花組の大劇場公演「明智小五郎の事件簿〜黒蜥蜴/タキシード・ジャズ」を観てきました。


…感想ですか?


木村さんのお茶会があったら、私は必ず参加させていただきます。

参加して、「なぜ原作と全く関係ない話にこのタイトルをつけたんですか?」って聞くの。
応えるまで返さないもんっ。


答えは分かってるつもりなんですけどね。
「その方が興味を惹くと思ったから」でしょ?どうせ。
違いますか?



そういうのを換骨奪胎、いやこれは違うか、木村さんは新しいものなんて何も詰めてないもんね。皮をはいで木枠に貼っただけ。…こういうのはなんて言えばいいんでしょう…虎の威をかる狐とか?(←違うだろソレ)

「黒蜥蜴」ってゆー美々しい看板をかかげた、中身は空っぽの蜥蜴。そんな感じデシタ。



なんにしろ。

プログラムで木村さんはえんえんと乱歩を褒め称えていらっしゃいますが…

10年越し?20年越しの思い、だとぉ?意味がわからん。
乱歩を評価しているなら、なぜ大正浪漫にしないんだ。
なぜ孤児なんだ。
なぜ戦後なんだよーーーーーっ!!?


自分のやりたいテーマが決まっていて、それに合わせて話を作るなら、「原作」のネームバリューを悪用するのはやめていただきたい。
原作を愛し、原作を尊重する気持がないのにその名前だけ利用するのは卑怯者のすることです。

原作や、そこから生まれたものを愛する気持を踏みにじり、切ない思いをさせる。それは、そこに愛がないから。
たとえどんな駄作でも、そこに愛があれば癒される、
それが宝塚ファンというものなのに。


私は、木村さんの作品に「愛」を感じたことがありません。

「舞台」として見せるにあたって、「ほら、これ、どう?可愛いでしょ?僕の宝物なんだよ!」というドキドキ感。
観客は、創り手の宝物をこっそり見せてもらっている高揚感に背中を押されて、その作品世界への最初の一歩を踏み出すのです。

木村さんの創る作品には、その含羞がない。

だから私は、なかなか木村さんの作品に感動できないのだと思います…(悲)。




といいつつ、実は二つほど好きな作品があったりする(^ ^;。
花組DC「不滅の棘」と、月組バウ「十二夜」。

「十二夜」は、かなり原作に忠実なつくり。
演出も手堅くて、キャストも充実していて普通に面白かった。

「不滅の棘」は…原作は読んでいませんが、キャストの個性を生かして、不可思議な作品世界がしっかり作り込まれていたんですよね。
原作ファンの方が身近にいないので何とも言えませんが、原作を知らない身には普通に面白かったですし、今でも印象深く記憶に残っています。



なので。

今回の芝居も、もしかしたら「黒蜥蜴」を知らなければすごく面白かったんじゃないか、と思ってしまうのです。
「黒蜥蜴」が原作だ、と宣伝されてさえいなければ、芝居作品として正当な評価を得られたのではないか、と。

少なくとも「なんで戦後なんだ!」に引っかかる人はいなかったでしょうし、
「なんで少女なんだよ!」とか叫ぶ人もいなかったはず。

そういう、作品の根幹に関わるけど「原作」との乖離がなければ全く問題なかったはずの部分にいちいちクレームをつけたくなるのは、木村さん自身にとっても気の毒なことだし、

何よりも、演じている花組生が可哀相だと思うのです…。


黒蜥蜴、という作品は、それ自体が名作。
キャラクター造形からストーリー展開まで非常に印象に残る、クリエーターなら映像化してみたくなる作品なのだそうです。
映画にもなりましたし、舞台も有名で、観ている方も多いでしょう。
特に今回は、タイミングも合っていたから麻実れいさんの舞台を観に行った組子も多かったはず。

そういう勉強が、まるまる無駄になったし、おそらくお稽古も、そういった「思いこみ」の「先入観」を払拭するところから始めなくてはならなかったことでしょう。

木村さん、莫迦だったと思います。
最初から「黒蜥蜴」だ、なんて言わなければよかったのに。
「明智小次郎の事件簿」とでも題して、プログラムに「乱歩へのオマージュ」と書くくらいにしておけば良かった。

もともと「黒蜥蜴」という作品自体、宝塚向きでもなければ彩音ちゃんがトップ娘役をしている花組向きでもなかったのですから、
最初から「少女怪盗参上!」とでもしておけば良かったのに!
(←イヤ、そのタイトルは勘弁してくれよ…)



芝居作品としての突っ込みどころも沢山あります。
それこそ、「パリの空よりも高く」とタメをはれるくらいに。

なんといっても、木村さんは日本語が母国語だとはとても思えない語彙量をお持ちなんですから!

