サーカスと映画とタカラヅカと
2008年1月23日 宝塚全体・OG コメント (4)昨日、星組新公の話とこれから書く話題の両方をまとめて書いたのですが、いくつか間違いも指摘されたりしたので、だいぶ改稿しました(汗)。
なんだか解りにくくってすみません。
なお、内容的には、昨夜UPしていたものと大きくは変わっておりません。(一部に「君を愛してる」のネタバレを含んでいます)
雪組さんの「君を愛してる」の中で。
ユミコちゃん扮するアルガンは、マルキーズをはじめとするサーカス団員に向かって問いかけます。
♪変わらないでほしい、と、古くからの客は言う
でも、
本当に変わらなくて大丈夫なのか?
古くから通ってくれる客は、それ以上増えることはない。
そして、変わらずにいれば、新しい客を取ることは難しくなる一方だ。
変わることで古い客が離れるのは必然。
それで新しい客が取れなければ、おしまいだ。
それは真実。
でも。
変わらずにいれば、観客は目減りしていくばかり。
しょせん、今いる客も永遠ではない!
マルキーズは問いかける。
でも、若手はどうするの?
サーカスの芸は、幼い頃から訓練しなくてはならないものも
たくさんあるのよ?
アルガンは応えて歌う。
舞台に立ちたいなら、
舞台で食っていきたいなら、芸を磨けば良い。
世界は広い。
ロシア、アジア…身体能力が根本的に違う人間がたくさんいる。
芸が身についていない若手、
将来それが身につくかどうかも解らない連中を、
世話してやる必要がどこにある?
マルキーズは訴える。
サーカスは家族
助け合い、支え合って、初めて芸に取り組める。
サーカスは家族なのよ!
ま、プログラムには歌詞とか載っていなかったので、かなりてきとーな記憶ですが、大意はこんな感じだったかと。(違ったらご指摘ください)
で。
木村さん的には、まるっと宝塚の現状を語っているんだろうな、と思いながら、私は聴いていたわけです。
この問いかけに対して、彼がどんな答えを用意しているのか、とても楽しみにしつつ。
でも、残念ながらbig>木村さんはさらっと逃げてしまいました…。
…そりゃーそうですよね…(答えられる問題なら解決されているような…しょぼん)。
「君を愛してる」は、貴族制度が崩壊した以降のお話ですから、ジョルジュがバックについたからもう安心、ってのは違うんですよね。
基本的な活動を自力でできる程度に稼げる体質にならない限り、問題は根本的には解決しない。
となれば、するべきことはたった一つ。
『古い客を逃がさずに、新しい客を呼ぶこと。』
あるいは、
『古い客を逃がしてでも、それを埋めてあまりあるほどの新しい客を呼ぶこと。』
その、どちらかひとつ。
後者を選んだのがアルガン。
それは大きな賭けでしたけれども、今のところは成功している。
「大成功」と言ってもいいくらいに。
マルキーズは、本音では前者でさえ選びたくはない。
何も変えたくない。
今のままでいたいの。今のまま、今いるお客様に満足してもらえればいい。
だって。
彼女の夢は、“皆に夢を与えること”、なのだから…。
物語としては、「観客が目減りしていく」という根本的なテーマは、アルガンが指摘するけれども、作者も解決策を思いつかないので棚上げされ、「立ち退き問題」のみに焦点をあてて進みます。
最終的には、ジョルジュが無事に親の遺産を受け継ぎ、伯爵家を継いだうえで後援者として立つことで、「立ち退き」問題は解決するわけですが。
でも、このとき「サーカス団」は、非常にあやうい地盤に立っているんですよね。
彼らがジョルジュに頼りきらず自立するためには、どうしたらいいのか?
「シルク・ド・メール」が成功した方法は、使えない。
マルキーズの夢と真っ向から対立することになるから。
そして何よりも、柳の下には一匹しかドジョウはいないものだから。
ならばいったい、どうしたら?
