1920年代、ニューヨーク。
「魔法の万年筆」に振り回される人間模様を、PARCO劇場に観にいってきました。
お目当てはいちおう、久世星佳さん。



物語の冒頭は、あるデパートの屋上。

作家志望(はしくれ?)の若い男(稲垣吾郎)が一人、万年筆を買いにデパートの文具売り場にやってくる。

彼が探すのは、「頭で考えているイメージが、そのまま腕を通って紙に定着するような、その間に一抹の抵抗もないような」、そんな書きやすい万年筆。

彼のポケットには、自分のエージェント(阿南健治)から貰った(奪い取った)5ドル。



私は作家ではありませんが。

そんな万年筆があったらいいなあ、と思う反面、

魔法の万年筆で紙に写したいほどの何かを私は持っているのだろうか、その魔法の万年筆で私は何を書くんだろうか、という不安から、逃れられないような気がしてなりません。



でも。

稲垣くんのパーカーは、ついぞその不安に囚われることはなかったらしい。
…それはやっぱり、彼が「天才」であった、ということなのかもしれません。
だから。

万年筆がなくても、彼は成功したのかもしれないなあ、…と。


だとしたら。

万年筆を得たことで通った路は、大きな回り道だったのか、それとも真の「創造者」となるための通過儀礼だったのか…。







この作品、登場人物の名前をすべて有名な文具メーカーというか万年筆メーカーから取られておりまして。

主人公(稲垣吾郎)=パーカー
その恋人(西牟田恵)=デルタ
その妻(久世星佳)=セーラ(ー)
妻の父(山崎一)=モンブラン
妻の兄(河原雅彦)=パイロット
主人公の友人兼エージェント(阿南健治)=ウォーターマン
主人公の担当編集者(三鴨絵里子)=ペリカーノ
万年筆作りの名人(?)(小林隆)=エルバン

エルバンだけは万年筆ではなくインクメーカーなので私はあまりなじみがありませんでしたが、他のはぜんぶ知ってました。
…持ってないけど(笑)。




久しぶりに観た、劇団「ラッパ屋」主宰の鈴木聡の作・演出の舞台。


率直な感想として。

事前にチラシのストーリーを読んだり、人から話を聞いたりして想像(創造?)していたイメージに比べると、えらくシンプルな物語でした。
それほど大したひねりもなく、ラストは一応どんでん返しなのであまり詳細には触れずにおきますが、まぁなんとなく予想がついたようなつかないような。

でもね。
人間模様としては実に面白かったです。

特に、パーカーの恋人・デルタの存在、が。



私の目当てのノン(久世星佳)さんの役は、
「文壇の大物」モンブラン氏の、“ちょっとオールドミスだけど、それは彼女が悪いんじゃない”娘。

魔法の万年筆を使って「ストーリーが泉のように湧いてくる」状態になった彼の小説を、文壇の大物が「名作」と認めてくれたことに有頂天になったパーカーは、ウォーターマンが持ってきた見合い話に乗ります。

そして、結果的にあっさりと恋人・デルタを捨てる。

彼は、「穏やかな、アイスクリームの匂いのする幸せ」に溺れてクリエーターとしてダメになる自分が怖いんだ、と理屈をつけて、「作家としての未来」「立派な書斎」「文壇での地位」を約束されたモンブランの娘との結婚を選びます。

「俺はデルタを捨てる(た)んじゃない。未来を選んだんだ」と繰り返し言うパーカー。



でも。

結婚式当日まで、デルタに別れ話を「する暇がなかった」と言い放ち、ウォーターマンに「後は頼む」とデルタへの説明さえ押しつけてしまうという無責任ぶり…



突然ですが。
私は、舞台の稲垣吾郎さんはかなり好きでして。

「広島に原爆を落とす日」からだから…もう何年?彼は大体平均すれば年に一作くらい舞台に出ているので、もう随分な数の作品を観ているのですが。


今回の彼は、正直、私的にはちょっと残念、な感じでした。

去年の「ヴァージニア・ウルフなんて怖くない」は面白かったのになあ…。



作・演出の鈴木さんが、彼を理解しているようでほんの少しずれている、そのずれ感が私の感性には合わなかったようです。

たとえば、この(セーラとの)結婚式で、デルタから逃げる場面。

彼の本来の持ち味である「知的」で「理性的」な部分が、こういう時まで悪い意味で出てしまう。本能のままに逃げてしまう「どうしようもない最低男」になりきれない。
彼だったら、もっとデルタにベラベラ喋って、舌先3寸で誤魔化そうとした末に失敗…みたいな嫌な男の方が似合うんじゃないかしら…。


