アメディオ・モディリアーニの絵筆
2008年11月2日 ミュージカル・舞台赤坂REDシアターにて、「傾く首 ~モディリアーニの折れた絵筆~」を観劇してまいりました。
エコール・ド・パリ。
20世紀前半の、猥雑で混乱に満ちた、パリ。モンマルトル、モンパルナス……ボヘミアン的な生活をしていた芸術家たち。
三谷幸喜の「コンフィダント・絆」で描かれた時代よりも、もう少し…そうたぶん、1/4世紀ほど後の物語。
エコール・ド・パリ。
「パリ」という学校に学んだ芸術家たち。
19世紀末から20世紀初頭、「世界の最先端」だったパリ。いやむしろ、「世界のすべて」だったパリ。
「技術だったらイタリアでも学べた!でも、俺はパリで画家になるんだ!」
そう語るモディリアーニを主役に、彼と、彼を取り巻くひとびとを語るものがたり。
「コンフィダント・絆」にあった、救いと絶望。
そういうもののまったくない、完全に突き放された語り口。諦念と無常観。
三谷さんと荻田さん。二人の「天才」が、同じ素材をどう料理するのか?
それは下世話な興味にすぎないんですけれども。
でも、そこには確かに共通するモティーフとテーマがあって、その解釈の仕方が全然違っていて。
両方観ているからこその面白さ、というものが確かにありました。
……ストーリーは説明しにくいので、とりあえずは登場人物の紹介を。
アメディオ・モディリアーニ(吉野圭吾)
1884年、イタリア・トスカーナ生まれのユダヤ人。22歳でパリに出て画家を目指すが、パリの画壇に拒否され、酒と麻薬におぼれる。愛称は「モディ」。
ジャンヌ・エビュテルヌ(内田亜希子)
モディリアーニより15歳(?)年下の、内縁の妻 兼モデル。モディリアーニが肺結核で死んだ後、窓から身を投げて自殺。享年21歳。
レオポルド・ズボロウスキー(戸井勝海)
ポーランド系の画商。モディリアーニの理解者で、援助者だった。詩人を目指してパリに出てきたが、挫折した過去をもつ。
妻は何度かモディリアーニのモデルになっている。愛称は「ズボ」。
ルニア・チェホフスカ(小野妃香里)
モディリアーニの友人 兼モデル。ポーランド出身。ズボロウスキーの紹介でモディと知り合った。名門の出で、モディリアーニをずいぶん援助したらしい。夫は軍人で、第一次大戦に出征。その間のパリ滞在だった。愛称は「カカシュカ」。本人的には、本職は詩人。
モーリス・ユトリロ(岩田翼)
いわずと知れた、20世紀を代表する風景画家の一人。1883年、フランス生まれ。“エコール・ド・パリ”には珍しいフランス人だった。モディリアーニの親友で、のんだくれのアルコール中毒(そもそも、アル中の治療の一環として医者に絵を薦められたことは有名)。愛称は「モモ」。
ハイム・スーチン(溝呂木賢)
1893年、リトアニアに生まれたユダヤ人。20歳でパリに出る。この時代の画家としては、生前にある程度の成功を収めた珍しい人。
「コンフィダント」のプログラムには、ゴッホ、ゴーギャン、スーラ、シェフネッケルのそれぞれの絵が紹介されていて、彼らの業績が非常にわかりやすかったのですが、今回の「傾く首」のプログラムは、そういう面ではとても不親切。モディリアーニだけは年表もあるけれども、他の3人については解説もないし。
でも、全体の構成はよく似てる。
違う作者による、まったく違うテーマのまったく違う作品なのに、「コンフィダント」と「傾く首」は、とてもよく似ています。
歌も踊りもなく、なんの事件らしい事件も起こらない数日間、の物語。
ただひたすらに、自分の感情を垂れ流すばかりの、会話にならない、言葉の洪水。
己をさらけだし、傷つけあうばかりの“芸術家”たち。
彼らを理解したくて、救いたくて、なのに傍に侍ることさえ拒否される“芸術家くずれ”たち。
芸術に身をささげた、という意味では、画商も芸術家のパトロネスも同じなのに、
それさえも闇雲に否定され、傷つけられる。
「コンフィダント」には、語り手たる娼婦 兼モデルのルイーズがいましたが、「傾く首」には語り手らしい語り手はなく、ただ、案外カカシュカが結構自分語りしていました。
…何の説明もしなかったですけどね。
三谷さんの「痛さ」と、
荻田さんの「痛さ」の違い。
同じような題材で、同じような構造の作品なだけに、その差が強く印象に残りました。
