Un Grande Amore【2】
2007年5月22日 ミュージカル・舞台一週間の間に、二つの「エリザベート」に出会ってきました。
宝塚大劇場での『雪組再演版』と、新宿コマ劇場での『ウィーン版コンサート』。
台詞などはだいぶ割愛されたコンサート版でしたけれども、観ることができて良かったです。本当に。
その「場」にいることができて、幸せでした。
ああ、ウィーンに行きたいなあ〜〜〜!!
いや違う、ちょっとくらい無理しても梅田に行っておけばよかったなあ…(←後悔先に立たず)。
「エリザベート」。
同じタイトルと(ほぼ)同じ音楽を使った、宝塚版とウィーン版。二つの作品が語ってくれたのは、全く違う物語でした。
「エリザベートの愛」を語った宝塚版と、
「エリザベートの人生」を語るウィーン版。
そして。
この「『エリザベート』宝塚版」を創りあげた小池修一郎は、間違いなく天才だったのだと実感したのでした。
宝塚版では。
「主役」はあくまでもトート。
「タイトルロール」はエリザベート。
「立役者」はゾフィーとフランツ。
そしてもちろん、ルキーニが「説明役」だったわけですが。
ウィーン版では。
「主役」も「タイトルロール」も「立役者」も、ぜーんぶエリザベート!
トートもフランツも、せいぜい彼女の人生を彩った「華」でしかない。
そしてルキーニは、「説明役」ではなく「語り手」。
一人だけイタリア人の彼が、観客に向かって彼女の人生を語っている。
「タイトルロール」と「主役」は、同じように見えても微妙に違うもの。
「タイトルロール」は「作品の主題」であって、作品により「主役」本人であることもあれば、「主役の見る夢」であることもあります。
たとえば、シェイクスピアの「ジュリアス・シーザー」の主役が、シーザーではなくブルータスであったように。
同じように、宝塚版「エリザベート」の主役はトート。そして、彼が見る夢、あるいは彼が欲する対象としての「皇后エリザベート」がいるのです。
だから、フランツは主役であるトートと敵対する役割を果たすことになり、ルキーニはその「トートの夢」を説明するだけの役割になってしまった。
でも。
よりオリジナルに近い、今回のウィーン版では。
「タイトルロール」=「主役」というわかりやすい設定で、彼女の人生を斜すに構えて揶揄するルキーニが二番手、という、ロイド・ウェッバーの「エヴィータ」と同じ劇構造。
実際、アルゼンチンの大統領夫人エヴァ・ペロンとオーストリア皇后エリザベート、アルゼンチン生まれの社会主義革命家チェ・ゲバラとイタリア生まれの無政府主義者ルイジ・ルケーニの比較は昔からよく見かける議論ですし、表面的にはよく似た設定だと思います。
でも。
「エヴィータ」は、エヴァ・ペロンの人生を「外側から」描いた作品。彼女の内面に踏み込むのは、ほとんどがチェが歌う「想像の」あるいは「説明の」ナンバーばかり。
エヴァ自身が自分自身の心情を吐露するのは、「ブエノスアイレス」くらいではないでしょうか?一番の名曲「アルゼンチンよ泣かないで」が就任後の国民への演説の形で歌われることを考えれば、その構造は明らかです。
言ってみれば、あの作品そのものが、エヴァ・ペロンの事績に対する「裁判」なのです。被告(エヴァ)本人の弁論も弁護人もなしで、検事(チェ)と裁判官(観客)のみで行われる裁判。
証人として登場するペロンやマガルディ、あるいは国民が見た「エヴァ像」が語られ、それをつないでいくことで「エヴァの人生」を再構築する試みなのです。
それに対して「エリザベート」は、シシィの内面の奥深く踏み込んでいきます。
こちらはルキーニの裁判という形で幕が開き、証人としてこの時代に生きた人々が召喚される設定で始まりますが。
本編に入ると、これもルキーニが「検事」の立場で、「観客」という裁判官に向かって「被告」であるシシィの人生を語る形に見えてくるのです。
でも、そのストーリーのポイントポイントで、ルキーニ自身が時にカフェの噂話に風を送り、時に怒りの炎を焚き付けつつ主体的に動いたり、シシィ本人が自分の心情を率直に吐露し、謳いあげている(「私だけに」など)ところが「エヴィータ」とは全然違っていて、作品をものすごくダイナミックな印象にしているところだと思います。
…なんか話がそれてますけれども(←いつものこと)
面白かったんです。本当に。
そして、「宝塚版」と「ウィーン版」、二つが全然違う作品だったから、どちらも本当に面白かったし、両方を観ることで、両方がより面白く感じられるようになりました。
宝塚版の「縛り」。
男役を主役にすること、あまりリアルに下世話なものは排除すること、そして、日本人でもすぐに話が分かるようにすること。
