雪組の「星影の人」、宙組の「バレンシアの熱い花」は、柴田侑宏氏の“往年の名作の再演”。

そして、月組で上演中の「マジシャンの憂鬱」は、正塚晴彦氏の“現役への宛書新作”。


これらの作品を連続して観て、思ったこと。


柴田さんは、「人間を描く」作家で、

正塚さんは「人生」を、あるいは「人と人との関わりを描く」作家

…なのかなあ、と。



「星影の人」(柴田)と「維新回天・竜馬伝」(石田)を連続して観た今年の2月。
同じ時代、同じ国を舞台にして、登場人物も半分くらいは被っている2つの作品。

なのに。

「維新回天・竜馬伝」が描き出したのは、「竜馬」ではなくて、「日本の夜明け」だった。
「明治維新」であり、「開国」であり……あくまでも、テーマは「時代」でした。

それに対して。

「星影の人」が描いたのは、ただただ、「沖田総司」の青春。
「沖田総司」という、一人の若者。


それが、最も端的にあらわれていたのは、登場人物の歌ですね。
「維新回天…」では、登場人物は皆「自分のテーマ」を歌います。

でも。
「星影の人」で、自分をことを歌うのは、主人公の沖田総司ただ一人。

相手役の玉勇は、幕開きのナンバー以外は沖田とのデュエットと、「あの人を返してください」という祈りの歌だけ。
2番手の土方は「星影の人」という沖田のテーマソングを2回歌うだけでそれ以外のソロはなく、山南も、他のメンバーもソロはほとんどなく、あるのは早苗とおみよの嘆きのナンバーのみ。

つまり。
登場人物が、全員「沖田」という一人の人間を表現するためのコマ(沙央くんではない)なんですよね。

土方はどういう人間か。「沖田よりも年長で、彼をずっと見守ってきて、女に熱を与えられるもの慣れた男」。
山南はどういう人間か。
桂は。
井上は。
山崎は。
全ては、「沖田」がどういう人間なのか、何故ああいう人生を辿ることになったのか、それを台詞ではなく表現するために存在している人たち。

彼らには彼らの人生があることを、きちんと役者の力量の及ぶ範囲で表現した上で、「沖田」を語るために舞台にあがる。

「バレンシアの熱い花」も、そうでした。
あれは、主役(というと問題があるか。物語構成上の焦点となる人物、ですね)が一人ではなく二人(フェルナンドとロドリーゴ)なのでちょっと違いますが、やっぱり構造は同じ。
二人の人間性を表現(説明ではない!←これポイント)するために他の全ての登場人物が設定される。

セレスティーナほどの“素晴らしい貴婦人”が愛する息子であり、
ロドリーゴほどの“良い男”が信頼する友であり、
イサベラほどの“良い女”が愛する男であり、
マルガリータほどの“純粋で可憐な乙女”が恋い慕う青年であり、
レオン将軍ほどの“名指揮官”に可愛がられる生真面目な軍人であり、
ラモンのような“良い奴”が慕う青年であり、
ルカノールのような“典型的な悪党”が侮る若造でありながら、彼を倒す計画をたててそれを実行するだけの力のある遣り手でもある、
それが、『フェルナンド』。

そして、
フェルナンドほどの“良い男”が信頼し、助けを乞う友であり、
シルヴィアのような“弱い女”が恋する男であり、
もちろん、レオン将軍ほどの“名指揮官”に可愛がられる生真面目な軍人でもあり、
ラモンのような“良い奴”に認められる青年であり、
ルカノールのような“典型的な悪党”が、自分の後継者にと望む実力者でもある、
それが、『ロドリーゴ』。


そういった、「説明抜きで」主役のキャラクターと価値を表現するためには、主役だけではなく、回りを囲む役者も「キャラクター」が役にあっていないと納得できません。
ロドリーゴ役の役者が莫迦っぽかったり、レオン将軍役に全然貫禄がなかったりしたら、どんなにフェルナンド役の役者個人が素晴らしくても、作品としては成り立たたない。これが、柴田さんの作品の素晴らしいところであり、再演の難しいところだと思うのです。
役にあった役者でないと作品自体が成り立たないような構造の物語になっているから。

たとえば、名作の誉れ高い「心中・恋の大和路」は、やれる役者の幅は案外広いんですよね。
最難関のはずの道行きの歌も、八右衛門が歌うバージョン(OG)と与平が歌うバージョン(雪バウ)があるわけですから、なんとかなるはず。

「大和路」は、「宛書」ではなく「古典」なんですよね、多分。

でも、柴田作品は、あくまでも「宛書」。

実際観ると、つい世界構築もストーリーも何もかもカンペキ!と思ってしまいがちですが、意外と役者任せで脚本的にはぶっ飛ばして(あるいは無視して)いるところも多い。
特に、一回目の観劇では「…ん?」と思うことが多いんですよね。
(私も、中日で観たときは作品自体の評価はそんなに高くなかった)

テーマを鮮明に打ち出すタイプの作品ではないので、ぼーっと観ていると「ふぅん」で終わってしまいがちなこと。
そして、宝塚にしては比較的観客側にも知識を求める、というか…古典や文学作品のイメージを借りていることが結構多いような気がするんですよね。原作じゃなくて、世界を構築する上での基本設定というか。

…まぁ、「バレンシアの熱い花」と「ハムレット」なんかは、私が勝手に思っただけ(http://diarynote.jp/d/80646/20070910.html 参照)なんですが(汗)、でも、柴田作品を観ていると、そういう他の文学作品を連想すること多いんですよね…。
「星影の人」も、中日では思わなかったんですが、梅田で観た時、昔読んだ小説のエピソードを思い出したりしましたし…。

きっと柴田さんは「文学青年」だったんだろうなあ(今は…?)、と、作品を観るたびに思うのですが★どうなんでしょうか…?




そして。
そんな柴田さんの愛弟子・正塚さんは。

師匠と弟子で、引き継がれているものもたくさんありますが、
勿論、違うクリエーターなんですから全く違う部分もありますよね。

このお二人の場合、いちばん違うのは、(冒頭にも書きましたが)正塚さんが描きたいのは「人間」そのものではなく「人と人との関わり」だ、というところだと思います。

人間関係の構築、が、全てに先んじるテーマである。

だから、彼の主人公は常に「自分の居場所を探して」いて、

そして、

彼が「自分の居場所を見つけた時に物語は終わる」のです。


……ってな話は、また、明日以降に……(諦)。







それにしても。

今頃気がつきましたが、月組バウ・ワークショップの「ホフマン物語」って、「心中・恋の大和路」の菅沼さんの作品(&谷演出なのも一緒)なんですね。

……やっぱり、生で観たいよなあ〜〜〜(; ;)。


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