エンターテイメントとしての「サーカス」は、どういうものであるべきなのか…?
似たような問題が、月組「Hollywood Lover」では、ハリウッド映画の現状として語られます。
<記者会見>
「しかし、(グランディ監督の作品は)今までのエムパイア映画の作風とは
まったく異色のように思えますが?」(byえりおっと)
「新しい風も必要でしょう。手厳しい一般大衆に飽きられないためには」(byリチャード)
<リチャードの執務室>
「お前は認めたくないだろうが、ローズ・ラムーアが大衆から
飽きられはじめているのは事実だ」(byウォルター・ローガン)
「大衆がローズに求めるものを、私が熟知している」(byリチャード)
「大衆ではなく、お前が求めるモノだ!」(byウォルター)
エンターテイメントとしての「映画」は、どういったものであるべきか。
エンターテイメントにとって、「大衆」とは何か?
クリエーターは、「大衆」あるいは「観客」がいなければアイデンティティを保てません。自分が無から苦労して創りだしたモノも、他人と共有されなければ意味がないのだから。
U.K.ル=グゥインの傑作SF「所有せざる人々」の主人公は、
「自分の発想」であり「インスピレーション」でもある“物理法則”を「他人と共有するために」命を賭ける一人の男、なのですが。
その「共有」する、ということに対する執着を、ル=グゥインは「芸術家気質」として表現します。
その「モノ」の価値ではなく、それが生み出す「感動」の価値で対価をつける。
そして、その対価づけを、一部の「見巧者」「聞巧者」のみを対象におこなうのが「芸術」で、「大衆」が受け取る「感動」でつけるのが、「エンターテイメント」、
…なのだとしたら。
サーカス団は、エンターテイメントであり続けるべき、なのでしょうか?
装置を巨大化し、キャストの質(=技術)を底上げして、その分観料をあげる“芸術”路線、あるいは「大規模化」する「シルク・ド・ソレイユ」とは一線を画して、あくまでも「大衆向けの」エンターテイメントとして生き残る。
広く「大衆」に「夢」を配ることを主目的として、「大衆」の笑顔に人生を賭けて。
そのためには。
プライドを保ちにくく、分の悪い賭けになりがちな「大衆向け」という地位を守るためには、その世界はある程度閉じている必要があります。
特に、サーカス団のような「特殊技能」を必要とする集団においては、家族的なつながり、絆の深さが何よりも大切です。どろどろとした濃い人間関係だけが、枷となってメンバー流出の歯止めとなりうるのですから。
ただ、この「隔離策」は双刃の剣で、行き過ぎれば一般社会からの人材流入が滞り、完全に閉じられた「サーカス団」の中で再生産が行われるようになってしまう。
それはすなわち、「エンターテイメント」の保守化、あるいは伝統芸能化、ということです。そこにはもはや進歩は望めない。狭隘な隔離社会の中では、長期にわたって再生産を続けることができず、いずれ血が凝ってどこかで途絶えてしまうから、です。
社会というものは、一度閉じてしまえば、再び開かれることはまずありません。それが開かれるときは、すなわち崩壊の時です。
そこの匙加減は難しいところですが、逆に考えれば、人材の流入がなくなる=「大衆のためのエンターテイメント」としての存在意義がない、ということなのかもしれません。
そこまできたら、あとは大規模化して見巧者な客だけを相手にするか、伝統芸能化するか、どちらかしかない、ということです。
(農業と一緒だな…)
サーカス団は、貴族(ジョルジュ)の保護を得て、当面はパリ市内に営業場所を確保しました。
彼の援助で設備もある程度新しくできるかもしれないし、宣伝も打てるかもしれない。
それをきっかけに、また「サーカス」という分野そのものが息を吹き返すことを祈って、彼らは今までと同じ朝を迎えようとする。
彼らにできることといっても、せいぜい自分の芸を磨くこと、くらいで。(でも、それが一番大切なんですけどね!)