(他にもあるかもしれませんが、とりあえず)この3点を守ったが故に、宝塚版「エリザベート」という作品には、避けられない歪みがあることは事実です。
トートというキャラクターの分裂、ルキーニの矛盾…
でも、それは決して「間違ったエリザベート」ではなかったのだ、と。
「エリザベート」のルールよりも「宝塚」のルールを重視した「宝塚版」は、「宝塚作品」として奇跡を起こし得る作品になりました。
そして、実際奇跡は起きたのでしょう、きっと。
これだけの人気を博し、これだけいろいろなキャストでの再演がかない、それぞれに(色々言われつつも)評価されてここまで来ているのですから。
…先にウィーン版を観ていたらどう感じたかは自分でもわかりませんが(苦笑)。
ウィーン版を観て、あらためて「宝塚版エリザベート」は、宝塚作品として名作中の名作なのだと確信したのでした♪
そういう意味では、やっぱり東宝版はちょっと中途半端だったんじゃないかな〜、とも思っちゃいましたけどね(滝汗)。
えーっと。
エリザベートの夢見た放埒、マックス公爵の「自由」は、いわゆる「ラテンの享楽」とは違うものなのでしょうね。
それは、ルーマニアからハンガリーにかけて特に多かった、ロマニ語を話す人々の「自由」だったのではないでしょうか。
自分自身が属する集団の「掟」にのみ縛られることを是とし、それ以外の全てのルールを否定する。そしてそのルールを遵守した場合に得られるはずの利益をも、すべて否定してのける。
でも、そのルールに従うものを見下すわけではない。
ただ、自分は違うのだ、と。
その檻の中で生きていくことはできないのだ、と…。
檻に閉じこめられることを拒否しながら、檻の外では生きていけない愚かな獣もいます。
たとえば、母そっくりと言われながら、ひ弱で精神的にも脆すぎるルドルフのように。
彼は、母と同じ、“檻の外”だけを見凝めつづける。
でも。自分が檻の外では生きていけないことに、最後まで気が付かなかった…。
でも、エリザベートは違う。
彼女は、檻の外でもちゃんと生きて行けたのです。
それは、彼女が闘うすべを知っていたから。
自分のアイデンティティを守り、取引をすることを知っていたから。
自分の美貌を武器にするだけでなく、それによる政治効果を取引材料にする知性と理性。
マヤ・ハクフォートさんのエリザベートは、ものすごく理性的な存在に見えました。彼女は、その持っている知識と理性の全てをかけて「押しつけられるルール」と戦い抜くのです。
それは、となみ(白羽ゆり)ちゃんのエリザベートにはあまり感じられなかった部分でした。となみちゃんのシシィは、“意味もわからず、とにかく束縛されるのが嫌だから拒否する”という天然素材の天使。(←誉めています)
でも、マヤさんのシシィは。国を守る、あるいは「オーストリア帝国という世界」を守ることに一片の価値も見いださない、「人は一人で生きていくモノ。国に守られるものではないわ」という主張を前面に掲げて生きていく“強い”人。
麻子(瀬奈じゅん)さんのシシィは、もう少し情がありましたね。フランツと共に生きていく術を探して彷徨っている感があり、愛する人を理解できない寂しさもにじませて。最後まで“大人”にはならなかったけれども、“孤独な子供”のまま、息子を捨ててしまったけれども。それでも、やっぱり情があったから、最後にトートと結ばれた時に「やっと幸せを見つけたんだね」と祝福してあげたくなったのです。
シシィは、自分を否定する宮廷を拒否しつつ、時代の中を生き抜いていく。
その背中の皓い翼を、
マヤさんのシシィは自分自身の理性と知性で守り抜き、
麻子さんのシシィは堕ちた翼を拾い上げ、繕ってより美しく輝かせて。
…となみちゃんのシシィの翼は、堕ちてもまた生えてくる、ような気がするんですよね……。
それが良いことなのか悪いことなのか、その答えはまだ出ていないと思いますが…。
そんなシシィを見守るトート。
彼は、ウィーン版では完全に「エリザベートの幻想」の中の、「激しい」存在、という感じでした。
水くんのトートは、出てくるたびに「生身の熱い血(←色は青いかも…)の熱さ・激しさ」を感じさせ、
サエコさんのトートは「幻想の閑けさ、子供の孤独」を纏っていましたが。
マテ・カマラスのトートは。
子供っぽくて乱暴者。もの凄い力づくでシシィを、そしてルドルフを引っ張り回して。
その激しさ、熱さ、なのに絶対に生身ではない違和感。
どうしても憎めない、目が惹き付けられて離せないキャラクター。
そして。
あの、声。
何も判っていないっぽい、子供っぽくて粗野なキャラクターに見えて、なのに声だけは世界を呑み込んでしまうほど甘く優しい、あの声は…。
この声は、ぜーったい、中川晃教だ〜〜〜!!
