月組日生劇場公演「グレートギャツビー」を観劇してまいりました♪
博多座に引き続き、月組っ子たちホントにがんばってました!!汝鳥さん、磯野さん、梨花さんの専科陣も素晴らしい。なかでも、ジョージ・ウィルソンの磯野さんが本当に素晴らしかった!!原作でイメージしていたウィルソンが、そのまま容を与えられてそこにいる、という感じでした。
私は初演も映画も何も観ていなくて、だーいぶ遠い昔に読んだまますっかり薄れてしまった原作の記憶くらいしかイメージがなくて、ほとんとマッサラで観たと言っても嘘じゃないと思うのですが。
一幕が終わって、最初に思ったことは、
……あれ?「華麗なるギャツビー」ってこういう話だっけ?
でした。
わかってます。
今回の作品は「グレート・ギャツビー」であって、私が以前読んだ「華麗なるギャツビー」じゃない。
宝塚歌劇団で上演される「グレート・ギャツビー」という別の作品なのだ、と、頭ではちゃんとわかっています。
でも、観ていてかすかな不協和音を感じたことは事実なのです。
私は先週、星組「スカーレットピンパーネル」を観て書きました。
「小池修一郎は潤色の天才である」
この実感は、ウィーン版の「エリザベート」を観たときにも強く思ったことなのですが、彼は、本来“宝塚的”でないものを、宝塚的な展開に持っていく天才だと思うのです。
「エリザベート」には「愛と死の輪舞」を。
「スカーレットピンパーネル」には「ひとかけらの勇気」を。
この一曲を加えただけではなく、その一曲を軸に物語の構成を組み替えてのけた。それは、「花咲く港」を「パリの空よりも高く」に変えたような乱暴でいい加減なものではなく、自由な発想と緻密な計算によって確立された一つの物語世界を壊して更地に戻し、そこから同じ部材を使って“宝塚歌劇”を組み上げてのけたのです。
ならば。
そんな小池修一郎が「華麗なるギャツビー」という世界の名作を『宝塚歌劇』として再構築するにあたって、いったい何をしたのか?
「エリザベート」に「愛と死の輪舞」を与えたように、
「スカーレットピンパーネル」に「ひとかけらの勇気」を与えたように、
そして、「ドラキュラ」に20世紀の後日譚を与えたように。
…この作品はそもそもが再演ですし、原作も著名な小説なので遠慮なくネタバレさせていただきますが。
小池さんは、「華麗なるギャツビー」を宝塚歌劇に潤色するにあたって、
ラストのギャツビーの葬式に現れるデイジー、という新しいデイジー像を創ったのだ、と、私は思っています。
「華麗なるギャツビー」という作品は、小池さん自身がプログラムにも書いているとおり
“何度も企画を出したけれども、「ヒロインが宝塚的でない」という理由で却下されてきた”作品。
…それはそうですよね?
「愛している」と言いながら“ギャツビー”という現実と向き合うことが出来ずにゴルフ場から逃げだし、車を駆って事故を起こしたあげく、その事故があった事実さえ直視することができないデイジーに、自分の身替りになってギャツビーが死んだ事実など受け入れられるわけがありません。
死を受け入れられないのに葬式に来ることはできない。だから、デイジーは墓参りに来ない。来るわけがない。これは原作を読めば当然の帰結であって、そもそも、デイジーが墓参りに来るような女だったら、こんな話は成立しないわけです。
でも、宝塚歌劇のヒロインでありながら、自分の(事実上)身替りで死んだ主役の葬式にも来ない女、というのはあり得ない。
宝塚のヒロイン=主役と運命的な恋に落ちる女性=主役を深く愛する女。
17年も前にこの“三段論法”を崩すことは不可能だったでしょうし、まして大劇場作品で、観客も受け入れなかっただろうと思います。
だから、デイジーの性格を宝塚ヒロインらしく変更した=最後にギャツビーの葬式に姿を見せる女性として説得力を持たせるために、小池さんはすべてを組み立てなおしたはずなのです。
そして。
初演を観ていない私が、すべて憶測でものを書いていいのかどうかわかりませんが。
小池さんは、初演を構築したときに、デイジーというキャラクターを表現する場面をあえて作らなかったのではないでしょうか…?