「コンフィダント」の痛さは、ゴーギャンの痛さであり、スーラの、シェフネッケルの痛さだったんですよね。
“ゴッホ”という光に勝てない自分、という痛み。そして、それでもゴッホという光から離れることができない痛み。
そしてもう一つ、そんな彼らを理解できないルイーズの痛み。
でも。
「傾く首」の一番痛いところは、彼らが「パリに見捨てられている」ところなのだと思うのです。
この物語の中で、「コンフィダント」におけるゴッホの位置にいるはずなのは、年若いハイムです。彼は『他の人には見えないものを視る目をもつ男』として描かれている。溝呂木さんの芝居がまた実に見事だったんですが(*^ ^*)、彼は明らかに「他の人」とは違う。
でも。
荻田さんは、そこで満足はしない。彼は、もう一度世界をひっくり返す。
ハイムに視える「世界」に、意味はないのだ、と。
モディリアーニはモデルを通して「世界」を視る画家であり、その視点は世界を超えているのだ、と。
だから、ハイムはモディリアーニのモデルを欲しがる。
ハイムの瞳を欲しがるモディと、モディのモデルを欲しがるハイム。
そして、その二人とは最初から違う世界を生きているユトリロ。
誰ひとり、相手を理解しようとはしない。
彼らにとって世界は大きすぎて、視界いっぱいに拡がる「神の貌」を画布に写すだけで精一杯で、ちっぽけな「人間」を視る余裕などありはしない。
その、彼らの孤独さの切実な痛み。
彼らが「孤独」の痛みに気づいてさえいないことに対する、痛み。
彼らを見守るズボの、カカシュカの、痛み。
物語の後半、冷たい雨に降られるモディとモモを迎えにくるカカシュカの、寂しい横顔。後姿。
「あたしはただのモデル」
そう繰り返し、言い聞かせ、言い聞かせ、……自分自身ん。
「あたしはただのモデル……」
そして、ジャンヌ。
元々は画学生として芸術の道を目指していたはずの、ジャンヌ。
芸術に身をささげるつもりだった彼女は、若い身空で「現人神」に身をささげてしまった。
カトリックの彼女が、ユダヤ人のモディに。
親の大反対で籍も入れられず、精神的には18歳のまま、
もうすぐ2歳になろうとする娘のことも、根本的には意識にない。
「ジャンヌとつけたの。あのひとが。あたしと同じ名前。そして、ジョヴァンナと呼ぶの、イタリア風に」
「ジョヴァンナよ!そう呼んで!あの娘の半分はイタリア人なんだからっ!!」
モディへの、崇拝としか言いようのない恋着。彼女自身が目指した芸術の夢さえも、夫に託して。
;
全てを託された「神」の苦悩。
モディの愛と苦悩。
良い役者をそろえられて、荻田さん幸せだったろうなあ、と、ほんの一ヶ月前とは逆のことを思いました。
歌もダンスもないストレートプレイは久しぶりでしたが、やっぱり「芝居ができる」ひとたちが集まっていれば、そして適切なサイズの劇場を択べば(←これは重要)、休憩なしの2時間も全然長くない。
「コンフィダント」のように、痛くて痛くて号泣するような作品ではありませんでしたが、ひそっと胸に刺さった棘が、未だに抜けずに痛みを増しているような、そんな気がします。
モディの吉野さんも良かったですが、今回のVIPは女優二人にあげたい感じ。ジャンヌの内田さんも、カカシュカの小野さんも、素晴らしかった。母性のかけらもない、「少女」のままで時を留めたジャンヌと、隠し切れない母性と女性の狭間を揺れ動くカカシュカ。硬くて響きのない、カツカツした内田さんの声と、まろやかでやわらかい、しっとりと濡れたような小野さんの声と。
ジャンヌは朝澄けいさんでも良かったかなと思いましたが、朝澄さんだともっと抑圧されたキャラクターになってしまうかなーと思いなおしました。内田さんの、追い詰められているのに強気な声が、ジャンヌというキャラクター、逆にモディを追い詰めるキャラクターにぴったりでした。これだけ作品がいいと、常連の朝澄さんがいないのが寂しくなるのですが(^ ^;ゞ、たぶん、荻田さんの中で、朝澄さんはもうちょっと音楽的な作品で使いたい人なんだろうなー。
ハイムの溝呂木さん、初めて拝見しましたが物凄い二枚目ですね(汗)。どきどきしました。
声もいいし、荻田さんの好みな感じ。
「劇団昴」の新鋭・岩田くんはまた巧くなってて、相変わらず可愛いし達者だし、いい子だなあ(*^ ^*)。次は何に出るんだろう…(←とりあえずは昴でしょ?)
