日生劇場「ジキル&ハイド」。
もっと早く書くつもりだったのですが、なかなかまとまらなくて…この週末で東京公演は終わってしまうので(^ ^;ゞ、その前に。

先週のアフタートークの内容も併せて書くつもりだったのですが。
…あまりにも長くなってしまったので、アフタートークは別途書きますね(今更ですが…もう誰も待っててくれないでしょうけれども/涙)。



作品については初日に書きましたので。
今回は、観劇しての感想を…ということで、どうしてもキャスト寄りの話になってしまうのですが。
ご不快になる方もいらっしゃると思います。ごめんなさいm(_ _)m。



まず、私はこの作品、日本版の再演・再々演は、スケジュールが合わなくて観られなかったのですが…。




というか。
今だから正直に言いますが、「スケジュールを無理してまで観よう」とは思わなかったのですが(T T)。



日本版の初演を観て、感動したのはアンサンブルのみでした(涙)。

4月6日の日記にも書きましたが、元々音楽的にもワイルドホーンの音楽はコーラスが魅力ですし、また初演のアンサンブルメンバーは、キャスティングディレクター(誰だか知りませんが)がメインキャストの鬱憤(←言いすぎ)をアンサンブルではらしたんじゃないかと思うほど凄いメンバーで、本当に涙が出るほど素晴らしかったのですが。

タイトルロールの鹿賀丈史さんは、ハイドはとても良かったのですが、ジキルとしては受け入れがたくて。

エマの茂森あゆみさんは、声はキレイだけど、それだけ(涙)。

ルーシィ役で賞も獲ったマルシアさんは、日本語の発音もミュージカルの発声もまだまだ。芝居は悪くなかったけどちょっと空回り気味。

アターソンの段田さんは…ごめんなさい。ワイルドホーンの歌って、素晴らしいだけに難しいんです(涙)。役者としては素晴らしい方で私も大好きですが(遊眠社時代からずーっと観てますので)…
アターソンって、芝居がメインの役でソロ歌もないんですけど、やっぱりもう少し歌える人だったらなぁ…と思ったことは否めません。

…あ、でも、ダンヴァース卿の浜畑さんは初演から素晴らしかったです!忘れるな自分!
ごめんなさいm(_ _)m。



…初演は、作品というか音楽が本当に好きだったので、たぶん3回くらい観たと思うのですが。(というか、観る前にチケット取っていた)

再演・再々演ではエマとアターソンが変わって、また雰囲気は違ったのでしょうけれども。
無理して時間を作るだけの意欲が取り戻せないまま、楽日を迎えてしまったのでした…(涙)。



なので。

今公演の一番の注目は、前回公演で評判の良かったエマの鈴木蘭々さんと、アターソンの戸井勝海さん。


そして。

マルシアの成長ぶりに涙が出ました。


台詞は、ずいぶん聞けるようになったとはいえ、普通に「ジャパゆきさん」(←舞台は19世紀末のロンドンだってば)が慣れない異国で苦労している、という印象ではありましたが、

歌がね、全然違うんです。
ちゃんと「ミュージカル歌唱」になっていた。
そのうえで、しっかり芝居として成立させてくれていました。

それが、一番嬉しかったです。

私がこの作品の中で一番好きな曲は、2幕でハイドとルーシィが「どん底」で歌う色っぽいデュエット「Dangerous Game」。

そこが。
初演は「二人」で動きと歌の息を合わせることで精一杯、だった…
なのに、さすがは4演目。
お二人とも、息ぴったり!完璧!だった。

…幸せでした。

マルシアは、29日の日生楽が本当の千秋楽。
この後の梅田&中日公演は、香寿たつきさんがルーシィ役です。
たーたんのルーシィ、色っぽい娼婦の役…
…まったく想像がつかない…。





エマ役の鈴木蘭々さん。
台詞の声が独特で、面白いキャラクターだな、と思いました。
私は「ユーリンタウン」と「キレイ〜神様と待ち合わせした女」で拝見したのですが、あの声、実はかなり好きなんです…。