デイジーの性格変更、というのは、かなり根本的な物語世界の骨格の変更になります。デイジーがああいう駄目な女だからこそ「華麗なるギャツビー」という小説が成り立っているわけで、デイジーがもっとまともな生活能力のある女だったらあんなことにはならないのです。ちょっとやそっとのことではフォローできない。
だから。
どうせ、人間関係の入り組んだ長編ドラマです。二本立てで、100分もない芝居の時間の中にどれだけの場面が納まっていたのかわかりませんが、基本的に主役はギャツビーで二番手はニックだったわけですから、この二人にある程度時間は取られて、デイジーに回せる時間は少なかったはず。
だから、あえてデイジーを生身の女として表現することを避け、「ギャツビーから見た夢の女」に徹底することによって、デイジーの行動の理屈のなさ、意味不明さを誤魔化してしまう、という手を使ったのではないかしら、と……
初演をご覧になったみなさま、すみません(^ ^;;;。根も葉もない憶測なのですが、どうなのでしょうか…
…全然ちがーーーーうっっ!!という感じでしたら、この後の論は、どうぞなかったことにしてやってください…お慈悲をm(_ _)m。
で。
今回の再演にあたり、どういうところから「ギャツビー再演、それも2幕ものに変更して」という案が出たのか、私なんぞには全くわかりませんが、
小池さんの構想として、「おお、じゃあ初演の時に時間が足りなくて削った場面をアレもコレもいれられるなっっっ(^ ^)」という喜びはあったのだろうと思います。
でも。
もうちょっと考えてみよう!
なぜ初演で削ったのか、思い出してみて?>小池さん
ギャツビーとデイジーの心理状態を、丁寧に追っていく展開。
そのなかで浮き彫りにされる、原作のイメージにかなり近い、見事なデイジーの造形。
だからこそ、
そのラストはあり得ません。
あいあいが、完璧なまでに演技で“デイジー”を造形しきればしきるほど。
ゴルフ場でのトムの糾弾に耐えられない、弱い女。
ギャツビーと生きる、そのために今の生活を捨てなくてはならない、その二者択一に耐えられない、莫迦な女。
「女の子はきれいでばかな方がいい…」
そんな歌が、似合えば似合うほど、
「女の子で、良かった…」
そんな呟きが、説得力を持てば持つだけ、
ラストに現れるデイジーが、“あり得ないもの”になっていく。
トムの車でギャツビーの葬式に現れ、花を供えて無言で去っていく、
そんな行動がとれるような、理性ある女だったら、あそこでゴルフ場から逃げ出したりしない。
そんな常識ある大人だったら、人を轢いたことに気がついても見なかったフリして逃げたり、しない。
ギャツビーに「俺が運転していたことに」と言われて、安易にうなずいたり、絶対しない。
小池さんは、再演にあたってあれこれ考える前に、もう一歩踏みとどまって考え直すべきだったのではないか、と思います。
だって。今は17年前とは違うんですもの。
今だったら、原作どおりのラストでも誰も違和感はなかったと思う。まして、大劇場公演ではない、主演者のファンが客席のほとんどを占める中劇場公演です。主役に合わせて練り上げればよかったのです。
二幕ものにして、初演で切り捨てたあれやこれやの場面を追加し、デイジーという人間の説得力を増したうえで、
ラストを原作どおりに戻す。
これが可能であったはず。今の彼の、評価と実績をみれば。
でも彼は、17年前の呪縛から逃れられなかった……
“潤色の天才”が、自分の作品を潤色することだけは不得手だというのでしょうか。
東宝ミュージカル「エリザベート」に、不必要な「愛と死の輪舞」を残してしまったように、
2幕ものとして構成しなおした「グレート・ギャツビー」に、“宝塚的ヒロイン”なデイジーを残してしまった。
そのきしみは、一人デイジーだけではなく、作品全体に及んでいます。
一番大きなきしみは、デイジーがそういうキャラクターになってしまったばっかりにギャツビーが物凄く後ろ向きな男になってしまったこと。
原作のギャツビーは、もうちょっと野心のある男に描かれていたと思うのです。前向きでタフで、諦めの悪い男、に。