………、
あまりにも、「君を愛してる」のサーカス団の現状がタカラヅカとそっくりすぎて、
ファンとして心が痛かったです。
また、具体的な解決策がなにひとつ提示されなかったので、余計に。
どうするんだろう、タカラヅカは。
どうなるんだろう、タカラヅカは?
「Hollywood Lover」の中では、その解決策らしきものが提示されます。
「ハリウッドの娯楽性と、俺の芸術の融合点を見つけるんだ」
「大衆受けを狙ったゴージャスな映像を入れたからって、サラ・ベルナールのドラマが描けないってことにはならない。やるからには最高を目指す」(byステファーノ)
大衆受けだけで創られたものは、愛されるけれどもすぐに飽きられてしまう。
芸術性だけで作られたものは、興味を持ってくれる「観客」との出会いの場が少ない。
…だから。
エンターテイメントとしての華やかさとHappiness、夢、
そういったものを全部、ふるって、まぜて、型にいれて、
そして、ひとふりの毒をふるの。
毒のないケーキは、甘くておいしくて、子供に受けがよくて、でも、すぐに飽きられてしまう。
ひとふりの“毒”が、大人の賞味に耐えるケーキに仕上げてくれる、ハズ。
タカラヅカはエンターテイメント。
だから、いつまでも「今を生きる」エンターテイメントでいてほしい。
歌舞伎が、ほんの100年前は「最先端のエンターテイメント」であったように、
あと100年もすれば、タカラヅカが「伝統芸能」になっているのかもしれない。
それは勿論、あり得ないことじゃない。
でも。
私は、100年たっても200年たっても、「タカラヅカ」はエンターテイメントであってほしい。
人材交流のある、「開かれた」エンターテイメントであってほしい。
そのために、具体的にどうしたらいいのか、は、
わからないけれども……(泣)。
ちなみに。
ちょっと話がずれますが。
「ロシア、アジア…」とアルガンが歌うのを聴きながら、私が思い浮かべていたのは劇団四季でした。
お芝居が大切な要素のひとつであるミュージカルのメインキャストを、やっと母音発声ができるようになったばかりの“ニホンゴスコシワカリマス”系キャストにやらせて、平然としている劇団。
だったらいっそ、芝居部分だけでも全員英語(あるいは韓国語・上海語など)で上演して、字幕をつけてくれた方がよほどマシなんだけどなあ…。英語なら、どんなに下手糞でも私にはわからないから、別に構わないし(←なんて自分勝手な!)。
…劇団四季よ、おまへはどこへむかふのか…?
.
なんだか解りにくくってすみません。
なお、内容的には、昨夜UPしていたものと大きくは変わっておりません。(一部に「君を愛してる」のネタバレを含んでいます)
雪組さんの「君を愛してる」の中で。
ユミコちゃん扮するアルガンは、マルキーズをはじめとするサーカス団員に向かって問いかけます。
♪変わらないでほしい、と、古くからの客は言う
でも、
本当に変わらなくて大丈夫なのか?
古くから通ってくれる客は、それ以上増えることはない。
そして、変わらずにいれば、新しい客を取ることは難しくなる一方だ。
変わることで古い客が離れるのは必然。
それで新しい客が取れなければ、おしまいだ。
それは真実。
でも。
変わらずにいれば、観客は目減りしていくばかり。
しょせん、今いる客も永遠ではない!
マルキーズは問いかける。
でも、若手はどうするの?
サーカスの芸は、幼い頃から訓練しなくてはならないものも
たくさんあるのよ?
アルガンは応えて歌う。
舞台に立ちたいなら、
舞台で食っていきたいなら、芸を磨けば良い。
世界は広い。
ロシア、アジア…身体能力が根本的に違う人間がたくさんいる。
芸が身についていない若手、
将来それが身につくかどうかも解らない連中を、
世話してやる必要がどこにある?
マルキーズは訴える。
サーカスは家族
助け合い、支え合って、初めて芸に取り組める。
サーカスは家族なのよ!
