専科エンカレッジ・スペシャル【4】
2007年10月4日 宝塚全体・OG コメント (2)週刊連載4回目、ちょっと駆け足ですが、あまり引っ張るのもどうかと思うので、これで最終回にしたいと思います…。
2幕の日記は短いですが、決して1幕の方が面白かったとか、そういうのではありません。
1幕のお一人づつのところで書かせていただいたそれぞれの印象、というものが、その2曲だけのことではなく、2幕の最後まで観劇した上での「印象」だった、ということに気づいたので。
(途中まで書いていたのですが、今までに書いてきたことと同じことを繰り返すばかりだったの/汗)
なので。
個人個人への印象、は、もう全部書かせていただいたよね、ということで、
2幕の中で、特に印象に残った場面について。
まずは、
一樹さんの「星から降る金」。
前回、1幕で一樹さんに落ちた、と書きましたが。
それはあまり正しくないです。正確には、この「星から降る金」で落ちました。
物語を綴る、聖なる声に。
ビロードのように柔らかな、豊かなメゾ。
愛に溢れた、人間性豊かな「庇護者」が、わがままな「子供」に言い聞かせる「昔話」は、あの豊かな光に溢れた声で語られないと、説得力がないんだと気づきました。
「モーツァルト!」という作品は、ヴォルフガングとナンネールという「堕ちた天才児たち」と、それを取り巻く「大人たち」の相克の物語なわけですが、
その「大人」たちの代表として登場するのが、
「父親」役の、厳格で冷酷な、鋭い声と
「抑圧者」役の、圧倒的な迫力のある美声と
そして、「慈母」の、愛と癒しに満ちた慈母の声、です。
その3つの声が揃わないと公演としての成功はナカナカ難しいのですが…
一樹さんの声は、「慈母」かどうかはさておいて(笑)、憧れの光に満ちていて、ヴォルフの決意を促す歌として非常に良かったです。
そして。
「滑舌がいい」のと「くっきりはっきり発音する」のは全く違うことなのだ、とあらためて気づきました。パキパキ発音しなくても、言葉が聴いている人の心に届けばいいんですよ。
もちろん、最低限の発声や発音は必要ですが、そこに気がいきすぎれば劇団四季の新入団員のようになってしまうわけで…あれじゃ芝居になりませんからね(^ ^;ゞ。
語り口の巧さ、というのは、才能もあるんでしょうけれども、自分が「何を伝えたいか」のイメージを明解に持っているかどうかというのがかなり大きいんじゃないかなー、と。
聴いている人(ヴォルフガングであり、観客でもあり)の心を動かす歌は、結局芝居との境界線が限りなくあいまいになっていくものなのだろうと思います。
美しい声が、美しい物語を紡ぐ。
それが、普通の「楽器」には不可能な、人間の喉にしかできない唯一の武器、だから。
矢代さんの「思い出のサントロペ」の話は【1】で書いたので省略。
となると、
やっぱり、トリの立さん、ですね。
号泣しました私(T T)。
1曲目はシャンソン「私の孤独」。
一樹さんのところでも長々書きましたが、「歌」は、言葉という魔法があるから泣けるんですね。
シャンソン、という世界の広さと深さ。シャンソンにはこういう曲もあったのか、私はまだ、「シャンソン」について何も知らないんだなー、と実感した一曲でした。
(何なら知っているんだよ、と怒られそうですが)
で。
2曲目は、
…「ラ・マンチャの男」ですよあなた。
反則。
私はラ・マンチャの男には弱いんです!
あの歪んだ世界観。夢によって構成された、脆く不安定な「世界」。
その中で、確固たる存在は、それぞれの「自己」と、その「信念」のみである、という世界設定。
あの世界設定そのものの歪みようが、大好きなんです。
キハーノが信じるから。
だから、アルドンサはドルシネア姫になる。
彼がそう定義するから、
アルドンサが、ドルシネア姫に、なれる。
…彼が、信じてくれるから。
「世界」を作る信念。
それは、事実としては“妄念”であり、老人の幻覚にすぎない。
だけど。
それは、「彼」にとってはまぎれもない「現実」であり、それが全ての彼にとっての「世界」となる……
「宝塚」という「ファンの夢」の結晶のような世界で生きてきた立さんが、卒業を目前にしたコンサートで最後に歌う歌として択んだ曲が、
この、「ラ・マンチャの男」の主題歌と、ドルシネア姫のテーマ。
…確信犯、っていうんです、そういうのは。
タカラジェンヌは総じてラ・マンチャの男なのだと思う。
決してその手には掴めないものを追い続けている。
その存在そのものが、夢。
夢をみたいから劇場にいるんです。
夢がここにあるから、
だから、私もここにいる。
宝塚が好きだなあ。
こういう人たちが、長年所属して、見守ってくれている宝塚。
たからづか、が、好きなんだなあ私は…
TCAを観た時には全く思わなかった、そんな感慨を胸に抱いて
劇場を出ました。
小さなバウホールでの、幸せな時間。
ありがとう。
本当にありがとう。
我ながら下手くそな文章で情けないのですが。
エンカレッジ・コンサート、
またやってくださいね。>歌劇団どの。
.