そして、その野心家がふと見せる弱み、それがデイジーとの愛の記憶。
それなのに、日生劇場に立っているギャツビーは、冒頭の「朝日が昇る前に」からして、ひとかけらの希望も持っていないように見えました。入り江の向こうに遠く見える灯をただ羨んで、そこに辿りつけない自分を哀れみ、蔑んでいる。
ギャツビーは、一度でもデイジーの愛を信じたことがあったのか、と思いました。
隣の劇場で毎日歌われている「ひとかけらの勇気」を歌ってあげたくなるほどに、寂しげな、孤独な、愛を信じられない後姿。
デイジーとの愛を無条件に信じているギャツビー、
“再びめぐり合うことさえできれば、何もかもうまくいく”と理屈抜きで信じているギャツビー、
そんな、前向きでタフな大人のオトコは、どこにもいない。
「俺が運転していたことに」といいながら、デイジーのために犠牲になる自分に酔っている。
手の届かない“上流階級の女”に、自分という存在を刻み込む好機だとくらいに思っているのではないか?と思うほどに、酔いは深い。
いや、もっと前、すべてのシマをウルフシェイムに取り上げられたときに、すでに「すべてをデイジーに捧げる」「愛のためにすべてを」と思う自分に酔っているように見えてしまう。
だから、一幕が終わって最初に思ったことが「あれ?ギャツビーってこういう話だっけ?」だったのでしょう…。
小池さんの構想と、瀬奈さんの演技プラン、どちらが先なのかはわかりません。
でも、
私には、違和感がありました。
そういう話ならそういう話でいいんです。
“そういう話”で筋が通っていれば。私が原作の影から逃れられなくても、誰も困りません。
でも。
違和感、というのは、一つの作品の中で“あれ?”と思うところがあったということです。
デイジーを愛し、手に入れたいと思い、
デイジーの母親になじられた自分の出生を恨み、
黒社会に身を投じてまで財をつくり、デイジーと同じところまで昇ってきた、ギャツビー。
その前身に、なっとくがいかない。
ルイヴィルの森でのギャツビー中尉殿。
他の男たちを差し置いて、デイジーを射止めた、デイジーに選ばれたという自負と誇り。
自分の生い立ちに関する秘密。それを秘密にしなくてはならないことに対する怒り。
そして、自分を蔑んだ連中を見返してやりたい、という思い。
青年ギャツビーには、そんなどす黒い感情があったはずなのに、
芝居として表現されているのは、「王子と王女」のおままごとのような純粋な恋心のみだから、必要以上にギャツビーが純情素朴に見えるのです。
エディとジュディの二人の方が、むしろ大人に見えてしまうくらいに。
あくまでも少年めいた、裏表のない自己犠牲心。
少年の心を忘れない、というよりは、少年そのものの純粋さ、というお芝居は、瀬奈じゅんというスターが得意とする王道のパターンではありますが、ジェイ・ギャツビーとしては、ちょっとそぐわなかったような気がします。
そういう心の持ち主が、ウルフシェイムに認められたのが不思議だから。
そういう心の持ち主なら、財を成した時点でデイジーを訪ねていく方が自然だから。
そういうキャラクターを表現したかったのなら、「華麗なるギャツビー」である必要はなかった、と思うのです。ああいう展開にする必要がなかった。
もっとシンプルな物語の方が、瀬奈さんのキャラクターが生きたのではないでしょうか?
…ちょっと暗くなってしまいました。ごめんなさい。
おかしいな、“月組ファン”としてはめちゃくちゃ楽しかったのに!
というわけで、作品の話は終わりにして、次はキャストの話を♪
.
博多座に引き続き、月組っ子たちホントにがんばってました!!汝鳥さん、磯野さん、梨花さんの専科陣も素晴らしい。なかでも、ジョージ・ウィルソンの磯野さんが本当に素晴らしかった!!原作でイメージしていたウィルソンが、そのまま容を与えられてそこにいる、という感じでした。
私は初演も映画も何も観ていなくて、だーいぶ遠い昔に読んだまますっかり薄れてしまった原作の記憶くらいしかイメージがなくて、ほとんとマッサラで観たと言っても嘘じゃないと思うのですが。
一幕が終わって、最初に思ったことは、
……あれ?「華麗なるギャツビー」ってこういう話だっけ?