っと、開始15分くらいで思ってしまったのですが…。
……似てないでしょうか?
「エリィザベー…」と甘くけだるく囁きかける時の声。
激しくシャウトする声。
目を瞑ってきいたら判らないくらい、ものすごーく似た色の声だと思うんですけど。…似てませんかねぇ。
東宝版の武田真治トートも大変に興味深い役作りでしたが。
私は。
次回再演があるなら、中川くんのトートがぜひ観てみたくなりました。
というか。
その前に、今度のルカス・ペルマン&中川コンサートで、中川トート&ルカスルドルフで闇は広がるをやってほしい! これが実現したら私は2,3年のうちに絶対ウィーンに行くぞ!(←何の関係があるのかさっぱりわからん/涙)
それから、ついでにもう一つ。
ゾフィー役のクリスタ・ヴェットシュタイン。
この方がまた、ぞっとするほど前田美波里さんに声もキャラクターもそっくりでした…(^ ^;ゞ。
中川くんのトート。
美波里さんのゾフィー。
このキャスト、実現しないかなあ…(←無理)
最後に。
今回のコンサートで一個だけ残念だったのは、少年ルドルフが素人だったこと。
日本語でもいいから東宝公演のキャストを出してほしかったなぁ…(←無理)。
やっぱりね、「ママ、どこなの?」というナンバーは、エリザベートが高らかに勝利を謳いあげた直後に、足許の亀裂を見せるナンバーですから。青年ルドルフの芝居ともつながらないといけないし、作品的にも非常に重要なナンバーなんです(涙)。
まぁ、向こうからプロを連れてくるのは無理にしても、日本にも良いキャストがたくさんいるのになぁ〜。残念!
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宝塚大劇場での『雪組再演版』と、新宿コマ劇場での『ウィーン版コンサート』。
台詞などはだいぶ割愛されたコンサート版でしたけれども、観ることができて良かったです。本当に。
その「場」にいることができて、幸せでした。
ああ、ウィーンに行きたいなあ〜〜〜!!
いや違う、ちょっとくらい無理しても梅田に行っておけばよかったなあ…(←後悔先に立たず)。
「エリザベート」。
同じタイトルと(ほぼ)同じ音楽を使った、宝塚版とウィーン版。二つの作品が語ってくれたのは、全く違う物語でした。
「エリザベートの愛」を語った宝塚版と、
「エリザベートの人生」を語るウィーン版。
そして。
この「『エリザベート』宝塚版」を創りあげた小池修一郎は、間違いなく天才だったのだと実感したのでした。
宝塚版では。
「主役」はあくまでもトート。
「タイトルロール」はエリザベート。
「立役者」はゾフィーとフランツ。
そしてもちろん、ルキーニが「説明役」だったわけですが。
ウィーン版では。
「主役」も「タイトルロール」も「立役者」も、ぜーんぶエリザベート!