2幕の日記は短いですが、決して1幕の方が面白かったとか、そういうのではありません。
1幕のお一人づつのところで書かせていただいたそれぞれの印象、というものが、その2曲だけのことではなく、2幕の最後まで観劇した上での「印象」だった、ということに気づいたので。
(途中まで書いていたのですが、今までに書いてきたことと同じことを繰り返すばかりだったの/汗)
なので。
個人個人への印象、は、もう全部書かせていただいたよね、ということで、
2幕の中で、特に印象に残った場面について。
まずは、
一樹さんの「星から降る金」。
前回、1幕で一樹さんに落ちた、と書きましたが。
それはあまり正しくないです。正確には、この「星から降る金」で落ちました。
物語を綴る、聖なる声に。
ビロードのように柔らかな、豊かなメゾ。
愛に溢れた、人間性豊かな「庇護者」が、わがままな「子供」に言い聞かせる「昔話」は、あの豊かな光に溢れた声で語られないと、説得力がないんだと気づきました。
「モーツァルト!」という作品は、ヴォルフガングとナンネールという「堕ちた天才児たち」と、それを取り巻く「大人たち」の相克の物語なわけですが、
その「大人」たちの代表として登場するのが、
「父親」役の、厳格で冷酷な、鋭い声と
「抑圧者」役の、圧倒的な迫力のある美声と
そして、「慈母」の、愛と癒しに満ちた慈母の声、です。
その3つの声が揃わないと公演としての成功はナカナカ難しいのですが…
一樹さんの声は、「慈母」かどうかはさておいて(笑)、憧れの光に満ちていて、ヴォルフの決意を促す歌として非常に良かったです。
そして。
「滑舌がいい」のと「くっきりはっきり発音する」のは全く違うことなのだ、とあらためて気づきました。パキパキ発音しなくても、言葉が聴いている人の心に届けばいいんですよ。
もちろん、最低限の発声や発音は必要ですが、そこに気がいきすぎれば劇団四季の新入団員のようになってしまうわけで…あれじゃ芝居になりませんからね(^ ^;ゞ。
語り口の巧さ、というのは、才能もあるんでしょうけれども、自分が「何を伝えたいか」のイメージを明解に持っているかどうかというのがかなり大きいんじゃないかなー、と。
聴いている人(ヴォルフガングであり、観客でもあり)の心を動かす歌は、結局芝居との境界線が限りなくあいまいになっていくものなのだろうと思います。
美しい声が、美しい物語を紡ぐ。
それが、普通の「楽器」には不可能な、人間の喉にしかできない唯一の武器、だから。
矢代さんの「思い出のサントロペ」の話は【1】で書いたので省略。
となると、
やっぱり、トリの立さん、ですね。
号泣しました私(T T)。
1曲目はシャンソン「私の孤独」。
一樹さんのところでも長々書きましたが、「歌」は、言葉という魔法があるから泣けるんですね。
シャンソン、という世界の広さと深さ。シャンソンにはこういう曲もあったのか、私はまだ、「シャンソン」について何も知らないんだなー、と実感した一曲でした。
(何なら知っているんだよ、と怒られそうですが)
で。
2曲目は、
…「ラ・マンチャの男」ですよあなた。
反則。
私はラ・マンチャの男には弱いんです!
あの歪んだ世界観。夢によって構成された、脆く不安定な「世界」。
その中で、確固たる存在は、それぞれの「自己」と、その「信念」のみである、という世界設定。
あの世界設定そのものの歪みようが、大好きなんです。
キハーノが信じるから。
だから、アルドンサはドルシネア姫になる。
彼がそう定義するから、
アルドンサが、ドルシネア姫に、なれる。
…彼が、信じてくれるから。
「世界」を作る信念。
それは、事実としては“妄念”であり、老人の幻覚にすぎない。
だけど。
それは、「彼」にとってはまぎれもない「現実」であり、それが全ての彼にとっての「世界」となる……
「宝塚」という「ファンの夢」の結晶のような世界で生きてきた立さんが、卒業を目前にしたコンサートで最後に歌う歌として択んだ曲が、
この、「ラ・マンチャの男」の主題歌と、ドルシネア姫のテーマ。
…確信犯、っていうんです、そういうのは。
タカラジェンヌは総じてラ・マンチャの男なのだと思う。
決してその手には掴めないものを追い続けている。
その存在そのものが、夢。
夢をみたいから劇場にいるんです。
夢がここにあるから、
だから、私もここにいる。
宝塚が好きだなあ。
こういう人たちが、長年所属して、見守ってくれている宝塚。
たからづか、が、好きなんだなあ私は…
TCAを観た時には全く思わなかった、そんな感慨を胸に抱いて
劇場を出ました。
小さなバウホールでの、幸せな時間。
ありがとう。
本当にありがとう。
我ながら下手くそな文章で情けないのですが。
エンカレッジ・コンサート、
またやってくださいね。>歌劇団どの。
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コメント
そうなんですよね。これですよ、これが四季でお芝居にのめりこめない理由なんですよ。
「ウィキッド」も本当に素晴らしい歌声なのですが、単に音が聞こえてきて、それも右から左に流れてしまう・・・そんな感じなんです、きれいな音を聞いた、以上終了みたいなね。
久世さんの歌であれまぁ!と椅子から落ちそうだったので、タータンで期待したいと思いますが、ヒロさん、やはりタダモノではありませんでしたね。
スカステの放映録画を頼むのを忘れないようにしたいです。
ねこさま、感想有難うございました。
そうなんですよね…四季メソッドの価値もわかるのですが、私もあまり好きではありません。
やっぱり沢木さんとかあの辺の、“メソッドを身につけた上できちんと喋れる”ベテランが次々に抜けた以降の四季の芝居は……、元ファンとして悲しくなりますね(涙)。
久世さんの男爵夫人は……あの声質とキャラクターが役に本当にぴったりで、音程さえ………(欝)って感でしたよね。再演では随分良くなってたのになぁ〜(涙)。