でした。
わかってます。
今回の作品は「グレート・ギャツビー」であって、私が以前読んだ「華麗なるギャツビー」じゃない。
宝塚歌劇団で上演される「グレート・ギャツビー」という別の作品なのだ、と、頭ではちゃんとわかっています。
でも、観ていてかすかな不協和音を感じたことは事実なのです。
私は先週、星組「スカーレットピンパーネル」を観て書きました。
「小池修一郎は潤色の天才である」
この実感は、ウィーン版の「エリザベート」を観たときにも強く思ったことなのですが、彼は、本来“宝塚的”でないものを、宝塚的な展開に持っていく天才だと思うのです。
「エリザベート」には「愛と死の輪舞」を。
「スカーレットピンパーネル」には「ひとかけらの勇気」を。
この一曲を加えただけではなく、その一曲を軸に物語の構成を組み替えてのけた。それは、「花咲く港」を「パリの空よりも高く」に変えたような乱暴でいい加減なものではなく、自由な発想と緻密な計算によって確立された一つの物語世界を壊して更地に戻し、そこから同じ部材を使って“宝塚歌劇”を組み上げてのけたのです。
ならば。
そんな小池修一郎が「華麗なるギャツビー」という世界の名作を『宝塚歌劇』として再構築するにあたって、いったい何をしたのか?
「エリザベート」に「愛と死の輪舞」を与えたように、
「スカーレットピンパーネル」に「ひとかけらの勇気」を与えたように、
そして、「ドラキュラ」に20世紀の後日譚を与えたように。
…この作品はそもそもが再演ですし、原作も著名な小説なので遠慮なくネタバレさせていただきますが。
小池さんは、「華麗なるギャツビー」を宝塚歌劇に潤色するにあたって、
ラストのギャツビーの葬式に現れるデイジー、という新しいデイジー像を創ったのだ、と、私は思っています。
「華麗なるギャツビー」という作品は、小池さん自身がプログラムにも書いているとおり
“何度も企画を出したけれども、「ヒロインが宝塚的でない」という理由で却下されてきた”作品。
…それはそうですよね?
「愛している」と言いながら“ギャツビー”という現実と向き合うことが出来ずにゴルフ場から逃げだし、車を駆って事故を起こしたあげく、その事故があった事実さえ直視することができないデイジーに、自分の身替りになってギャツビーが死んだ事実など受け入れられるわけがありません。
死を受け入れられないのに葬式に来ることはできない。だから、デイジーは墓参りに来ない。来るわけがない。これは原作を読めば当然の帰結であって、そもそも、デイジーが墓参りに来るような女だったら、こんな話は成立しないわけです。
でも、宝塚歌劇のヒロインでありながら、自分の(事実上)身替りで死んだ主役の葬式にも来ない女、というのはあり得ない。
宝塚のヒロイン=主役と運命的な恋に落ちる女性=主役を深く愛する女。
17年も前にこの“三段論法”を崩すことは不可能だったでしょうし、まして大劇場作品で、観客も受け入れなかっただろうと思います。
だから、デイジーの性格を宝塚ヒロインらしく変更した=最後にギャツビーの葬式に姿を見せる女性として説得力を持たせるために、小池さんはすべてを組み立てなおしたはずなのです。
そして。
初演を観ていない私が、すべて憶測でものを書いていいのかどうかわかりませんが。
小池さんは、初演を構築したときに、デイジーというキャラクターを表現する場面をあえて作らなかったのではないでしょうか…?