歌は、デュエットは良かったのですが「Once Upon a Dream」(2幕、ジキルの研究室で歌うソロ)がヘロヘロだったのが残念!あと、歌うときに腹の前に腕を組んでブレスに合わせて上下に動かすのが…見るまいとしてもどうしても目に入っちゃって、気になりました。
芝居自体は悪くなかったと思うのですが、あの腕の動きでどうしても「歌」と「芝居」が切れてしまうんですよね(涙)。もったいない癖だと思います。





戸井さんのアターソンは、そりゃー歌は良かったですよ、はい。
再演の池田成志さん、再々演の石川禅さんを観ていないので(←ごめんなさい)、まったく別次元なのですが。
キャラクターも、レ・ミゼのアンサンブル時代に培ったスケベっぷりと生真面目さの裏表、ジキル博士なんぞよりよっぽど二重人格じゃないのコイツ、ってくらいの変わりようで(^ ^)。面白かったです。

段田さんは、もう少し年齢的にも立場的にも上めな感じで、目上からヘンリー(ジキル)を見守り、心配するというスタンスだったように見えたのですが、戸井さんは「同じ目線」での友情、って奴を真正面から出していたと思います。
そういう解釈なんでしょうね、きっと。
実際の立場では、戸井さんから見たら鹿賀さんなんて雲の上なんじゃないかと思うのですが(苦)、そこはさすがに役者同士、対等の立場でやり合っていらしたと思います。




鹿賀さんのジキル/ハイド。

4演目になる今回は、かなり「尊大で傲慢で、人を人とも思わない、自分を恃むこと大な、早熟の天才タイプ」でした。

でも、エマの前でだけは素直になれる。

これはたぶん、「エマが若くて真っ直ぐ」だから、なのだと思いました。エマは若くて、幼くて、最初からヘンリー(ジキル)を「憧れの眼」で見ているんです。ダンヴァース卿が才能を認めた研究者だから、「私にはよくわからないけど、きっと素晴らしい才能があるんだわ」という、ある意味幸せな思い込み。
それが、なかなか「認知」されない研究を続けるヘンリーにとって唯一の救いとなる。



ブロードウェイ版を観た時の印象では、ヘンリーとエマは対等か、もしかしたらエマの方が年上?という感じだったんですよね。歌声にも包容力があって、とても魅力的なエマでした。
日本版の初演が受け入れられなかったのは、その印象が強かったせいもあると思うのですが(ごめんなさい)、ヘンリー役の鹿賀さんが「ミュージカル界の大御所」であり、完全に「座長」であったために、どうしてもヘンリーに比べてエマを「小娘」がやらざるをえなくなってしまう。
そこを、演出がフォローしきれていなかったのだと思います。


でも今回、蘭々さんのエマは。
上手い、とは言いません。特に歌は、上にも書きましたけど、もう一息伸びてほしい。
でも、演出の要求するキャラクターには合っているのだと思いました。
「ヘンリーを信じる」ことを貫く、幼くて純粋な“美少女”。
アリスの生意気さでビーコンズフィールドのおばさまに反論し、自分の信じたものに盲目で、それ以外のものをきっぱり捨てる強さが魅力的な娘。

たぶん彼女自身も、「上流社会」の中で微妙に“浮いた”存在だったんだろうな、と、
そんなことを想像させる存在感でした。

独特の声と、たたずまい。
それだけを武器に、19世紀末のロンドン社交界に闘いを挑む勝利の女神…というには貫禄が足りませんが(汗)、まぁヘンリーはそう思っていたんじゃないかな、と。

いちおう、意図してそういう演出になっていたのだと思います。
(思いたいです…)




そしてヘンリーは、薬を飲む。

「精神の異常は遺伝する」と思われていた時代。父が精神に異常をきたしているということは、いずれは自分も、という恐怖。それは、ただの恐怖ではなく、事実に基づく、物質的な「恐怖」となりうる。

精神治療の特効薬を開発することで、この恐怖から逃れるため、
自分を見下す人々を見返すため、
自分自身の名誉のため、
そして、自分を信じる人々(=愛する人々)を喜ばせるため、
そして大義名分としてはもちろん父親を救うために、

