もうまもなく楽を迎える、雪組東宝公演「エリザベート」。

結局、東宝では2回しか観られずに、私の楽は終わってしまいました。
まだこれからご覧になる方が羨ましい☆



もう公演も終わってしまいますので。
最後に、まだ文字になっていない思いを吐き出させてくださいませ…




ずーっと書きたくて、うまくまとめられなくて悩んでいたこと。
ウィーン版のシシィと、宝塚版のシシィの違い。


それはもう、本当に全然違うんですよね。
前にも書きましたが、そもそもの立脚点が違う。

だから、宝塚版を観て「ああ、ウィーン版みたいにすればいいのに」と思うことはほとんど無かったんです。
宝塚版は宝塚版だから、ウィーン版と同じことをしたら世界が壊れてしまうから。


「Mind Traveller」を観た時に思ったのですが、小池さんって「世界の構築」だけはできるんですよね。ストーリーやキャラクターがどんなに見事に破綻しきっていても、世界そのものはしっかりとそこにある。
脚色するにしても、きちんと「世界設定の必然」を考えた上で脚色するから、話がどんなにぶっ飛んで「ハァ?」と思うところがあっても、「…なんで?」は少ない。

…ま、ストーリー展開自体がコウトウムケイにぶっ飛んでいるので、「世界設定」の緻密さなんて目立たなくなっちゃうんですけどね(^ ^;ゞ。っていうか、なまじ「世界」がしっかりあるから余計にストーリーとかキャラクターのアラが目立つことも多いし(^ ^;;;;;




まぁ、何が言いたいかというと。

たとえば、「エリザベート」におけるシシィのキャラクター。

ウィーン版では、この人が主役です。
タイトルロールで、かつ、主役。それも、かなりエキセントリックなタイプの。

で。



最初に「おお」と思ったのは、「私だけに」の直前、ゾフィーと言い争うエリザベートが、夫に気づいて駆け寄る場面。
ウィーン版(私が観たのはコンサート版ですが)では、

「お母様が苛めるの!フランツ助けて、あなたが頼りよ!」
「僕は君の味方だ。でも母上の言葉には従った方が良い(それが掟なんだよわかってくれ←心の訴えを代弁)」
「…わかったわ。(でも今は出てって←ゼスチャーで夫を拒否するそぶり)」
「…(←何も言わずに、妻の肩をもう一度抱いて部屋を出る)」

そして、シシィは。
フランツが出て行ってから、閉じられたドアに向かって「あなたは私を見捨てるのね」と吐き捨てるように言うのです。


宝塚版では、なぜかこの台詞は、フランツがまだ部屋にいる間に口にされ、言葉の矢となってフランツの胸に突き刺ります。

なのに、フランツは何の言い訳もフォローもせずに背を向けて出て行くしかありません。
初見(宙組)の時、もの凄く違和感を感じたんですよね。
なんで?なんで?
だって、フランツはものすごくエリザベートを愛しているのに!!なんでココで何も言わないの!?

ガイチさんもユミコちゃんも、もちろんタカコさんも樹里ちゃんも、あの場面で出て行くのが凄く苦しそうだった。
芝居としても、そこで背を向けて出て行く男って役作りしにくそうですよね…?新婚の妻にそんなこと言われたら、とりあえず抱きしめて、「そうじゃないんだ。お願いだからわかっておくれ。我々には自由はないんだよ」と、(たとえシシィに理解してもらうことはできなくても)かき口説くくらいしたっていいと思うんです。

なぜ小池さんがそういう演出にしたのか、とっても謎だったのですが…


ウィーン版で、フランツが出て行った後、扉に向かって低い声で「私を見捨てるのね」と吐き捨てるシシィを観て。


宝塚版では、あの台詞をフランツに向かって言うことで、ほんの少しですがシシィに「甘え」が残っていることが表現されていることに気が付きました。

こんな風に言えば、フランツはきっとショックを受ける。
私がどんなにショックを受けているか、きっと判ってくれるわ。

フランツは、振り返って新婚の幼妻を見凝める。
軽く溜息をついて。
“いつか、彼女にも解る日がくるだろう。我々には、国を治める義務があるということに”


静かに背を向けて、部屋を出て行く新婚の夫。

それで余計に見捨てられたような気分になって、発作的に自殺を図る…

でも、思い直して「イヤよ、あたしはあたしよ!」と開き直って「私だけに」自分の人生を捧げるのだ、と自分自身に誓う宝塚シシィ。


でも。
この時も彼女は、まだフランツに対して情を残している
晩年、シシィは「あの方が皇帝でなかったら良かったのに」とこぼしたそうですが、まさにそういう心理なんでしょうね。恋ではない。愛でさえ、ないかもしれない。でも、感謝の念があり、尊敬の気持があり、夫に対する情がある。

そしてそれが、「夜のボート」の“二人でも独り”寂しさにつながっていく…。



でも。
ウィーン版では。

この時すでに、シシィは戦闘態勢に入っているんですね。

私が観たのはコンサートバージョンで、小道具やセットが全然なかったのですが。舞台版では「私だけに」前の自殺未遂シーンはあったのでしょうか?