トートもフランツも、せいぜい彼女の人生を彩った「華」でしかない。
そしてルキーニは、「説明役」ではなく「語り手」。
一人だけイタリア人の彼が、観客に向かって彼女の人生を語っている。
「タイトルロール」と「主役」は、同じように見えても微妙に違うもの。
「タイトルロール」は「作品の主題」であって、作品により「主役」本人であることもあれば、「主役の見る夢」であることもあります。
たとえば、シェイクスピアの「ジュリアス・シーザー」の主役が、シーザーではなくブルータスであったように。
同じように、宝塚版「エリザベート」の主役はトート。そして、彼が見る夢、あるいは彼が欲する対象としての「皇后エリザベート」がいるのです。
だから、フランツは主役であるトートと敵対する役割を果たすことになり、ルキーニはその「トートの夢」を説明するだけの役割になってしまった。
でも。
よりオリジナルに近い、今回のウィーン版では。
「タイトルロール」=「主役」というわかりやすい設定で、彼女の人生を斜すに構えて揶揄するルキーニが二番手、という、ロイド・ウェッバーの「エヴィータ」と同じ劇構造。
実際、アルゼンチンの大統領夫人エヴァ・ペロンとオーストリア皇后エリザベート、アルゼンチン生まれの社会主義革命家チェ・ゲバラとイタリア生まれの無政府主義者ルイジ・ルケーニの比較は昔からよく見かける議論ですし、表面的にはよく似た設定だと思います。
でも。
「エヴィータ」は、エヴァ・ペロンの人生を「外側から」描いた作品。彼女の内面に踏み込むのは、ほとんどがチェが歌う「想像の」あるいは「説明の」ナンバーばかり。
エヴァ自身が自分自身の心情を吐露するのは、「ブエノスアイレス」くらいではないでしょうか?一番の名曲「アルゼンチンよ泣かないで」が就任後の国民への演説の形で歌われることを考えれば、その構造は明らかです。
言ってみれば、あの作品そのものが、エヴァ・ペロンの事績に対する「裁判」なのです。被告(エヴァ)本人の弁論も弁護人もなしで、検事(チェ)と裁判官(観客)のみで行われる裁判。
証人として登場するペロンやマガルディ、あるいは国民が見た「エヴァ像」が語られ、それをつないでいくことで「エヴァの人生」を再構築する試みなのです。
それに対して「エリザベート」は、シシィの内面の奥深く踏み込んでいきます。
こちらはルキーニの裁判という形で幕が開き、証人としてこの時代に生きた人々が召喚される設定で始まりますが。
本編に入ると、これもルキーニが「検事」の立場で、「観客」という裁判官に向かって「被告」であるシシィの人生を語る形に見えてくるのです。
でも、そのストーリーのポイントポイントで、ルキーニ自身が時にカフェの噂話に風を送り、時に怒りの炎を焚き付けつつ主体的に動いたり、シシィ本人が自分の心情を率直に吐露し、謳いあげている(「私だけに」など)ところが「エヴィータ」とは全然違っていて、作品をものすごくダイナミックな印象にしているところだと思います。
…なんか話がそれてますけれども(←いつものこと)
面白かったんです。本当に。
そして、「宝塚版」と「ウィーン版」、二つが全然違う作品だったから、どちらも本当に面白かったし、両方を観ることで、両方がより面白く感じられるようになりました。
宝塚版の「縛り」。
男役を主役にすること、あまりリアルに下世話なものは排除すること、そして、日本人でもすぐに話が分かるようにすること。
(他にもあるかもしれませんが、とりあえず)この3点を守ったが故に、宝塚版「エリザベート」という作品には、避けられない歪みがあることは事実です。
トートというキャラクターの分裂、ルキーニの矛盾…
でも、それは決して「間違ったエリザベート」ではなかったのだ、と。
「エリザベート」のルールよりも「宝塚」のルールを重視した「宝塚版」は、「宝塚作品」として奇跡を起こし得る作品になりました。
そして、実際奇跡は起きたのでしょう、きっと。
これだけの人気を博し、これだけいろいろなキャストでの再演がかない、それぞれに(色々言われつつも)評価されてここまで来ているのですから。
…先にウィーン版を観ていたらどう感じたかは自分でもわかりませんが(苦笑)。
ウィーン版を観て、あらためて「宝塚版エリザベート」は、宝塚作品として名作中の名作なのだと確信したのでした♪
そういう意味では、やっぱり東宝版はちょっと中途半端だったんじゃないかな〜、とも思っちゃいましたけどね(滝汗)。
えーっと。
エリザベートの夢見た放埒、マックス公爵の「自由」は、いわゆる「ラテンの享楽」とは違うものなのでしょうね。
それは、ルーマニアからハンガリーにかけて特に多かった、ロマニ語を話す人々の「自由」だったのではないでしょうか。
自分自身が属する集団の「掟」にのみ縛られることを是とし、それ以外の全てのルールを否定する。そしてそのルールを遵守した場合に得られるはずの利益をも、すべて否定してのける。
