花組中日劇場公演メンバーのみなさま、初日おめでとうございます!
そして、真飛さんお披露目おめでとうございま〜〜す(はぁと)。


ネットでの評判も上々のようで、良かった良かった☆私が観に行くのはまだ先で待ち遠しいんですが、コメディだからちょうどいいかも♪「メランコリックジゴロ」初演は未見ですが、テンポの良いお芝居らしいのでとっても楽しみです!
お怪我や病気にくれぐれも気をつけて、楽しんでくださいね♪








さてさて。

「Hollywood Lover」も、あんまりいつまでも引っ張るのもどうよ、と思いつつ、全然終わらないうちに「ホフマン物語」は終わってしまったし、中日公演が始まってしまったし…このまま「Me&My Girl」が始まってしまったらどうしよう(汗)という感じなのですが。

まだまだネタはたくさんあるので、ぼちぼちいきたいと思います…(^ ^;ゞ



「Hollywood Lover」という物語世界には、なんというか、3人の「闇を抱えた人」が居ます。

『愛を知らない』大物プロデューサー、リチャード(遼河はるひ)。

この世の、あるいは『大衆の悪意』の象徴としてのヘッダ・ホッパー(憧花ゆりの)。

そして、
無意識の『害意』となるマーガレット・コーマン(花瀬みずか)。




彼らは、『悪』ではありません。ただ、この物語世界においては主人公(ステファーノ&ローズ)と対比される対象であったというだけで、彼らには彼らの物語がある。

リチャードの“愛”は、『主観的だけれども』底知れず深く、大きなものだったし、

ヘッダが『悪意』そのものではなく、彼女はあくまでも『大衆の悪意』を“象徴するモノ”なのだし、

そして、マギーが抱いているものは『刃』ではなく、硬い『盾』でしかない。




この中で、マギーというキャラクターは、私の中でどこか消化不良なまま公演が終わってしまいました…(T T)。植田景子さんが、どういうつもりでこの女性を設定したのか、それが最後まで腑に落ちなくて。




ヘッダの、2幕後半の場面でウォルターに叫ぶ「それがハリウッド!」を聞きながら、
上手端にビリーと並んで立っているマギーもまた、心の奥底で呟いているのかもしれない、と思っていました。

…泣きながら、

「そう、それがハリウッドなのよ」
と。


私にとっては、あーちゃん演じるマギーの印象は、そんな感じでした。
ハリウッドという檻に閉じ込められたウサギ、あるいは、鳩……
コンラート・ローレンツの「ソロモンの指輪」で語られる、本能の壊れた、武器を持たない“平和的動物”、に近いものを感じるのです。



マギーはたぶん、愛(ビリー)と夢(女優としての成功)、どちらかを択ぶ本当の岐路に立ったことはないんですよね?
夢が叶うかもしれない、というギリギリの岐路には、残念ながら辿り着かなかった人だから。

ビリーのプロポーズを受けたとき、彼女は自分の女優としての未来を諦めかけていた。「とっても愛らしかった!」と言われるタイプの女優、いえ、そうとしか言われない女優が、年齢を重ねて末永く活躍することは大変な困難を伴いますから。
将来への不安を抱えた若い彼女にとって、女優を撮りつづけてきたカメラマンのビリーが自分を択んだことは、プライドに傷をつけずに未来を諦める格好の言い訳だった。




愛と夢、どちらかひとつ、という秤の前に立ったことのないマギー。
彼女は、愛されることによる満ち足りた満足とともに、自分の欲しいものが何なのかわからない、ただ絶望的に“何かがほしい”という渇望を抱いて生きていくことになる。

最後の答えをださずに、目を逸らして歩いてきた彼女にとって、その“渇望”に気づくことは恐ろしいこと。
それまでの人生が崩壊するときです。

そして。
人生の岐路に立ったことのない彼女には、分からない。
愛と夢が両側に載った天秤などというものは、現実には存在しないということが。

ローズの前にあった天秤に載っていたのは、
「愛すること」と「愛されること」だった。
少なくとも、ローズはそう思っていた。

実際には、そこに載っていたのは「生きること」と「誰かの夢になること」だったわけですけれども…。



でも。
それでも。


マギーの妊娠を知って、ローズは呟く。
幸せそうに、微笑んで。
「素敵…!でも私、もう何も羨ましいとは思わないわ」
ローズの心にも、幸せな結婚をしていつも微笑んでいるマギーを羨ましく思う気持ちは強くあったのでしょうね。
でも、もう、いい。
愛を取り戻したから。