でも。

発想自体は悪くない。
今回に限っては、真面目にそう思っているのです。
私は、この作品世界、決して嫌いではありません。
むしろ、非常に面白い世界設定、人物設定だと思っています。

潔癖性で、思いこみが激しくて現実世界になじめない、元戦争孤児の大富豪の養女。

そんな少女が閉じこもろうとする「夢」の世界と、
「現実」で彼女を待つ王子さま。

あちこちが痒くなりそうなほど、あまりにも少女漫画そのものの設定ですけれども…
その設定が面白いからこそ、「黒蜥蜴」という、全く関係のない作品と関連づけられた作品が、可哀相に思えてならないのです。


彩音ちゃんは、「潔癖性の子供」を巧く表現していました。
彼女のお芝居はダメダメ、と思っていましたが、クリスティーヌあたりからずいぶん良くなりましたよね。声が一種類しかないので台詞がどれも一本調子ですが、役の核は掴めていたように思います。

「大人の世界」を拒否して、自分のルールで全てを動かそうとする子供。
世界が自分のルールで動くと思っている子供。
その浮き上がり方はかなりイイ!好き!です♪

木村さんの脚本も、子供の「理屈のない残酷さ」を見事に表現していました。
明智の入ったソファを海に投げ込ませておいて、明智を喪った自分を憐れんで号泣する、精神的にはまだ幼い『少女』。

大人は、「子供は純粋で素直で愛らしい」と思いこみたがって、そういった「純粋故の残酷さ」や「愚かな痛さ」を認めたがりませんけれども。
子供、というのは本来残酷で愚かな存在ですし、やることなすこと「大人」にとっては困ることばかりにきまっている。

だって、「大人」のルールに従わないのが「子供」なのですから…。

そんな「少女」を、明智は「大人」として見守ります。
彼女の痛みを受け入れて、癒そうとする。
そうすることによって彼女を救いたいと願う、それが既に「愛」なのだと木村さんは言うわけです。

彼女をただ盲目的に愛し、その意に従おうとする雨宮(真飛聖)ではなく、彼女を教え諭し、正道へ導こうとする明智を、少女も愛するはずだ、と。

…それはちょっと短絡的なんじゃないかと私は思いますがね…。
まぁ、木村さんは、今までの作品を観るかぎり、異常なまでの権力志向をお持ちのようなので、そういった支配的な愛し方を高みに置かれるんでしょうね。

カエサルに恋をする愛人ズのように、少女も英雄に恋をするはずだ、と。

そんなことないと思うけどね。
少女は強引に奪われない限り、雨宮を虐めながらも手放さないと思いますよ…。




まぁ、そんなことはどうでもいいのです。

名作だ、とは全く思いませんが。

「黒蜥蜴」という原作さえ利用しようとしなければ、結構悪くない作品だったと思います。

…後味が良いとは言えないストーリーですし、「残酷で愚かな少女」をトップ娘役が演じることに抵抗を感じる方もいらっしゃるでしょうから、『宝塚ファン受け』や『一見の団体客受け』するかどうか、というのは全く別の問題になりますけれども。

一つの舞台作品として、「子供の感じる痛み」をきちんと表現できる作品、というのは少ないですし、面白い試みではあったと思います。

まぁ正直、DCあたりで観たかったような気もしますけれども。
これはこれで、タイトルさえ違えば佳作くらいにはなったかもしえれないな、と思います。

タイトルは今更変えられないので、評価が良くなることは考えにくいのですが…。
ああ、花組生可哀相だ…。



…ここまで真面目に語ってきて、
ここに書いたことに一欠片の嘘もないのですけれども。

書いていないことも、それはたくさんあります。

観劇しながら都合5回は倒れそうになったこととかね…。


倒れたきっかけは、それぞれ歌だったり舞台装置だったり台詞だったり人の動きだったり…いろいろですが。



「黒蜥蜴」という原作のことはキレイサッパリ忘れて。

台詞はすべて、頭の中で吹き替える覚悟で。

歌詞はいっさい聴き取らないよう、あれはスワヒリ語だと自分に言い聞かせて。

途中でツボって吹き出してしまっても大丈夫なようタオルを持って。

…ぜひ、ショタコンで嗜虐趣味の明智先生と、

レスボス島の女王を気取るこちらもいぢめっこな少女怪盗の、

妄想と幻想の狭間を体感しに、劇場へ行ってみてください……。







長くなってしまったのでショーについては後日に回しますが。
一言だけ。

「TUXEDO JAZZ」は名作です。

荻田作品は何もかもみな素晴らしい、
あの素晴らしさがわからないのは観る側のレベルが低いから…
という最近の風潮にはついていけないのですが。

「TUXEDO JAZZ」は、私にとっては「パッサージュ」以来のヒットでした♪

まっつ(未涼亜希さん)を使ってくださってありがとう、荻田さん(感涙)


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