コンサートバージョンでは、怒りのままに燃え上がるシシィのオーラが見えるようで。
「あなたは私を見捨てるのね…」<「だったらもう知らないわ!」<<「そうよ、私は私だけのものよ!」と、どんどんボルテージがあがっていったのが、観ていて気持いいくらいでした。

その、絶唱。


真実の「エリザベート役者」が歌う「私だけに」を、初めて聴いた心地でした。



「私だけに」という曲、この曲はまさに「エリザベート」の全てであり、この一曲で誓い、想い描いた人生を歩もうとする一人の女性の人生を語ることだけが、この作品全体のテーマである、と。

そんな、作品鑑賞の基本中の基本に、やっと気づいた日でした。






それから、面白かったのが、フランツの浮気を教えられてトートと言い争う場面です。

宝塚版では、シシィは「彼が罪を犯したなら、私は自由になれる!」と叫んでトートを拒否するのですが、
これがまず最初の敗北、と彼女は(観客も)認識します。
この敗北で彼女は放浪の旅に出て、扇で顔を隠すようになる。



でも。
ウィーン版では、この場面のシシィはまさに「勝利の雄叫び」をあげているように見えました。

彼女にとってはまさに勝利。もう我慢する必要はないのだから。

今まで彼は誠実だったから私もあんまり無茶は言わなかったけれども(←本当ですか?)、負い目を感じていたけれども。

これからは彼の方が私に負い目を感じるんだわ!



この勝利と引き替えに、彼女が喪ったものは、おそらくは、皇帝への信頼と、それによって支えられていた自己への不安…




自由を得て放浪の日々に遊ぶシシィ。

そこには、自由を勝ち得た勝利の喜びと同時に、「皇帝の心をとどめられなかった」自分への敗北感、とくに容姿の衰えに対する恐怖(というか認識)が強い。

だから。
結果として、自分が「美しくいること」に固執しすぎて、それ以外のすべてを切り捨ててしまう。

…息子への愛も。




トートがルドルフを誘い込む。

「崩壊しつつあるこの世界を、お前が救うんだ」
甘美な誘い。


権力を掴まなくては、弱者を救うことなどできない。
優秀なルドルフは、優秀ゆえにそのことを熟知している。

ことなかれ主義で中道を選びたがる父親には、この世界を支えることなどできないと。


そうして、ルドルフは父皇帝に叛旗を翻す。

王朝の将来をめぐっての激しい口論。いずれナチスという大嵐に育つ「ドイツ民族主義者」たちのユダヤ排斥運動に、「HASS(憎しみ)」に揺れる、巨大都市ウィーン。

ユダヤ人であるハインリッヒ・ハイネを愛する皇后エリザベートと、その愛息ルドルフ。
彼らの存在がウィーンを揺らす。

それも知らず、放浪先のギリシア(コルフ)でハイネの夢を見るシシィ。
彼女は選び間違えた。一番最初、フランツの手を取った時に。
だから、もう、戻れない。
「パパみたいになりたかった」「パパみたいになれない…」
寂しい呟き。


そして。
ウィーンに戻ったシシィを、ルドルフが訪ねてくる。
(宮廷に帰ってくるんじゃないんですね。もしかしたらウィーンじゃないのかもしれない。とにかくシシィの居所に息子が訪ねてくる場面になっている)


エリザベートは全く心を閉ざしている。
宝塚(月&雪再演)版のように、「子供すぎて」あるいは「天使だから」対応できないんじゃない。
完全に、全てに対して心を閉ざしている。

心を揺らせば、心配事を増やせばまた白髪が出来てしまう、そんな怯え。

世界と関わることに、怯えている。

ある意味彼女は、子供還りしているのかもしれません。
滅びようとする世界から、少しでも身を遠ざけようと必死で縮こまっている。

せつせつと。

宝塚版のルドルフの倍のフレーズでルドルフが訴える。
ただ、「お願い、僕を見て」という、ただその一言を。

でも決してシシィは見ない。
そこにいるのが息子でも、その父親でも、その冷たいかんばせは変わらないだろう。

「僕は病んでいる。僕の人生は空虚だ。それを埋められるのは妻じゃない。あなただけだ」

かき口説く息子。
…息子よ。それはマジで口説き文句に聞こえるんだが気のせいか…?