でも、そのルールに従うものを見下すわけではない。
ただ、自分は違うのだ、と。
その檻の中で生きていくことはできないのだ、と…。
檻に閉じこめられることを拒否しながら、檻の外では生きていけない愚かな獣もいます。
たとえば、母そっくりと言われながら、ひ弱で精神的にも脆すぎるルドルフのように。
彼は、母と同じ、“檻の外”だけを見凝めつづける。
でも。自分が檻の外では生きていけないことに、最後まで気が付かなかった…。
でも、エリザベートは違う。
彼女は、檻の外でもちゃんと生きて行けたのです。
それは、彼女が闘うすべを知っていたから。
自分のアイデンティティを守り、取引をすることを知っていたから。
自分の美貌を武器にするだけでなく、それによる政治効果を取引材料にする知性と理性。
マヤ・ハクフォートさんのエリザベートは、ものすごく理性的な存在に見えました。彼女は、その持っている知識と理性の全てをかけて「押しつけられるルール」と戦い抜くのです。
それは、となみ(白羽ゆり)ちゃんのエリザベートにはあまり感じられなかった部分でした。となみちゃんのシシィは、“意味もわからず、とにかく束縛されるのが嫌だから拒否する”という天然素材の天使。(←誉めています)
でも、マヤさんのシシィは。国を守る、あるいは「オーストリア帝国という世界」を守ることに一片の価値も見いださない、「人は一人で生きていくモノ。国に守られるものではないわ」という主張を前面に掲げて生きていく“強い”人。
麻子(瀬奈じゅん)さんのシシィは、もう少し情がありましたね。フランツと共に生きていく術を探して彷徨っている感があり、愛する人を理解できない寂しさもにじませて。最後まで“大人”にはならなかったけれども、“孤独な子供”のまま、息子を捨ててしまったけれども。それでも、やっぱり情があったから、最後にトートと結ばれた時に「やっと幸せを見つけたんだね」と祝福してあげたくなったのです。
シシィは、自分を否定する宮廷を拒否しつつ、時代の中を生き抜いていく。
その背中の皓い翼を、
マヤさんのシシィは自分自身の理性と知性で守り抜き、
麻子さんのシシィは堕ちた翼を拾い上げ、繕ってより美しく輝かせて。
…となみちゃんのシシィの翼は、堕ちてもまた生えてくる、ような気がするんですよね……。
それが良いことなのか悪いことなのか、その答えはまだ出ていないと思いますが…。
そんなシシィを見守るトート。
彼は、ウィーン版では完全に「エリザベートの幻想」の中の、「激しい」存在、という感じでした。
水くんのトートは、出てくるたびに「生身の熱い血(←色は青いかも…)の熱さ・激しさ」を感じさせ、
サエコさんのトートは「幻想の閑けさ、子供の孤独」を纏っていましたが。
マテ・カマラスのトートは。
子供っぽくて乱暴者。もの凄い力づくでシシィを、そしてルドルフを引っ張り回して。
その激しさ、熱さ、なのに絶対に生身ではない違和感。
どうしても憎めない、目が惹き付けられて離せないキャラクター。
そして。
あの、声。
何も判っていないっぽい、子供っぽくて粗野なキャラクターに見えて、なのに声だけは世界を呑み込んでしまうほど甘く優しい、あの声は…。
この声は、ぜーったい、中川晃教だ〜〜〜!!
っと、開始15分くらいで思ってしまったのですが…。
……似てないでしょうか?
「エリィザベー…」と甘くけだるく囁きかける時の声。
激しくシャウトする声。
目を瞑ってきいたら判らないくらい、ものすごーく似た色の声だと思うんですけど。…似てませんかねぇ。
東宝版の武田真治トートも大変に興味深い役作りでしたが。
私は。
次回再演があるなら、中川くんのトートがぜひ観てみたくなりました。
というか。
その前に、今度のルカス・ペルマン&中川コンサートで、中川トート&ルカスルドルフで闇は広がるをやってほしい! これが実現したら私は2,3年のうちに絶対ウィーンに行くぞ!(←何の関係があるのかさっぱりわからん/涙)
それから、ついでにもう一つ。
ゾフィー役のクリスタ・ヴェットシュタイン。
この方がまた、ぞっとするほど前田美波里さんに声もキャラクターもそっくりでした…(^ ^;ゞ。
中川くんのトート。
美波里さんのゾフィー。
このキャスト、実現しないかなあ…(←無理)
最後に。
今回のコンサートで一個だけ残念だったのは、少年ルドルフが素人だったこと。
日本語でもいいから東宝公演のキャストを出してほしかったなぁ…(←無理)。
やっぱりね、「ママ、どこなの?」というナンバーは、エリザベートが高らかに勝利を謳いあげた直後に、足許の亀裂を見せるナンバーですから。青年ルドルフの芝居ともつながらないといけないし、作品的にも非常に重要なナンバーなんです(涙)。
まぁ、向こうからプロを連れてくるのは無理にしても、日本にも良いキャストがたくさんいるのになぁ〜。残念!
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