「あなたに出会えた。私の人生には、それだけで十分…」



……ビリーと出会えただけで、それだけで十分だったはずなのに。

“ハリウッド”によって壊されたマギーの心に、どんな闇が巣食っているのか、今の(幸福な)ローズには、思いもよらず。





『Hollywood』。
英和辞書をひくと、この単語には口語的に「けばけばしい」とか「上っ面の」といったような語感の形容句としても使われることがあるようですね。

「Hollywood」という響きに、そういう意味があるのだとしたら。

「それがハリウッド!
 あたしたちは真実が知りたいの。まやかしのヴェールの裏に隠された、“真実”が」

上っ面の事実ではなく、真実を、と、ヘッダは叫ぶ。



マギーは、海辺のヴィラで“自分の一番汚い部分”をローズの前にさらけ出しました。
自身の“真実”、
たぶん、本人も見たくなかったであろう、闇を。

「あたしたちは真実が知りたいの」

マギーは知りたかったんでしょうか。
自身の“真実”を?

それだけの勇気があったのだろうか、彼女には…?





たぶん、ヘッダは知りたかった。
自分の真実も、他人の真実も、
…すべてを。



彼女は常に、観客に「語りかけて」います。
問いかけるのでも、説明するのでもなく、ゴシップ誌の見出しを読み上げるようにたんたんと。
私は基本的に、「説明役」のいる脚本は作者の手抜きだと思っている人間なのですが(汗)、ヘッダは「説明役」ではなく、あくまでも「1940年代ハリウッドで生きている記者」でした。そう思えば、微妙に台詞回しが硬いのも許せる(笑)。がんばれすずな♪♪と思いながら見守っていましたが、青年館では、バウの初日に比べれば別人のように、空気を動かせる存在になっていたと思います。
…もう少し経験豊富な、たとえば滝川末子姐あたりで観たかった役ではありますが(T T)。


でも、すずなのヘッダは、
ゴシップを探すために歩き回っているようで、本心から「真実はゴミ溜めの中にある」と信じている。ゴシップという名の真実ではなく、その裏にあるはずの真実を見抜こうとしている、裏街道の記者魂をしっかりと見せてくれたので。
…これだけの大役はなかなか回ってこないと思うので、この経験を生かして、次もがんばってくださいね♪



ヘッダの“同業者”シーラは、言う。
「私の好奇心と最大の興味は人間、そして、愛。」と。

このハリウッドじゃ大安売りされすぎて、どれが本物かわからないけど、

「だから、応援したいの。あなたたちを」と。


彼女自身の生い立ち、そしてスコット・フィッツジェラルドとの悲恋。
「The Last Party」で、ドラマティックな人生を生きたスコットにとっては「余生」を彩るものにすぎなかった穏やかな愛が、シーラにとっては「全て」であったこと。
看取った誇りと、目の前で奪われた悲しみと。

彼女が興味を持つのが「愛」なのは、この作品の中では残念ながら一言も語られることのない「シーラの過去」を考えれば当然のこと。



ならば。
ヘッダが拘るのが「ゴミ溜めの真実」であることから、彼女の人生が推測できるのだろうか?
「過去」すなわち「関係性」であることから、彼女の人生を予測することができるか?なのでしょう。
二人以上の人間がいたときに、その間に交わされる感情はどんなものか。愛なのか、憎しみなのか、恨みなのか、嫉妬なのか、
……その裏返しとしての愛、なのか。




それがハリウッド!
あたしたちは真実が知りたいの。まやかしのヴェールの裏に隠された、真実が。



「真実など誰にもわからない」
と応じる、レイの声が。
あまりにも深くて、柔らかくて、艶やかで、優しくて、

何もかもを呑み込んでしまう闇そのもの、で。




「エルドラード」以来のナホ(の声)ファンの私。
久々の、ナホちゃんお芝居大ヒット作品だったので、あの声にはカナリ壊れてました(*^ ^*)。



……オ、オ、オチがつかないっっごめんなさいっっ(逃)。



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コメント

nophoto
でるふぃ
2008年2月11日13:51

みつきねこさま

>この中で、マギーというキャラクターは、私の中でどこか消化不良なまま公演が終わってしまいました…(T T)。植田景子さんが、どういうつもりでこの女性を設定したのか、それが最後まで腑に落ちなくて。

いつも、興味深いレポートをありがとうございます。
上の文について、ですが、
ねこさまの、マギーに関するそのあとの長い文を読めば、
充分、消化なさっているのでは、と思いますが。

ただ、みつきねこさまがその姿勢に共感することができない、ということではないでしょうか。
私は、このマギーを見て、そんな部分、自分にもあるな・・、と思った観客は、いっぱいいるんじゃないと想像しているのです。
善意の中に、ちょっと隠された女友達への意地悪。友情というオブラートで自分さえも偽ろうとする・・