ま、それはおいといて。

母のいらえは。

「もう私はすべての束縛を断ち切ってしまった。たとえあなたのためであっても、皇帝との取引はもう二度としない」

女中に髪を整えさせながら、冷たい顔でそう告げる、母。

手を触れることさえ許さず(多分帳の中で顔も見せてはいないだろう)、言い捨てて、振り向きもせずに去っていく。

独り残された息子は。
肩を落として。

「…僕を見捨てるんだね」

マイヤーリンクへの、死出の旅。
…いや違う。マイヤーリンク、という死が、ルドルフに近づいてくる…。



…そういえば。

雪組公演での、(凰稀)かなめちゃんのルドルフが。

ピストルをこめかみにあてた瞬間に、思いっきり(口の端で、とかじゃなくて満面で)微笑む芝居にちょっとだけびっくりしたことを書いてなかったですね。

個人的に、かなめちゃんのルドルフは、あそこで嗤うキャラクターには見えなかったんですが…。
あの、運命にただ流されてきた薄倖の王子さま的な芝居には、悲愴な決意を持って自らの頭を撃ち抜く方が似合うような気がしたのです。

だから、そこでわらうのか、と思ったんでしょうね。

あそこで笑うと、ルドルフがものすごく弱い人に見えてしまうと思うんです。生きることが辛すぎて、逃げられるかぎり逃げて、逃げて、…で、「やっと死ねる」という芝居に見えるんですよね。

ルドルフって…そういう人だっけ?違うよね…?

まだ、撃った後に微笑む方がキャラクターとしては統一されているんじゃないでしょうか…?


いや、問題なのは、そこで嗤うか目を伏せるか、ということじゃないんですよ。
“ルドルフ”としては、それはどっちもアリだと思う。

ただ、そこに至るまでの15分をどう生きて、あの場面に辿り着いたか、が問題なんですよ。



あそこで笑うってことは、そこまでの人生で何をしなくちゃいけないか、ってところから役を作っていく…そういうことは考えたのかな?かなめちゃんは、とか思ってしまったのでした……。


…難癖つけているつもりはないんです。ごめんなさいm(_ _)m。
ちなみに私は、かなめちゃんが下級生の頃、樹里さんのコンサートに出演された時から大好きだったりします(^ ^;ゞ




ウィーン版では、まぁ、ウィーン版だからというよりはマテとルカスだから、というべきかもしれませんが。
マテに引きずられたまま連れて行かれてしまった、という印象でしたね………。
あれはあれで、ルカスの男っぽいのに脆さを感じさせる美貌と、マテの圧倒的なカリスマがあってはじめて成り立つ解釈だと思うので。
ウィーン版でも、役者が変わればそういうところの芝居や演出は変わっていくんでしょうか。それとも、かなり固定なのかなあ?うーん、こうなると、他のキャストも観てみたくなります(笑)。





…雪組公演を最初に観てから3ヶ月、やっと最初に思ったことを全部、書き終わったような気がします。ホント、やっとだよ…。

うん、やっぱり「エリザベート」は名作だ。

ウィーン版、というかオリジナルの作品も名作、
宝塚版も名作。

シシィとフランツとゾフィー、というハプスブルク家の3人の立ち位置、というか、関係がきっちり決まると、あとの芝居も作りやすくなるような気がします。

宝塚版では、

「子供」あるいは「天使」でしかないシシィ、
“自分とは別世界に生きる愛玩物としての妻”を、ひたすら愛おしむフランツ、
「国を憂える大人」としてシシィと対立するゾフィー、

そして、

「子供」あるいは「天使」であるシシィを、そういう存在としてまるごと愛し、求めるトート。



ウィーン版では、

一人の、生身でエキセントリックな大人の女であるシシィ、
そのシシィを、身も心も捧げて愛するフランツ、
「皇帝の黒幕」として、一人の「女」として、シシィと対立するゾフィー、

そして、

シシィの視る幻としての、トート。



なんか、いろいろ書いているうちにまた観たくなってきたよー(涙)。
思う存分、観れた方がうらやましーよー…





コメント