていたのですが。
あ、満は…満自身のキャラクターは同じなんですけど、兄との関係はちょっと違ってたかな。ライターの持ち主を探すことを兄に頼まれるような存在ではないし。それどころか、静香に裏切られて「無条件に人を信じる」ことができなくなった一希が最初に疑うのは、実の弟の満だったりするんですから。
ただ、たまたま犯人につながるものを見つけてM.S.の事務所に辿り着き、兄に知らせる…という流れは舞台も同じです。それを鳴海に密告されて、リンチに合うのも。
鳴海はずいぶん違いました。
まず、鳴海が深雪に惚れるのは、深雪が事故で失明して、「一希さんにはもう会えない」と絶望の淵に沈んでから。
高校一年生の時に拾った仔猫と同様、『小さくて傷ついたもの』ものに弱い鳴海。最初は同情から、そして次第に愛へ、と……
……それならわかる!!納得!
いや、別にいいんですよ。鳴海がもっと早く(舞台でソロを歌っていた頃)から深雪を好きでも。でも、それだったらやっぱり、鳴海と深雪の場面を一つ作るべきだと思うんですよね。
それは完全に児玉さんの創作ってことになるわけですが、それはあのソロの前の父親との二度目の場面自体が原作ではありえないし……。
なんであんな中途半端な変更をするのか、それが不思議です。
あとはまぁ、そんなに違わなかったかな。一希を愛しているのも同じ(←おい)だし。
事件の裏が一希にバレた後の言い訳は、やっぱり文字で読んでるせいかわかりやすかったです。
あ。「俺が(笹川に)言ったのは『桜木の弟が見張っているから事務所から出るな』と、それだけだ。まさかこんなことになるとは…」という言い訳はさせてあげてほしかったなあ。一希のキャラを考えたら、まず最初に確認したいところだろうし。
笹川宗光(緒月当麻)は、全然違いましたー。
昌明さんではなく、鳴海義行様LOVE!だった(T T)。
「そんな勝手なことをするなら、お前(昌明)も始末してやるっ!」とか叫んじゃうんですよ、笹川ったら。いやー、ここに関してはナイスな変更でした(^ ^)>児玉さん
まぁ、それはともかく。どうして「鳴海代議士が南に脅迫されていた」なんて原作にないネタを創ったりしたんですか?何のために?
原作どおり、南と争って飛び出してきた深雪を通りすがりに撥ねてしまって(←過失)、それを隠そうとして喧嘩になって、つい…でいいと思うんですけど。
事件に代議士を巻き込みたかったのかな?それにしては舞台上でも中途半端な扱いでしたけどねぇ>飛鳥組長。
ラストで、清一郎の元に戻って桜木動物病院を支えようとする満と、事件直後に亡くなった義行を最期まで「父さん」と呼んであげられなかった鳴海の対比を、もう少し舞台ではクローズアップしても良かったのではないか、と思いました。
原作はとにかく一希視点なので、そういうところが描かれないかわりに、一希や深雪の心理を丁寧に追っているわけですが、舞台なら、逆に細かい心理を追うよりも、そういうエピソードで話を膨らませたほうがおもしろくなると思うんです。
まぁ、児玉さんの力量を考えると、無謀なことはやめておけ、って気もしますけどね。
何はともあれ、なかなか面白く読ませていただきました。
原作は原作で、舞台とは無関係に突っ込みどころ満載な作品ではあるのですけれども(^ ^;ゞ
……最近、突っ込みどころがないと面白くない、とか思ってないか?>自分
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