デイジーの性格変更、というのは、かなり根本的な物語世界の骨格の変更になります。デイジーがああいう駄目な女だからこそ「華麗なるギャツビー」という小説が成り立っているわけで、デイジーがもっとまともな生活能力のある女だったらあんなことにはならないのです。ちょっとやそっとのことではフォローできない。
だから。
どうせ、人間関係の入り組んだ長編ドラマです。二本立てで、100分もない芝居の時間の中にどれだけの場面が納まっていたのかわかりませんが、基本的に主役はギャツビーで二番手はニックだったわけですから、この二人にある程度時間は取られて、デイジーに回せる時間は少なかったはず。
だから、あえてデイジーを生身の女として表現することを避け、「ギャツビーから見た夢の女」に徹底することによって、デイジーの行動の理屈のなさ、意味不明さを誤魔化してしまう、という手を使ったのではないかしら、と……
初演をご覧になったみなさま、すみません(^ ^;;;。根も葉もない憶測なのですが、どうなのでしょうか…
…全然ちがーーーーうっっ!!という感じでしたら、この後の論は、どうぞなかったことにしてやってください…お慈悲をm(_ _)m。
で。
今回の再演にあたり、どういうところから「ギャツビー再演、それも2幕ものに変更して」という案が出たのか、私なんぞには全くわかりませんが、
小池さんの構想として、「おお、じゃあ初演の時に時間が足りなくて削った場面をアレもコレもいれられるなっっっ(^ ^)」という喜びはあったのだろうと思います。
でも。
もうちょっと考えてみよう!
なぜ初演で削ったのか、思い出してみて?>小池さん
ギャツビーとデイジーの心理状態を、丁寧に追っていく展開。
そのなかで浮き彫りにされる、原作のイメージにかなり近い、見事なデイジーの造形。
だからこそ、
そのラストはあり得ません。
あいあいが、完璧なまでに演技で“デイジー”を造形しきればしきるほど。
ゴルフ場でのトムの糾弾に耐えられない、弱い女。
ギャツビーと生きる、そのために今の生活を捨てなくてはならない、その二者択一に耐えられない、莫迦な女。
「女の子はきれいでばかな方がいい…」
そんな歌が、似合えば似合うほど、
「女の子で、良かった…」
そんな呟きが、説得力を持てば持つだけ、
ラストに現れるデイジーが、“あり得ないもの”になっていく。
トムの車でギャツビーの葬式に現れ、花を供えて無言で去っていく、
そんな行動がとれるような、理性ある女だったら、あそこでゴルフ場から逃げ出したりしない。
そんな常識ある大人だったら、人を轢いたことに気がついても見なかったフリして逃げたり、しない。
ギャツビーに「俺が運転していたことに」と言われて、安易にうなずいたり、絶対しない。
小池さんは、再演にあたってあれこれ考える前に、もう一歩踏みとどまって考え直すべきだったのではないか、と思います。
だって。今は17年前とは違うんですもの。
今だったら、原作どおりのラストでも誰も違和感はなかったと思う。まして、大劇場公演ではない、主演者のファンが客席のほとんどを占める中劇場公演です。主役に合わせて練り上げればよかったのです。
二幕ものにして、初演で切り捨てたあれやこれやの場面を追加し、デイジーという人間の説得力を増したうえで、
ラストを原作どおりに戻す。
これが可能であったはず。今の彼の、評価と実績をみれば。
でも彼は、17年前の呪縛から逃れられなかった……
“潤色の天才”が、自分の作品を潤色することだけは不得手だというのでしょうか。
東宝ミュージカル「エリザベート」に、不必要な「愛と死の輪舞」を残してしまったように、
2幕ものとして構成しなおした「グレート・ギャツビー」に、“宝塚的ヒロイン”なデイジーを残してしまった。
そのきしみは、一人デイジーだけではなく、作品全体に及んでいます。
一番大きなきしみは、デイジーがそういうキャラクターになってしまったばっかりにギャツビーが物凄く後ろ向きな男になってしまったこと。
原作のギャツビーは、もうちょっと野心のある男に描かれていたと思うのです。前向きでタフで、諦めの悪い男、に。
そして、その野心家がふと見せる弱み、それがデイジーとの愛の記憶。
それなのに、日生劇場に立っているギャツビーは、冒頭の「朝日が昇る前に」からして、ひとかけらの希望も持っていないように見えました。入り江の向こうに遠く見える灯をただ羨んで、そこに辿りつけない自分を哀れみ、蔑んでいる。
ギャツビーは、一度でもデイジーの愛を信じたことがあったのか、と思いました。