ま、プログラムには歌詞とか載っていなかったので、かなりてきとーな記憶ですが、大意はこんな感じだったかと。(違ったらご指摘ください)
で。
木村さん的には、まるっと宝塚の現状を語っているんだろうな、と思いながら、私は聴いていたわけです。
この問いかけに対して、彼がどんな答えを用意しているのか、とても楽しみにしつつ。
でも、残念ながらbig>木村さんはさらっと逃げてしまいました…。
…そりゃーそうですよね…(答えられる問題なら解決されているような…しょぼん)。
「君を愛してる」は、貴族制度が崩壊した以降のお話ですから、ジョルジュがバックについたからもう安心、ってのは違うんですよね。
基本的な活動を自力でできる程度に稼げる体質にならない限り、問題は根本的には解決しない。
となれば、するべきことはたった一つ。
『古い客を逃がさずに、新しい客を呼ぶこと。』
あるいは、
『古い客を逃がしてでも、それを埋めてあまりあるほどの新しい客を呼ぶこと。』
その、どちらかひとつ。
後者を選んだのがアルガン。
それは大きな賭けでしたけれども、今のところは成功している。
「大成功」と言ってもいいくらいに。
マルキーズは、本音では前者でさえ選びたくはない。
何も変えたくない。
今のままでいたいの。今のまま、今いるお客様に満足してもらえればいい。
だって。
彼女の夢は、“皆に夢を与えること”、なのだから…。
物語としては、「観客が目減りしていく」という根本的なテーマは、アルガンが指摘するけれども、作者も解決策を思いつかないので棚上げされ、「立ち退き問題」のみに焦点をあてて進みます。
最終的には、ジョルジュが無事に親の遺産を受け継ぎ、伯爵家を継いだうえで後援者として立つことで、「立ち退き」問題は解決するわけですが。
でも、このとき「サーカス団」は、非常にあやうい地盤に立っているんですよね。
彼らがジョルジュに頼りきらず自立するためには、どうしたらいいのか?
「シルク・ド・メール」が成功した方法は、使えない。
マルキーズの夢と真っ向から対立することになるから。
そして何よりも、柳の下には一匹しかドジョウはいないものだから。
ならばいったい、どうしたら?
エンターテイメントとしての「サーカス」は、どういうものであるべきなのか…?
似たような問題が、月組「Hollywood Lover」では、ハリウッド映画の現状として語られます。
<記者会見>
「しかし、(グランディ監督の作品は)今までのエムパイア映画の作風とは
まったく異色のように思えますが?」(byえりおっと)
「新しい風も必要でしょう。手厳しい一般大衆に飽きられないためには」(byリチャード)
<リチャードの執務室>
「お前は認めたくないだろうが、ローズ・ラムーアが大衆から
飽きられはじめているのは事実だ」(byウォルター・ローガン)
「大衆がローズに求めるものを、私が熟知している」(byリチャード)
「大衆ではなく、お前が求めるモノだ!」(byウォルター)
エンターテイメントとしての「映画」は、どういったものであるべきか。
エンターテイメントにとって、「大衆」とは何か?
クリエーターは、「大衆」あるいは「観客」がいなければアイデンティティを保てません。自分が無から苦労して創りだしたモノも、他人と共有されなければ意味がないのだから。
U.K.ル=グゥインの傑作SF「所有せざる人々」の主人公は、
「自分の発想」であり「インスピレーション」でもある“物理法則”を「他人と共有するために」命を賭ける一人の男、なのですが。
その「共有」する、ということに対する執着を、ル=グゥインは「芸術家気質」として表現します。
その「モノ」の価値ではなく、それが生み出す「感動」の価値で対価をつける。
そして、その対価づけを、一部の「見巧者」「聞巧者」のみを対象におこなうのが「芸術」で、「大衆」が受け取る「感動」でつけるのが、「エンターテイメント」、
…なのだとしたら。
サーカス団は、エンターテイメントであり続けるべき、なのでしょうか?