ヘンリーはどうしても「実績」を必要とする。

そして、その「実績」が、「他人」でなくてはいけないという理屈はないことに気づいたときに。

彼は、自分の中の「エドワード・ハイド」と出会う。



「First Transformation」〜「Alive」にかけての「変貌」シーン。初めて姿を現したハイドは、「自由だ!」と叫びます。
「良心」という鎖を断ち切った「尊大な暴君」は、今までの抑圧を糧とするかのように、「ヘンリーが」憎んだ人間を殺していく。
ヘンリーは、彼らを「高尚な研究を理解できぬ愚かな人間」と蔑んでいるので、いくら妨害されても殺したりしない。社会的良心だけではなく、自分自身のプライドにも邪魔されるから。

でも、ハイドにはその邪魔が入らない。

良心とプライドはどちらもジキル側。
ハイド側に残ったのは、ある意味一番「人間的な」、いえ、原始的な欲望のみ。

ヘンリーは「善と悪」を切り離す薬を作ったつもりだった。
でも完成した薬は、精神の「文明的」な部分と「本能的」な部分をわける薬だったのではないでしょうか?

19世紀末という時代の、新教国であるイギリスにおいて。
「文明的」=「善」、「本能的」=「悪」という図式が真実であったのかもしれませんが…。



だから、ハイドは現代的な意味での「悪意」の象徴ではないのだと思うのです。もっと子供っぽい「欲望」の象徴。
欲しいものは欲しいから、奪う。
憎い奴は憎いから、二度と見なくてすむように殺す。
それだけの存在。



で、また話が飛ぶんですけれども(毎回すみません)、

小野不由美さんの「魔性の子」という小説に、これと良く似た状況の物語があります。
主人公の少年を抑圧(苛めたり怪我をさせたり)すると、少年自身のあずかり知らないところで、非現実的としか思えない制裁を受ける。なぜそんなことが起きるのか、少年に「普通」の生活を送らせてやることはできるのか、といったことを主題としたストーリーなのですが…

まぁ、ヘンリーは比較的早い時期にハイドの正体に気づいて、自分で解決策(新薬)を開発するわけですから、物語の展開はまったく違いますし、勿論最後の結末もまったく違うのですが、
「自分の知らないところで、自分のための殺人が行われる」という発端だけは、良く似ているなぁ、と。


ヘンリーがそれを知ったときの衝撃。
「なぜだ?俺はそんなこと望んではいない!」という叫び。
それを作品の中で明示的に表現する場面は無いのですが、2幕でエマが研究室に訪ねてくる場面でのヘンリーが痛々しいのは、それを秘めているからなのかも、と今回思ったのでした。

そして。
この場面でヘンリーを苦しめたことが、最後の場面で、再びハイドに戻ってしまったときにエマを襲うひとつの理由なんじゃないか、と。

…「魔性の子」にも、主人公の少年への「愛のムチ」として叱っただけの人が、少年自身はその愛情を理解しているにも関わらず厳しい制裁を受ける、という場面があるのですが。

こういう「愛しているゆえに苦しめる」という“よくあるシチュエーション”を、「故意の苛め」と区別するポイントは何か、という難しい問題を出してきたな、と、

…たぶん、思い込みの考えすぎなんでしょうけれども、

そんなことを思ったりしたのでした…。







そんなハイドが、唯一執着する女・ルーシィ。


たぶん、なんらかの夢をみて日本ロンドンにきたんですよね、彼女は。
たぶんフィリピンモロッコあたりから(←また適当なことを)。


彼女は、この作品において、ハイドに捧げられる哀れな生贄として存在しています。
エマが決して受け入れることのない、それゆえにヘンリーは決して望むことの無い、
人間の本能としての嗜虐-被虐の関係。

傷つけることで自分の支配欲を満足させるハイド。
傷つけられることで支配される快感に酔うルーシィ。
2幕の「どん底」で。
ハイドの姿を見ただけで悲鳴をあげるほど怯えているルーシィが、ハイドの手が背中に触れた瞬間、硬直して、そして、
恍惚の表情を浮かべる。

怖い。
何をされるか判らない恐怖。
自分がどうなってしまうか解らない恐怖。
…怖い。

だけど、
忘れられない。
逃れられない。

ならば、酔ってしまえばいい。
受け入れてしまえば、怖くない。

恐怖を快感にすりかえる。

ほら、
もう、

…怖く、ない…


緊張の限界に達した精神が、どこまで耐えられるか、
希んで受け入れる苦痛、
それが「危険なゲーム」の真髄。

もしかしたら、無意識のどこか奥深くで、それがジキル博士本人であることに気づいているからなのかもしれない…



2幕終盤、ルーシィの部屋。

アターソンに「すぐにロンドンから出るように」と言われ、ジキル博士からの手紙を読んで、「A New Life」…文字通り「新しい生活」を夢見るルーシィは。
モロッコ(←だから違うってば)に帰ってやりなおすの!ではなくて、もう一度、あきらめた夢に挑戦してみよう、という「新しさ」のような気がしました。
そして、そばにはジキルがいる。ジキルがそばにいてくれるような自分になれる。きっと、そうよ、そんな新しい人生!

