…というタイトルで文を書き始めたのは、花組中日公演「メランコリック・ジゴロ」を観た直後でした。



正塚晴彦、というクリエーターの苦闘について、
ってなわけではないんですが。




私は、「メランコリック・ジゴロ」の初演は観ていません。

とにかく、正塚作品を初めて観たのは「ブエノスアイレスの風」で、
次が「CrossRoad」で、

……そして、それで終わった、

と言っても過言ではないくらい、「正塚晴彦=ブエノス&デュシャン」だと思っていた人間ですから。



その後「バロンの末裔」とかいくつかの作品をビデオで観たり、劇場で観たりして、「ふぅん」とは思っていましたが、少なくとも私には、「ブエノスアイレスの風」と「CrossRoad」という二作品を超える感動を与えてはくれませんでした。

彼は、アルフォンソ&デュシャンを超えるキャラクターを生み出すことが出来なくなってしまったのではないか、と思っているくらい、「CrossRoas」という作品に(タカコさんのファンでは全然ないのに笑)思い入れているんです、私ってば(汗)。



で。

直近で続いた、月組「マジシャンの憂鬱」と、この「メランコリック・ジゴロ」。

なんていうか。

「LUNA」が、「薔薇の封印」が、他にもいくつもの作品が「蒼いくちづけ」のパロディとして生み出されたように、
「マジシャンの憂鬱」は、「メランコリック・ジゴロ」のパロディだったんだな、と思いました。

っていうか、どうして素直に月組で「メランコリック・ジゴロ」を再演しなかったんでしょうか?
キャストも多いし、矛盾も(あんまり)ないし、きりやんのスタンとか超面白かったと思うし…………(…祐飛さんのフォンダリ想像して壊れました)



具体的にどこが似ているのか、というと、
どこも似てないんですよね、表面的には。

だけど、
心が似ている。

「メランコリック・ジゴロ」は、まぁ初演を観ていないのであまり偉そうなことは言えないんですが、
「今の職業」に疑問(あるいは不満)を持っている誠実な青年が、
友人に唆されて悪事に手を染めて失敗し、
その過程で一人の女との出会いを経て、
「本来の職業」に目覚める話、だと思うんですね。

「マジシャンの憂鬱」は、居候ズが善人っぽく描かれているので(^ ^;ちょっと暈されていますが、
ストーリーとしては同じだと思うんです。
「メランコリック・ジゴロ」のダニエルは、「今の職業」が“ジゴロ(←無能だけど)”で「本来の職業」が“学生”。
「マジシャンの憂鬱」のシャンドールは、「今の職業」が“超能力マジシャン”で「本来の職業」が“テーブルマジシャン”。

実際に観劇すると、二番手役が違うし、「マジシャンの憂鬱」にはフォンダリに当たる人物が出てこない(いや、出てくるけどあまり意味がない)ので、構造的に違うように見えるんですけれども。
冷静に考えてみると、テーマというか、主役の心情の変化が同じだよなー、と思ったのでした。


そして、正塚作品に共通するテーマ、「自分探し」。これが、「メランコリック…」くらい明瞭に出ていると、主人公に共感しやすいんだなー、と思いました。

「マジシャンの憂鬱」くらいになると、正塚さんも大人になったというか(^ ^)、「自分探し」というテーマが少し気恥ずかしくなってしまったのかな、という気がするのですが。
シャンドールは、正塚作品には珍しいくらい「過去のない」男でしたから。

でも、「メランコリック・ジゴロ」のダニエルは、別に脚本の中には何も書かれていないんですけれども、きちんと演出の中で表現されている。真飛聖という役者が演じる男の、おおらかな優しさ、思いやり深い誠実さ、そして、その中に見え隠れする短気な野郎性。…そんなキャラクターの奥に、「生い立ち」が透けて見えるようになっている。フェリシアに対する態度、スタンに対する態度、フォンダリに対する態度…台詞になっていない、細かい仕草の中に、それだけのきめ細かな演出がなされている。

だから、正塚さんは「人間関係を描く」クリエーターだった、と思うのです。
“ダニエル”という人物を描くために他のキャラクターや事件を配置しているんじゃない。ダニエルは特別な存在ではなく、正塚作品によく出てくるタイプの男、というにすぎない。特異なのはフェリシア、あるいはスタンであり、フェリシアとダニエルの関係、そして、スタンとダニエルの関係である、

と。


たぶん、初演を観ていない人間の戯言なんだろうなあ、と思います。
ジゴロじゃなくて“学生バイト”なダニエルと、
ジゴロじゃなくて“ごろつき”寸前の、スタン。

それでも、名古屋のダニエルとスタンは、まとぶんと壮ちゃんは、きちんとお互いの関係を結び合って、一つの作品に仕上げてくれました。
たぶん、初演とは全然違う関係、を。



それが初演を超えるものではなかったとしても、
それでも、きちんと関係を結び合うことのできた正塚作品の登場人物は幸せだ、と思います。


正塚さんの「宛書」は、柴田さんや荻田さんの「宛書」とは違うのかもしれません。柴田さんたちの「宛書」は、あくまでもインスピレーション、役者に萌えるか萌えないか、の問題だけれども、正塚さんがやっているのは、「宛書」ではなく「キャラ宛」なんじゃないでしょうか。……それじゃ齋藤くんと同類になっちゃいますけど、なにか……?



オチがついたところで、このあたりで。


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