装置を巨大化し、キャストの質(=技術)を底上げして、その分観料をあげる“芸術”路線、あるいは「大規模化」する「シルク・ド・ソレイユ」とは一線を画して、あくまでも「大衆向けの」エンターテイメントとして生き残る。
広く「大衆」に「夢」を配ることを主目的として、「大衆」の笑顔に人生を賭けて。
そのためには。
プライドを保ちにくく、分の悪い賭けになりがちな「大衆向け」という地位を守るためには、その世界はある程度閉じている必要があります。
特に、サーカス団のような「特殊技能」を必要とする集団においては、家族的なつながり、絆の深さが何よりも大切です。どろどろとした濃い人間関係だけが、枷となってメンバー流出の歯止めとなりうるのですから。
ただ、この「隔離策」は双刃の剣で、行き過ぎれば一般社会からの人材流入が滞り、完全に閉じられた「サーカス団」の中で再生産が行われるようになってしまう。
それはすなわち、「エンターテイメント」の保守化、あるいは伝統芸能化、ということです。そこにはもはや進歩は望めない。狭隘な隔離社会の中では、長期にわたって再生産を続けることができず、いずれ血が凝ってどこかで途絶えてしまうから、です。
社会というものは、一度閉じてしまえば、再び開かれることはまずありません。それが開かれるときは、すなわち崩壊の時です。
そこの匙加減は難しいところですが、逆に考えれば、人材の流入がなくなる=「大衆のためのエンターテイメント」としての存在意義がない、ということなのかもしれません。
そこまできたら、あとは大規模化して見巧者な客だけを相手にするか、伝統芸能化するか、どちらかしかない、ということです。
(農業と一緒だな…)
サーカス団は、貴族(ジョルジュ)の保護を得て、当面はパリ市内に営業場所を確保しました。
彼の援助で設備もある程度新しくできるかもしれないし、宣伝も打てるかもしれない。
それをきっかけに、また「サーカス」という分野そのものが息を吹き返すことを祈って、彼らは今までと同じ朝を迎えようとする。
彼らにできることといっても、せいぜい自分の芸を磨くこと、くらいで。(でも、それが一番大切なんですけどね!)
………、
あまりにも、「君を愛してる」のサーカス団の現状がタカラヅカとそっくりすぎて、
ファンとして心が痛かったです。
また、具体的な解決策がなにひとつ提示されなかったので、余計に。
どうするんだろう、タカラヅカは。
どうなるんだろう、タカラヅカは?
「Hollywood Lover」の中では、その解決策らしきものが提示されます。
「ハリウッドの娯楽性と、俺の芸術の融合点を見つけるんだ」
「大衆受けを狙ったゴージャスな映像を入れたからって、サラ・ベルナールのドラマが描けないってことにはならない。やるからには最高を目指す」(byステファーノ)
大衆受けだけで創られたものは、愛されるけれどもすぐに飽きられてしまう。
芸術性だけで作られたものは、興味を持ってくれる「観客」との出会いの場が少ない。
…だから。
エンターテイメントとしての華やかさとHappiness、夢、
そういったものを全部、ふるって、まぜて、型にいれて、
そして、ひとふりの毒をふるの。
毒のないケーキは、甘くておいしくて、子供に受けがよくて、でも、すぐに飽きられてしまう。
ひとふりの“毒”が、大人の賞味に耐えるケーキに仕上げてくれる、ハズ。
タカラヅカはエンターテイメント。
だから、いつまでも「今を生きる」エンターテイメントでいてほしい。
歌舞伎が、ほんの100年前は「最先端のエンターテイメント」であったように、
あと100年もすれば、タカラヅカが「伝統芸能」になっているのかもしれない。
それは勿論、あり得ないことじゃない。
でも。
私は、100年たっても200年たっても、「タカラヅカ」はエンターテイメントであってほしい。
人材交流のある、「開かれた」エンターテイメントであってほしい。
そのために、具体的にどうしたらいいのか、は、
わからないけれども……(泣)。
ちなみに。
ちょっと話がずれますが。
「ロシア、アジア…」とアルガンが歌うのを聴きながら、私が思い浮かべていたのは劇団四季でした。
お芝居が大切な要素のひとつであるミュージカルのメインキャストを、やっと母音発声ができるようになったばかりの“ニホンゴスコシワカリマス”系キャストにやらせて、平然としている劇団。
だったらいっそ、芝居部分だけでも全員英語(あるいは韓国語・上海語など)で上演して、字幕をつけてくれた方がよほどマシなんだけどなあ…。英語なら、どんなに下手糞でも私にはわからないから、別に構わないし(←なんて自分勝手な!)。
…劇団四季よ、おまへはどこへむかふのか…?