隣の劇場で毎日歌われている「ひとかけらの勇気」を歌ってあげたくなるほどに、寂しげな、孤独な、愛を信じられない後姿。
デイジーとの愛を無条件に信じているギャツビー、
“再びめぐり合うことさえできれば、何もかもうまくいく”と理屈抜きで信じているギャツビー、
そんな、前向きでタフな大人のオトコは、どこにもいない。
「俺が運転していたことに」といいながら、デイジーのために犠牲になる自分に酔っている。
手の届かない“上流階級の女”に、自分という存在を刻み込む好機だとくらいに思っているのではないか?と思うほどに、酔いは深い。
いや、もっと前、すべてのシマをウルフシェイムに取り上げられたときに、すでに「すべてをデイジーに捧げる」「愛のためにすべてを」と思う自分に酔っているように見えてしまう。
だから、一幕が終わって最初に思ったことが「あれ?ギャツビーってこういう話だっけ?」だったのでしょう…。
小池さんの構想と、瀬奈さんの演技プラン、どちらが先なのかはわかりません。
でも、
私には、違和感がありました。
そういう話ならそういう話でいいんです。
“そういう話”で筋が通っていれば。私が原作の影から逃れられなくても、誰も困りません。
でも。
違和感、というのは、一つの作品の中で“あれ?”と思うところがあったということです。
デイジーを愛し、手に入れたいと思い、
デイジーの母親になじられた自分の出生を恨み、
黒社会に身を投じてまで財をつくり、デイジーと同じところまで昇ってきた、ギャツビー。
その前身に、なっとくがいかない。
ルイヴィルの森でのギャツビー中尉殿。
他の男たちを差し置いて、デイジーを射止めた、デイジーに選ばれたという自負と誇り。
自分の生い立ちに関する秘密。それを秘密にしなくてはならないことに対する怒り。
そして、自分を蔑んだ連中を見返してやりたい、という思い。
青年ギャツビーには、そんなどす黒い感情があったはずなのに、
芝居として表現されているのは、「王子と王女」のおままごとのような純粋な恋心のみだから、必要以上にギャツビーが純情素朴に見えるのです。
エディとジュディの二人の方が、むしろ大人に見えてしまうくらいに。
あくまでも少年めいた、裏表のない自己犠牲心。
少年の心を忘れない、というよりは、少年そのものの純粋さ、というお芝居は、瀬奈じゅんというスターが得意とする王道のパターンではありますが、ジェイ・ギャツビーとしては、ちょっとそぐわなかったような気がします。
そういう心の持ち主が、ウルフシェイムに認められたのが不思議だから。
そういう心の持ち主なら、財を成した時点でデイジーを訪ねていく方が自然だから。
そういうキャラクターを表現したかったのなら、「華麗なるギャツビー」である必要はなかった、と思うのです。ああいう展開にする必要がなかった。
もっとシンプルな物語の方が、瀬奈さんのキャラクターが生きたのではないでしょうか?
…ちょっと暗くなってしまいました。ごめんなさい。
おかしいな、“月組ファン”としてはめちゃくちゃ楽しかったのに!
というわけで、作品の話は終わりにして、次はキャストの話を♪
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コメント
ねこさまの解説を読んで、どうして私がこの公演を1回でもう観る気を失くしたか
ちょっと判りました。
そうなのよねぇ、ギャッツビーの性格が破綻してるというか単独で観るとかっこいいのですが、全体としてみるとなんで?みたいな人でした。
しかもデイジーが、また魅力が全然感じられなくて・・・そこまで追うほどのもんか?なんて・・・・(月組ファンのねこさま他の皆さん、ごめんなさい)
特に最初の兵隊さんたちの歓迎パーティに遅れてやってきたデイジーのこと
余り魅力的に感じられずで。妹の役作りもちょっと性格悪い子みたいなふうに見えてしまいました。「カメオを貰えない」という台詞は本当はちょっと哀しい気持ちを呼び起こすものだったのに・・・
そして、「ハリラバ」のあいあいは本当に素敵だったよなぁ~(ぽわわ~ん)と観劇中の思いはそちらに飛んでばっかりで。
ということで、ねこさまの詳細な解説を楽しみにしています。
そうなんですよね……。一般的には評価も高いみたいなので、ギャツビー単体を追っていれば、その中でつじつまが合っているのだろうなーとは思うのですが。一回しか観ていないので、全体(っていうか、端?)しか見えてないんですよね、たぶん。
もう一回観に行ければ、また新たなものが見えるのかもしれませんが……うーーん、チケットも無いし、無理っぽい(T T)