そんな、賛歌。




ジキルは、アターソンに「奴はルーシィを殺すかもしれない…」と打ち明け、ルーシィにロンドンから出るよう伝えることを依頼する。

ここってずっと謎だったんです。
なぜハイドはルーシィを殺すんだろう、と。

だってハイドは、それまでヘンリーの“愛する人”に手を出したことはないのに。



でも、今回観て、もしかしたら違うのかもしれない、と思ったのです。

ヘンリーは、ハイドがルーシィに執着していることを知っている。
そして、ハイドにとって「執着」=「殺意」だと思い込んでいた。


でも、ハイドにとってのルーシィは、「愛」の対象だったのではないでしょうか。
…まぁ、ちょっと原始的な、「子供の愛」ですけれども。

愛していた。
いえ、必要としていた、の方が近いかな?


いずれにせよ、部屋に行った時点で殺意があったのではないのではないか。
(苦痛を与えるつもりはあったかもだけど←酷っ)

ハイドが実際にルーシィを殺す動機は、
「奴にあって俺にないものはなんだ!?」という問いかけに対するルーシィの答え「あの人はやさしくしてくれたわ…」にあるのではないか、と。



その答えを聞いた瞬間、表情が凍りついてすっごい怖かったんです…(T
T)



ハイドが本気でルーシィに「当たり前の恋人が欲しがるもの」を求めたとは考えにくいけど、「現実世界」で、ハイドとある程度親密な関わりを持ったのはルーシィただ一人だったので、彼女の歓心はハイドにとって全世界にも等しかったのかもしれないな、とは思うのです。

で、「本能」の象徴であるハイドは、自分よりもジキル(自分を切り捨てようとする半身)を欲しがるルーシィを見てカァッとなったら、その衝動を止めることができない。止めるための手段(良心とか保身とか)を持っていないんですから。

そして、その衝動のままに彼女を手にかける。
そして、彼女を喪った衝撃でジキルに戻ってしまう…。

なんだか、こうやって色々理屈を(無理矢理ですが)つけてみると、実は哀れな存在なんですね、ハイドって…

だって、ハイドはヘンリーの活動(薬の開発)の邪魔もしないんですよ。薬屋も殺さないし、ノートも捨てない。
自分を消す薬を作っているのだと知らないはずはないのに。
…ヘンリーの活動はいっさい邪魔しないんです。“敵”を片付けているだけ。
なのにヘンリーには忌み嫌われ、誰も愛してくれない。
…哀れな存在…。



えーっと。
この後の「Confrontation(対決)」の場面は。
すみません。ここだけは日本版の演出も鹿賀さんの歌唱もどうしても受け入れられないので…(涙/だって鹿賀さん、最初から最後までハイドの声のままなんだもん!)。

…あれって、作品を観たことのない人でもあの場面だけは知ってる、ってくらい有名かつ「Jekyl & Hyde」という作品の象徴的な演出だと思うのですが…何か契約の関係とかで使わせてもらえなかったのでしょうか…?あっちこっちのパロディで散々使われている演出で、今更っちゅー気もするんですけどねぇ…(T T)







何年ぶりかでこの作品を観て、一番驚いたのは、ラストシーン。

あれ?場面の絵面が、宝塚版「ファントム」のラストシーンにそっくりだよ…?


というか、こっちの方が先なので。
「ファントム」のラストがこれにそっくりなのですけれども。


舞台センターに、「異形」の主役と、彼を抱きかかえる花嫁。
息をひきとった彼を抱いて、ヒロインが周りを見回す。
キッと、にらむように。
彼と自分の敵を、確認するかのように。

そして、そっと彼にキスをする。


舞台上手には、銃をもって主役を撃った、主役を「愛する」男。
彼は、「異形」の主役を守ろうとして失敗し、主役自身から「自分を殺すこと」を要求されて、一度は拒否するけれども、最後には希望を叶えてあげる。


…一緒じゃんっ!!!