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コメント
ほんと、雪組を観ながら「ところで、この後はどうなんだ?決してハッピーエンドとは思えないな」と悩み
ハリラバを観ながら「そうそう、ゆうひちゃんはやっぱり良いこと言うなぁ、ふふふ」なんて思っていたのですが
さすがに劇団四季にまで考えが及びませんでした〜
ねこさま、新年早々から冴えてますねっ!
ほんと鋭いです、この意見。目からうろこ状態。
ほんとアジア全体を意識したGlobalなミュージカル劇団を目指して
劇団員の言葉で公演したほうが芝居としては良さそうな気がするなぁ
そうなんですよ〜。ほのぼのとしたハッピーミュージカルの姿をしていながら、根本的な問題点を棚上げにしたまま終わらせているので、「で、来年は大丈夫なの…?」と思ってしまうんですよね〜。
サーカス団のみんなが、いつまでも幸せにサーカスしていると信じていたいんですけど(笑)。
劇団四季もねぇ。私は四季からミュージカルを観始めたので、現状をみているともどかしいです。そして、タカラヅカはどこへ向かううのか、不安になってしまうんです…。
み〜んながしあわせになれればいいなあ〜〜…(byエンジェル)
>「大衆受けと俺の芸術の融合を目指す。…やるからには、最上のものを」(byステファーノ)
この台詞を祐飛さんに言わせてくれたことが嬉しいです。
これって、景子先生自身の目標でもあるのかなと思います。
雪組さんのはそういうお話なんですね。作品中で大きく問題提起をするなら、作家なりの答えを出してくれないと(たとえ世間には正解と思われない答えであっても)って思ってしまいます。これまでは原作があったから、原作者が何かしらの結論をすでに出していたので、木村先生がいくらか結末を変えたって、作品の中には揺るぎないものが存在していたんだと思います。でもオリジナル担ったら自分で結論まで用意しなければなりませんからね。個人的には、オリジナルより、脚色のほうが、作家の技術としては難しいように思いますけども。
コメントいただいたのに、レスが遅くなってしまってごめんなさい。
昨日はさすがにちょっと、頭が吹っ飛んでました……(汗)。
>これって、景子先生自身の目標でもあるのかなと思います。
同感です!そして、実際そういう作品を書いてくださっているのが嬉しいですよね!
>これまでは原作があったから、原作者が何かしらの結論をすでに出していた
なるほど〜!確かにそうですね。今までは原作者が作った結論に乗っかった上で、違う結論に持って行ったりしていましたが、今回はオリジナルだから問題提起だけは自分の身近な問題を取り上げてみたけど、解決策は見つからなかった、と…
(解決策があるんなら、それを実践してほしいですよねっ!)
すごーく納得できてしまいました。
>オリジナルより、脚色のほうが、作家の技術としては難しいように思いますけども
原作世界を尊重した上で、自分の色も出していく、というところまで到達するのは難しそうですよね…。それが出来るのって柴田さんとか、あとは「舞姫」でヒットした植田景子さんに期待?大野さん荻田さんはオリジナルがメインだし。
あ、個人的に藤井さんの「イーハトーブ・夢」は名作だと思ってます(^ ^; 藤井さん、またああいう作品書かないかなあ…。