戸井さんは、ここ最近の荻田作品にはほとんど呼ばれてますが、どうにも荻田さんは彼の何が欲しくて使い続けているのかなー?と疑問に思う使い方が多かったのですが………
なんだか、わかったような気がする。
不完全な父性。
戸井さんのファンとしては、ちょっと不本意なんですが(汗)、彼に求められているのはそういうものなんだなあ…。
戸井さんは、私生活ではちゃんとパパなんでしょうけど、確かにあまり父性を感じない役者さんではありますね。
小野妃香里さんが、女の本能としての母性は演じられても、実際に誰かの「母親役」をやってたら違和感ありまくりだろうなあ、と思うのと同じで、キャラクターというか、記号としての「父親」は演じられても、「父性」は感じない役者。
それは彼の個性なんですけど、年齢を考えるとちょっと不利な個性だなーと思うんですよね。
でも、荻田さんは、彼のそういうところが気に入っているのかな、と思うと、ありがたい演出家だなあと(^ ^;
今回は、ひさびさにファンとして観ても幸せな役をいただいて、嬉しかったです。
今後も呼んでいただけると良いのですが。……どうなんでしょうねぇ…。
舞台の幕開きは、モディの死の直後。
不安定になったジャンヌを気遣うカカシュカと、ズボ。
酔っ払ったままのモモ。
そして、窓に映るモディの、影。
吉野圭吾、という役者の、圧倒的な存在感。
シルエットの美しさ、腕の筋肉、指の動き。
窓が不規則に灯に照らされて、
うかびでるクロス。
浮かび上がる、影。
「ジャンヌ!窓に近寄らないで!」
カカシュカの悲痛な叫び。
壊れたレコードのように、ジャンヌが繰り返し呟く。
「冗談じゃない」
繰り返し、
繰り返し。
「じょうだんじゃ、ない……」
神を喪ったジャンヌに、生きる意味などない。
……こども?
こどもって、なに…?
それが、愛?
それとも、恋?
いいえ。
それは崇拝。それは執着。
愛はなかった。どちらにも。
だから。
愛は、なかった。
……誰にも。
.
エコール・ド・パリ。
20世紀前半の、猥雑で混乱に満ちた、パリ。モンマルトル、モンパルナス……ボヘミアン的な生活をしていた芸術家たち。
三谷幸喜の「コンフィダント・絆」で描かれた時代よりも、もう少し…そうたぶん、1/4世紀ほど後の物語。
エコール・ド・パリ。
「パリ」という学校に学んだ芸術家たち。
19世紀末から20世紀初頭、「世界の最先端」だったパリ。いやむしろ、「世界のすべて」だったパリ。
「技術だったらイタリアでも学べた!でも、俺はパリで画家になるんだ!」
そう語るモディリアーニを主役に、彼と、彼を取り巻くひとびとを語るものがたり。
「コンフィダント・絆」にあった、救いと絶望。
そういうもののまったくない、完全に突き放された語り口。諦念と無常観。
三谷さんと荻田さん。二人の「天才」が、同じ素材をどう料理するのか?