もとい。

アターソンとキャリエール。
この二人には、大きな差があります。
キャリエールはエリック(=ファントム)をこの世に生み出したことに責任がある。
だから、エリック自身が死を望むなら、それを与えてやるのも責任のうち(自殺はできないから)。
だから、殺人の罪も、その悔恨も、彼自身が背負っていかなくてはならない十字架なのです。


アターソンには、その責任はないんですよ。
ハイドが生まれたのは、ヘンリー自身に責任があるわけで。
本来はヘンリー自身が始末をつけなくちゃいけない。

でも、ハイドはアターソンにその行為を依頼する。
「俺を自由にしてくれ」と。
「自由だ!」と産声をあげた彼は、死への旅路もそう表現する。
それとも、あれはハイドの声を使ったジキルの本心なのでしょうか…?

アターソンは、一度は断る。「できない」と。

だから、ハイド(ヘンリー)はもう一度エマに手を出す。

アターソンにもわかっていたはずなのに、
ハイド(ヘンリー)にエマは殺せない、と
なのに、アターソンはハイドの望みを叶える。

それが彼自身にとっても地獄への道だと知っていながら…

「自殺」できないキリスト教徒にとって、自分が「異形」であることを自覚したら、もう「殺してもらう」ことしかできないのでしょうか。
そして、その希望をかなえた人間は、その罪を背負って神の前に出ることになるんですね…。


それでも、彼の苦しみを取り去ってあげたい、とアターソンは思う。
友情、愛情、それら、ハイドが希んで、どうしても得られなかったもの。


そして、エマは最期にキスを与える。
愛、と、赦し。
その、証として。



この物語が幕を降ろした後、エマとアターソンはどんな人生を歩むのかな、というのがちょっと気になりました。
特に、アターソン。
彼は幸せになれるのかな…。

もともとゴチックホラーの小説が原作なので、そこまで想像しなくていいんですけど(^ ^;、つい習慣でいろいろ考えてしまうのでした…。






なにはともあれ。
日生劇場2階席は、音響良いし、価格は安いし、お勧めです♪



ちなみに。宝塚ファンとして付記。
1幕中盤、バー「どん底」の娼婦たちの登場は、
1階のセンター(階段の下)から登場するのが茜ちゃん、2階の下手側の窓がソン(秋園美緒)ちゃん。
2幕冒頭、「Murder!Murder!」のアンサンブル。
黄色のショールを巻いて最初の女性ソロを歌うのが茜ちゃん、ピンクのショールがソンちゃんです♪

役者が少ないので、アンサンブルの場面には基本的に全部出ているはず。宝塚と違って舞台が全体的に暗いので、見落とさないように探してみてください♪



.

コメント

nophoto
はにはに
2007年4月27日15:01

アフタートークも勿論お待ちしてますっ!

こちらにいらっしゃる他の皆さんもきっとねこさんの長文を期待していると思います(笑)

みつきねこ
みつきねこ
2007年4月28日1:12

ありがとうございますm(_ _)m。がんばります…。

なんで毎回こんなに長くなっちゃうんでしょうねぇ…昔から「○文字以内に要約しなさい」みたいなテストは苦手でしたけど(滝汗)

nophoto
ろくた
2007年4月28日14:29

はじめまして!いつもコッソリ読ませていただいていたのですが…みつきねこさま、やっぱり小野不由美主上はお読みになっていたんですね!ってことは、このブログタイトルはやはりアレから…?

Jekyl&Hydeと「魔性の子」…そんな関連があるなんて思いつきもしませんでした。なるほどーーー!!今日ちょうどジキハイ観にいくので、なんか色々考えてしまいそうです(笑)ありがとうございました!

nophoto
みつきねこ
2007年4月29日1:24

ろくたさま、はじめまして!コメントありがとうございますm(_ _)m。はい、「砂の夢、月の海」は、小野主上の真似です。よくお分かりですね(滝汗)

ジキハイ今日いらしたんですか?私もですよ〜♪自分が書いた文章に、かなりの間違いを発見して凹んでます(苦笑)。