結婚した時点では、幸せいっぱいで、人生の頂点ですから、何も迷いはないのですよ。
間違った選択だとは思っていない。
でも、ひとの心はたえず動いている。
恋愛で夢のような期間が終わり、その後続く長い日常の積み重ねで、
ちょっとしたほころびが元になって、ああ、あの時、結婚してなかったら・・とか、
もっと違った人生があったのでは・・と、思ったりもするんですよ、深刻ではなくても。
多分、そういう妻たちは少なくない。
独身で成功している友達を見て、揺れ動いたり・・でも、そうしながらも、当たり前の日常が、どんなに大切かも気づいているのです。

あのお芝居で、マギーは二人目の子供の妊娠を知ったとき、ビリーに、自分が間違っていた、もう迷わない、みたいなセリフを言いますけど、
もし、ローズが生きていたら、また、彼女との付き合いの中で、ときどきは揺れていたと思うのです。

ずっと、幸せなんて限らない、ずっと、不幸だともいえない。そうやって、揺れながら、迷いながら、生きていく。
そういう人たちを、いとおしいと思うか、
欺瞞だと思うかは観る側次第でしょうね。

とにかく、私は、この役があーちゃんであったことに、もうひとつの、景子先生の意図を感じるし、
登場人物全員への(マギーも含めて)、景子先生の愛を感じているのです。

みつきねこ
みつきねこ
2008年2月13日3:33

でるふぃさま、コメントありがとうございます〜♪
なんだか…私がマギーに“共感できない”理由をすごーく深く読んでいただいた上で、大事な人生訓を教えていただいているような気がしてしまうのは、考えすぎでしょうか……(涙)。

ただ、私の文章がヘタなせいでちょっと誤解が生じているようなので、補足させてくださいませ。

私が「景子さんがなぜこの女性を設定したのか、腑に落ちない」と書いたのは、マギーの性格設定が、(でるふぃさまが書かれていらっしゃるとおり)とっても“普通”だから、なんですよ。
彼女に共感できるか、できないか、という問いには、「とっても共感できちゃうんです、いやになるほど」とお答えさせていただきます(苦笑)(むしろ同類嫌悪に近いかも)

疑問だったのは、登場人物としての共感の有無ではなくて。
「Hollywood Lover」という、非常に緻密に構成され、計算され尽した、“何かの結晶のような”作品世界における彼女の存在意義、なんですね。
彼女の存在は、あの作品世界においては異物な気がしてしまうのです。
「普通の人間」すぎて。

一言で言ってしまえば。
マギーが存在する世界に、ステファーノは存在しないような気がしてしまったんですよね…。


ああいう“非凡な”世界を描いた物語の中で『マギーだけが“平凡”で“普通”である』ことが物語のキーになっているんなら、まだわかるんです。
でも、実際にはそうじゃないですよね?マギーの行動がキーのひとつであることは確かですが、『その行動を起こしたのがマギーである』ことは、実際にはあまり関係ないと思うんです。
そこに至るまでのローズとマギーの心の交流は、あまり描かれていないから。
たぶん、それをやるとテーマがぼけてしまから、あえて避けているんでしょうね…。景子さんって、そのあたりの計算は間違えない人だと思うので、「腑に落ちない」んです。


なんだかうまく説明できないですね(涙)難しい…。申し訳ありません。
もうちょっと整理がついたらまた書くかもしれません。

でも、語ってくださったマギーの解釈は、すごくよくわかりますよ〜!DVDを観るときは、新しい解釈で観てみたいと思います♪

nophoto
でるふぃ
2008年2月14日22:23

あ〜、ごめんなさい。わたし、ちょっと誤解していたようです。
ねこさまの書かれたこと、かなりわかるんですけど、完全にはわかってません。
セリフもあまり頭に入ってなくて、感じだけで捉えている所あるので、DVD観た上で、また、考えたいと思います。

それにしても・・ローズの気持ち、マギー、リチャード、レイ・・そういった人たちの心の風景を辿って行くと、さらに深い森にさまよってしまいそうです。
おもしろいお芝居ですね。
では、また、いつか、お邪魔します!(^^)

みつきねこ
みつきねこ
2008年2月16日1:27

いえいえ、私の表現力が足りなくて(涙)すみませんm(__)m。

>ローズの気持ち、マギー、リチャード、レイ・・そういった人たちの心の風景を辿って行くと、>さらに深い森にさまよってしまいそうです。
すてきな表現ですね(はぁと)。ハリウッドの深い森を彷徨う魂たちの物語、か。

“探しにいかない人”にとっては、この作品も“ただのメロドラマ”なんでしょうね…。