それは下世話な興味にすぎないんですけれども。
でも、そこには確かに共通するモティーフとテーマがあって、その解釈の仕方が全然違っていて。
両方観ているからこその面白さ、というものが確かにありました。
……ストーリーは説明しにくいので、とりあえずは登場人物の紹介を。
アメディオ・モディリアーニ(吉野圭吾)
1884年、イタリア・トスカーナ生まれのユダヤ人。22歳でパリに出て画家を目指すが、パリの画壇に拒否され、酒と麻薬におぼれる。愛称は「モディ」。
ジャンヌ・エビュテルヌ(内田亜希子)
モディリアーニより15歳(?)年下の、内縁の妻 兼モデル。モディリアーニが肺結核で死んだ後、窓から身を投げて自殺。享年21歳。
レオポルド・ズボロウスキー(戸井勝海)
ポーランド系の画商。モディリアーニの理解者で、援助者だった。詩人を目指してパリに出てきたが、挫折した過去をもつ。
妻は何度かモディリアーニのモデルになっている。愛称は「ズボ」。
ルニア・チェホフスカ(小野妃香里)
モディリアーニの友人 兼モデル。ポーランド出身。ズボロウスキーの紹介でモディと知り合った。名門の出で、モディリアーニをずいぶん援助したらしい。夫は軍人で、第一次大戦に出征。その間のパリ滞在だった。愛称は「カカシュカ」。本人的には、本職は詩人。
モーリス・ユトリロ(岩田翼)
いわずと知れた、20世紀を代表する風景画家の一人。1883年、フランス生まれ。“エコール・ド・パリ”には珍しいフランス人だった。モディリアーニの親友で、のんだくれのアルコール中毒(そもそも、アル中の治療の一環として医者に絵を薦められたことは有名)。愛称は「モモ」。
ハイム・スーチン(溝呂木賢)
1893年、リトアニアに生まれたユダヤ人。20歳でパリに出る。この時代の画家としては、生前にある程度の成功を収めた珍しい人。
「コンフィダント」のプログラムには、ゴッホ、ゴーギャン、スーラ、シェフネッケルのそれぞれの絵が紹介されていて、彼らの業績が非常にわかりやすかったのですが、今回の「傾く首」のプログラムは、そういう面ではとても不親切。モディリアーニだけは年表もあるけれども、他の3人については解説もないし。
でも、全体の構成はよく似てる。
違う作者による、まったく違うテーマのまったく違う作品なのに、「コンフィダント」と「傾く首」は、とてもよく似ています。
歌も踊りもなく、なんの事件らしい事件も起こらない数日間、の物語。
ただひたすらに、自分の感情を垂れ流すばかりの、会話にならない、言葉の洪水。
己をさらけだし、傷つけあうばかりの“芸術家”たち。
彼らを理解したくて、救いたくて、なのに傍に侍ることさえ拒否される“芸術家くずれ”たち。
芸術に身をささげた、という意味では、画商も芸術家のパトロネスも同じなのに、
それさえも闇雲に否定され、傷つけられる。
「コンフィダント」には、語り手たる娼婦 兼モデルのルイーズがいましたが、「傾く首」には語り手らしい語り手はなく、ただ、案外カカシュカが結構自分語りしていました。
…何の説明もしなかったですけどね。
三谷さんの「痛さ」と、
荻田さんの「痛さ」の違い。
同じような題材で、同じような構造の作品なだけに、その差が強く印象に残りました。
「コンフィダント」の痛さは、ゴーギャンの痛さであり、スーラの、シェフネッケルの痛さだったんですよね。
“ゴッホ”という光に勝てない自分、という痛み。そして、それでもゴッホという光から離れることができない痛み。
そしてもう一つ、そんな彼らを理解できないルイーズの痛み。
でも。
「傾く首」の一番痛いところは、彼らが「パリに見捨てられている」ところなのだと思うのです。
この物語の中で、「コンフィダント」におけるゴッホの位置にいるはずなのは、年若いハイムです。彼は『他の人には見えないものを視る目をもつ男』として描かれている。溝呂木さんの芝居がまた実に見事だったんですが(*^ ^*)、彼は明らかに「他の人」とは違う。
でも。
荻田さんは、そこで満足はしない。彼は、もう一度世界をひっくり返す。
ハイムに視える「世界」に、意味はないのだ、と。
モディリアーニはモデルを通して「世界」を視る画家であり、その視点は世界を超えているのだ、と。
だから、ハイムはモディリアーニのモデルを欲しがる。
ハイムの瞳を欲しがるモディと、モディのモデルを欲しがるハイム。
そして、その二人とは最初から違う世界を生きているユトリロ。
誰ひとり、相手を理解しようとはしない。
彼らにとって世界は大きすぎて、視界いっぱいに拡がる「神の貌」を画布に写すだけで精一杯で、ちっぽけな「人間」を視る余裕などありはしない。
その、彼らの孤独さの切実な痛み。
彼らが「孤独」の痛みに気づいてさえいないことに対する、痛み。
彼らを見守るズボの、カカシュカの、痛み。