2幕でデルタと再会した時も、西牟田さんの見事なテンションと集中力、緊迫した演技とどうも噛み合わなくて、
そういえば、今まで彼の「受け芝居」ってあまり観たことなかったかも、とあらためて思ってしまったのでした。


滑舌だとか、仕草だとか、そういった一人でも練習できる部分は、昔に比べれば本当に巧くなったなーと思うのですが。
やっぱり他の人とは「舞台」に懸ける時間が違うのでしょうか…。キャリアの問題だけではないと思うんですよね。相手の芝居を見る、相手の芝居を受ける、というのは芝居の基本ですから。

声の良い人なので、モノローグの多いつかこうへい芝居には案外よく似合う人なのですが。
人間関係で見せるラッパ屋の芝居には、いまひとつだったかな、というのが正直な感想です。



でもね!

他のメンバーは、みなさん「さすが」の一言なんです。
一見の価値ありですよ!

ノンさんは、過不足無く「パーカーより7歳年上のオールドミス」そのものだし。

阿南さんは「野心家だけど心優しい、ちょっとドジで気が弱いところもある、でも意外と遣り手な」エージェントそのものだし。

河原さんは「過剰に弱気で過剰に気が優しくて過剰に流されやすくて…とにかく過剰〜に!気が弱い」キャラクター造形が本当に見事でしたし。

山崎さんのユーモラスな渋味、三鴨さんのパーフェクトなお色気キャラぶり、小林さんのなんとも表現しがたい巧さ。

これだけのメンバーが揃って、演出家は楽しかったろうなぁと思わせる芝居でした。



でも。

その全てを吹っ飛ばして。

この作品の中心になっているのは、デルタ役の西牟田恵さん。

ちょっと素朴なデパート嬢としての登場、
パーカーの恋人としての世話女房ぶり。

たしかに、この女を妻にしたら「幸せな家庭」に浸かりすぎて「クリエート」する苦しみに耐えられなくなるかもしれない、と
いうパーカーの不安もわからないではありません。

それを、パーカーの台詞ではなく、デルタの芝居で納得させる。
これが出来る人は滅多にいない、と思います。


そして。
ここから先は微妙にネタバレになりますので、まだご覧になっていない方はご注意願いたいのですが。(←いまさら?)


2幕で再登場したデルタの変貌ぶり。
そして、そのパーカーへの仕打ち。

「あなたにも同じ思いをあじあわせてあげる」と宣言して実行すること。
それは、彼女自身の全てをも否定することなのに。
それほどの痛みを、彼女は与えられたのだ、と。

パーカーには、その痛みを想像さえできない。
だから、デルタがそんな行動に出るとは全く思わない。
しかも、それによる痛みは自分だけのものだと思っている。

デルタの本当に痛み、その行動を実行することによって起こる痛みには全く気づかない。

他人の痛みに無頓着。それによって、デルタは彼の「作家」としての適性に疑問さえ投げかけます。
想像力であり創造力であるものが、欠けているのではないか、と。

それさえも、彼は何も気づくことはなく。
ただ、喪われたものを惜しむばかりで。



2幕半ばの、
デルタの場面が。

あそこが、私はこのお芝居の中で、一番好きです。



具体的なネタバレはしないように注意したつもりではあるのですが。
ネタとは無関係に、脚本としてとても面白い脚本でした。

本で読んでみたいくらい。


そして、おとなーしくお上品に「おほほほほ」と笑うノンさん、という、滅多に観られないものがたっぷり観られるお得な2時間半。

いやはや、ノンさん本当に良かったです…。

そして。



ノンさんと西牟田さん、逆でもすごーーーーーく面白かっただろうなあ、と思いつつ…




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