物語の後半、冷たい雨に降られるモディとモモを迎えにくるカカシュカの、寂しい横顔。後姿。
「あたしはただのモデル」
そう繰り返し、言い聞かせ、言い聞かせ、……自分自身ん。
「あたしはただのモデル……」
そして、ジャンヌ。
元々は画学生として芸術の道を目指していたはずの、ジャンヌ。
芸術に身をささげるつもりだった彼女は、若い身空で「現人神」に身をささげてしまった。
カトリックの彼女が、ユダヤ人のモディに。
親の大反対で籍も入れられず、精神的には18歳のまま、
もうすぐ2歳になろうとする娘のことも、根本的には意識にない。
「ジャンヌとつけたの。あのひとが。あたしと同じ名前。そして、ジョヴァンナと呼ぶの、イタリア風に」
「ジョヴァンナよ!そう呼んで!あの娘の半分はイタリア人なんだからっ!!」
モディへの、崇拝としか言いようのない恋着。彼女自身が目指した芸術の夢さえも、夫に託して。
;
全てを託された「神」の苦悩。
モディの愛と苦悩。
良い役者をそろえられて、荻田さん幸せだったろうなあ、と、ほんの一ヶ月前とは逆のことを思いました。
歌もダンスもないストレートプレイは久しぶりでしたが、やっぱり「芝居ができる」ひとたちが集まっていれば、そして適切なサイズの劇場を択べば(←これは重要)、休憩なしの2時間も全然長くない。
「コンフィダント」のように、痛くて痛くて号泣するような作品ではありませんでしたが、ひそっと胸に刺さった棘が、未だに抜けずに痛みを増しているような、そんな気がします。
モディの吉野さんも良かったですが、今回のVIPは女優二人にあげたい感じ。ジャンヌの内田さんも、カカシュカの小野さんも、素晴らしかった。母性のかけらもない、「少女」のままで時を留めたジャンヌと、隠し切れない母性と女性の狭間を揺れ動くカカシュカ。硬くて響きのない、カツカツした内田さんの声と、まろやかでやわらかい、しっとりと濡れたような小野さんの声と。
ジャンヌは朝澄けいさんでも良かったかなと思いましたが、朝澄さんだともっと抑圧されたキャラクターになってしまうかなーと思いなおしました。内田さんの、追い詰められているのに強気な声が、ジャンヌというキャラクター、逆にモディを追い詰めるキャラクターにぴったりでした。これだけ作品がいいと、常連の朝澄さんがいないのが寂しくなるのですが(^ ^;ゞ、たぶん、荻田さんの中で、朝澄さんはもうちょっと音楽的な作品で使いたい人なんだろうなー。
ハイムの溝呂木さん、初めて拝見しましたが物凄い二枚目ですね(汗)。どきどきしました。
声もいいし、荻田さんの好みな感じ。
「劇団昴」の新鋭・岩田くんはまた巧くなってて、相変わらず可愛いし達者だし、いい子だなあ(*^ ^*)。次は何に出るんだろう…(←とりあえずは昴でしょ?)
戸井さんは、ここ最近の荻田作品にはほとんど呼ばれてますが、どうにも荻田さんは彼の何が欲しくて使い続けているのかなー?と疑問に思う使い方が多かったのですが………
なんだか、わかったような気がする。
不完全な父性。
戸井さんのファンとしては、ちょっと不本意なんですが(汗)、彼に求められているのはそういうものなんだなあ…。
戸井さんは、私生活ではちゃんとパパなんでしょうけど、確かにあまり父性を感じない役者さんではありますね。
小野妃香里さんが、女の本能としての母性は演じられても、実際に誰かの「母親役」をやってたら違和感ありまくりだろうなあ、と思うのと同じで、キャラクターというか、記号としての「父親」は演じられても、「父性」は感じない役者。
それは彼の個性なんですけど、年齢を考えるとちょっと不利な個性だなーと思うんですよね。
でも、荻田さんは、彼のそういうところが気に入っているのかな、と思うと、ありがたい演出家だなあと(^ ^;
今回は、ひさびさにファンとして観ても幸せな役をいただいて、嬉しかったです。
今後も呼んでいただけると良いのですが。……どうなんでしょうねぇ…。
舞台の幕開きは、モディの死の直後。
不安定になったジャンヌを気遣うカカシュカと、ズボ。
酔っ払ったままのモモ。
そして、窓に映るモディの、影。
吉野圭吾、という役者の、圧倒的な存在感。
シルエットの美しさ、腕の筋肉、指の動き。
窓が不規則に灯に照らされて、
うかびでるクロス。
浮かび上がる、影。
「ジャンヌ!窓に近寄らないで!」
カカシュカの悲痛な叫び。
壊れたレコードのように、ジャンヌが繰り返し呟く。
「冗談じゃない」
繰り返し、
繰り返し。
「じょうだんじゃ、ない……」
神を喪ったジャンヌに、生きる意味などない。
……こども?
こどもって、なに…?
それが、愛?
それとも、恋?
いいえ。
それは崇拝。それは執着。
愛はなかった。どちらにも。
だから。
愛は、なかった。
……誰にも。
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